点字ジャーナル 2026年1月号
2025.12.25

目次
- 巻頭コラム:ブラインドメイク体験
- (特別インタビュー)能登半島地震を忘れないために(上)
―― 発生から初動対応 - (寄稿)柔の道、光を纏い、未来へ繋ぐ
―― 40周年大会が示す視覚障害者柔道の新たな地平―― - 音楽コンクール開催
- (新連載)弱さを隠すことが“強さ”だった私へ
見えるふり・できるふりと健常者並みを目指す苦しさ - セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(14) フィジシャンズ・プレッジ
- ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(17)「郷に従え」というけれど
- 長崎盲125年と盲教育(31)復旧浦上校舎時代の生徒の活動 その4
- 自分が変わること(198)「耳の年齢」って?
- リレーエッセイ:グレーゾーンを生きる
――晴眼でも全盲でもない、その“はざま”から見えるもの - アフターセブン(129) サバイバル生活の落とし穴
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(281) 安青錦が史上最速で大関に昇進 - 時代の風プラス:劇団民藝公演、
第8回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール、
地銀61行のウェブアクセシビリティを調査、
盲導犬および視覚障害に関する意識調査 - 編集後記
巻頭コラム:ブラインドメイク体験
先日取材に行ったサイトワールド2025で、開場から講演開始までの時間に会場内を見て回っていると、「日本ケアメイク協会です。ブラインドメイクの体験をしてみませんか」と声を掛けられた。日本ケアメイク協会は今回が初出展。ブラインドメイクの存在を知って以来、手法・仕上がりをぜひ体験してみたいと思っていたので、わくわくしながらブースに座った。スキンケアと口紅の2種類のメニューからどちらか1つを選べたため、独特の手法を用いるという口紅を選択。化粧訓練士さんに数種類の中から似合う色の口紅を選んでいただき、さっそく体験が始まった。
①蓋を開け小指の先に口紅を取る。②左右の小指を合わせて、口紅を反対の手の小指にも塗り広げる。③左右の薬指を上唇の中央に置き、口紅を塗る場所の起点を仮置きする。④薬指を小指に替え、指を左右にゆっくりと均一の力で動かし、口紅を塗る。⑤上下の唇を軽く合わせて色を馴染ませる。
文字にすれば簡潔な手順であっても、普段は鏡と視覚が頼りのメイクを見えない状態でするのは非常に心もとない。指先の距離感や場所の正確性に自信が持てないまま、化粧訓練士さんのアドバイスを受け、頼りなく手を動かしていく。説明等を挟みながら、10~15分ほどで塗り終えた。目を開けて鏡を見ると、下唇の右側がわずかにはみ出していた程度で、思っていたよりも綺麗に塗れており驚いた。この仕上がりであれば、数回の練習でより短時間で失敗なく塗ることができるようになるだろう。体験を通して、手法の正確性だけでなく、達成感やメイクができる嬉しさを新鮮に感じられた。他の参加者も、笑顔を見せながら楽しそうに体験をしている様子だった。
なお、ブラインドメイクは、2010年に大石華法さんが考案した「視力に障害のある人が、鏡を見ずに自力でフルメイクができる」という技法で、日本ケアメイク協会はその普及を進めている。対面・オンラインでレッスンが受講でき、時間や費用等の詳細はホームページから確認できる。(北見友萌奈)
(特別インタビュー)
能登半島地震を忘れないために(上)
――発生から初動対応――
【2024年1月1日16時10分、石川県能登半島を震源とするマグニチュード7.6の大規模地震が起き、最大震度7を観測した。この地震の死者は災害関連死を含めて684人にのぼる。地震から2年経過し、報道も少なくなり、人々の関心も薄らぎつつある。しかし、被災地は今なお復興半ばだ。そこで、本誌では能登半島地震に直面した視覚障害者の記録を残すために、地震発生直後から被災視覚障害者を支援し続けている石川県視覚障害者協会・米島芳文(よねしま よしふみ)理事長(73歳)にこれまでの支援活動、今後も続く被災者支援についてうかがった。取材・構成は本誌編集長・戸塚辰永】
「ちょうど元日の夕食前で、私は家族、子ども、孫と金沢市の自宅でくつろいでいました。4時ごろ最初に大きな地震の揺れが一度ありました。ひょっとするともう一度来るかもしれないなと思い、家具など倒れてこない廊下に移動したあとに震度5強の地震があり、自分の感覚では1分ぐらい続き、今までにないような恐怖を感じました」
1日の地震発生を受けて翌日には、石川県健康福祉部障害保健福祉課の担当者から米島氏の携帯電話に連絡が入り、今後被災視覚障害者を連携して支援することを確認した。
米島氏は元日夜から2日にかけて、被災地域の視覚障害者協会役員の携帯電話に安否確認の電話をした。電話がつながった人には安否確認ができたが、奥能登では携帯電話基地局も被災したため、携帯電話がつながらない地域もあった。また、地震直後は避難所や高台に避難していたため、連絡を取ること自体が困難だった。
3日は、石川県視覚障害者協会(以下、県視協)が入る石川県視覚障害者情報文化センター(以下、情報文化センター)に県視協の職員が立ち入り、対策本部となる建物を点検した。すると、館内は防火扉が閉まっていたり、火災感知システムが作動していたり、エレベーターが止まっていたり、暖房装置がストップしたりしており、3が日は業者も休みなので、3日の時点では施設を使うことが難しいと判断。4日に出勤できる職員で対応し、4日から施設が使用できるように手配した。また、情報文化センターでは日ごろから利用者登録を一本化し、データ管理していたので、並行して被災者の安否確認をするための名簿作成に着手した。
県によると、珠洲市、七尾市、羽咋市、輪島市、穴水町、志賀町、酒々井町、中能登町、能登町の4市5町には約440人の障害者手帳を持つ視覚障害者がおり、そのうちの約140人が情報文化センターの登録者だった。そこで、4市5町の利用登録者を抽出。市・町ごとに安否確認、支援内容を記したリストを4日のうちに作成することができ、5日から安否確認できる準備が整った。
本来ならば5日は情報文化センターは営業日だったが、休館にして5日から7日にかけて安否確認を行った。結果、その時点で安否確認ができたのは80人だった。
8日は祝日だった。10日に県視協と金沢市視覚障害者地域生活支援センターは石川県と被災地域自治体と情報を共有し、互いに連絡を取り合うために視覚障害者支援本部(以下、本部)を正式に立ち上げた。ここまでが地震発生からの初動対応だったと米島氏は振り返った。
奥能登と金沢を結ぶ幹線道路は里山海道1本しかなく、それもがけ崩れで対面通行ができなかった。加えて、道路は消防、警察、自衛隊などの緊急車両で混雑していた。
奥能登出身の県視協職員も帰省しており、現地で被災した。その職員は母親と2日に金沢へ帰ろうとしたが断念。結局、奥能登から金沢まで通常ならば2、3時間で着くところをかなりの時間をかけて「脱出」することができた。緊急車両を優先し、能登へ行くことを控えるよう県が呼びかけていたので、県視協としても現地に入って安否確認や支援するような状況ではなかった。
初動の段階での安否確認では、確認リストに記載されている住所や固定電話番号は全く役に立たなかった。住所録が機能しなかったのは、ほとんどの人が自宅で避難生活をしていなかったからだった。彼らは地域の集会所や指定避難所に避難していた。固定電話は回線が不通になっていたので、コールはするものの誰も出なかったそうだ。たとえ電話が復旧したとしても自宅に人がいないので、固定電話は全く役に立たなかった。
「こういう状況で固定電話が使えないこと自体イメージできていませんでした」と米島氏はしみじみ語った。
携帯電話番号を利用登録している利用者とは、電波状況が良くなってから連絡が取れた。ただし、携帯電話を持っていたとしても、予備バッテリーを持っておらず、バッテリー切れになっている人とは連絡を取ることができなかった。
情報文化センターで携帯電話番号を把握していない場合でも、視覚障害者協会役員が会員などの携帯電話番号を知っているケースもあり、本人から無事だとか被災している状況を本部に電話をかけてもらうようにした。また、地震発生直後に本部から電話をかけてもつながらなかった人には、本人から電話をかけてもらうようにお願いした。
その結果、奥能登地方の利用者140人のうち120人の安否確認ができた。こうした経験から、災害時における団体組織の力が発揮できたことは大きな手ごたえだった。
一方、県視協とつながっていない人とは、情報文化センターに利用者登録しているにもかかわらず、7月上旬まで安否確認ができなかった人もいた。最終的には本人から電話があったので良かったが、人のつながりがなかったり、緊急時の携帯電話番号を登録していなかったりすると、半年も連絡が取れないということが災害を通じて露呈した。
あらかじめ携帯電話番号を、災害を想定して本人が知らせておくと、災害時には連絡手段として非常に有効に働くと米島氏は訴えている。
石川県の視覚障害者で身体障害者手帳保持者は約2200人いる。そのうち情報文化センターに利用登録している人が約1100人。半数が利用登録しており、これは非常に高い率だといえよう。だが、まだ半数が利用登録していないともいえる。災害時の安否を迅速に確認するためには、利用者登録リストの作成は必須だ。県視協の事例を受けて、全国各地の視覚障害者関連団体の災害時対策はどうなっているのだろうか? いざ災害に遭遇した際にあたふたすることのないよう、日ごろから団体内で話し合い災害に備えてもらいたいものだ。
本来ならば高齢者や障害者は1次避難所から2次避難所である福祉避難所へ避難するのが一般的だ。だが、県は奥能登地区では1次避難所での避難生活が困難だと判断し、広域避難を決定し、金沢市内にあるいしかわ総合スポーツセンターを一時的に避難する場所として1.5次避難所に指定した。そこに、孤立した集落から高齢者や障害者などが集団で避難した。1.5次避難所の機能には、2次避難所への行き先をコーディネートするという役割があった。2次避難所はホテルや温泉旅館であり、そこを借り上げて避難してもらった。2次避難所の中でも、食事の提供もできないところもあった。
金沢市内のホテルでツインルームとなれば、2人しか受け入れられない。だが、4人家族ではツインルームとなるとバラバラになってしまう。そのような場合には、むしろ加賀にある温泉旅館の方が4人宿泊できる部屋があるので、そういう所を選択するケースもあった。
1.5次避難所では、県の担当者と本部が一緒になって被災した視覚障害者とその家族と相談しながら、2次避難所となるホテルや旅館を決め、そこへ移動してもらった。2次避難先での一番の決め手は食事だった。食事がついている宿泊先が現れるまで待った人もいた。
米島氏が最初に1.5次避難所支援に入ったのが、1月11日。その被災者が2次避難所に移動したのが1月下旬だった。本来1.5次避難所での待機は1泊か2泊を想定していたが、2週間近く1.5次避難所にとどまらざるを得なかった。その人は弱視で、日常生活もしやすく便利な金沢で食事のついている所を希望していたので、希望に沿えるよう本部では毎朝更新される2次避難所のリストを県の担当者と確認していたためだった。
高齢者の場合はどうだったのか。石川県には小松市に社会福祉法人自生園(じしょうえん)があり、そこでは視覚障害者に特化した盲養護老人ホームと特別養護老人ホームが運営されている。1月11日に支援をした家族は、80歳代の全盲の母親と50歳代の弱視の息子だった。2人は自衛隊のヘリコプターで能登から金沢まで移動し、医療機関を受診したが、医療的ケアの必要性はないと判断され、1.5次避難所に入った。母親は2次避難所ではなく、高齢者施設が適切だと判断され、要介護2だったので、特別養護老人ホームに入所した。これも、11日当日自生園の職員が1.5次避難所を訪れて母親の状態を確認し、翌12日には施設に移動することができた。このように高齢者の場合は2次避難所ではなく、1.5次避難所から直接施設という流れになった。
これも、初動時に県が広域避難を検討している際に、老人ホームの5%増の定員を被災高齢者にあてるよう要請していたことを知っていたので、8日・9日の段階で、本部は自生園と連絡を取って、可能な限り高齢の被災視覚障害者を受け入れてもらうよう要請し、準備が整っていたからだ。
「ですから、あらかじめ予想されることに素早く対応するということは、大事なんですね」と米島氏は振り返る。
ただ、人数的には自生園の定員を超える人を受け入れてもらったが、受け入れ人数にも限界があるので、すべての人に対応できたかというと、かなわない人もいた。
「希望に沿えない方がいたことは、私にとって一番つらいことでした。いろんなことを努力してできた場合は決して苦労とは思いません。できなかったことが残念であり、申し訳なく、そこが苦労と言えば苦労でした」と米島氏は語った。
編集後記
日々の生活に追われていると、私たちはつい2、3年前に起きたことを忘れてしまいます。そこで、今号では2年前の2024年1月1日に発生した能登半島地震を取り上げました。
米島芳文石川県視覚障害者協会理事長へのインタビューは、能登半島地震発生直後の視覚障害当事者団体の対応が時系列で詳細に記されており、読みごたえがあると思います。
災害時には、固定電話はまったく役立ちません。その代わり、携帯電話が連絡手段として大変役に立ちます。災害時を想定し、視覚障害者団体や施設は、会員や利用者に呼びかけて、緊急連絡先として携帯電話番号を登録してもらい、いざというときに備えることが必須です。
米島氏へのインタビューは、次号も掲載します。
今号から広島大学大学院生の北名美雨さんによる「弱さを隠すことが“強さ”だった私へ」の連載が始まりました。どんな展開になるのか今後が楽しみです。(戸塚辰永)
