ヘレン・ケラー女史の印象

1955年5月28日、東京ヘレン・ケラー協会を訪れたヘレン・ケラー女史(写真手前が故一色直文常務理事)

ヘレン・ケラー女史の再来日の際、毎日新聞東京本社事業部長としてヘレン・ケラーキャンペーン委員会の実務を仕切り、東京ヘレン・ケラー協会常務理事在職のまま1976年(昭和51年)に亡くなった一色直文氏がポプラ社刊『ヘレン・ケラー』の巻末に解説として、「ヘレン・ケラー女史の印象」と題し、次の文章を残しています。(一部割愛)

わたしが、ヘレン・ケラー女史に親しくお目にかかり、お話をすることができたのは、第二回目の来日と第三回のそれとの、両度を通じて、幾度かのことでした。それらの過去の日を思い出しつつ、印象を綴ることとしましょう。

暖かく澄んだ眸(ひとみ)、豊かな頬、そして奇麗な金髪、それらから受ける明朗な、清浄な感じ。春の海のような、透き通る秋の空のような女史に接していると、わたしも晴々と大きなものに包まれてしまう。会得し切った口話法による発音も、音楽を聴くように快く耳に響く。完成された『偉大な人間』にただただ俯仰するのみでした。

昭和23年(1948年)8月30日午後8時47分、女史と秘書トムソン女史を乗せた汽車は、東京駅に到着した。まだ占領下の日本、(連合軍)総司令部の特命で仕立てられた特別車から、ヘレン・ケラーは、東京駅のホームに、その第二回目の来日の一歩をしるしたのでした。

古い友だち、そして女史の招聘(しょうへい)責任者のライトハウスの岩橋武夫氏(故人)と駅頭での抱擁も、あたりの人たちの感激の的でした。出迎えた数多い人々、新聞、映画社の人たち。その11年まえ、昭和12年来日したとたんに日華事変(日中戦争)が起こって、怱々として帰国した女史にとって、この第二回目の訪問は、こんどこそ信じていることを日本の関係者に話して、目の不自由な人のために、聾唖の苦しみに悩む人のために大きな援助の手をのべようと、強い決心をしていたことでしょう。ホームを歩く女史の足取りも、力強いものを感じさせたのでした。

突然、映画班のたくフライヤー(集光器)が、辺り一面を真昼のように照らしました。その瞬間、ヘレン・ケラーの歩みが、ちょっとたじろいで、目をピクピクとしたのを、わたしは見ました。目も、耳も、そして口も不自由な女史が、どうしてフライヤーの光に、たじろいだのであろうか。それは、やがて、解決するときもありました。

皇居前広場で国民歓迎大会が開かれたのは、9月5日の午前、5万人からの大衆が、女史の風貌に接しようと雲集していました。高い特設のステージに立った女史は、「大ぜいの皆さんが、わたしのために集まってくださったのをうれしく思います。皆さんの気持ちは、あなた方の頭を越えて、この高いステージに昇っていて、そしてわたしのスカートから、わたしの心に通ってきます。」と、感激にふるえながら語ったのでした。

わたしたちふつうの身体のものには、その話が、いかに霊妙に聞かれたことだったでしょう。長い年月の体験が、普通人以上の感覚を会得しているのでしょう。女史の皮膚が、あるいは目となり、耳となっているのでしょう。東京駅頭のことを思いあわせて、わたしは、ただただ奇異にさえ思う感嘆をしたことでした。

渋谷駅前にあった忠犬ハチ公のことを聞いて、いそがしい日程から、わざわざ自動車を走らせて、あの銅像にふれて、眸を輝かしたときなどは、純真、無垢、地上における至上至高の温容とわたしは感じたことでした。

仕事の関係から、講演会の紹介あいさつなど、いろいろ先導の役をしていたわたしは、何回か握手をかわすことがありましたが、脈々として感じられるものは、ただ純粋のものという以外ありませんでした。

日本国中を遍歴して、身体障害者のために懸命の努力をつくして、10月28日、横浜出帆の米国船で帰国しました。デッキの上で、北海道土産の銀狐の襟巻に深々と童顔をうずめ、女学生が歌う『蛍の光』に右手で調子をとりつつ、別れを惜しんだ印象的な風景。

この第二回の来日の際、政府への進言がみのって、身体障害者保護の法律も制定がうながされて、昭和25年4月からは実施となりました。もっと早くこのような法律制度がなければならなかった日本だったのですが、女史の来日は、その意味で身障者のすくいの女神でありました。その功績の大きなことは今さらに思い出されることです。

わたしどもの関係しているヘレン・ケラー協会もこうしたところから生まれて、目の不自由な人たちのため、多少のお役に立っているつもりです。

わたしたちは、昭和30年(1955年)、7年ぶりに三度、女史を日本に迎えることができたのでした。5月28日、前日マニラから羽田空港に着いた女史は、第二回の来日の記念として設立された東京ヘレン・ケラー協会に、まず足を運んで、大きな歓迎に応えたのでした。女史のあゆむところ、世界のそれぞれのところに、幸福の、平和のたねが一粒ずつまかれ、そして成長して行く。女史の心中も豊かに、楽しいものがありましょう。それは、国境を越え、宗教を越え、あらゆる民族に、あらゆる国々に、明るいひかりをさしこんで行くのです。

この三回目の来日のおり、日比谷公会堂での講演で、「この前にきたときより不足ながら、盲聾唖者のための教育施設もできた。ハンディキャップの人で、社会の指導者になっている多くの人をわたしは知っている。よい環境の下において障害者も十分立ちなおれるのです」と語ったが、さらに一段の努力を要請されたものでしょう。

勲三等瑞宝章を授けられて、光栄に感激しながら、みじかい第三回目の滞日のあと、羽田空港から帰国の際、幼児のための施設をもっと完備してほしいというあいさつを残して飛び去ったのでしたが、これが日本の国民にとって、女史と直接お会いする最後となったことは、たいへん残念に思われます。

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