ヘレン・ケラー
(Helen Keller, 1880~1968)
ヘレン・ケラー女史(Miss Helen Adams Keller)は1880年(明治13年)6月27日に米国南部・アラバマ州の小さな町タスカンビアにあるアイビー・グリーンと呼ばれる家で生まれました。父は南北戦争時に南軍の陸軍大尉だった、裕福な地主のアーサー・ケラーで、『ノース・アラバミアン』という新聞のオーナー編集長でした。妻ケイトとの間に生まれた最初の子供がヘレンでした。
恵まれた家庭で快活に育っていたヘレンが奇妙な高熱に見舞われたのは、1882年2月、生後19カ月の時。医師の懸命の治療で一命はとりとめたものの、次第に視力と聴力を失っていきました。猩紅熱の後遺症でヘレンの目と耳は永久に閉じてしまうのです。
漆黒の闇の中でもヘレンは、知性のひらめきを見せました。父親を表すために眼鏡をかけるまねをし、母親を示すために頭の後ろで髪をまるく結うまねをしています。5歳までに約60の身振りによる「言語」を持ちましたが、時としてヘレンの知性と想像力は、家族を困惑させました。5歳の時に鍵が何のためにあるのかを知り、ある朝、母親を食料置き場に3時間も閉じ込めました。召使が外出していたので、母はドアをどんどんとたたき続け、ヘレンは、その衝撃音を感じながら面白がっていたのでした。
ケラー夫妻は娘を多くの眼科医に診せましたが、いつも視力は回復しないだろうという診断でした。父親のアーサーはあきらめず、ヘレンを連れて1886年には、はるばる米東部ボルティモアの眼科医を訪ねます。診断は従来と同じでしたが、アレクサンダー・グラハム・ベル博士に会いに、首都のワシントンに行ってはどうかと勧められました。
ベルは電話の発明(1876年)で有名ですが、実は母と妻が難聴者で、1872年にシカゴに聾学校を設立しており、ヘレンに会った頃は聾教育でも第一人者でした。ベルはヘレンの父親に全米の盲・聾の子供たちのための学校のこと、そして全米初の盲学校であるパーキンス盲学校の初代校長だったサミュエル・ハウ医師が盲聾のローラ・ブリッジマンを教育したことを話します。そのうえで、ハウ医師の義理の息子で、校長を引き継いだマイケル・アナグノスを紹介したのです。アナグノスがヘレンのために選んだ教師が、当時21歳の貧しいアイルランド人移民の娘、アン・サリバン(Anne Mansfield Sullivan Macy、1866~1936)でした。アンは愛称のアニーと呼ばれることが多く、以下はアニー・サリバンと記します。
アニーが9歳の時に母親は死に、アルコール中毒の父親が娘を養育できなかったため、マサチューセッツ州テュークスベリーの州立孤児院に引き取られ、そこで5年間を過ごしました。アニーは5歳の時にかかったトラコーマのためほとんど目が見えず、教育を受ける機会を逸していました。たまたま孤児院を視察に来た州の慈善事業委員長に「学校に行きたい」と強く訴えたのが功を奏し、14歳でパーキンス盲学校に受け入れられます。そこで目の手術を受けて、かなり視力を取り戻し、1886年に首席で卒業するほどになりました。アニーは盲人の抱える問題を熟知し、また、当時まだパーキンスで生活していた高齢のブリッジマンと多くの時間を共に過ごします。
アニーの素晴らしい能力とアナグノスが熱心な薦めはありましたが、ケラー夫妻は幾分その生い立ちが気がかりでした。しかし、ヘレンに早く家庭教師をつけねばの一念で「家族同様に扱い、月給25ドル支払う」という好条件でアニーを雇うことにします。
1887年3月3日、アニーがアラバマ州タスカンビアに列車から恐る恐る降り立った時、教育の歴史、いや人間精神の歴史における新しい一章が始まったのです。家庭教師アニー・サリバンのヘレンに対する厳格で献身的な教育は、ウィリアム・ギブソンの戯曲やそれを映画化した『奇跡の人』でご存じの通りです。そして、ヘレンは天賦の才を開花させ、米国の女子教育の名門であるラドクリフ大学に入学します。
ラドクリフ大学はマサチューセッツ州ケンブリッジにある私立の女子大で、1879年ハーバード大学の教員たちが設立しました。現在はラドクリフ・キャンパスとして、完全にハーバード大学の中に組み込まれていますが、当時は教員やカリキュラムは共有するものの、組織上は学生数約2400人の独立した大学でした。キャンパスには米国の女性史に関する資料を集めたシュレージンガー図書館があり、ヘレン・ケラー女史に関する資料も多数収蔵しています。また、女史を記念した小公園もあります。
ヘレンは、1904年ラドクリフ大学を優秀な成績で卒業後ほどなく自分に与えられた使命が障害者の救済にあることを自覚し、著述と講演を精力的に行うようになります。そして1964(昭和39)年9月14日には、ジョンソン大統領から、米国で最大の名誉である「自由勲章」を授与されました。
ヘレン・ケラー女史は、わが国には1937(昭和12)年、1948(同23)年と1955(同30)年の3回来訪しています。とくに1948年の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的歓迎を受け、全国各地で講演して回り、これが2年後の身体障害者福祉法制定となって実り、東京ヘレン・ケラー協会もそのとき集まった募金を基に創設され、女史は協会の名誉総裁を引き受けました。1955年の来日の際は、ヘレン・ケラー学院の講堂で講演し、成果を見届けています。
1968年(昭和43年)6月1日、88歳の誕生日(6月27日)を目前に逝去し、亡骸は首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に安置されています。そこには点字が刻印されたプレートがあり、女史が永眠していることを示しています。