点字ジャーナル 2026年5月号
2026.04.27

目次
- 巻頭コラム:シルバニア村拡大中
- (訃報)日点 田中徹二会長逝去
- (インタビュー)スポーツ文化の発展を目指す
―― 河合長官に聞く ―― - 筑波技術大学のリカレント教育事業について
- 高めよう、視力を超えたネクストパワー!
(3)伝達力 視覚障害を伝えるには - 弱さを隠すことが“強さ”だった私へ
(5)人生の時間は、2倍にならない - ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡
(21)ある家族の悲劇と希望 - 長崎盲125年と盲教育(37)時津校舎への移転
- 自分が変わること(202)新聞記者という長い夢
- リレーエッセイ:“めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い”
矛盾だらけの愛しい目と生きる ― 仕事と私 ― - アフターセブン(134)生きた宝石をその手に
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(285)霧島、大関再昇進 - 時代の風プラス:東京文化会館 リラックス・パフォーマンス集、
劇団俳優座公演、
眼内内視鏡保持ロボットにより患者の身体的負担を軽減、
事業所従業員の盲導犬同伴利用に関する意識調査 - 編集後記
巻頭コラム:シルバニア村拡大中
先日シルバニアの家を買った。娘が気に入るかなと思ったことも理由の一つだが、主に私が飾りたくて購入した。
シルバニアファミリーは1985年から発売されているエポック社のドールハウスで、森の奥にあるシルバニア村が舞台になっている。住んでいるのはウサギやリスなど子供に人気の動物からモグラやユキヒョウといった少し意外な動物まで様々だ。人ではなく動物をモチーフにすることで人種や文化を超えて世界中で愛されている。
シルバニアの魅力は何と言っても精密な作りにあると思う。カントリーなアメリカンテイストを基調とした家や家具は、バルコニーの手すりの曲線から家具のふちに施されたレリーフに至るまで細かく作り込まれていていくらでも触れていたくなる。さらにコンロのつまみを回すと火がついたように見えるなどワクワクする仕掛けも満載だ。
今回買った赤い屋根の大きなお家はシリーズを代表するロングセラー商品だ。最新版は窓辺に灯りがともるようになり、インテリアとしてのクオリティも向上している。関連商品の中には祖父母と暮らすエレベーター付きの家もあるらしい。シルバニア村も着実にバリアフリー化が進んでいる。
気がつくと私はシルバニアの奥深さにすっかり魅了されていた。最近は大人のシルバニアファンも増えており、旅行先で撮影した人形の写真をSNSに投稿したり洋服や家具を手作りしたりして楽しんでいるようだ。
どちらかと言えば人形そのものには関心がなかった私に対し、娘は最初から人形を可愛がっていた。私が屋根の上に人形をポンと置くと「早く降りて来なさい」と怒られるし、その場を離れるために人形が風邪を引いたことにしてベッドに寝かせると「ちゃんと看病してあげて」とすかさず指示が飛んでくる。娘の影響でメーカーが公表している人形それぞれの名前もしっかり覚えてしまった。
家に遊びにくる友人も懐かしさもあってか熱心に娘と遊んでくれている。娘へのプレゼントとして(実は自分たちが遊びたいのだが)シルバニアグッズをもらう機会もあり、この先わが家のシルバニア村はさらに広がっていきそうだ。 (宮内亜依)
(訃報)日点 田中徹二会長逝去
日本点字図書館理事長/長岡英司
去る3月10日、日本点字図書館会長の田中徹二が、91年余の生涯を終えた。最近の田中は、趣味の活動の合間に週に3、4回日点に足を運んで、募金事業を手伝っていた。前の週の金曜日までいつもと変わりなくその役割を続けていたが、週末に風邪の症状から体調を崩し、入院翌日の火曜日に容体が急速に悪化して横紋筋融解症で息を引き取った。葬儀は、3月16日に、東京都文京区にある真宗大谷派・専西寺で、家族葬として執り行われた。
田中は、1934年に東京で生まれた。都立高校から早稲田大学理工学部建築学科に進学し、憧れの道を目指したものの、在学中の19歳で網膜剥離のために失明し、夢は潰えた。入院中から点字を習い、中途失明者のための更生訓練施設である国立東京光明寮に入所して三療(按摩、鍼、灸)の資格を取得するとともに、早稲田に復学して第二文学部英文専修を卒業し、1960年から社会保険埼玉中央病院の整形外科に勤務した。その間に、点字を使いこなせるようになり、白杖での単独歩行もできるようになった生き方は、視覚障害リハビリテーションのまさに手本とも言える。そうした評価からか、1969年には東京都心身障害者福祉センターに転職し、視覚障害者に対する指導や支援を担当して、中途失明者の復職支援などで幾つもの優れた事例を残した。
創立者・本間一夫に求められて田中が日点の館長に就任したのは1991年だった。以後、館長と理事長を通算31年務め、2022年に名誉職である会長に退いた。この30数年、視覚障害者の読書環境はデジタル化によって大きく様変わりした。録音図書のデイジー化は代表的な一例であり、田中が率いた日点はその普及で国内における中心的な役割を果たした。デイジー化によって録音図書は利用と製作の両面で利便性が飛躍的に向上した。一方、アジア・太平洋地域で点字図書館の整備や視覚障害者の福祉向上をデジタル機器の活用によって図る国際支援にも、田中は力を注いだ。1993年に始めた「アジア盲人図書館協力事業」と、2004年から2025年まで実施した「ICT研修事業」だ。こうしたデジタル化関連以外にも、自立訓練やふれる博物館、川崎市視覚障害者情報文化センターの運営など、日点の新たな事業が田中の下で始まった。
田中には、職業としての取り組み以外にも多くの功績がある。その一つは、NHKの視覚障害者向けラジオ番組の制作に長年協力したことだ。1964年に始まった「盲人の時間」(現「視覚障害ナビ・ラジオ」)の制作に放送開始当時から関わり、番組の充実と発展に大きく寄与した。本や雑誌の発行でも実績は多い。『不可能を可能に 点字の世界を駆けぬける』と『白い杖、空を行く』の二つの自著があるほか、日本盲人福祉研究会の出版事業を立ち上げて、多数の啓発書を発行、また雑誌『視覚障害』の編集に携わった。国際支援では、前出の日点での事業以外に、東京ヘレン・ケラー協会のネパール支援などにも深く関わった。2008年のNHK放送文化賞、2011年の旭日小綬章、2015年の点字毎日文化賞、2018年の岩橋武夫賞などの受賞は、仕事を含むこうした多彩な功績の社会的意義を物語っている。
近年の田中は、趣味の囲碁に打ち込み、コンサートや演劇鑑賞に頻繁に出かけ、温泉旅行を楽しむといった、皆が羨む生活を送っていた。野球シーズンには、国内のプロ野球のラジオ中継をラジコプレミアムとAIスピーカーであちこち梯子聴きしたり、アメリカ大リーグの大谷翔平選手のプレーに一喜一憂したりと忙しかった。国内外の多くの知人や友人との交流も、活発に続けていた。そのような充実した生活を亡くなる直前まで続けられたのは、実に幸せだったと言える。それを献身的に支えてこられた妻の美織さんには、深く感謝していたに違いない。故人のご冥福を謹んでお祈りしたい。
(インタビュー)
スポーツ文化の発展を目指す
――河合長官に聞く――
【昨年10月1日、河合純一さんが障害者として初めてスポーツ庁長官に就任した。2月3日にオンラインでインタビューを行い、長官の職務や同庁の役割から、職務遂行に必要な合理的配慮、特別支援学校における部活動の地域展開、長官としての抱負まで幅広くうかがった。聞き手・構成は、本誌編集長戸塚辰永。以下、敬称略】
戸塚:遅くなりましたが、スポーツ庁長官就任おめでとうございます。
河合:ありがとうございます。
戸塚:自己紹介をお願いします。
河合:静岡県で生まれて、現在50歳です。幼少期は弱視でしたが、15歳のときに失明し、筑波大学附属盲学校(現在の視覚特別支援学校)の高等部に進みました。幼いころから水泳をしており、17歳でバルセロナに、その後、アトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと6大会パラリンピックに出場しました。早稲田大学を卒業し、地元の中学校で教員として8年勤務しました。その間、休職して大学院で2年間学んだ後、教育委員会で勤務しました。その後、独立行政法人日本スポーツ振興センターに研究員として勤めました。そして、日本パラリンピック委員会(JPC)での勤務を経て、昨年10月、スポーツ庁長官を拝命しました。
戸塚:スポーツ庁長官を打診されたとき、また就任されたときの感想をお聞かせください。
河合:率直なところ、私で務まるのかと思いました。同時に、私が就任することに意味があり、責任の重さを感じました。スポーツ庁創設から10年という節目であり、昨年スポーツ基本法が大幅に改正され、スポーツのとらえ方がさらに広がりスポーツを通じて社会課題の解決に取り組むとか、障害のあるなしを超えてスポーツを楽しめる社会をつくるということが明記されました。現在は、職員の皆さんに協力いただきながら職務に取り組んでいます。
戸塚:食事を含めて庁内の移動はどうされていますか?
河合:外出時は、基本的に秘書とともに移動することが多いです。食事は外に出ることも、職員食堂でとることもありますが、買ってきたもので済ませることもあります。若手職員とは定期的に長官室で話をしながら一緒にランチをしてコミュニケーションの機会にもしています。
戸塚:スポーツ庁の予算はどのくらいですか?
河合:今年度は363億円です。
戸塚:スポーツ庁の職員は何人くらいで、どのような部局があり、どのような業務をしていますか?
河合:スポーツ庁は、生涯にわたって健康で文化的な生活ができるような社会を目指して、他の省庁とも連携しながら取り組んでいます。職員は140名程度おり、4つの課と3つの参事官付があります。例えば、競技スポーツ課ではオリンピックやパラリンピックなどの競技力向上等を、地域スポーツ課では、学校の部活動の改革等を担っています。また、健康スポーツ課では、生涯にわたるスポーツ活動を推進しています。この中に障害者スポーツ振興室も含まれています。そして、政策課があり、筆頭課として様々な調整をしています。現在第4期スポーツ基本計画の策定に向けた検討が行われており、その取りまとめ等をしています。そのほか、参事官付には地域振興担当、国際担当、民間スポーツ担当があります。民間スポーツ担当の参事官は、スタジアムをハブとしたまちづくりや経済活性化の支援等を担っています。業務の幅は広いです。
戸塚:視覚障害のある河合長官が就任し、スポーツ庁のアクセシビリティは変わりましたか?
河合:ハード面では執務室の前や庁舎で必要な箇所に点字ブロックを設置しました。何よりも大きいのは、ソフト面です。私への説明をする職員は、事前に説明用の資料を各サーバーに格納し、私はその説明の前にデータで読むようにしています。ある意味では、DX化が進んでいるようにも思います。
戸塚:長官としての業務はどのようなものがありますか?
河合:スポーツ庁内での執務もありますが、他の省庁や、省庁以外の関係機関との連携が多く、例えば日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会、日本パラリンピック委員会、日本スポーツ振興センターといった様々なスポーツに関連する団体や関係者とコミュニケーションを取りながら、時には海外のスポーツ担当大臣とお会いすることなどもあります。
戸塚:業務を遂行する上でどのような点を重視していますか?
河合:全部に通じているわけではありませんので、各担当課の職員から話を聞く機会を多くしています。これまで外部の立場からスポーツ庁と接してきましたので、議論や検討の場では、そうした外部からの視座もいかしています。例えば、予算獲得のための資料作成の際には、スポーツ庁を核としてスポーツ界がワンチームとなって取り組んでいくことなども重要だと考えています。
戸塚:長官就任後4カ月が経過しました。何か印象に残っている出来事はありますか?
河合:長官として試合の観戦やスポーツイベントに参加する際、競技団体の方が、私に説明することをきっかけに、視覚に障害のある方にどうやったら試合観戦を楽しんでもらえるのかなど、改めて考えるきっかけにもなっているのではと感じています。海外出張としてベトナムで国際会議に出席した際に、かつては、「私は」あるいは、「JPCは」という主語が、「我が国は」と変わり、国を代表する立場での責任や緊張感を発言の中で感じるようになりました。
戸塚:障害のある長官として留意していることはありますか?
河合:障害のある長官といった意識はあまりないですが、眼が見えない中で、感じたり気づいたりしたことは随時伝えるようにしています。それが、障害が故なのか、私個人が故なのか、そこは受け取る側の感じ方ですね。視覚障害のある私と一緒に働いていることによって、職員の皆さんの(障害者に対する)意識の度合いが上がってきていると感じています。今年の4月から学校における部活動の改革の実行期間が始まりますので、特別支援学校を含む部活動の充実、障害のある子供たちのスポーツ活動の充実を図ることは大きなテーマであり、それについて常にディスカッションをしています。
戸塚:先ほども話していただきましたが、公立学校の部活動を地域に展開する計画があります。特別支援学校の部活動についてスポーツ庁の考えをお聞かせください。
河合:特別支援学校全体でとらえると、中学部の部活動を設置している学校が約5割、部活動に参加している生徒が1割だとわかりました。部活動の地域展開を推進していますが、地域のスポーツクラブでは障害のあるなしにかかわらず、誰もがスポーツを楽しめるよう目指しています。実証を進めている地域では好事例も出ていますので、広く共有しつつ、さらなるアイデアをいただければと考えています。令和8年度については、前年度比倍増の計139億円の予算を確保して進めていきます。誰一人取り残さず、誰もがスポーツを楽しめるよう進めていきます。課題はいろいろありますが、様々なご意見をいただきながら、一緒に考えていければと考えております。ご存じのように少子化が進み、盲学校も含めて、児童・生徒数が減少しています。子供の数に応じて先生が配置されるというルールですから、子供の数が減れば、先生の数も減る。自ずと部活動顧問の数も減っていきます。5年先、10年先を考えると、これまで通りに続けていくのは難しくなります。予算確保とともに、総合的なガイドラインを作成し、こうしたものを活用いただきながら地域リソースの拡充を進めていきたいと考えています。
戸塚:スポーツ庁長官としての抱負をお聞かせください。
河合:スポーツ庁をインクルーシブな社会をつくるモデルとしていきたい。さらに、スポーツを通じてメッセージが発信できればと思っています。インクルーシブな社会はゴールではなくて、あくまで一つの要件、ツールであり、社会が活性化し、一人ひとりが自分らしく生きられ、自己肯定感を高められると私は信じています。スポーツを通じてどこまで貢献できるかが、私にとっての大きな責務だと思っています。
戸塚:お忙しい中、貴重な時間を割いていただき、ありがとうございました。今後、ますますのご活躍を願っています。
リレーエッセイ
“めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い”矛盾だらけの愛しい目と生きる
― 仕事と私 ―
社会保険労務士/山本真由
「君、本当に受験勉強した? 視力よすぎ!」
大学の健康診断会場で、医師にそう笑い飛ばされた15年以上前の記憶が、未だに鮮明だ。小さい頃から、遠くも近くもよく見えた。視力表の最下部2.0の点のような“C”も、わたしには右ではなく下に切れ目があることが明白だった。内科に外科に皮膚科、行ったことのある科は幾つもあれど、眼科だけは未踏。そんなわたしがまさか白杖を持って博多駅の群衆に交じる日が来ようとは。人生はこれだから何が起こるかわからない、いとをかし。
25歳のわたしは、夢の広告代理店に勤めていた。しかし実態は48時間連続労働、ネカフェで仮眠生活。いずれは過労で手足がばらばらに霧消する気がしていた。そんな折、突然の強烈な頭痛と、左の視野が消えた感覚で起き上がれなくなった。祖母が「急性緑内障やないと!?」と騒ぐので、人生で初めて眼科とやらに行く。受診時には視野感覚は戻っていたが、念のため実施された視野検査で思わぬ事実が発覚する。「左だけじゃなくて右もです。両目とも上半分が見えていませんね」
医師の言葉は、わかったようでわからなかった。なぜなら大変よく見えていた。視力はやっぱり2.0。だが「わたしの顔を見ていてください。手、わかりますか?」。そう言う医師が、ずっと前から頭上で手を振っていたことに、わたしは全く気付いていなかった。
正常眼圧緑内障。視神経が少しずつ死滅し、視野が消える。現在においては不治の病だ。本来は高齢の方に多いこの疾患が、25歳・視力2.0の眼球内で、すでに後期にまで到達していた。
視野の欠損は進む。よりによって文字校正や編集など「見る」仕事。限界であった。夢の広告マン道はここで潰える。次に目指すは目に優しい生き方だと、自己裁量で開業できる職を探していたとき、書店で出会ったのが社会保険労務士という選択肢だった。この職種にはマイナー業務だが“障害年金の手続代行”というものもあった。「もし見えんくなったらそっちの道もあるやん」と当時は軽い気持ちだったが、その念のためのチョイスが今のわたしを生かしている。テキストに鼻血が落ちるまで勉強し、1年で合格証を手にして社労士事務所へ就職した。
しかし、見えるうちにと意気込んでも、視野狭窄は前進をやめなかった。とうとう障害者手帳を取得し、視覚障害者への道が否応なしに開かれる。社労士になって3年後、わたしは休職した。いよいよできる仕事が無くなったのだ。悔しさ、屈辱。働けば働くほど視野は削られる。それでも働かないと生活ができない。肉体を削りながら肉体を生かすことへの矛盾に苦しんだとき、社労士のテキストにあった「障害年金」がよぎった。
障害年金。年金と名はつくが、原則20歳から受給できる公的年金だ。視覚障害の場合、個人の状況にもよるが障害者手帳5級の取得時点で年金3級の可能性がある。これまで、医師には何度も相談していた。だが当時のわたしはあの難解な認定基準を理解できていなかった。「あれは全く見えん人がもらえるもんやけんね、あんたは視力あるっちゃけんまだまだ」という言葉を鵜呑みにし、放置していた。わたしが本格的に認定基準を調べ、この事実に気づいた時、既に基準に該当して3年が経過していた。遡ることはできず、損失額は数百万におよぶ。
もっと早く知っていたら、とこんなに強く思ったことはない。
日ごと悪化する目を見開いて、生活のために眼痛をこらえて働いていたあの時間は、本来であれば障害年金を受給し、その分業務量を減らし、目に優しい働き方ができていたはずの時間だった。自分の無知が、結果的に自分の病状をさらに悪化させていた。後悔と同時に、「わたしのような人を一人でも減らそう」と決意した。復職を申し出て、会社の中で障害年金事業部を立ち上げた。
現在、事業部は5年目に入っている。就労移行支援事業所や医療福祉施設へ制度周知の声かけを行い、視覚障害はもちろん、聴覚や四肢の疾患、内臓疾患、精神疾患、知的障害など幅広い方々の手続きに関わらせていただいた。それでもまだ「知らなかった」という声は多い。中には、受給要件に該当してから20年が経過していた方もいた。
制度を知っていても、手続きの煩雑さから諦める人も多い。障害年金は社労士の中でも専門が分かれるほど難解で、障害を抱えながら全てを理解し進めるのは至難の業だ。わたしが間に入って手続きをとる意味はここにある。クライアントが抱えてきた苦しみや悔しさを、代弁者として国に訴えるのだ。障害によって生きにくさを抱え、障害年金によって生きやすくなったわたしだからこその言葉で。
わたしは今日も、誰かの「もっと早く知っていたら」を一つでも減らすために働いている。視野は狭くなった。でも、社労士として見える世界は広がった。めっちゃ目がよくて、めっちゃ目が悪い。障害に苦しめられ、障害年金に生かされる。矛盾だらけの、この目と、この仕事が、今日のわたしを彩る。
障害年金相談はアドバンス(092-713-6064)まで。
編集後記
田中徹二日本点字図書館会長が亡くなり、「盲界」を知る人が少なくなりました。田中氏と当協会との関係は深く、ネパールでの視覚障害者支援では、団長として現地を視察した同氏は、視覚障害児教育の必要性を感じ、児童一人一人への点字教科書の無償提供を提案しました。そこで、点字教科書製作に実績のある当協会は、ネパール盲人福祉協会に点字製版・印刷の技術を指導し、同国の視覚障害児童・生徒への点字教科書の無償配布をかなえました。その結果、現在同国では400人以上の視覚障害教師が活躍しています。これも、田中氏のおかげです。
インタビューでは、障害者初のスポーツ庁長官に就任した河合純一氏に登場していただきました。同氏が様々な人々とかかわることにより、障害者理解が進み、スポーツを通じたインクルーシブ社会の実現がかなうよう願っています。河合氏の今後の活躍が注目されます。(戸塚辰永)
