点字ジャーナル 2025年12月号
2025.11.25

目次
- 巻頭コラム:クリスマスのお菓子
- (特別寄稿)視覚障害教育は永久に不滅です―― 強い盲学校でありたい
- 盲ろう者と点字活用の可能性
- サイトワールド2025開催
- ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
(10・最終回) 書けば、活動は物語になる ―― 連載を通して - セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(13) 第2期指圧講座
- ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(16)文化の違いと閉鎖社会
- 長崎盲125年と盲教育(31)復旧浦上校舎時代の生徒の活動 その3
- 自分が変わること(197)断食で見えてきたこと
- リレーエッセイ:私の一人旅の工夫あれこれ
- アフターセブン(129) サバイバル生活の落とし穴
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(280) 大豊時代は到来するのか――今が正念場の横綱豊昇龍 - 時代の風プラス:本間一夫記念日本点字図書館チャリティコンサート、
生活リズムと網膜症リスクとの関連性を発見、
変形性膝関節症に新たな治療の可能性 - 編集後記
巻頭コラム:クリスマスのお菓子
パネトーネというお菓子をご存知だろうか。卵やバターを使った甘めの生地にレーズンやオレンジピールなどのドライフルーツを加え、フワフワに仕上げたクリスマスのパン菓子である。
私がこのパネトーネを初めて食べたのはペルーの伝統的なクリスマスのお菓子としてだった。ところが、近年日本のスーパーでも見かけるようになり、実はイタリア発祥であることを知って驚いた。
そこでふとペルーではイタリア料理が生活に溶け込んでいたことを思い出した。私がかつてホームステイをしていたペルーの家ではよくパスタを食べていたし、街中にはピザの専門店も多かった。
調べてみると、ペルーにおけるイタリア料理は19世紀後半から20世紀にかけての移民によって持ち込まれ、現地の食文化と融合しながら発展したもののようだ。食文化に関してはかつての統治国であるスペインよりもずっとイタリアの影響が強いような印象がある。何しろペルーはチーズとトマトが美味しいのでイタリア料理が美味しくないはずがない。
余談だがイタリア料理と同じくペルー料理に大きな影響を与えているのが中華料理だ。イタリア移民と同じ頃に中国からペルーに渡ってきた移民の料理が発展し、今では「チーファ」という独自のジャンルを築いている。イタリアンと中華、世界の食文化を席巻する彼らの底力のようなものを感じずにはいられない。
そんなペルー版イタリアンの代表的料理にタジャリン・ベルデスというパスタがある。直訳すると「緑のパスタ」で、その名の通りほうれん草の鮮やかな緑色が特徴だ。このパスタはバジルを使ったジェノベーゼパスタのペルー版なのだが、ジェノベーゼとは異なりソースにフレッシュチーズや生クリームを加えてクリーミーに仕上げている。ステイ先でも何度か食べたがジェノベーゼというよりもカルボナーラに近い感じがした。
そう考えると、もしかしたら私が食べたパネトーネも本場イタリアのものとは少し違っていたのかもしれない。今年はイタリア風の日本版パネトーネを試してみようと思っている。ちなみに12月1日はパネトーネの日だそうだ。皆さんも一足早くクリスマスの味を試してみてはいかがだろうか。(宮内亜依)
(特別寄稿)視覚障害教育は永久に不滅です
――強い盲学校でありたい――
淑徳大学教授/青木隆一
自己紹介
私は千葉県九十九里浜の波音を聞きながら育ちました。放課後は宿題もそっちのけで、砂浜でハマグリを採ったり、田んぼでイナゴを捕ったりするような、元気いっぱいの少年でした。そんな少年がやがて「学校の先生になりたい」と思うようになったのは、テレビドラマ「3年B組金八先生」がきっかけです。「こんな先生がいるのか!」と心を揺さぶられ、「自分も生徒とともに悩み、喜びを分かち合える先生になりたい」と強く思いました。7年後、千葉県の中学校教員採用選考に合格。しかし、採用先は中学校ではなく、大きな病院に併設された養護学校でした。「自分はそこで何を教えるのか? どんな生徒がいるのか?」――不安と戸惑いの中で、私の教職人生が始まりました。ところが、長期入院を余儀なくされ、将来への希望を持ちにくい生徒たちと向き合ううちに、「中学校教員になれなかった」と落胆していた自分を恥じるようになりました。治療を優先しながらも、限られた時間でいかにわかりやすく学習を届けるか。病気に打ち勝つ意欲をどう引き出すか。日々それを考えるうちに、一人ひとりの子どもに焦点を当てる特別支援教育の本質的な価値に惹かれていったのです。
次の勤務校は千葉盲学校。ここで私は、ライフワークとなる視覚障害教育と出会います。着任当初は驚きの連続でしたが、見えない・見えにくい子どもたちの学びの深さに魅了されました。途中、歩行訓練士の資格も取得し、在任10年間を全力で駆け抜けました。離任式では「必ず戻ってきます」と誓い、県教育委員会、小学校教頭、文部科学省勤務を経て、2021年、15年ぶりに千葉盲学校へ校長として戻ることができました。その後、筑波大学附属視覚特別支援学校で2年間校長を務め、現在は淑徳大学で教員を志す学生の指導に携わっています。
大学時代から視覚障害教育を学んだわけでもなく、盲学校での経験も13年間にすぎない私が視覚障害教育について語るのは僭越かもしれません。しかし、さまざまな立場から視覚障害教育を見つめてきたという強みを生かし、私なりの視点でお話ししたいと思います。テーマは、「視覚障害教育は永久に不滅です」。千葉県の偉人・長嶋茂雄さんの名言を拝借しました。
強い盲学校であり続けたい!
「強い盲学校」とは何か。定義は難しいですが、一言で言えば「誰からも信頼される盲学校」だと思います。「盲学校なのに、点字をちゃんと教えられる先生がいないんだってよ」――これでは信頼されません。盲学校が信頼される理由はただ1つ。見えない・見えにくい幼児児童生徒に「生きる力」を確かに育むことができるという点に尽きます。「見えないからできない」ではなく、「見えなくても工夫してできる、人の役に立てる」を実現できることこそが盲学校の使命です。危ないからと理科の実験や調理実習、体育の球技への参加を制限されてきた子どもたちに、豊かな学びとあふれる経験を実現してきたのが盲学校です。子どもたちの学びの場がどこであっても、それを支える「強い盲学校」であり続けなければなりません。永久に! その力の源は、確固たる視覚障害教育の専門性にあります。その自負と覚悟がないなら、盲学校の看板を下ろしたほうがいい。そう言っても、言い過ぎではないでしょう。
盲学校の現在地
しかし、その専門性の維持・向上・継承が揺らいでいると指摘されています。 在籍者数減少→教員数減少→教員定数調整→専門性のある教員の流出→専門性の低下という負のスパイラルに陥っています。
全国の盲学校在籍者数は昭和34(1959)年の10264人をピークに減少を続け、令和7(2025)年度には2076人、ピーク時の8割減という厳しい状況です。盲学校OBの皆さんは在学当時、何人ほどの仲間がいたでしょうか。1校あたりの平均在籍者数を計算すると、昭和34年は約135人。点字を打つ音があちこちから聞こえる、にぎやかな学び舎だったはずです。一方、令和7年の平均は約31人。学部や学年によっては在籍者がゼロという状況も見られます。最大規模の筑波大学附属視覚特別支援学校ですら、在籍200人を大きく下回っています。
各盲学校は在籍者数の確保に向けたさまざまな取り組みを行っていますが、その成果は十分に現れているとは言えません。成果が出る前に盲学校がなくなってしまうのではとの声も聞かれます。
なぜ、ここまで減少してしまったのでしょうか。その要因の1つとして、国連の障害者権利条約が提唱するインクルーシブ教育システムの潮流が挙げられます。盲学校の在籍者数が減る一方で、小・中学校の弱視学級や通級で学ぶ児童生徒は増加しています。点字を使う子どもが通常学級に在籍する例も見られます。
もう1つ触れておきたいのが、伝統ある理療教育を担う理療科・保健理療科の在籍者数の大幅な減少です。平成25(2013)年には1218人でしたが、令和7年には522人と、わずか10年余りで半数以下になっています。生徒数が数人という学校もあります。杉山和一検校の時代から続く、視覚障害者の生計を支える伝統的職業であるはずなのに、なぜこうした減少が起きているのでしょうか。
視覚障害生徒の大学進学率の向上、ICTや視覚支援機器の高度化により職業選択の幅が広がったこと、障害者雇用の推進により就労機会が増えたことなどが背景にあります。 かつては「視覚障害受障→仕事ができない→退職→盲学校で再出発」という方程式がありましたが、いまはその形が変わってきたのです。これは視覚障害者にとって、人生の選択肢が広がる喜ばしい変化です。
しかし、盲学校という組織の継続性の観点からは、手放しで喜んでいられません。学校は「そこに通う生徒」がいてこそ存在します。生徒がいなくなれば、その役割を終えることになるのです。専門性云々以前の話になってしまいます。
法律に見る盲学校の使命
学校教育法には、特別支援学校の目的や役割が明記されています。
第72条 特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。
第74条 特別支援学校は、第72条に規定する目的を実現するための教育を行うほか、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校又は中等教育学校の要請に応じて、第81条第1項に規定する幼児、児童又は生徒の教育に関し、必要な助言又は援助を行うよう努めるものとする。
盲学校の視点で言えば、第72条は「自校に在籍する見えない・見えにくい子どもへの教育」を、第74条は「地域の学校で学ぶ視覚障害児への助言・支援(センター的機能)」を示しています。盲学校は自校の子どもを教えるだけでなく、地域の視覚障害児を支える責任も負っているのです。ここに今後を考えていくヒントがあります。これまでも各盲学校はセンター的機能の発揮に努めてきましたが、前述のような状況を踏まえると、その役割は今後ますます重要になります。盲学校の子どもが減っても、見えない・見えにくい子どもがいなくなるわけではありません。彼らはどこかにいます。だからこそ、視覚障害教育は不滅なのです。繰り返しになりますが、どの学びの場であっても、見えない・見えにくい子どもがいるならば、その教育を担い、支えるのが盲学校の使命です。
今後求められるのは、自校の教育専門性を深めると同時に、地域の学校で学ぶ子どもを支える専門性も磨くことです。随時指導と定時指導という条件の違いを踏まえた指導力が求められます。
おわりに
視覚障害教育は、見えない・見えにくいことを「できない理由」にせず、「可能性を引き出す力」として捉える教育、見えていれば教えなくていいことを意図的、計画的に教える教育――その教育哲学こそが、盲学校が存在する意義だと信じています。盲学校がその責任を果たすためには、「専門性の低下で困っている」と言ってはいられません。その専門性を磨き続け、次世代にその志をつないでいけるような「強い盲学校」としての覚悟が求められています。
(特別寄稿)盲ろう者と点字活用の可能性
東京都盲ろう者支援センター/渡井秀匡
私は全盲難聴の盲ろう者で、補聴器の装用により音声で会話ができます。点字を習い始めたのは、目が見えなくなった小学1年の頃です。ろう学校から盲学校に転校したばかりの時に、言葉の指導をしてくださった先生から「正しく言葉を覚えるために、点字の本を読みなさい」と言われたのを覚えています。難聴の私は聞き間違いが多かったため、言葉を間違えて覚えていることも少なくありませんでした。点字は言葉の音で書かれているので、言葉を覚えるのに大いに役立ったと思います。
盲ろう者と点字と言えば、点字通訳ができる「ブリスタ」と「指点字」があります。ブリスタは紙テープに点字を打っていく速記用の点字タイプライターで、盲ろう者は打たれた点字を読んでコミュニケーションを取ることができます。指点字は両手3本の指に点字を打つ方法で、マスあけのルールを覚える必要もなく、話されている言葉をそのまま点字にして伝える方法になります。特に指点字は手書き文字や点字通訳と比べてもタイムラグが少なく、ほぼリアルタイムでコミュニケーションが取れる方法であると言えます。私は大学生のころ聴力が低下した時期があり、その時に指点字の読み取りを練習し、通訳を受けていたことがありました。今は音声通訳が多いですが、音声通訳は通訳者の声が周囲の人に聞こえてしまうため、たとえば電車内や映画館など、音声で通訳するのが憚られる場面では、指点字で伝えてもらうことがあります。
次に、盲ろう者と点字で大きな変化をもたらしてくれたことと言えば、点字ディスプレイではないでしょうか。私は大学へ入学した頃にパソコンと点字ディスプレイを繋いで、レポートの作成やメール、インターネットなど、音声読み上げと点字ディスプレイの点字出力を併用して使い始めました。難聴の私には、初めて聞く言葉は正確に聞き取ることが難しいことも多かったですが、そんなとき点字ディスプレイの点字は正しく読み取ることができるため役立ちました。
全盲ろうの盲ろう者の場合、電話やFAXなどの連絡手段の利用が難しいこと、テレビやラジオなどからの情報入手が困難なため、家族などの支援がなければ、なかなか情報が入りにくい状況に置かれています。1990年代までは一人暮らしをしていた盲ろう者は、点字の手紙のやり取りで連絡を取っていたこともあったようです。そんな中、パソコンや点字ディスプレイの普及により、1998年に東京盲ろう者友の会の事業として、盲ろう者向けのパソコン教室を開くことになりました。そして、全盲ろうの盲ろう者でもパソコンと点字ディスプレイの組み合わせでメールやインターネットを活用することにより、独力で連絡や情報入手が可能になってきました。今も「メールで外部の人と連絡を取れるようになりたい」、「インターネットで情報を得られるようになりたい」というニーズは高く、当センターでもパソコン等訓練は多く行っています。
訓練を受けている盲ろう者の中でも、もともと聴覚障害があり、視力低下に伴い盲ろうになった方、特に全ろうの聴覚障害者の場合は、言葉を音として聞いたことがありません。そのため、漢字で書かれた文章なら理解できても、カナで書かれた文章の点字は、言葉の音を表しているために、意味を掴むことができず苦労している方が多くいます。でも、「点字を覚えればメールやインターネットで連絡が取れ、情報を得られる」と知った ろうベースの盲ろう者は、「点字を覚えよう」と点字訓練を受け、触読ができるようになり、メールやインターネットの訓練に進むなど努力される方が増えています。
その後、音声と点字の出力ができる、点字情報端末の「ブレイルセンス」が登場しました。ブレイルセンスは比較的軽くて持ち運びができ、また最初からメールやインターネットのできるアプリが入っているので、パソコンのようにいろいろなソフトウェアを買い揃えなくても、ブレイルセンス1台で盲ろう者のニーズを満たすことが多くあります。最近はスマホと点字ディスプレイを繋いだ状態で聞き取った音、例えば電話での他者の声を点字にしたり、テレビやラジオなどを点字にして情報を得る技術が開発され、さらにコミュニケーションや情報入手の幅が広がる可能性が高まってきています。これも「点字」という文字があるからこそ、多くの盲ろう者は救われているのではと思います。
ヒマラヤに響く柔道の力 ──すべての人に可能性を──
(10・最終回)書けば、活動は物語になる――連載を通して
カトマンズ在住・写真家/古屋祐輔
今回、本連載を通じて10本のエッセイを綴る経験をさせていただき、改めてブラインド柔道について見つめ直すきっかけとなりました。
ブラインド柔道は決して「目の見えない人のためのスポーツ」にとどまりません。それは、私たちの社会がどのように人と人とを結び、支え合おうとし、社会が障害に対してどのように考えているのかを映し出す鏡なのです。
ネパールのブラインド柔道をしている選手(選手といっても学生ですが)を見ていると、側から見ればそこには「挑戦」と「希望」という輝かしい言葉を並べることができるでしょうが、奥の深いところまで見ると、ネパールでの制度の壁や、ネパール社会の障害への偏見といった現実も見えてきます。しかし同時に、彼らが畳の上で放つ一つひとつの動きが、そうした壁を静かに崩していく姿にも出会いました。
ネパールにおけるブラインド柔道の歩みを追うとき、私たちは単なるスポーツの枠を越えた意味に出会います。障害者スポーツとは、社会にどう映るのか。その答えを、5つの観点から考えてみました。
第1に、社会的な視点です。ブラインド柔道は「目が見えない人たちが柔道をする特別な場」ではなく、「存在しているのに見過ごされてきた人々」を可視化する営みです。
ネパールでも白杖を使い歩く人たちの姿をよく見かけます。そのときは、ネパールの中での「障害者」という目でしか見られません。しかし彼らが1度、柔道衣を着て畳に立つ瞬間、彼らは「支援の対象」から「挑戦の主体」へと姿を変えます。日本人がブラインド柔道場を訪れたとき、その姿は人々の心に「同情」ではなく「敬意」を芽生えさせ、社会のまなざしを変える存在となりました。何かに挑戦する姿に、人は感化され、目を向け始めるのです。
第2に、スポーツ的な視点です。健常者の身体を前提に築かれた柔道は、ブラインド柔道によって揺さぶられます。柔道を指導しているキラン先生は、自分が練習するときにも目を閉じて柔道をする練習を始めてみたと言っていました。目を閉じるということは、相手が技を掛けてきた瞬間の動きを瞬時に感じなければなりません。スポーツとして大事な反射神経が磨かれると話していました。今後は、目が見える選手たちも目を隠して一緒に試合や合同練習を行える可能性があります。ブラインド柔道は柔道の新たな文化を拡げていくのです。
第3に、教育的な視点です。ネパールの学校教育には、ペアワークやグループ活動が必ずしも豊富にあるわけではありません。多くの子どもたちは、自分の学習に黙々と向き合う時間が長く、他者と共同しながら課題に取り組む経験は限られています。そんな中で、柔道やブラインド柔道がもたらす教育的な意味は大きいのです。
柔道は必ず「相手」と組むところから始まります。相手と自分が繋がっていなければ柔道は成立しません。見えるか見えないかは問題ではなく、畳の上では誰もが「相手と共に動くこと」を前提に学んでいきます。
これは協調性を身体で学ぶ教育です。自分だけが強くても技は決まらず、相手を無視しても成り立ちません。柔道を通じて子どもたちは、相手と呼吸を合わせ、時に譲り、時に攻めることで「協調して生きる」ことを体験します。それは教室の机上では得られない、身体を通した学びです。
第4に、経済的な側面です。パラリンピックで銅メダルを獲ったネパールのテコンドー選手は、帰国後に英雄として迎えられ、国から多額の報奨金を手にしました。その瞬間、障害者スポーツは「国の誇り」であると同時に「経済的価値を生み出す存在」と位置づけられたのです。彼女の成功は、スポーツが制度を動かし、市場を切り開くことを人々に示しました。
柔道もまた、この流れに続く可能性を秘めています。国際大会で活躍する選手が現れれば、メディアはその物語を取り上げ、スポンサーは未来のマーケットを見据えて投資を始めます。さらに、障害者スポーツが社会に浸透すれば、施設や交通のバリアフリー化も進みます。これも経済効果の1つです。
パラリンピックでメダルを獲得したことが証明したのは、個人の勝利が社会を変え、経済を動かすという事実です。柔道もまた、その物語を紡ぐことができます。畳の上の一戦が、やがて国の産業を押し広げ、世界に向けて「ネパール初の可能性」を発信する原動力となるのです。
そして最後に、心理的な視点です。ブラインド柔道は「できないことの証明」ではなく「できることの証明」です。彼らにとっては、障害を越えて自らを表現する舞台であり、生きる誇りを支える居場所となります。勝てたという喜び、技ができたという達成感は、自分もできるという感情を養い、その後の人生でもその気持ちを持ち続けて欲しいと思います。
このように、ブラインド柔道は社会に多層的に映し出されます。
それは「見えない世界」を「見えるもの」に変える営みであり、人間の可能性を広げるものです。ネパールの片隅で芽生えた柔道の灯は、社会に、そして世界に向かって、確かな光を放ち続けています。
編集後記
青木隆一教授の(特別寄稿)「視覚障害教育は永久に不滅です」では、盲学校の児童・生徒が減少している一方で、見えづらい・見えない児童・生徒は必ずどこかにいると述べています。そして、盲学校の使命は、専門性に裏付けられた教育をそれらの児童・生徒にも提供することだと訴えています。理療科は異動が少なく、点字を心得ている教員も少なくないはずです。国試対策等大変なことでしょうが、理療科教員も盲学校の一員としてその専門性を盲学校のセンター的役割により一層役立てていただきたいものです。
コミュニケーションをとるために、必死で点字を習っている方々がいます。それは、盲ろう者です。私たちは、彼らの存在を忘れてはなりません。点字離れが叫ばれている中、点字を欲している人がいる限り、点字は不滅です。
投稿をお待ちしています。本誌への感想、意見等を点字32マス、27行あるいは墨字で400文字以内で、編集部宛にお送りください。(戸塚辰永)
