点字ジャーナル 2026年3月号

2026.02.25

目次

  • 巻頭コラム:他県への同行援護依頼
  • (インタビュー)モンキーマジック創立20年を振り返る
  • カフェパウゼ 介助リレー
  • (新連載)高めよう、視力を超えたネクストパワー!(1)自己紹介 僕は何者?
  • 弱さを隠すことが“強さ”だった私へ(3)
      「助けて」と言ったあとにやってきたもの
  • ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(19)
      3校の寄宿舎建設
  • 長崎盲125年と盲教育(35)復旧浦上校舎時代の生徒の活動 その6
  • 自分が変わること(200)戦わないこと、殺さないこと
  • リレーエッセイ:私の進む道(上)
  • アフターセブン(132) 家計にやさしい外食の楽しみを求めて
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?(283)
      双葉山以来の快挙を成し遂げ、史上最速で綱取りに挑む
  • 時代の風プラス:詠進歌 来年のお題は「旅」、
      視覚障害者とともに学ぶ教養講座、
      睡眠不足と心房細動リスク、
      緑内障の早期発見に役立つコンタクトレンズ
  • 編集後記

巻頭コラム:他県への同行援護依頼

 私は、10年前まで『点字ジャーナル』の取材等で日本中に、はてはドイツまで白杖片手に単独歩行していた。
 あることがきっかけで長期入院した私は、退院後一人歩きに不安を感じ、歩行訓練を受けた。
 歩行訓練士は、私のたどたどしい歩き方を見て、「一人で歩くのは無理だから、駅や外出先では介助を受けた方がいい」と強く言った。情けないことだが、その呪縛から私は今でも逃れ切れていない。
 以来、家の近所や職場の近くを歩く以外よほどのことがない限り、私は単独で歩行できなくなってしまった。そのため、通勤時には駅員に介助を、通院や買い物等で外出する際にはガイドヘルパーに同行援護を依頼している。
 今回、私用で他県へ一人で行くことになった。他県で同行援護を受けるのは初めてだ。
 まず、先方の同行援護事業所に電話し、同行援護を依頼した。先方は他県からの依頼が初めてだった。そこで、先方は他県からの同行援護依頼を多く引き受けている事業所に問い合わせ、私と契約を結ぶはこびとなった。
 つぎに、障害者手帳と受給者証のコピーを先方に送った。すると、障害者手帳の記入欄に障害認定を受けた際の病名が記されていないと指摘された。私が暮らす自治体ではプライバシーを配慮してか、病名を記載しないようだ。だが、所変われば、障害者手帳一つとってもこれほど異なるとは思わなかった。
 先日、契約手続き書類が送られてきた。それは想像していた以上に記入事項が多く、しかも繰り返し同じことを代読・代筆しなければならず、2時間弱もかかった。
 今回は1日のみ、それも4時間しか同行援護を利用しないのに、手続きだけで疲れ果ててしまった。
 この県にはこれからたびたび訪れることになるのでこれも仕方ないことかもしれないが、同行援護の契約手続きが簡素化されれば、視覚障害者の一人旅が気軽にできるようになるだろう。(戸塚辰永)

(インタビュー)
モンキーマジック創立20年を振り返る

 【昨年、障害のある人もない人も一緒にクライミングを楽しむNPO法人モンキーマジックが創立20周年を迎えた。そこで、編集部では小林幸一郎代表理事に同法人創立当初からこれまでのあゆみ、今後の展望等についてうかがった。取材・構成は本誌編集長戸塚辰永。以下、敬称略】

 クライミングとの出会い
 小林幸一郎は、1968年2月に東京・築地で生まれた。子供の頃、学校の授業で一番嫌いだったものは体育で、彼は部活動もすることもない、いわゆる帰宅組だった。本屋で立ち読みをすることが好きだった小林は、16歳の頃、山と渓谷社の雑誌に出会った。そこには、米国からクライミングという新しいスポーツがやってきた! クライミングを始めてみよう、という内容の記事が掲載されていた。それまでスポーツと言えば、学校の部活動やオリンピックのように誰よりも早ければいい、相手に勝てばいいという競い合うものだと彼は思っていた。ところが、クライミングは、自分の限界を追及するものであり、だれかと比較されないものであってそこに魅力を感じた。ビビッと来た彼は、クライミングの世界へと足を踏み入れたのだった。
 今でこそクライミングはオリンピックの競技種目となって、多くの人に注目されており、街のあちこちにクライミング施設がある。だが、小林がクライミングを始めた1980年代当時、クライミングはとてもマイナーなスポーツだった。このスポーツはもともと岩登りであって、当時日本には人工の壁はなく、自然の中にある岩を登るものしか存在しなかった。
 周囲からは、「そんな危ないことは止めなさい」「命を大事にしなさい」と言われもした。
 会社勤めをしていた28歳の頃、網膜色素変性症と診断され、彼は埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンター病院のロービジョンクリニックに通い始めた。そこで知り合いになった比較的若いロービジョンの仲間に「クライミングを一緒にやってみない?」と呼び掛けたのがモンキーマジックを作るきっかけとなった。

 エリックとの出会い
 「あなたは、眼の病気ですよ。将来失明しますよ」と言われてしばらくして、患者の会に行くうちに、視覚障害者は職業選択の幅が限られていることを知り、あはきの仕事は自分には向かないと思った。
 悶々とした日々を過ごしている中、彼は全盲の米国人登山家・エリック・ヴィーンマイヤーが2001年5月24日にエベレストに登頂したことを知った。しかも、エリックはエベレストだけでなく世界7大陸の最高峰にも登頂していたのだった。小林は、エリックの偉業に衝撃を受けた。それは、ポジティブなものであり、視覚障害者は限りない可能性を持っている存在だというものだった。
 小林は、早速エリックとコンタクトを取って、2003年に訪米し彼に会うことができた。偶然、小林とエリックは同じ年であり、馬が合った。エリックという存在は、NPOモンキーマジックを創立するきっかけになるとともに、小林幸一郎という個人そのものに対して大きな影響を与えた。エリックと話をしていくうちに、自分の生き方やクライミングの経験を他の人に伝えていくという方向性に間違いはないと、彼は確信したのだった。
 「人って、(生きていくための)ロールモデルが必要だと思います。私にとって、エリックは視覚障害者の生き方としてのモデルになりました。彼はすごく明るい人で、周りの人を引き付ける力があります」
 視覚障害者になることで、これまでの人生を全部リセットしなければならないと彼は思っていたが、そうではなくて自分の過去の人生を肯定しながら生きていく生き方があるのだと知ったことは、小林の人生観を変えた。
 2005年8月25日、NPO法人モンキーマジックが創立した。その直後、小林はエリックに誘われて、アフリカのキリマンジャロに視覚障害登山家らと登山し、登頂に成功した。エリックとの付き合いは、今でも続いている。

 厳しい船出
 小林は不退転の決意でNPO法人モンキーマジックを創立した。
 視覚障害者もクライミングを楽しむことができると説明しようと、高田馬場界隈の視覚障害者施設や盲学校や眼科などを何度となく訪れたが、どこへ行っても門前払いの日々が続いた。そんな中にあっても、少人数だが実際にクライミングをしている視覚障害者と出会い、彼らがクライミングを楽しんでいることを実感していたので、そうしたことにも彼は動揺しなかった。
 小林は11年間企業で働いた。会社勤めでは給料が入ってきたが、NPOではそうはいかない。代表理事としてNPOを運営していくには当然ながら資金を調達する必要がある。障害者の未来を変えるとか、社会を変えるとか言っても事業が継続できなければ、絵に描いた餅であり、それは無責任なことだと彼は感じていた。そのため、金策に奔走する毎日が続いた。今では多少楽になったとはいえ、それは変わらない。小林自身もそうであったが、ボランティアとしてかかわってくれる仲間にも有償で活動してもらいたいという思いがあったからだ。
 しかしながら、法人の銀行口座が数万円になった時には、「もう、小林さん、解散しましょう」と仲間から言われたこともあった。
 そんな絶体絶命なピンチに、偶然ある会社から、吉報が舞い込んだ。その会社では株主への配当金について勉強会をしており、社会貢献活動に収益の一部を寄付しようという話が持ち上がっていた。そこで、モンキーマジックに白羽の矢が立ち、寄付金を受けることができた。そうした幸運もあって、解散の危機からまぬかれたのだった。
 NPOの活動には、公益活動を推進すること、収益を生み出すこと、もう一つが広報活動であり、自分たちがしていることを社会に認知してもらうことだ。広報活動においては、SNSの発信も、メールでの発信も重要だ。そのほか、資金もあまりない中、モンキーマジックでは活動紹介動画を制作しYouTubeを通じて公開するなど、社会に対して積極的に広報活動も行ってきた。そうしたこともあって、米マイクロソフト社による、多くの支持を受けているNPOを資金面で支援するという公募があり、モンキーマジックがエントリーし、その活動が認められて支援を受けることがかなった。

 クライミングの楽しさを広げよう!
 クライミングというスポーツの特徴は、相手が壁なので動かない点だ。また、ホールドという壁に付いた突起も動かない。その点、球技のようなボールを追うスポーツとは違い、視覚障害者にとって取り組みやすいスポーツだ。壁を登りきるという大きな達成感と、そこに至るまでのプロセスが視覚障害者にもとてもよく伝わる。そこに楽しさと魅力が凝縮されている。
 モンキーマジックの当初の活動は、視覚障害者を対象にしたクライミング教室だった。しかし、その活動は、2012年から東京・高田馬場で開催している「マンデーマジック」という交流型イベントに方針転換した。この交流型イベントは、今では札幌から沖縄までといった日本にとどまらず、シンガポールや台湾などアジア諸地域にも広がっている。
 モンキーマジックには、様々な人がやってくる。小学生の子供、70歳代、80歳代の全盲の人、四肢に障害のある人、LGBTQの人、サラリーマン、学校の先生、病院職員、保育士等々、多種多様だ。
 モンキーマジックの理念は、単に障害者スポーツを広めることではなく、障害のある人もない人も同じルールで同じことをする点にある。そうした理念を体系化することによって、様々な気づきが生まれる。
 クライミングを通じて、障害のある人とない人が出会って、また世代の異なる人が一緒に遊んで、理解を深めあう。「助けてあげないと」と思っていた障害者が一緒に遊べる仲間なんだなという意識が芽生える。これが、ダイバーシティやインクルージョンといった概念を具体化していると言えるだろう。そこにモンキーマジックのビジョンがある。それは、障害者クライミングの普及活動を通じて、多様性を認め合えるユニバーサルな社会を実現するとともに、成熟した豊かな社会を作ることにつながる。

 モンキーマジックの今後
 モンキーマジックは、交流型クライミングイベントの発展、言語によるコミュニケーションの活用、グローバルなネットワーキングを3本柱に据え、次の10年、その先を見据えて活動を続けていく方針だ。
 高田馬場で始まり、日本全国に広がっている交流型クライミングイベントは、障害のある人もない人も一緒に参加し、楽しめるものだ。モンキーマジックとしては、これを最重要な取り組みとして位置づけている。現在、交流型クライミングイベントの与える意義や価値について、モンキーマジックは学術研究として専門家と共同で取り組んでいる。
 「交流型クライミングイベントには、社会的な価値がとてもあります。障害者の存在があるからこそ、社会はより豊かになっていくはずです。多様な人たちが存在することで、そこに意義や価値があるんだと気付けると思います」と小林は訴える。
 クライミングは、言語によるコミュニケーションとして位置づけることができる。視覚障害者がクライミングをする場合は、眼が見えている仲間に次のホールドの位置を教えてもらって登っていく。しかし、ホールドを右手で持つのか、左手で持つのかは、上っている視覚障害者が判断する。そして、言葉のやり取りで次のホールドをつかんで登っていく。この時、位置を教えている人たちも、まるで自分が登っているかのような喜びがあるという。こうしたクライミングというスポーツで生まれる言語によるコミュニケーションを広く展開しようと彼は考えている。
 例えば、学校教育において、インクルーシブ教育の視点で、多様性を理解するうえでクライミングは有効だ。クライミングという経験を通じて、言葉によるコミュニケーションが生まれ、子供たちが成長していく可能性がある。
 グローバルなネットワーキングとして、シンガポールや台湾に活動を広げている。これまで日本では視覚障害クライミング競技者が増えてきた。だが、国際大会にアジアからの障害者の出場選手は極めて少ない。そのような状況を打開するためにも、モンキーマジックは20年間で培ってきたノウハウをアジアの障害クライマー育成や交流型クライミングイベントの普及に力を注ぐつもりだ。
 そのほかにも、エリックをはじめ北米や欧州やアフリカの仲間たち、ひいては世界の仲間たちとつながりを持っていこうと、モンキーマジックは考えている。
 小林は、次の世代への引継ぎをとても大きな課題だと感じている。
 「日本の視覚障害者の数が以前は30万人ちょっとと言われていましたが、今は28万人弱と言われています。その中で、65歳以上の高齢者の割合が75%を超えていると言います。自分たちがやっていることは必要であると考えますが、固定的な見方をせずに事業活動をしていくことが今後モンキーマジックが発展していくことにつながるのではないのでしょうか」
 これまでモンキーマジックは、小林中心に活動してきた。しかし、現在はしっかりした理念を持ち、それを実行できる組織として活動しており、発展し続けている。組織である以上、理念がぶれない限り、次の代表理事の条件として、障害の有無にはこだわらないと小林は思っている。
 また、今は日本に活動拠点があるが、モンキーマジックの活動が海外で発展していくようであれば、拠点を海外に移してもよいのではとも考えている。
 小林は、今後のモンキーマジックがどうなるか、楽しみにしている。

編集後記

 高市首相が1月23日に衆議院を解散し、2月8日に投開票となった第51回衆議院議員選挙は、解散から投票まで16日間というこれまでにないタイトなスケジュールでした。そのため、当協会点字出版所職員は、点字選挙公報等の制作であわただしい日々を過ごしました。
 選挙結果はご存じのように、高市総裁率いる自民党が316議席を獲得し、衆議院議員定数465議席の3分の2以上を占める圧勝。同党の党是は憲法改正です。憲法96条によると、憲法改正の発議には、衆参両院においてそれぞれ3分の2の議員が賛成し、国民投票にかけることができます。今回自民党が衆議院で3分の2以上の議席を獲得したことは、憲法改正の発議に1歩近づいたことを意味します。
 戦後80年が過ぎました。選挙結果を踏まえ、今だからこそ、しっかり平和を考えていきたいと思いました。(戸塚辰永)

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