点字ジャーナル 2026年8月号

2026.07.24

目次

  • 巻頭コラム:思い込みが生む悲劇
  • (インタビュー)沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(下)
      ―― 語り継ぎたい歴史 ――
  • (寄稿)広がる視覚障害者の囲碁
  • 高めよう、視力を超えたネクストパワー!(6)
      体力 時にはメロスのように
  • 弱さを隠すことが“強さ”だった私へ(8)
      発信するって、しんどいこと
  • ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡 (24)
      海外移住の理由
  • 長崎盲125年と盲教育(40)基礎体力を伸ばす指導
  • 自分が変わること(205)夢で何がわかる
  • リレーエッセイ:第2の人生 ボウリング
  • アフターセブン(137)墓標から生まれたラブコメ
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?(288)
      夢は兄弟同士の優勝決定戦 ―― 琴栄峰の躍進
  • 時代の風プラス:記憶が「ある」のに思い出せない仕組みを解明、
      USJが道案内デバイスの貸出サービスを開始、
      口腔のケアと健康長寿、
      劇団民藝公演「証」、
      平和祈念映画会「マイスモールランド」
  • 編集後記

巻頭コラム:思い込みが生む悲劇

 7月4日、米国は建国から250年の独立記念日を迎えた。一方、イランの首都テヘランでは同じ4日朝、2月末に米軍の空爆で死亡した最高指導者ハメネイ師の葬儀が始まった。米国の節目の記念日にぶつけ、その米国が始めた戦争の理不尽さを世界に訴える狙いがあったのは間違いない。
 米国がイランへの軍事攻撃を始めてから4カ月余り。トランプ大統領は独立記念日に先立つ演説で、「我々は徹底的にイランを叩きのめした」と強調した。だが、一体何のために戦争を始めたのかと考えると、その成果には首をかしげざるを得ない。多くの人命が失われたのはもちろん、ホルムズ海峡封鎖で世界経済は混乱に陥った。米国が独裁政治と非難していたイランのイスラム国家体制は崩れなかった。核兵器の開発能力を奪ったというトランプ氏の主張も疑問視されている。
 トランプ氏が開戦を決断した理由の一つとして、その直前までイラン国内で吹き荒れていた反政権デモを挙げることが出来るだろう。故ハメネイ師を頂点とする強権独裁体制への不満が噴出し、体制の存続さえ危ぶまれる事態になっていた。イラン政権は徹底的な武力弾圧でデモを押さえ込んだが、トランプ氏は政権中枢への軍事攻撃によって国民が蜂起し、体制を転換できると考えた節がある。
 だが想定通りにはならなかった。米メディアの報道では、ハメネイ師の葬儀で泣いている市民を見て、トランプ大統領は「驚いた。あれはおそらく嘘泣きだ」と言ったという。市民が蜂起しなかった理由はさらなる分析が必要だが、結果的にトランプ氏の思い込みによって、米国とイランが出口の見えない戦争に引き込まれたのだとすれば、これほどの悲劇はない。
 私も思い込みで物事を進めようとして、部下や家人に戒められることがしばしばある。思い込みによる過ちは悲劇を生む。大国のリーダーを引き合いに出すのは大変おこがましいが、他山の石としたい。(大木俊治)

(インタビュー)
沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(下)
―― 語り継ぎたい歴史 ――

 【沖縄県在住の仲宗根義美さん(男性)にアメリカ統治下の盲学校でのあはき教育、沖縄の視覚障害者に影響を与えた人々について伺った。聞き手・構成は本誌編集長戸塚辰永。一部敬称略】
 戸塚:アメリカ統治下のあはき教育について教えてください。
 仲宗根:視覚障害者にとってもっとも重要なあん摩・はり・きゅうの教育は、本土復帰前までは戦前の旧内務規則が適用され、盲聾学園に中途失明者職業訓練課程として速成科1年コースを設け、当初は訓練終了者には無試験であん摩の免許を与えていました。それが、1956年からはあん摩の試験を実施するようになりました。また、盲学校では中学部からあん摩を教育し、1960年には中学部卒業と同時にあん摩の試験を受けて全員が合格しています。1960年に中学部卒業生が出ましたが、その年には高等部の設置が認められず生徒の中には待ちきれずに本土の盲学校に進学する人も何人かいました。翌年の1961年にようやく高等部の設置が認可され、高等部本科3年、1964年には専攻科2年のあん摩・はり・きゅうが本土と同じ内容で実施されるようになりました。1965年には専攻科卒業生が出てはり・きゅうの試験も実施しています。しかし、沖縄であん摩・はり・きゅうの免許を取っても戦前の内務省規則によるものですから、戦後日本本土でできたあはき法の下では沖縄で取得した資格は認められませんでした。そのため、本土に渡ってあん摩・はり・きゅうの仕事をしたい人は本土で新たに学びなおさなければなりませんでした。その頃本土では高度経済成長のさなかでしたが、外国扱いの沖縄にはその恩恵は少なくて、本土と沖縄では経済格差が大きくなるばかりでした。沖縄の若者の多くが高い収入を求めて本土に渡って仕事をするようになりました。視覚障害者も例外ではありません。沖縄から数十名が大阪をはじめ全国十数カ所の盲学校や光明寮で学び、あはきの資格を取って本土で働くようになりました。その後、1972年の本土復帰時、沖縄で取得した免許は復帰特別措置によって本土で取得した免許として認められました。これにより、沖縄で取得したあはき免許が本土でも通用するようになりました。
 戸塚:アメリカ統治下の福祉、医療状況はどうでしたか?
 仲宗根:本土では1961年に国民皆年金制度が開始され、障害者にも障害福祉年金が支給されましたが、沖縄には年金制度はなかったので、障害者は生活に困窮していました。公的な医療保険制度もなくて、病気になると高額な医療費が必要となります。医療費は自由診療ですから、病院によってその額が違いました。目を悪くしても医療費を払えず、治療を断念する人も多かったのです。このような劣悪な医療環境の中で、愛知県名古屋市にある眼科杉田病院(以下、杉田病院)の杉田愼一郎院長と弟の雄一郎副院長らが1958年から1967年にかけて毎年沖縄を訪れ、無料で眼科検診を行い、医療の必要な患者は杉田病院で手術を受けました。杉田先生らが沖縄に来たときは毎回数百名が押しかけ、会場に入りきれず外で待っている人も大勢いました。それだけ杉田先生にかける期待が大きかったのです。患者を杉田病院に送る際には、沖縄盲人福祉会(現沖縄県視覚障害者福祉協会)が窓口になってパスポートの申請も含めて全面的に協力し、数百名が恩恵を受けています。杉田病院では沖縄の人たちが入院するための病棟もつくったほどです。そのほか、九州大学や東京慈恵会医科大学にも、沖縄ライオンズクラブの援助で患者を送り出しています。また、大阪医科大学(現大阪医科薬科大学)は沖縄盲学校の生徒に眼科検診を行い、治療の必要な生徒を5、6名ずつ2回に分けて大阪で治療しています。私も大阪へ行きました。その際引率してくれたのは盲学校の教頭先生でした。先生は私たちが入院している間ずっとホテルに滞在し、毎日面会に来て励まし、手術の日にはずっとそばについてくれました。退院する数日前には大学病院と提携しているメガネ屋に行ってメガネとルーペを無料で提供していただきました。こうした多くの人たちの善意で治療が受けられたことを深く胸に刻みました。大阪医科大学の資金で子供たちに医療を施したことが話題になり、全員が退院した翌日、毎日放送のワイドショーに取り上げてもらいました。スタジオではみんなに絵本がプレゼントされ、私たちが絵本を読んでいる様子に目が見えるんだと司会者が感激したのを覚えています。私は視力が0.04から0.1に回復し、ルーペで文字を確認できるようになりました。
 戸塚:沖縄盲の弱視教育はどうでしたか?
 仲宗根:盲学校での弱視者に対する指導は、今日では当然のごとく墨字を使用して行われていますが、全国的に見ても1950年代まではほとんどの盲学校が全盲と弱視を問わず、すべての児童・生徒に何らの疑問を抱かずに目を使うのはよくないとの通説を信じて点字による指導を行っていました。沖縄盲では、その過ちに気づいて墨字による学習指導を始めました。1964年に小学部に1クラス、1966年67年には中学部に2クラス弱視学級を設けました。私も手術の結果視力を少し回復したので、学年を下げて弱視学級に入れてもらい墨字を勉強するようになりました。弱視学級ができたことで普通学校から盲学校へ転校してくる生徒も何人かいました。
 戸塚:点訳ボランティアはいましたか?
 仲宗根:1963年頃沖縄青少年赤十字奉仕団の中に点字に関心を持つ人たちが出てきて日本点字図書館の通信教育で点字をマスターして点訳図書を作り盲学校へ寄贈したり、週に1回盲学校の寄宿舎で本の朗読会をするようになりました。それから1969年に沖縄盲学校に点字図書が少ないことを知った岡山県で活動する青い鳥点訳グループ・でいごから担当者が沖縄に来られて点字図書40冊を贈呈してくれました。私はその頃、これらの本を読んだ記憶があります。このグループは57年間毎年訪れて図書を贈呈しています。ちなみに、昨年2025年11月には点訳図書54冊、点訳絵本と音の出る絵本2冊、録音図書7タイトルを贈呈しており、57年間で2300冊を超えています。それから、1960年から70年代にかけて沖縄盲の生徒には本土の盲学校の生徒と文通する人が多くいました。きっかけは滋賀県立盲学校がある彦根市の市長が井伊直弼のひ孫にあたり、奥さんが最後の琉球国王のひ孫にあたり沖縄出身で、点訳ボランティアをしていました。その人が沖縄へ帰ってきたとき滋賀盲生徒の手紙を持ってきてくれたのです。それを機に文通が始まりました。私も学年が違う2人と文通をしていました。本土では点字の郵便は無料ですが、沖縄は外国扱いなので有料でした。
 戸塚:本土の視覚障害者と交流はありましたか?
 仲宗根:本土で名の通った視覚障害者が何人も盲学校を訪れています。1958年には当時の日盲連会長の鳥居篤治郎(とりい・とくじろう)さん、1958年と1970年には日本ライトハウスの岩橋英行さん、1970年には日本点字図書館の本間一夫さんが訪れ、私たちに講演をしてくださいました。また、和波孝禧(わなみ・たかよし)さんも盲学校を訪れ、ヴァイオリンの演奏を披露しました。本土復帰1年前の1971年には当時点字毎日記者だった高橋實(たかはし・みのる)さんと田中徹二さんが沖縄盲へ来られて私たち生徒と話したことがあります。また、本土復帰直後沖縄のあはき業者のレベルアップを目的に沖視協主催であはき研修会を2回開催し、芹澤勝助(せりざわ・かつすけ)さんや阿佐博さんを講師に招いたこともあります。
 戸塚:仲宗根さんが盲学校で特にお世話になった方について話してください。
 仲宗根:高橋福治が沖縄盲教育の父ですが、盲教育の母は中村文(なかむら・ふみ)先生です。先生は戦前沖縄女子師範学校を卒業して小学校の教員になりますが、戦後は戦争で失明した弟と一緒に盲学校の再建に取り組みます。1951年8月に沖縄盲唖学校が設立されると、教員として就職します。昼は学校の教員、夜は学園の寮母として24時間働いていました。私が入学した頃は寮母の役割からは離れていましたが、先生の家族も学園内に住んでいていつでも会える状況でした。先生は24年間盲学校で勤務し、定年退職後は沖視協が運営する点字図書館で点訳者や触る絵本をつくるボランティアを育てたり県内いくつかの自治体にも招かれて点訳グループの結成に尽力しました。また、退職後に調理師の免許を取り、沖視協で料理教室の講師も担当しました。関東や関西には沖縄盲の卒業生が大勢いますが、本土で交流会があるときには毎回出席して多くの卒業生から母親のように慕われていました。私と先生の思い出を話します。私は先生には小学部1年と2年のときに担任をしていただきました。入学して間もない頃、私は高熱を出して学校を休みました。先生は私を病室へ連れて行って休ませてくれたのです。わずか6歳で親元を離れて心細い思いをしているときに先生は夜遅くまでつきっきりで看病してくれました。あとでぐっしょりと濡れた肌着や汚れた衣服も着替えさせてくれ、洗濯もしていただきました。普段の先生はとても厳しかったのですが、そのときの優しさ思いやりが今も心に残っています。先生には中学部で数学を教えていただきました。授業が始まる前に紙に短い文を書き、それを入り口のドアに挟みました。そこへ先生がやってきて入り口で少し立ち止まった後、挟んだ紙を引き抜いてドアを開けました。そして教室に入ってきながら私を見たのです。先生をびっくりさせる目論見は見事に外れました。先生は紙を広げて内容を読んだ後、私の席まで来て頭をなでながら、抱きしめてくれました。紙には中村先生誕生日おめでとうございますと書いたのです。その後私が東京の学校に進学すると、手紙や手作りのサーターアンダギー(沖縄ふうのドーナツ)を送って励ましたり病院に就職が決まったときにはわざわざ職場まで訪ねてきて喜んでくれました。30歳の頃のことです。先生からたまには顔を見せに来なさいと食事に誘われました。そして、先生の話で私の母から電話があり、そろそろお嫁さんを探してほしいと頼まれていることを知りました。そのことがきっかけで私が壁を乗り越えきれずに悩んでいたのを先生の協力で乗り越えて結婚することができました。2014年に入って先生が入院したことを知り、先生を励ますつもりで点字にして30ページ以上の手紙を届けました。先生は病床でそれを涙を浮かべながら読んでいたことを後で知りました。その年の10月に先生が逝去するとすぐに家族で駆けつけて先生の頭に触れて顔をさすり手を握りながら涙とともに最後のお別れをしました。私にとって先生は厳しい恩師であり、優しいもう一人の母親でした。享年100歳でした。
 戸塚:印象に残る方はほかにいませんか?
 仲宗根:印象に残る先輩を紹介します。不発弾の爆発で視覚と手に障害を負った真喜屋実蔵(まきや・じつぞう)さんです。私が入学した頃は中学部1年生でした。いつも点字の本を小脇に挟んで持ち歩いていました。その頃盲学校には図書がほとんどなかったので、沖視協から借りていたのかと思いますが、おそらく沖視協にある本は全部読んでいたと思います。点字図書を送る郵送用の袋も見たことがありますので、日点からも借りていたと思います。雨降りの日曜日に私たちが外で遊べないので部屋で退屈していると、真喜屋さんがときどき私たちに本を読んでくれました。読む本がないときは真喜屋さんが頭で考え創作した童話を聞かせてくれました。それがとても面白くて今度はいつ話してくれるのとせがんだものです。その後、真喜屋さんは早稲田大学に進学しましたが、若くして亡くなられました。
 戸塚:沖縄盲の社会貢献活動について聞かせてください。
 仲宗根:比較的最近のことになりますが、2003年度から5年間、日本政府が実施した視覚障害者自立支援事業として、マッサージ指導者育成研修アジア・太平洋JICA沖縄プロジェクトがあります。この地域の国では多くの視覚障害者が貧困と差別に苦しんでおり、職業自立には程遠く安定した職業を確立することが不可欠です。この点で歴史と伝統を誇る日本のあん摩マッサージの技術を伝えることは最も有効な支援の手立てであると考えられたのです。コースの実質的な運営はJICAから委託を受けた沖視協が行い講師の派遣や施設設備の提供を沖縄盲が、またカリキュラムやテキストの作成、JICAとの調整を有志で結成した支援組織沖縄支援ネットが担当する形で進められました。事務局長は東京が藤井亮輔氏、沖縄が中本与一氏です。来日したのは5年間で12カ国27名。国別にみると、マレーシアから6名、カンボジア、モンゴルから各3名、スリランカ、中国、バングラデシュ、フィリピン、ミャンマー、ベトナムから各2名、サモア、タイ、フィジーから各1名でした。研修生は、帰国後それぞれの国でリーダーとして活躍し、新たな人材の育成に努めています。このプロジェクトの実施場所として沖縄が選ばれたのは沖縄がアジア・太平洋に近い位置にあり、気候温暖で風土や生活習慣が似ていることが理由だと思います。また、沖縄としては大正時代に高橋福治が遠く海を渡って言葉も通じない沖縄に来て貧困にあえいでいる視覚障害者に教育を施し、自立する道を開いてくれた、それを今度は沖縄からアジア・太平洋に広げたい熱い思いがあったからこそです。
 戸塚:仲宗根さん、貴重な話を聞かせていただきありがとうございました。

編集後記

 前号の「巻頭コラム」で顔認証がなかなかできずスマホにてこずっていると書きました。最新のスマホを使い始めてから1カ月余りが過ぎ、顔認証がだんだんできるようになってきました。コツは、顔をスマホに近づけすぎないこと。腕を真っすぐ伸ばして少し離れた位置からスマホに顔を認識させるとよいようです。
 私は、この頃あまり現金を持ち歩きません。コンビニなどでの支払いには、クレジットカードのタッチ決済やスマホに登録した交通系ICカードのSuicaを使っています。
 日常的にデジタルに頼っている私ですが、航空券や鉄道の切符は、直接窓口で買っています。紙で持っていると安心するからです。また、ホテルも電話で予約します。これも直接人を介してできるからです。アプリに航空券やホテルの予約情報を登録できることは、理解できます。しかし、アプリからの申し込み手続きには、購入した、予約したという実感が乏しく、不安が付きまといます。こんな違和感を持つのも、私が「昭和生まれ」だからでしょうか。(戸塚辰永)

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