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※肩書き・功績などは、いずれも受賞年当時
(財団法人共用品推進機構専務理事)
玩具メーカー「トミー工業(現・トミー)」入社直後、社内に設置されたハンディキャップトイ研究室に配属となった。障害児も健常児と共に遊べるオモチャを作りたい、との一念にかられ、「小さな凸の点」なる造語を生み出し、それを運動として広めることに身を投じた。この理念は、障害や高齢にかかわりなく、より多くの人々が利用しやすい製品、サービス、さらに施設にまで浸透させよう、との大きな輪となった。それはやがて、市民による研究団体「E&C(エンジョイメント・アンド・クリエーション)プロジェクト」という勉強会に姿を変えた。そしてこれが母体となり、99年4月、財団法人「共用品推進機構」(本部・東京都千代田区)に生まれ変わった。人のことを考えている人が好き、という星川さんの信条が、この運動の根底を支えている。
(日本放送協会ラジオ第2放送番組)
毎週日曜日の朝と夜の7時30分からはじまるラジオ番組「視覚障害者のみなさんへ」(NHKラジオ第2放送)を楽しみに聞いている視覚障害者は多く、生きる勇気を与えられたという人も少なくない。昭和39年4月に「盲人の時間」としてスタートし、平成3年に現在の番組名に変更したが、放送開始以来今日まで40年間視覚障害者に情報を発信し続けている。現在の番組責任者、迫田朋子チーフディレクターに、番組が始まったきっかけを尋ねると、「40年前のことですから詳しい事情はわかりませんが、公共放送の使命として視覚障害者に情報保障をすべきとの気運が高まったことからでしょう」とのこと。ちょうどその頃は、人々の生活にゆとりができ、障害者に目を向けられるようになった頃でもあった。「番組は、ホームからの転落事故、支援費、雇用、無年金問題など、普通のニュースでなかなか取り上げられない情報を扱ってきました。これはぜひ多くのみなさんに知ってほしい、というテーマは、テレビの『福祉ネットワーク』でも紹介されます。ラジオとテレビの相互連携にも力を入れていきたいですね」と、迫田さんは今後の番組制作への抱負を語る。
(アカンパニー・グループ代表)
アカンパニー・グループは、全国から上京する視覚障害者の東京都内及び近郊での外出介助を目的として、昭和60年(1985)11月に発足しました。これまでサポートした視覚障害者は、平成17年(2005)8月12日現在でのべ6865人にものぼります。外出に必要な費用は利用者が全額負担するため、行政からの援助は一切受けていません。
グループ設立のきっかけは、昭和59年(1984)に和波さんのご長男で、視覚障害を持つヴァイオリニスト和波孝〓(たかよし=よしはネに喜)氏の友人である全盲のピアニスト、カルマン・ドボシュ氏をハンガリーから招いてチャリティコンサートを行うことになった時に遡ります。そこで、彼の滞在中に外出介助を引き受けてくれる組織を探しましたが、東京に籍のない者を援助するシステムが国にも東京都にもありませんでした。このことに疑問を感じた和波さんは、「無いのならつくればいい」と、賛同してくれた友人達と依頼を受け始めました。
和波さんはこうした活動を続けている一方で、「グループ発足からいつも言っているんだけど、みんながお互い助け合い、気をつけあう世の中ならこうしたグループはいらないのよ」と、視覚障害者が一人でも安全で安心して外出できる日が来ることを願っています。
(香港盲人補導会行政総裁)
グレース・チャンさんは1945年の10月5日に激動の香港に生を受けました。生家が貧しかったため、幼い頃より放課後はアルバイをして家計を助け、働きながら香港理工大学を卒業。社会の底辺で苦悩する人々や身体障害者を身近に見ていたので、迷わずソーシャルワーカーの道を歩みはじめました。
1987年より香港盲人補導会の最高経営責任者を務めながら、WBUAPの会長や同マッサージ委員長、国際的な失明防止協会の役員、香港政府の委員などを歴任してきました。
これまで中国の12の省に移動眼科治療センターを開設して、白内障の無償手術を行ってきました。また、中国の四つの省で統合教育のためのリソースセンターを開設して運営。このため、現在も中国各地の盲学校の顧問や名誉校長、障害者団体等の顧問や名誉会長、大学や研究所の客員教授、はては山東省の政治顧問など、極めて多種・多彩な役職に就任しています。
それらの功績が認められ、これまでも広州市政府や中華人民共和国副首相などからも表彰され、1997年には香港政府から「ジャスティス・オブ・ザ・ピース(太平紳士)」という称号も贈られています。
(天津市視覚障害者日本語訓練学校校長)
アジア視覚障害者教育協会の青木陽子会長が、中国天津市に日本語学校を設立したのは1995年。以来10余年、現在までに77人(視覚障害48人、健常29人)の日本語能力試験合格者を出し、9人が日本へ留学しています。同校では、これまで視覚障害受講生75人、同通信生125人に加え、肢体不自由13人、健常162人と、計375人の学生を受け入れてきました。巣立った人々の日本語能力の高さはわが国でも定評のあるところです。
このように全盲の青木氏はたぐいまれな行動力で日本語学校の発展に尽力してきましたが、その青木氏を公私ともに献身的に支えてきたのが、「中国の両親」と彼女が慕ってやまない李勝彦・傳春霞夫妻だったのです。青木氏と李勝彦夫妻は、李氏のご子息である李爽氏が日本に留学し、青木さんに中国語を教えた縁で出会い、絆がはぐくまれて天津日本語学校へとつながっていきました。
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