点字ジャーナル 2025年10月号
2025.09.25

目次
- 巻頭コラム:点字ディスプレイ
- 視覚障害学生を支援して半世紀 CWAJにサリバン賞
- (特別寄稿)WBUAPマッサージセミナー・イン・ソウル
―― 「手の技」がつなぐ国際交流の現場から - (特別寄稿)長崎での被爆体験を語る ―― 野田守さんの証言
- 誘導ボランティアと行く赤レンガ
- ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
(8)方針の方向転換 - ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(14)盲教育と統合教育
- 長崎盲125年と盲教育(30)復旧浦上校舎時代の生徒の活動 その1
- 自分が変わること(195)虫を殺せぬ男のハチ受難
- リレーエッセイ:できる喜び伝えたい(中)
- アフターセブン(278)相撲を楽しむ“不惑”力士の長持ちの秘訣
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(277) 眠れる大器もついに覚醒――琴勝峰初優勝 - 時代の風プラス:サイトワールド2025、
依存性ない新たな鎮痛薬 - 編集後記
巻頭コラム:点字ディスプレイ
ルイ・ブライユが6点点字を考案したのは1825年。ブライユ16歳の時である。6点点字が考案されて今年はちょうど200年になる。16歳の少年が考案したものが、今日では世界中で使用されている。ITの進歩は、点字の世界にも変化をもたらし、パソコンに入力された点字データを点字プリンターで印刷できるようになって久しい。さらに、点字データを点字ディスプレイで読むことができるようにもなった。分厚い点字本を持ち歩かなくても机や膝の上に置いた点字ディスプレイで読書ができるようになった。本誌読者の中にも点字ディスプレイを使っている方が少なからずいらっしゃるのではないだろうか。
現在、多くの方が使っている点字ディスプレイは、機種によってマス数が異なるが、1行のものだろう。最近、欧米では、複数行の点字ディスプレイが開発されている。さらに、点字だけではなく、点図を表示する点字ディスプレイも開発されている。
6月20日に第2回「海外最新点字ディスプレイ動向サミット」(主催、大学入試センター南谷研究室・新潟大学渡辺研究室)が日本点字図書館で開催された。当日は、点図が表示できるモナーク(米国製)とオービット・グラフィティ(英国製)の2機種と現在開発中の2行の点字ディスプレイが紹介された。モナークは横96、縦40、計3840本のピンで、オービットは横40、縦60、計2400本のピンで点図を表示する。モナークは6~10行の点字を表示することもできる。オービットは、1行しか点字表示ができないが、ピンの高さを1.6mmまで4段階で表示することができる。ピンの高さは変えられても、点の大きさは変えられない。精細な図を描くにはまだ開発の余地がありそうだ。
参加者の多くが注目していたのが開発中の2行の点字ディスプレイだ。1行目に問題、2行目に選択肢を表示すれば試験で使えるのではないかとの発想から開発が始められたもの。2つの資料を比較したい場合に2行のディスプレイは有効だろう。早くに製品化されることが期待される。(岩屋芳夫)
視覚障害学生を支援して半世紀 CWAJにサリバン賞
【本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」は、長年にわたりボランティア団体として英会話を通じて視覚障害学生や視覚障害者の国際交流を図るとともに、視覚障害学生に給付奨学金を授与してきた一般社団法人CWAJ(College Women’s Association of Japan ハイディ・ズコウスキー・スウィートナム会長)に決定した。
第33回を迎えた本賞は、「視覚障害者は何らかの形でサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害委員によって選考される。
贈賞式は10月10日の開催を予定している。本賞(賞状)と副賞として、ヘレンケラーのサインを刻印したクリスタルトロフィーが贈られる。取材・構成は本誌編集長 戸塚辰永】
CWAJとは?
CWAJは日本人女性と日本で暮らすあるいは日本に暮らしていた外国人女性からなり、現在25カ国約400名の会員がいる。
CWAJは、戦後間もない頃、米国の大学を卒業した日本人女性と同窓生だった米国人女性数人が集まって、教育支援と文化交流を図る目的で1949年に創立された由緒ある団体だ。
同団体の昼食会にはルーズベルト元米大統領夫人が訪れたり、ヘレン・ケラー女史が茶話会に参加されたり、ライシャワー駐日大使ハル夫人が名誉会長として6年間活動されたりもした。
戦後4年という混乱期の中、米国の大学に留学を認められた学生が船で渡米する渡航費を、CWAJは助成した。渡航費の捻出には、オペラ「ミカド」や能の公演、三浦環のオペラなどを開き米軍将校らから多額の寄付を集めた。また、奨学金の原資にするために、現代版画展を行い、棟方志功らの版画や有望若手版画家の作品を展示・販売し、キッシンジャー元米国務長官も版画を購入したという。この版画展は現在も行われており、純益は奨学金に充てられている。
この渡航費助成は1949年から1971年まで続いた。その後、1972年から女性を対象にした奨学金、1978年から視覚障害学生を対象にした奨学金を始め2025年現在までに約900名が奨学金を受け、そのうち視覚障害者は84名授与されている。
視覚障害者の奨学生には、盲聾者として東京大学教授となった福島智さん、静岡県立大学名誉教授・視覚障害者支援技術開発者であり、内閣府障害者政策委員会委員長・国連障害者権利委員会副委員長を歴任した石川准さん、チェンバロ奏者の武久源造さん、ロイター通信社に勤めエッセイストとして有名な馬場麻由子(三宮麻由子)さんらがおり、社会の第一線で活躍する人々を多数送り出している。
その他、阪神・淡路大震災で被災した学生や東日本大震災に見舞われた福島県の看護学生に奨学金を支給するなどの社会貢献活動を行ってきた。
VVIの活動
VVI(Volunteers for the Visually Impaired)結成のきっかけは、当時会員だった御手洗美智子さんが米国人から「日本では視覚障害者はどんな暮らしをしているんですか?」と尋ねられたことだ。そのとき「私の周りにそういう人はいないし、街でも見かけたことはない。何故だろう」と自問した。そして、御手洗さんら数名のCWAJ会員が勉強会を開き、日本点字図書館本間一夫館長や日本盲人職能開発センター(現日本視覚障害者職能開発センター)松井新二郎所長、1974年に早稲田大学法学部に入学した指田忠司さんらに相談し、視覚障害者のニーズを聞いた。特に、指田さんからは時に手厳しいことも言われた。しかし、そうしたこともあって、VVIと視覚障害者との関係は支援する側される側という関係ではなくイーブンな関係であり、今も継承されている。
VVIは、1975年にCWAJ有志によって設立され、対面朗読、カセットテープへの本の録音、都立文京盲学校の教員から点字を習い、カニタイプライターによる点訳を大学生向けに始めた。VVIの活動はその当時米国からオプタコンが輸入されたことで、オプタコンセミナーの手伝いをしたり、筑波大学附属盲学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校。以下、附属盲)の英語の授業で英会話のボランティアをするなど活動の場が広がっていった。その結果、VVIはCWAJの委員会の1つとなった。
その後VVIでは、全盲の歌手トム・サリバンの『きみに愛が見えるか』を翻訳出版し、9000部を売り上げた。また、英語の歌集を点訳し、好評を博した。さらに、絵本『ぐりとぐら』の英語点訳も手掛けた。1995年からは日本盲人職能開発センターの利用者に英会話を教えている。
VVIは附属盲の英語の授業に英会話のボランティアを長年にわたり派遣してきたが、それを止め、その代わりに同校で英語検定試験の模擬面接を年に2回行っている。これも近年大学入試で英検などの外部試験の結果を英語の能力判定に利用する大学が増えているのが一因なのかもしれない。
現代版画展はCWAJの恒例行事であり、68回を迎える今年は10月15日から19日まで東京の代官山ヒルサイドフォーラムで開催される。会場には、触図にした版画作品に手を触れて楽しむことのできるハンズ・オン・アートというコーナーをVVIが協力して設置している。
VVI委員長は2人おり、原則1期2年で交代する。現委員長の1人は、視覚障害当事者の中瀬恵里さんだ。中瀬さんは2004年のCWAJ奨学生で、現在民間企業の社員としてフルタイムで勤務している。
2020年初旬から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行し始め、パンデミックを引き起こし、世界中で死者が多数出た。日本でも、不要不急の外出を避け、テレワークが推奨された。中瀬さんも自宅勤務となり、通勤時間が浮いた。そんな折、旧知の会員からCWAJの会員にならないかと打診され、彼女は快諾したのだった。
CWAJの活動もそれまで対面で行ってきたが、COVID-19の流行期間中はオンラインが主流となった。それにより、遠隔地から参加する会員も増えた。
中瀬さんの委員長としての役割は、CWAJニューズレターの原稿作成、会の運営に必要な資料の準備、年3回のVVI総会の実施をもう1人の委員長と手分けして行うことだ。総会では英語で議長役も務めている。
当事者としては、その視点を活かし奨学生募集の応募フォームが視覚障害者にアクセス可能かを検証したり、VVI 50周年記念誌デジタル版がスクリーンリーダーで読みやすいものになるよう取り組んでいる。
VVIの課題は、ボランティアの確保だ。1990年代までは外国企業が日本に支社を置き、社長夫人らがフルタイムのボランティアとして関わっていた。しかし、東京の地価上昇や日本経済の低迷により外国企業は支社をアジア諸国に移転した。また、会員の高齢化、共働き家庭の増加、家族介護や子育てに忙しい女性も増えており、フルタイムでボランティアに関わる会員が減少した。
「社会の状況が日に日に変わる中で、テクノロジーも進化し続けている。視覚障害者の状況も時々で変わっていく。それはいい方向にも変わっていくし、それによる弊害も出てくるかもしれない。その時々の視覚障害者の状況や社会の状況を見ながら、自分たちのできる活動、本当に求められている活動がどういうものかを上手く見極めながら、今あるリソースを活用してその時々で最適な活動を展開したい」と中瀬さんは話す。
VVIが50年継続し続けてきた理由は、社会のニーズに敏感であること、それを察知したら迅速に行動すること、社会の変化に対して柔軟に行動することだ。そして、活動を通じて自身が成長する喜びを感じることだと言えよう。
VVI 50周年を記念し、4月に開催されたイベントでは、インターナショナルスクールの学生が附属盲の学生をガイドした。インターナショナルスクールの学生は将来を見据えて積極的に行動している。このような若者にボランティア活動に興味を持ってもらえればと中瀬さんは期待している。
(特別寄稿)WBUAPマッサージセミナー・イン・ソウル
―「手の技」がつなぐ国際交流の現場から―
筑波技術大学助教/松田えりか
筑波技術大学保健科学部保健学科で助教をしております松田えりかです。私は網膜色素変性症で、知らない場所の単独歩行は少し危険なのですが、2025年8月27日から29日にかけて韓国・ソウルで開催されたWBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)マッサージセミナーに参加しました。アジア太平洋各国からは400~500名、日本からは約20名が集まり、会場は熱気に包まれていました。セミナーの演者と、障害当事者という双方の目線から、このセミナーの様子を報告したいと思います。
1.ソウルへ
出発は8月27日、成田空港第3ターミナル。初めての場所なので少し戸惑いましたが、荷物係らしき年配の男性が声をかけて下さり、横断歩道やエスカレーターに手引きで案内してくれました。「盲学校のスクールバスを運転していた」とのことで、私の不慣れな白杖さばきに「中途の人は歩行が大変なんだよね」と優しく言葉を添えて下さいました。私は、まるで昔から知っている仲間に出会ったような安心感を覚えました。こんなうれしい出会いで旅が始まりました。
日本勢は、成田、関西、那覇などの空港から出発し、ソウルに到着してから合流する方式です。
ソウルに到着したところ、会場も宿舎のホテルもソウルの中心街でした。街の点字ブロックは日本と同様の規格で敷設され、白杖での移動に違和感はなし。歩行者信号には大きなカウントダウン表示があり、夜になると横断歩道の路面が青や赤に発光。そのため、弱視の私でも一目で信号の状態を確認でき、「ここなら安心して歩ける」と感じました。
2.日本からの発表
セミナー会場のコンラッド・ソウルは、大型ショッピングモールに直結した韓国屈指の高級ホテルで、ここでは朝食にアワビ粥が出るらしいと話題になりました。受付で頂いた参加セットには歯ブラシや文具に加え、ミニ白杖まで入っていました。講演のホールでは机上に同時通訳機器があり、ダイヤルを回すだけで日本語に切り替わる仕組みでした。
日本からは4題の発表で、私は最初の演題「視覚障害学生の未来を拓く臨床教育プロジェクト」の中で、筑波技術大で今年度スタートした試みを紹介しました。登壇の際にはスタッフのガイドがあり、スライド操作は一枝の夢財団杉内邦江氏が補助して下さいました。
次に近藤宏筑波技術大学准教授が「ブラインドマッサージ普及のための企業内臨床実習の試み」を報告。企業内ヘルスキーパーの現場を実習の場とし、施術・衛生管理・接遇・記録・フィードバックを一体化したプログラムが紹介されました。
3番目には、福島正也筑波技術大学講師が「関節可動域測定アプリCAST-Rの開発」を講演されました。スマートフォンのセンサーを用いた測定アプリで、スクリーンリーダーに完全対応している点が特徴です。
最後に杉内邦江氏が「麻痺足の下腿浮腫に奏功した一症例」を発表されました。皮膚や筋膜の滑走性を改善し、静脈還流を促す手技が奏功した症例の報告です。
これら4題の質疑応答では、(1)理学療法分野での就学状況や、一般大学に通う学生の人数、一般校で学び続けるために必要な支援は何か、(2)都会だけでなく地方の企業でも視覚障害者が働いているのか、(3)CAST-Rは肩関節以外の関節も測定できるのか、CAST-Rの購入はどうすればよいのか、といった質問が活発に寄せられました。
3.海外からの発表
特に印象に残った海外からの発表は韓国からの2つの演題でした。まず、オ・テミン氏の発表によれば、韓国では視覚障害者だけがマッサージ師の国家資格を取得できる制度があり、盲学校や修練院で教育が行われています。特に修練院では、病気や事故で失明した人々が2年間のプログラムで解剖学や実技を体系的に学びます。4、50代の受講者が再就職や自立を目指す姿が報告されました。
次に、キム・ジフン氏の発表では、慢性頸部痛に対する施術効果が示されました。視覚障害セラピストによる継続的な施術により、疼痛の軽減や頸部可動域の改善、さらに血流改善が確認されました。
また、中国からは盲人按摩病院を中心とする教育・臨床・研究の一体的な取り組みが、ベトナムからは盲人協会による人材育成や技能競技会の報告がありました。いずれの国でも教育訓練の充実、臨床効果の可視化、社会的信頼の確立が共通の課題のようでした。
4.発表以外のプログラムと視覚障害者への配慮
このセミナーは視覚障害者が国境を越えて交流し、互いに学び合えるためのプログラムが多いことが最大の特徴です。
実技交流では、沖縄盲学校の先生方が、日本独自ともいえる曲手と按腹を披露しました。ベッド5台を同時に用いた効率的なもので、万全の準備により説明は事前に録音され、日本語・英語・韓国語で流されていました。
私も受療体験をしました。韓国の施術は骨格を射抜くように力強く、中国は呼吸のリズムに合わせた滑らかな推拿(すいな)、モンゴルは持続的で重厚な圧を特徴としていました。「実は私も視覚障害がある」と伝えるやいなや、施術者は私の手を取り、自らの親指の動きを重ね合わせて教えてくれました。言葉が通じなくても、触覚を通して技術がそのまま伝わる――まさに「手の技」が国際共通語となる瞬間でありました。
大勢の視覚障害者が移動する場面では、同じ国の参加者同士が電車のように肩に手を置いて一列に歩きました。日本でもよく見かける光景で、「世界のどこにいても同じように歩いている」という共通性が、何とも言えない安心感を与えてくれました。
最終のディナーでは、視覚障害の歌手が登場しました。歌詞の意味はわからなくとも、メロディに合わせて皆で声を重ねると、会場全体が1つの大きな合唱団のようになりました。国や言語を超えて同じ歌を共有する時間は、視覚障害当事者が国際舞台で主役となる象徴的な場面でした。
明洞やロッテでのショッピングツアーでは、スタッフが常に見守り、商品を手にした私が戻す場所に迷ったときも自然に助けてくれました。屋台の香りと喧騒、買い物客の声、鉄板の音が入り混じるその空間は、視覚に頼らずとも五感で楽しめる「市場」でした。
研究発表の壇上も、実技のベッドサイドも、懇親会の舞台も、ツアーの現場も、すべてに当事者が立ち、活躍していました。視覚障害者が主役となり、国境を越えて互いを支え合う姿は、このセミナーが単なる学術集会ではなく、「生きる力」を分かち合う場であることを如実に物語っていました。
5.閉会式、そして日本へ
閉会式では、各国代表者の総括報告に加え、キム・ミヨン国連障害者権利委員会委員長が、「マッサージは視覚障害者の生存権と深く関わる」と力強く訴え、障害者権利条約の条文を引きながら、教育、リハビリ、自立支援、職業上の差別禁止などが不可欠であることを明示しました。その言葉は、会場の視覚障害当事者の胸に真っ直ぐ届き、職業としてのマッサージの意味を改めて確認させるものでありました。
また、閉会式では功労杯として竹下義樹日本視覚障害者団体連合会長が表彰され、前田智洋筑波大学附属視覚特別支援学校教諭に感謝盾が贈られました。その後、次回の開催は2027年に中国であることが発表されると、未来への期待感が一気に高まりました。
このようにして、ソウルでの4日間は幕を閉じました。研究発表に耳を傾け、各国の制度や教育の現状を知り、実技交流で「手の技」を分かち合い、街や文化を五感で味わいました。どの場面にも視覚障害当事者が立ち、声を上げ、技を伝えていました。「見えなくても、ここまでできる。見えないからこそ、ここにしかない価値がある」、そう実感できた今回の経験は、忘れがたいものとなりました。次回2027年、中国で再び仲間たちと会い、この力強い連帯と学びをさらに広げていきたいと願いながら、帰国の途に着きました。
ヒマラヤに響く柔道の力 ──すべての人に可能性を──
(8) 方針の方向転換
カトマンズ在住・写真家/古屋祐輔
私は16年間、柔道を通じた活動をネパールで続けてきました。最初はすべてを1人で背負い、1人で考え、1人で動いていました。しかし、どんなに想いが強くても、1人でできることにはやはり限りがあります。誰かと力を合わせるほうが、もっと遠くへ、もっと多くの人の笑顔につながると分かったからこそ、今は1人の活動から、チームで進める形へと変わってきました。
そうやって誰かの力を信じ、託し合いながら進めていくことが、これからの自分にとっても、地域にとっても必要だと感じています。現在、ネパールの地方に新たな柔道場を建設するプロジェクトが進んでいます。
その場所は、カトマンズから車でおよそ3時間離れたヌワコット郡べトラウティ村です。この村には柔道の元ネパール代表選手が数名おり、かつて「柔道の村」と呼ばれるほど柔道が盛んでした。
1988年のソウルオリンピックに出場したガンガ・バハドゥール・ダンゴル氏が指導者となり、村の若者たちは柔道を通して力をつけ、警察や陸軍などへ進む人も少なくありませんでした。
しかし、10年前の「ネパール地震2015」で、その象徴だった柔道場は崩壊してしまいました。柔道をする場を失ったことで、村では柔道の灯が消え、代わりにタバコを吸う子どもたちが増えるなど、その影響は小さくありませんでした。
そんな状況の中で立ち上がったのが、日本大学、豊橋技術大学、広島工業大学等12以上の大学や大学院で学ぶ土木学科の学生が中心となり活動している「土木学生による環境事業」という英語を略したCeePs(シープス)という学生団体です。
そんな彼らから「自分たちが大学で学んだ技術を、ネパールのために役立てることはできませんか?」との相談を受け、私は「地震で壊れてしまったヌワコット郡の柔道場を再建できないか」と話したところ、学生たちはすぐにこのプロジェクトに取り組むことを決めてくれました。
柔道場の建設には当然資金も必要です。その資金もシープスが自らクラウドファンディングを立ち上げ、協賛企業を探し出し、資金を集めてくれました。
設計やデザインは、日本からオンラインで学生たちが指示を出し、現地で形にしていきました。そして2025年8月、学生たちはヌワコットを訪れ、現地の職人さんやネパールの建築学部の学生たちと協力して、村の柔道場を再建しました。
これまで私は、柔道を通じた地域の活動を1人で続けてきましたが、この経験を通して、こうした活躍の場を次の若い世代に少しずつ譲っていきたいと強く思うようになりました。学生たちにとっては、自分たちの学びを実践で活かす喜びがあり、この経験は将来の就職活動や社会に出たときの大きな財産になるでしょう。大学時代の貴重な時間で、まるで社会人のようなリアルなプロジェクトを経験できるのは、何物にも代えがたい価値です。
学生たちは毎週オンラインでミーティングを重ね、現地の人々と「どんな柔道場が村にとって必要なのか」を何度も話し合いました。
これほどまでに誰にとっても意義があり、喜ばれるプロジェクトはなかなかありません。今回のプロジェクトで何よりも嬉しかったのは、ネパールと日本の双方にとってウィンウィンの形になったことです。
なお、柔道場の畳マットに関しては、今回もJUDOsの支援を受けました。
これまで、私は一人で突っ走ってきたところがありました。けれど、これからは違います。1人の限界も、1人の力の価値も、この歳(39歳)になって痛いほどわかりました。
だからこそ、これからはチームで動ける仕組みをつくります。これまで私は、柔道を通じた地域の活動を1人で続けてきましたが、この経験を通して、こうした活躍の場を次の若い世代に少しずつ譲っていきたいと強く思うようになりました。
振り返ってみると、私がこれまでやってきた活動には、特別な技術が必要だったわけではありません。誰もが持っているような知識や力で、ただ誰もやらなかったことをやってきただけにすぎないのです。それだけでも、たくさんの人の笑顔や挑戦につながり、地域に小さくても確かな変化を生み出すことができました。
1人が背負うのではなく、誰もが挑戦できて、誰もが報われる形を考えたい。そして、この活動に関わった人たちが、「自分が関わってよかった」と胸を張れる未来を築きたい。
1988年のソウルオリンピックに出場したダンゴル先生も今や67歳で、ネパールの農村部では長老の部類なので、完成した柔道場を見て「これでまた10年寿命がのびた」と言っておられました。
この柔道場の再建は、単なる建物づくりではなく、誰かの夢を次の誰かにつなげ、地域の未来を少しずつ形にしていく挑戦でした。これからも、私は特別な力はない1人の人間として、誰もが1歩を踏み出せる場をつくり続けたいと思っています。
そしていつか、ここから生まれた笑顔と挑戦が、また新たな誰かの「やってみよう」を育てていく。そんな循環がこの村から、ネパールから、世界へ広がっていくことを願っています。
編集後記
今号の「セントルシアで視覚障害指圧師を育てる」は、山口和彦さんによる(特別寄稿)「長崎での被爆体験を語る」を掲載したため、綱川章さんの了解を得て休載となりました。「セントルシアで視覚障害指圧師を育てる」は、次号から連載を再開します。
第33回ヘレンケラー・サリバン賞はCWAJが受賞しました。8月24日猛暑の中、CWAJの会員お三方に当協会にお越しいただき、話をうかがいました。最年長の方は、85歳です。「私は53歳です」ととても若々しい声で話をされるので、私は本当にそうなのかと思いました。人は何か生きがいを持っていると、バイタリティーがわいてくるのでしょう。
「WBUAPマッサージセミナー・イン・ソウル」は、視覚障害当事者の松田えりかさんがマッサージセミナーに初参加し、「手の技」を通じた国際交流について書いており、その様子がよくわかります。それにしても、日本からの発表が4題だけなのは寂しい気がします。あはき関係者の奮起を期待します。(戸塚辰永)