点字ジャーナル 2026年6月号
2026.05.25

目次
- 巻頭コラム:マイナンバーカード更新に思う
- (インタビュー)沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(上)
―― 語り継ぎたい歴史 ―― - 畳に刻んだ40年の情熱、そして未来へ
- 音声ガイドの極意とは?
―― 友部正人のドキュメンタリー ―― - 高めよう、視力を超えたネクストパワー!(4)
記憶力 得意な方法で憶えよう - 弱さを隠すことが“強さ”だった私へ(6)
頼るようになって、うまく進めなくなった - ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡 (22)
12回の孤児院訪問 - 長崎盲125年と盲教育(38)校舎移転当時の外来患者の統計
- 自分が変わること(203)解放されたいい顔
- リレーエッセイ:“めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い”
矛盾だらけの愛しい目と生きる ― 工夫と私 ― - アフターセブン(135)モーリアンヒートパック
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?(286)
朝紅龍が亡き母と交わした固い約束 - 時代の風プラス:駅の無人化訴訟で陪審請求棄却、
スマートフォン普及と内斜視発生の実態解明 - 編集後記
巻頭コラム:マイナンバーカード更新に思う
私は、数カ月前にマイナンバーカードの有効期限が切れるということで、同行援護を利用して区役所に行き、更新手続きをしてきた。
マイナンバーカードに記載する氏名や生年月日、住所などは事前にインターネットで入力や確認ができたが、区役所へカードを受け取りに行くと、そこで署名用電子証明書の暗証番号(6~16桁の英数字)や利用者証明用電子証明書の暗証番号(4桁の数字)の入力を求められた。これらは、公的サービスなどを利用する際の本人確認に用いるものであり、普段インターネットを使う中で設定するパスワードと同様、他者に漏れてはならない情報だ。これらを入力するように言われた時、電卓もしくはキーボードのようなボタンが並んだ装置が出てくるのかと思いきや、出てきたのはパソコンの画面のようなものだけだった。画面上にキーボードが表示されており、それをタッチして入力するというシステムだったのだ。私の視力では、画面上の文字は全く見えないため、どうしても晴眼者に代理で入力をしてもらわなければならない状況だった。同行援護者に入力を依頼しようとしていたら、区役所の職員より、「私が聞き取って入力しましょうか」という声かけがあった。私は、本当は自力で入力したかったが、全くできそうになかったため、職員に小声で内容を伝えて入力をしてもらった。事前に自分のスマートフォンに入力しておいて、それを職員に見せるという方法もあったと後から気づいたが、それでも相手に暗証番号を見せることにはなってしまっていただろう。
以前よりは、アンケートへの回答やサービスの申し込みがオンラインでできるようになり、視覚障害者もスマートフォンの読み上げ機能を頼りに個人情報を入力できる世の中になってきているように思う。代筆をしてもらえることは大変ありがたいことではあるが、中には今回の暗証番号のような他人に知られたくない情報も存在する。そのため、窓口では代筆を依頼するほかに、自分でボタンを押して入力するということもできるようになると、さらに利便性が増すのではないだろうか。(石山友香)
(インタビュー)
沖縄の視覚障害者の戦前、戦中、戦後(上)
―― 語り継ぎたい歴史 ――
【沖縄県在住で、歴史に詳しい仲宗根義美さん(男性)に沖縄の視覚障害者が歩んできた道を伺った。今号は沖縄盲学校の創立者高橋福治(たかはし・ふくじ)、視覚障害者の沖縄戦証言について。聞き手・構成は本誌編集長戸塚辰永。以下、敬称略】
戸塚:はじめまして、私は『点字ジャーナル』編集長の戸塚辰永と申します。お恥ずかしいことに、沖縄の視覚障害者の歴史は、沖縄県立沖縄盲学校の創立者高橋福治について書かれた『デイゴの花かげ』を読んだくらいで詳しくは知りません。戦前、戦中、戦後アメリカ統治下の視覚障害者について聞かせてください。まずは、自己紹介からお願いします。
仲宗根:私は1950年に生まれ、先天の視覚障害者で、当時は弱視でした。1957年に琉球政府立沖縄盲聾学校に入学しました。同校高等部を卒業し、東京教育大学付属盲学校専攻科に進みました。1976年に沖縄へ帰郷し、沖縄協同病院に就職。39年間勤め、65歳で定年退職しました。その後は、近くの治療院で週3回働いています。現在は、沖縄県視覚障害者福祉協会の評議員をしています。趣味は、読書と地域の合唱団で歌うことです。アメリカ統治下の沖縄について知っている人が少なくなっていますので、そのことについても話したいと思います。
戸塚:明治以前、琉球王国時代の視覚障害者の生活から聞かせてください。
仲宗根:日本本土では、杉山検校のあはき教育によって、視覚障害者があん摩・はりで職業自立していました。明治になって、当道座が廃止されて7年後の1878年に京都盲唖院が創立されました。それを機に、全国各地に盲学校の前身となる盲唖学校が創立され、あはき教育が行われ、現在に至っています。一方沖縄は、1879年まで琉球王国として独立していたため、杉山検校の影響は全くなく、視覚障害者のあん摩・はりの仕事はありませんでした。王国時代には特別な制度はなかったので記録には出てきませんが、おそらく大正時代の半ばまで、沖縄の視覚障害者は家族に扶養されて家庭内でできることを手伝っていたり、あるいは農村では農業を手伝っていたり、街中では三線を路上で弾きながら施しを受けて生活していました。この街中での行為は本土復帰後も時々見られました。
戸塚:沖縄の盲教育の先駆者高橋福治について教えてください。
仲宗根:宮崎県出身の高橋福治という盲青年がおり、沖縄県庁に手紙を書き、質問しました。その内容は、沖縄に盲学校はありますか、あん摩・はりの試験を実施していますか、盲人があん摩で暮らしていけますかの3点でした。これに対して県の回答は、盲学校はない、試験は実施していない、あん摩で暮らしを立てる保証はできないというものでした。そこで、高橋は沖縄へ渡る決心をしました。なぜ彼が沖縄に関心を抱くようになったのか。きっかけは大分盲学校の授業にあります。地理の教科書に、沖縄は50あまりの島からなり、気候温暖で、サトウキビやサツマイモの栽培が盛んに行われており、那覇にはよい港があり、交通の中心であると書かれていました。その一文を読んだ高橋は、沖縄にも盲学校があるのか、盲人はどんな暮らしをしているのかと思いを巡らせました。高橋25歳の春、鹿児島から那覇へ2泊3日の船旅を決行。彼は一番安い3等船室の大部屋で雑魚寝をしました。用を足しに行くことはできるのですが、自分の寝床に戻ってこれず、客の体を踏んで怒鳴られたり、自分の荷物と人の荷物を間違えて、ゴソゴソ手探りし、ドロボウ呼ばわりされたりと、彼にとっては散々な船旅でした。そして、1920年3月18日に那覇に到着した彼は、白杖を片手に盲人を探す活動を開始しました。翌4月には、公会堂を借りて男性の視覚障害者3名に点字の指導を始めました。これが、沖縄での点字教育の始まりです。1921年5月から民家を借りて、沖縄訓盲院を創立し、生徒数は10名を超えました。高橋は、午前には学校での授業を、午後には篤志家や行政機関を回り金策等を、夕方からは生活のためにあん摩・はりをしました。同年、盲学校の後援会となる沖縄盲人保護協会を発足しました。1922年に卒業生3名を送り出し、彼らはあん摩、はり、きゅう検定試験を受けて合格。これが沖縄における視覚障害者のあはき業の始まりでした。1924年には、私立沖縄盲学校として文部省に認可されました。そして、1933年に那覇の松尾に新校舎が落成しました。ちなみに、現在そこには沖縄視覚障害者福祉センターがあります。私立沖縄盲学校は、1941年に内務省の免許取得指定校として認可され、これにより卒業生は試験なしで免許を取得できるようになりました。1943年には、同校と聾唖学校が合併し、沖縄県立盲聾唖学校と改名し、初代校長に高橋福治が就任しました。沖縄県は島々が点在するため、たびたび離島を訪れて、盲教育の必要性を説いた高橋は、那覇の本校のほかに首里、伊江島、八重山に分校を、台湾の台中には教え子の里見豊也を指導者にして講習所を作りました。
戸塚:太平洋戦争がはじまり、戦局が悪化する中で、盲学校の児童・生徒はどうしたのですか?
仲宗根:1944年10月10日に那覇を中心とした米軍による大空襲があり、市内の9割が焼失しました。盲学校の校舎は幸いにして無事でしたが、その後校舎のほとんどが大政翼賛会の事務所として接収され、一つの教室で授業をするようになりました。そのため、初等部の児童は親元に返して、中等部だけになりました。家庭の事情が許す児童・生徒の何名かは、本土の盲学校に転校しました。1945年2月、県から盲学校に疎開命令が出され、受け入れ先の準備のために高橋は宮崎に戻りました。受け入れの準備を整えて宮崎県庁から沖縄に連絡を試みたところ、沖縄戦が始まってしまったため、連絡手段は途絶しており、高橋の願いはかないませんでした。
戸塚:沖縄戦下の視覚障害者の様子について教えてください。
仲宗根:1945年4月から6月までの3カ月間、住民を巻き込んだ激しい地上戦がありました。日米の両軍よりも住民の犠牲者が多く、住民の4人に1人が犠牲になるという極めて悲惨なものでした。詳しい数字はわかっていませんが、多くの視覚障害者も亡くなりました。戦後70年にあたる2015年に沖縄県視覚障害者福祉協会で視覚障害者の戦争体験を聞く取り組みを行いました。また、2025年、戦後80年の節目にも何人かの戦争体験を聞く機会がありました。その中で、印象に残った証言を紹介します。まず、Iさんの話です。Iさんは1937年に沖縄本島北部の恩納村に生まれています。現在89歳です。父親は片方の足に軽い障害があり、そのため軍隊には召集されませんでした。多くの男性が招集されたので、警察官が不足し、父は警察官になっています。戦争が始まるとめいめいで食料を背負って、砲弾の音におびえながら、親子6名で集落を離れました。昼間は山に隠れて、夜になると山から山へと移り、砲弾の音から逃れるように逃避行しました。照明弾が上がるとその直後に、砲弾が飛んできます。ドカンバリバリ。とても怖かったそうです。近くに砲弾が落ちると、Iさんは死ぬかと思いました。何度もそんなことがあって、必死に逃げ回りました。夜、親戚のおじさんが食料を探しに出たところ、砲弾にやられて死んでしまいました。やがて、食べるものもなくなり、お腹をすかせてもう動きたくなくなり、どうなってもいいと思いました。そんなフラフラの状態になっているとき、父が言いました。捕虜収容所ができているそうだから、そこへ行こう、と。Iさんたちは反対しましたが、私に任せなさいといって、父は一番下の子を抱き上げて歩いていきました。子供を抱いている人をアメリカは攻撃しないだろうと言っていました。時間の感覚はわかりませんが、何時間かたって、やがてIさんが隠れているところに父と数名のアメリカ兵がやってきました。父の機転を利かせた働きでIさん家族は捕虜収容所に収容されました。収容所で食料をいただいたとき、これで命が助かったと安心しました。幸いIさん家族は全員無事でした。
戸塚:次の方の話を聞かせてください。
仲宗根:YさんもIさん同様1937年生まれです。沖縄戦のとき8歳でした。父親が軍隊に召集され、母親と4人の子供で戦下を逃げ回りました。砲弾の音が恐ろしかったそうです。毎日、壕から壕へと逃げ隠れして、ようやく大きな壕を見つけて、逃げ込みました。そこには多くの住民が隠れていました。一番下のきょうだいが泣き始めたので、母親は子供をあやすつもりで壕の入り口付近に出たところ、米軍から手りゅう弾が投げ込まれて親子が亡くなりました。壕の奥にいたYさんも爆風で異物が飛んできて目が全く見えなくなってしまいました。その後、米軍に救出されますが、歩いていく途中で何人もの死体を踏んだのを覚えているそうです。アメリカ兵がYさんの顔が傷ついているのを見て米軍病院で治療してくれました。幸い傷が軽かったので、治療後はある程度視力が回復しましたが、完全には元に戻りませんでした。両親が亡くなり、Yさんを含めきょうだい3人は収容所から出た後、親戚を頼りました。そこでは農業で働き、学校へは行かせてもらえませんでした。その後、Yさんは結婚。子供が学校に入学すると、子供の教科書を見て一緒に必死になって文字を覚えました。その結果、新聞が読めるようになりました。今では、子供や孫が大勢います。Yさんが日頃心掛けていることは、子供や孫に食事を用意するときに公平に同じ分量でご飯を盛ることです。お菓子のことでもそうです。なぜかというと、子供のころ親戚のうちで自分たちきょうだい3人とその家の家族とは食事の内容も分量も違っていて、悔しい思いをして、いつもお腹をすかせていたからです。
戸塚:仲宗根さんの母について語っていただけませんか?
仲宗根:私の母も弱視でした。いとこたちが九州へ疎開することになり、目が不自由な母も親に勧められて一緒に疎開することにしました。1944年8月にいとこたちと一緒に疎開船に乗りました。母が乗ったのは和浦丸(かずうらまる)という船でした。数隻の船で船団を組んで前後を軍艦が護衛するので、安心だと思ったそうです。夜遅く、寝ているところを起こされました。みんな救命胴衣を着けて甲板に出るようにと言われました。甲板だと米軍からの魚雷攻撃があっても海に飛び込んで助かるからだと言われたそうです。なぜそうするのか、理由は教えてもらえませんでしたが、長崎に入港したときに一緒に船団を組んでいた対馬丸が到着していませんでした。周囲の人が対馬丸は沈められたんじゃないか、夜遅く大きな音がしたのはそれだったのではと話していました。その後、長崎から熊本に移動して疎開生活が始まりますが、弱視の母は集団疎開生活になじめず、2カ月ほどたってから、母より8歳上の姉が結婚して大阪で暮らしていたので、手紙を出して迎えに来てもらいました。ところが大阪でも、大阪大空襲にあって命からがら逃げまわったそうです。戦後、1947年になってようやく沖縄へ引き揚げてきました。ちなみに、一緒に九州に向かった対馬丸はアメリカの潜水艦に攻撃されて1484名の人が亡くなられ、そのうち784名が学童でした。
次号に続く。
リレーエッセイ
“めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い”矛盾だらけの愛しい目と生きる
― 工夫と私 ―
社会保険労務士/山本真由
博多駅の改札を抜けると、わたしは他人の尻を追いかけ回す女になる。いや、断じて怪しいものではない。
視力はあるが視野がげんこつ2個分程度のわたしは、他人の後ろをついて歩くことでスピードを落とさず障害物を華麗に避けられる。ただし少しでも目線をそらすとターゲットを見失うので、尻に一点集中しなければならない。わたしの視野は下方に広がっているため、尻がよい。いや、断じて怪しいものではない。
ある日、いつものように尻を追っているとターゲットのポケットから何かが落ちた。視力はよいので見逃さない。なんとそれは保険証であった。幸いにも拾って顔を上げた先でターゲットを捉えたので、わたしは白杖をざーっとスライドさせながら駆け寄った。「保険証! 落ちましたよ!」
相手から焦りと感謝で何度も頭を下げていただいたとき、わたしは思わずこう言ったのだ。
「ははは、すみません、なんか。白杖持ってるのにね」
“のに”なんだってんだ。白杖を持っている=全く目が見えない、そんな世間一般のイメージと自分が合致しないことへの、謎の謝罪であった。もっと堂々と、視野が狭くても視力のよいこの目を、心の底から肯定してやりたいものである。
見えているはずなのに、見えていない。見えていないはずなのに、見えている。それがわたしの、愛しい目。
上編よりお馴染み、わたしの視力はけっこうよい。直近では矯正1.2も出た。しかし中心視野は両目とも10度に満たない。加えてわずかに残った下方の周辺視野で、地面の色をぼんやりと把握する程度である。
この視力と視野のギャップには弊害がある。非常にクリアな“本物”に混じって、脳が非常にクリアな“嘘”の補完をしてしまうのだ。たとえば春の桜でも見に行くとしよう。あれは8分咲、あれは満開、わたしにははっきりと花びらまで見える。しかしああ綺麗と花びらに近づいたその時、手前に伸びた枝に額をぶつけるのである。視野の欠けた部分に入った茶色い枝を、脳が勝手に桜色に補完し、さも枝なんてありませんが? という景色に変えてしまうのだ、花びらの美しさをクリアに残したままで。
鮮明な本物と虚構が混じった景色において、わたしは己の目を信じるべきか、信じないべきかに悩んでいた。そこで一つの工夫を始めた。目線の動きのパターン化である。進行方向の上から下、左から右への目線移動を徹底的に統一させた。障害物の有無をバラバラに確認するのではなく、必ず頭から肩・腕、足の順に目視していくことをルール付けた。点字ブロックのない狭い路地では特に有効だった。だが人混みになると、この方法はあまり役立たない。常に動く人の情報を目視で確認はできない。そこで冒頭の尻追い戦法を使う。特に博多駅は、人が縦横無尽に交錯しており、白杖の単独歩行の難易度が高い。個人的には東京より苦手だ。そのため「前の人のツレなんですよ」風を装い、今日も今日とてわたしは尻を追いかけ回している。いや、断じて怪しいものではない。
これらの歩き方の工夫は、残された視機能をなるべく使い倒すことが根底にある。己の目を信じるべきか信じないべきかで悩んだ結果、わたしはおそらく信じるべきに舵を切った。
そうして突然新しく始めたのが、登山である。自分でも意味が分からないが、視覚障害者になってからわたしは登山を始めた。矛盾しているのは目だけではなかったのか。
登山は足を置く場所を確定させるために目線の動きが重要で、パターン化の練習として効果的だった。しかし当然、危険である。鮮明なる虚構を見抜けなければ、運が悪いとその先は死。山ではいつも「上OK、ここ岩、右に枝、はい触ったOK」と己の目と対話し、それ以外の余計な思考は一切持たない。不思議な集中だ。頭の中がシンプルになっていく。この登山マインドがわたしを、屋久島の縄文杉に、富士山の山頂に連れていってくれた。ご来光のぬくもりはわたしを包み、神か仏か知らんけど、わたしを肯定してくれた気がした。
常時の工夫の成果極まれり、「日常生活に支障がないんだね」と言われたことがあった。いや、支障がないことはない。支障は大いにあるのだけれど、それを乗り越える努力を求められ続け、今なお応え続けているのだと解したい。
またある時、視覚障害者向けのランニング会で視力を伝えると「ずるい!」と言われた。「えへへ、さーせんね」と笑ったが、少し寂しいものである。視力の良し悪しも視野の広い狭いも、ずるいと評価される対象ではない。先の生活支障の有無然り、数値評価の優劣然り、他人の幸福度を測ることなど、誰にもできない。自分の幸福度を測るために、他人と比較することもまた、できない。たとえ同じ病名でも、そこから見える世界は誰一人同じではないのだから。
わたしは視力2.0の世界から、視野10度未満の世界へ転生した。世界ごとに生き方やルールは違う。だがどの世界であろうと、わたしを幸せにできるのは、いつだってわたし自身。
“幸福とは他人との相対評価ではなく、己の絶対評価によってうまれる”
めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い。矛盾だらけのこの目はたまにこうやって、軸になる生き方を説いてくる。まったく、憎めないやつだぁ。
編集後記
6月23日は沖縄慰霊の日です。私は、今年2月初めて沖縄を訪れました。ほとんど観光する時間はありませんでしたが、沖縄本島南部糸満市にある平和の礎(いしじ)を訪ねてきました。沖縄在住の2人が私を案内してくださいました。沖縄戦では住民の4人に1人が犠牲になったと言われていますが、2人の親戚も亡くなられており、刻銘版に刻まれた氏名を指でたどり、不戦を誓いました。
仲宗根義美さんへのインタビューを掲載します。沖縄の視覚障害者の歴史や仲宗根さんが経験した戦後アメリカ統治下の暮らしについて語っていただきます。
今号から編集部の書き手が2人加わりました。1人は巻頭コラムを書いた石山友香記者です。彼女は、Z世代。若者の視点から取材記事を書いてくれることでしょう。もう1人は、バリアフリー映画について記事を書いた関牧子記者です。彼女は晴眼者で、本誌編集部に配属されてから半年弱。現在、視覚障害者についていろいろと学んでいるところです。2人の活躍が楽しみです。(戸塚辰永)
