点字ジャーナル 2026年7月号
2026.06.25

目次
- 巻頭コラム:スマホに翻弄される日々
- (インタビュー)沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(中)
―― 語り継ぎたい歴史 ―― - 視覚障害者のために駆け抜けた人生
―― 田中徹二さんお別れの会 ―― - 高めよう、視力を超えたネクストパワー!(5)
推理力 見ないで見抜く名探偵 - 弱さを隠すことが“強さ”だった私へ(7)
自分の障害について語ることの難しさ - ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡 (23)
ムキーヤきょうだいのその後 - 長崎盲125年と盲教育(39)小学部の学級会活動について
- 自分が変わること(204)ジャスティスのシンプルな人生
- リレーエッセイ:私とブラインドテニス
- アフターセブン(136)墓標がつむぐ物語
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?(287)
大関取りに再び歩み出した若隆景 - 時代の風プラス:座りすぎによる経済的負担を推計、
USJが道案内デバイスの貸出サービスを開始、
音声ガイドつきプロレスイベントに招待 - 編集後記
巻頭コラム:スマホに翻弄される日々
私は、アップル社のスマホiPhone(アイフォーン)を使ってきた。iPhone SE3が経年劣化のため、バッテリーの交換時期を迎えた。バッテリーを交換して使い続けるという選択肢もあったが、視覚障害者の友人に相談したところ、「将来的なことを考えると、最新の機種に変更したほうがよいのでは」と勧められてiPhone 17eを購入した。
これまで私が使っていたiPhone SE3にはホームボタンがあり、それを押せばホーム画面に戻ったり、指紋決済もできたりして便利に使うことができた。ところが、いつの間にかiPhoneはホームボタンの搭載を廃止した。ホームボタンがなくなっても、指をスマホの下部から人差し指で画面上を上にすっとなぞることで、これまでのホームボタンのような役割を果たす。これはなんとかできた。
近年スマホの盗難や暗証番号の盗み見による被害が多いと聞き、私はセキュリティーの観点からホームボタンに指先をあてることにより、あらかじめ登録した指紋でロックの解除や金融機関での送金手続きなどを行ってきた。ところが、ホームボタンがなくなり、指紋認証の代わりに顔認証が導入された。まず、難儀したのは顔をスマホに登録することだった。私には首を傾ける癖がある。そのため、スマホのカメラが顔を認識してくれない。何度となく挑戦した結果やっとのことで顔をスマホに登録させることができた。
これで一安心かと思いきや、そうはいかない。スマホを数分使わないでいると、ロックがかかる。ロックを解除するためには、顔認証が必要だ。画面を注視できる晴眼者なら簡単にロックを解除できるが、私の場合それがとても難しい。10回トライして1回成功すればよいほうだ。顔認証に失敗すると、暗証番号をいちいち入れなければロックが解除できない。こんなにリスクのあることは人前ではできない。顔認証以外に声紋認証が搭載されていれば、こんな苦労はしないで済むのにとも思う。
10数万円もはたいて買ったスマホ。軽やかに使いこなせるようになりたいものだが、スマホに振り回される日々が当分続きそうだ。(戸塚辰永)
(インタビュー)
沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(中)
―― 語り継ぎたい歴史 ――
【沖縄県在住の仲宗根義美さん(男性)にアメリカ統治下の盲学校生活等について伺った。聞き手・構成は、本誌編集長戸塚辰永。以下、敬称略】
戸塚:沖縄県立沖縄盲学校の創立者であり、戦前に沖縄県立盲聾唖学校の校長を務めた高橋福治は戦後どうしていたのですか?
仲宗根:1945年2月、県から盲聾唖学校に疎開命令が出され、受け入れ先の準備のために高橋は故郷の宮崎に帰りました。受け入れの準備を整えて宮崎県庁から沖縄に連絡を試みたところ、沖縄戦が始まってしまったため、連絡手段は途絶しており、高橋の願いはかないませんでした。戦後、沖縄から本土へ疎開していた沖縄出身者は戻ることができました。しかし、本土出身者の高橋はそうはいきませんでした。戦後すぐに高橋は沖縄へ戻ろうと試みましたが、沖縄はアメリカ統治下で外国であり、沖縄渡航のためにパスポートを何度となく申請したのですが、いずれも却下されました。高橋が沖縄の地を再び踏んだのは、1952年にサンフランシスコ講和条約が結ばれてからのことです。彼は盲聾唖学校の再建を目指して活動したかったのですが、本土出身者は外国人扱いされたため行政との交渉など表舞台に出ることはできませんでした。その代わり、高橋は視覚障害者の福祉向上のために陰から尽力しました。沖縄県立盲聾唖学校があった土地は高橋の私有地でしたが、それを沖縄の視覚障害者のために寄贈しました。
戸塚:戦後の沖縄の様子についてお聞かせください。
仲宗根:沖縄戦が終わって住民は沖縄の12カ所に作られた収容所に収容され、米軍から無償で食料が提供されました。この間はお金が使えない物々交換でした。1946年になると、収容所から出て出身地に帰ることができましたが、収容所生活の間にいたるところに米軍基地が作られていて、元の場所での生活ができない人が多く出て途方にくれていました。通貨では、1946年から米軍占領地だけで通用するB円と呼ばれる軍票が通貨として使用されるようになりました。その後、通貨は1958年にB円からドルへと切り替えられました。そして、本土復帰の1972年5月15日にドルから日本円に切り替えられました。通貨の切り替えといえば、思い出すことがあります。1958年の秋、私は小学部2年生でした。B円とドルの切り替えがあり、学校の授業で先生が新しいお金を用意して、私たちはお金の種類を勉強しました。箱の中にはドル紙幣と小銭が入っており、全部でいくらか計算するよう言われ、私だけが10ドルと正解を答えられ、先生がほめてくれたことを覚えています。
戸塚:沖縄は、戦後統治体制が何度も変わっていますね。
仲宗根:1945年8月に沖縄諮詢会が発足し、その後それが沖縄民政府、沖縄群島政府と変わり、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約による日本の独立と引き換えに沖縄の潜在主権は日本に残していながら、主権をアメリカが握るようになり、行政機構も琉球政府となりました。それが1972年5月14日まで続き、翌5月15日の本土復帰とともに沖縄県が発足したのです。
戸塚:アメリカ統治下の視覚障害者の様子について教えてください。
仲宗根:戦後は社会基盤の整備から始まりました。福祉分野に限って言いますと、親を亡くした子供たちを収容する孤児院や高齢者を収容する養老院がいくつか作られています。しかし、障害者には、そのような対策はまったくありませんでした。1947年頃から盲学校の卒業生たちが徐々に疎開先から帰ってきました。同年秋に卒業生を中心に視覚障害者8名が集まって、盲人組織を作る話が持ち上がりました。1948年11月に沖縄盲人協会が発足しました。戦前には沖縄盲人保護協会という組織がありましたが、これは晴眼者の篤志家を中心に作られた組織で盲学校の後援会でした。これに対して、沖縄盲人協会は、沖縄初の当事者団体です。盲人協会の最重要課題は、盲学校の再建でした。戦前にあった盲人保護協会の会員にも協力を呼びかけました。盲人協会の顧問に又吉康福と上地一史が就任しました。又吉は盲人協会のメンバーとともに沖縄民政府や米軍当局に何度も足を運んで、盲学校の再建を訴えました。また、上地は沖縄タイムスの編集局長をしていたので、その立場で新聞で何回も盲学校の再建の必要性を取り上げました。ちなみに、上地はのちに沖縄タイムス社の社長になりました。
戸塚:盲学校再建の要望は聞き入れられたのですか?
仲宗根:沖縄戦による被害と社会の混乱もあってほとんどの視覚障害者が経済的に困窮していました。そうした状況の中で、ようやく行政側も動きました。福祉と教育を合わせて行うために、福祉行政の管轄で那覇市・首里・石嶺に1951年8月に沖縄盲聾学園と沖縄盲唖学校を設立しました。校長は学園の園長と兼務で盲人協会の顧問をしていた又吉康福が就任しました。校舎は米軍から払い下げられたトタンと鉄骨でできたかまぼこ型のコンセットと呼ばれる建物で、当初は1棟でしたが、のちに3棟まで増えました。そのほか、木造平屋建てプレハブ1棟が建築されました。職員は校長を含めて9名でした。設立当初の生徒数は、盲部と聾部それぞれ10名でしたが、生徒数は年度を重ねるごとに増えていきました。私が入学した1957年には、盲部は31名、聾部は50名を超えています。学校の備品もほとんどありません。点字盤も3名に一つで、交替で使っていましたし、点字用紙もなくて、米軍から片面に英字が印字された使用済みの厚手の紙が提供されていました。点字の教科書も、毎日新聞社から発行されたものが一揃いあるだけで、それを各自で書き写して使っていました。学校は公立であったのですが、開校当初は予算も乏しく、食料や衣服をはじめ、ほとんどの運営原資や施設整備の費用は、アメリカ軍人、軍属の善意に頼っていました。一方、日本本土ではすでに施行されている身体障害者福祉法、児童福祉法、生活保護法、社会事業法が1953年10月から11月にかけて沖縄でも琉球政府の立法院で成立しました。これによって、これまで福祉行政の所管に基づいて行われていたとはいえ、何の法的裏付けもないままに、運営されてきた沖縄盲聾学園は、児童福祉法による盲と聾の子供の保護施設と身体障害者福祉法による身体障害者更生援護施設の両方を併せ持つ施設となりました。また、身体障害者手帳の交付も始まりました。ただ、本土でのちにできた身体障害者雇用促進法は沖縄にはなく、沖縄が本土復帰するまで待たねばなりませんでした。それから、福祉行政の管轄にあった沖縄盲唖学校も、琉球教育法が公布されたことにより、1954年9月に琉球政府立沖縄盲聾学校と改名し、福祉部門から分離して、教育行政に移管されました。しかし、学園と学校は形だけの分離にとどまりました。学校は引き続き学園内にあって職員も両施設を兼務していましたし、校長も園長が兼務していました。予算や会計上の区分も、曖昧だったようです。このことが沖縄の戦後復興の混乱をよく表しています。
戸塚:仲宗根さんの思い出を聞かせてください。
仲宗根:盲聾学園のある石嶺は沖縄戦のとき戦闘が激しかったところで、運動場を米軍がブルドーザーで整地したとき、たくさんの遺骨が出たと聞きました。私が入学した後も、草原で遊んでいるとときどき遺骨が出てきました。私はその頃弱視でしたので、学園に住んでいる聾の生徒や隣の児童福祉施設・石嶺児童園の子供たちと仲良くなって学園のすぐ近くの山にみんなでよく遊びに行きました。山には戦時中に作られた防空壕がいくつかあってときどき壕に入って遊んだものです。壕の中は真っ暗でいくつか抜け穴があって迷路のようになっていて、防空壕は横穴でつながっていました。四つん這いになって進むと別の壕に行けました。暗い中を進むので、少しスリルと怖さを味わいました。また、壕の中にろうそくを持ち込んで明かりをつけ自分たちの秘密基地にしようと相談しました。これらは子供の頃の楽しい思い出です。防空壕ついでに話しますと、当時の盲聾学園には、戦争の被害で失明した中途失明者もいましたし、また不発弾の爆発で目と手に障害を負った人も3名いました。また、親を亡くして戦争孤児になった子供もいました。私は1957年の入学ですが、入学1カ月前の3月に盲聾学園に入園し、そこで生活しながら入学を待ちました。私が入学した頃にはコンクリートづくりの校舎もできていましたが、盲と聾の両方のクラスを作らなければならないので、教室が足りません。そこで私たち1年生は、雨漏りのする古いコンセットを使っていました。教科書は先輩が書き写したものを譲り受けたり、自分で書き写したりして使いました。点字用紙も相変わらず米軍から払い下げた紙を使っていましたし、点字盤も生徒全員には行き渡りませんでした。私は親に事情を話し、無理を言って2年生の秋にようやく点字盤を買ってもらいました。たしか値段は2ドル50セントだったと思います。小学部4年生のときに日本ライトハウスや東京点字出版所が制作した点字教科書がようやく生徒全員に配られました。真新しい教科書を手にして、勉強する意欲がわいてきました。これは就学奨励制度がまだない時代ですので、教科書代は米軍の援助なのか、日本政府の援助なのかどこからお金が出たのかはわかりません。学校給食は、学校と学園が同じ敷地にある間は学園の食堂でとっていました。私が入学する2年前の1955年5月にはヘレン・ケラーが沖縄に来ています。盲学校には今でもヘレン・ケラーと生徒・職員が写った写真が残っています。
戸塚:盲聾学校はその後どうなったのですか?
仲宗根:1959年に盲学校と聾学校が分離しますが、それも形だけで敷地も校舎も当初は同じ場所でしたし、校長も両校を兼務していました。翌1960年になってようやく学園から1km離れたところに聾学校の校舎と寄宿舎が完成しました。そこで学園に住んでいた盲と聾の8割の生徒が聾学校の寄宿舎に移りました。しかし残り2割の生徒は経済的に困窮している家庭の子供ということで引き続き学園に住んでいて、毎日学園が用意した弁当を持って学校に通うようになりました。私もその一人でした。学園は児童福祉施設でもありますので、衣食住の提供はもちろんですが病気のときの医療費や学校行事に必要な費用やPTA会費などすべてを学園が負担してくれました。床屋で髪を切るときも学園から利用券をもらいました。私は1960年から4年間学園に住みながら学校へ通っていますが、学園と学校で運動会など同じ行事がいくつもあって楽しい思い出を2倍作りました。また、学園は福祉施設の特性もあるのか、職員は優しく私たちを育ててくれて、まるで家族のような雰囲気でした。その頃一緒に住んでいた友人と会うたびに昔話に花が咲きます。1964年、学園の盲と聾の保護施設が廃止されることになり、学園に住んでいた私たちは、学園のすぐ隣にある石嶺児童園へ移る話が出てきました。そこはもともとは戦争で親を亡くした子供たちを収容するために作られた施設です。私は個人的には児童園に移りたいと思いました。そこには学園から転勤していった職員や友達もいたし、互いの施設の運動会にも参加し、日頃から交流していたからです。しかし、話が二転三転して結局私たちは聾学校の寄宿舎に移ることになりました。それは、就学奨励法の施行を見据えての判断だったようです。寄宿舎は住みにくいところでした。学園では八畳の畳の部屋に板の間が付属し、そこに学習机が並べられ、4人で生活していましたが、寄宿舎では十畳の部屋に10名で生活するというすし詰め状態で狭苦しくしかも食事も勉強するところも寝るところも同じで娯楽室もありません。学園で住んでいた私には考えられませんでした。このような劣悪な居住環境は聾学校の寄宿舎を盲学校が借用しているからなので、早く盲学校独自の寄宿舎を作ってほしいと思いました。集団生活でストレスがたまり食事もまずかったため、毎週日曜日には寄宿舎を抜け出して学園に行って食事をいただいて1日過ごしていました。
次号に続く。
編集後記
当協会は明治通り沿いにあります。これまで明治通りは片側2車線でしたが、3車線にするための道路拡幅工事が行われています。これにより、歩道が以前より狭くなり、点字ブロックも建物側に移動しました。
これにはすぐに慣れました。高田馬場駅早稲田口から当協会に行くには、明治通り沿いを新宿方向に歩き、諏訪町交差点を渡ります。その諏訪町交差点が拡幅工事の対象とされ、横断歩道が狭くなり、部分的に工事柵が設置されています。それと共に、これまで横断歩道脇の電柱にあった音響式信号機の押しボタンが撤去され、車道側に移動しました。現在、押しボタンは工事柵に囲まれており、しかも交通量が多い明治通り側に設置されています。そのため、押しボタンの位置を知らせる音が自動車の走行音にかき消されてとても聞きづらい状況です。私もそうですが、押しボタンの位置を探してうろうろする視覚障害者がよくいます。当協会にお越しの際は、諏訪町交差点に注意してください。(戸塚辰永)
