点字ジャーナル 2025年9月号
2025.08.25

目次
- 巻頭コラム:「聞く」読書に触れる
- (インタビュー)スケボーで垣根を突破したい!――大内龍成の夢
- 鳥の目、虫の目 意外に身近なファシズムの足音
- 2025全国ロービジョン(低視覚)セミナー開催報告
- ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
(7)エベレストの奇跡 - セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(11)奴隷解放の日
- ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(13)点字教科書の限界
- 長崎盲125年と盲教育(29)研究収録の発行
- 自分が変わること(194)菅平、追想と欲望と
- リレーエッセイ:できる喜び伝えたい(上)
- アフターセブン(126) 使い道の工夫
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(277) 眠れる大器もついに覚醒――琴勝峰初優勝 - 時代の風プラス:第6回チャリティー音楽祭スーパーライブ、
第23回チャレンジ賞・サフラン賞受賞者、
参議院選挙 音声読み上げ対応状況調査、
植物からタンパク質生産 - 編集後記
巻頭コラム:「聞く」読書に触れる
本誌読者の皆さんは、読書の際に「読む」と「聞く」、どちらを好まれるだろうか。あるいは、利用頻度が高いのはどちらだろうか。
私は紙の本ばかりを愛読しているのだが、友人に「聞く」読書を勧められ、まずはその現状について調べてみた。
オーディオブック市場における国内での2大サービスはaudiobook.jpとAudibleである。 前者は2007年にサービスを開始した日本におけるオーディオブックのパイオニアといえる。ラインナップは1万5000冊を超え、会員数は昨年2月に300万人を突破。10年前(2014年2月)の約36倍と公表していることからも、その広まりが分かる。また(株)図書館流通センターとの連携を通じて、全国の自治体の約2割で導入されていることも特徴と言えよう。サービス利用可能な自治体は393(2024年6月時点)で、国内総人口の55%にあたる。
後者は日本でのサービス開始は10年前。具体的な数は公表していないものの、2022年1月に聴き放題サービスを導入して以来、会員数は毎年2桁の伸びを記録しており、2022年1月末と今年5月末を比較すると、会員数は166%増加していると発表している。また聴取時間も増加傾向にあり、同期間の比較で7倍以上になっているという。またラインナップについても、今年リリースするタイトルの数は、前年に比べて40%増を見込んでいるそうだ。
調べているうちに、私の居住区の図書館でも貸し出しがされていると分かった。2021年1月から貸し出しが始まっており、現在の蔵書は約5000冊。さっそく聞いてみた。驚いたのは、朗読に印象が近かったことだ。音訳のような読み方をイメージしていたため、俳優や声優によって巧みに演じ分けがされているだけでなく、音楽や効果音が付いているものがあることに意外性を感じた。
まだまだ暑いが立秋も過ぎ、暦の上では秋。いつもと違う方法で読書を楽しむのも良いのではないだろうか。(北見友萌奈)
(インタビュー)
スケボーで垣根を突破したい!
――大内龍成の夢――
【ブラインドスケートボーダーの草分け大内龍成さんに、スケートボードに出会うまで、ブラインドスケートボードについて、その魅力などをオンラインでインタビューした。以下、敬称略。取材・構成は本誌編集長・戸塚辰永】
大内龍成は、2000年1月16日、福島県郡山市生まれの25歳だ。
母親が息子の眼の異常に気付いたのはかくれんぼだった。かくれんぼをやっていた夕暮れ時、電灯をつけていない部屋のクローゼットに隠れていた母親を見つけられない彼を不思議に思った。そこで、眼科医に息子を診てもらうと、夜盲症と診断され、「中にはそういう子供もいますよ」と告げられた。
眼の病気が判明したのは、6歳の時に受けた就学時健康診断でのこと。視野に異常があるため精密検査を受けると、夜盲症の正体が網膜色素変性症(以下、色変)だとわかった。幼い彼には、その時病名を告げられた記憶もなく、それが何かも理解できなかった。
小学3年生のある日、風呂に入っているときに、父親は意を決して将来眼が見えなくなる病気に罹っていることを息子に告げた。大内少年はそれを受け入れることができず混乱のあまり泣き叫んだ。
眼科医は病状について親に専門用語を交えて説明するが、幼い彼にはよく理解できなかった。
小学4年生になると、パソコンの授業が始まり、ローマ字入力を学習した。ローマ字を覚えた彼は、自宅のパソコンを使って自分の眼の病気について検索した。そこには色変の症状が出ていて、全部自分に当てはまることがわかった。先々のことも書いてあり、その時彼は自身の障害を理解したのだった。
大内はスポーツが好きだ。両親がスノーボードをしていたこともあって、物心ついた時にはスノーボードに親しんでいた。ゴーグルをつけながら滑るので視力の弱い彼はだんだんできなくなり、中学生でスノーボードを断念した。
話はさかのぼるが、小学生のころ、当初野球をやりたいと親に訴えた。しかし、色変は紫外線を浴びると進行が進む病気のため、両親は屋外でスポーツをすることに反対した。
そこで、父親が剣道をやっていたことから、剣道なら屋内でするスポーツなのでいいのではと両親から勧められ、剣道場を見に行った彼は、面白そうだと興味を持ち、小学4年生から剣道を始めた。視野が欠け始め、相手の竹刀の動きが見えなくなりながらも、中学3年生で2段まで昇段したのだった。
スケートボードとの出会いは中学3年生だった。動機は単純で、スケボーができたら女の子にもてると思ったからだ。
スケートボードに乗ってみると、その楽しさに夢中になった。学校へ行くにもスケートボードを使うほどだった。それまで毎日のように遅刻ギリギリで登校していたが、スケートボードを学校のどこかに隠すために誰よりも早く登校した。それをいぶかしく思った教師に、「どうしたんだ。こんなに早く来るなんて?」と尋ねられると、「早寝早起きするようになったんです」と大内は言い訳した。
剣道の部活を終え、夜7時過ぎから、彼は自宅の近くにあった人通りの少ない地下道でスケートボードに乗って技を磨いた。地下道は蛍光灯もついていて色変の彼にはうってつけの練習場だったからだ。
スケートボードは、幅8.25インチ(約21cm)、長さは製造会社によって多少異なる木製の板だ。構造はいたってシンプルで、車軸、車軸と板を留めるトラック、4つの車輪、そしてベアリングからなる。彼は友達からそれらのパーツをもらって自作の「0円ボード」で練習した。それが親にばれた。屋外でするスケートボードは、色変を進行させるため両親は猛反対したが、それほど息子がやりたいなら、とことんやれと言ってスケートボードを買い与えた。
スケートボードにはケガが付き物だ。擦り傷・切り傷・打撲はケガの内には入らない。「あいつケガしたって、全治6か月の骨折だって、そんなもんですよ」と大内はあっけらかんという。両親は息子を心配して、ケガをするとすぐに病院に連れて行ってくれた。今ではそんな両親に彼は感謝している。
高校からは福島県立視覚支援学校で学んだ。スケートボードに夢中な彼は趣味の話題になると、周囲と話が合わなかった。
高校2年生になったころ、色変が進行し、視野は95%まで欠けた。プロボーダーになることにあこがれを抱いていた彼は、これでスケートボードに乗ることもできなくなってしまったとあきらめた。音楽も好きな彼は、ヒップホップで気を紛らせた。
そんな折、スケボー仲間が大内にユーチューブを紹介した。それは雷に打たれるような衝撃だった。米国ミシガン州デトロイトに住むダン・マンシーナが白杖をもってスケートボードをやっていたからだ。しかも、ダンは大内と同じ色変。俺もダンのようになるんだと思った彼は、スケボー仲間の協力を得てブラインドスケートボードに挑戦。それまで白杖を持つことさえ拒んできた大内だったが、白杖で歩き、白杖を持ってスケートボードに乗るようになった。
最初は福島で鍼灸マッサージを学ぼうとも思ったが、関東一のスケートパークがある埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターに入所。あはきの勉学は大変だったが、昼は勉強に夜はスケートボードに打ち込み、3年であはき国家試験に合格した。
色変が進行する前は、下り坂で自転車よりも早く滑っていた。駐輪場の屋根の上からも飛んでいた。いろいろな技もできた。そこには、視覚的な怖さがあった。ブラインドスケートボーダーになって、視覚的な怖さはなくなったが、先がわからない怖さがある。急に目の前に子供が滑ってきたり、バランスを崩して方向が変わったりするとケガや事故に直結するので、とても神経を使う。特にスタートが肝心で、ほんのちょっとの誤差が命取りになる。
だから、ロケーションを徹底的に頭に叩き込み、技を繰り出せる所を探さなければならない。
今年4月に大内はイベントで愛知県にあるボートレース蒲郡のコミュニティパークでスケートボードを披露した。
そこは初めて滑る場所だったので、最初はロケーションを把握するために晴眼者と歩いて説明してもらい、どこに何があるか手で触って入念に確認する。それが頭に入ったら、スケートボードに乗ってゆっくり進む。そうした下調べには少なくとも1時間を要する。
「白杖歩行の基本はまっすぐ歩けること、そして曲がる所で曲がる。電柱などの目印を白杖で確認する。白杖をもってスケボーをするのも同じです」と大内は言う。
パラスポーツ選手は「アスリート雇用」で就職し、スポーツ活動が主な業務になる。しかし、スケートボードはパラスポーツとは違って、成績を争うものではない。パラリンピックや世界大会で好成績を上げるというような目に見える結果があれば、ブラインドスケートボーダーもアスリート雇用につながるが、現状は厳しい。
現在彼は鍼灸師として雇われている。会社は、彼がスケートボードをすることに理解を示している。大内もそれに応えて、ケガをしないように注意しながら、スケートボードを楽しんでいる。
スケートボードの技は無数にある。大内は板と一緒に回転したり、自分の足元で板を回転させるフリップをする。階段からも飛び降りる。眼が見えなくなってできなくなった技も多い。それでも、もっといろいろな技に挑戦してみたいと彼は貪欲だ。
「後進の育成を日本でやっていきたいんです。でも、自分はダン・マンシーナの後進で、彼に影響された口なので、俺は俺で日本を変える」と豪語する。
実際、大内のプレーに刺激を受け、SNSのインスタグラムで直接コンタクトをとってくる視覚障害者も現れ、ブラインドスケートボーダーが数人日本で誕生した。彼はそれをとても喜んでいる。
スケボーとか視覚障害という枠にとらわれず、障害のある芸術家やアスリートがもっと集まってほしい。障害を受けて変化した芸術、障害を受けたことによりパフォーマンスが変化した。そういった変化を見せる人が集まってくれたらもっと面白くなるのではと、そうした目的で彼は人集めをしたいと模索している。
「スケボーって生半可な気持ちでやれるもんじゃないんですよ。だから、俺がやる。それは目立ちたいからではないんです。スケボーを通じて多くの人と触れ合えるからなんです。何で障害者理解が進まないかというと(健常者との)接点が少ないから。だったら、人が集まる所に出ていこう。もし出ていくのが難しいなら、俺と一緒に出ていこう!」と大内は熱く語る。大内のスケボーへの夢は果てしない。
ヒマラヤに響く柔道の力 ──すべての人に可能性を──
(7) エベレストの奇跡
カトマンズ在住・写真家/古屋祐輔
ネパール語で「サガルマータ」と呼ぶエベレスト(標高8,848m)は、ご存知のように世界一高い山です。ネパールで最も有名な存在であり、多くの観光客が訪れます。登山者たちはその雄大な山頂を見つめながら、1歩1歩登っていきますが、サガルマータには登山者だけでなく、そこに暮らす人々もいます。山だけに光が当たるのではなく、山で暮らす人々にも光が当たるように――そんな想いから誕生したのが「エベレスト柔道」でした。
この奇跡の始まりの主人公は、エベレストの麓標高2,850mにあるモンジョ村で暮らしていたカジ・シェルパさんです。彼はこの村で生まれましたが、大学時代は首都カトマンズで暮らし柔道と出会いのめり込みます。そして、南アジア大会で銀メダルを獲得するほど活躍します。ですが、学業を終えて故郷のエベレストに戻ったカジさんには、もはや柔道場はなく、自分のロッジを営みながら細々と暮らしていくしかありませんでした。
そんな時、もう1人のキーパーソンが現れました。それが私の大学の先輩で、柔道家の山口敬志さんです。彼はエベレスト登頂に挑戦したものの、高山病で引き返すことになり、偶然カジさんのロッジに泊まることになりました。ロッジでカジさんと山口さんは柔道談義で大いに盛り上がりました。
カジさんは「このエベレストでは柔道はできない。だから来世でこの場所に柔道を広めたい」と話しました。すると山口さんはすかさず「その夢を現世で実現しませんか?」と提案したのです。
こうして日本から畳を集め、モンジョ村に送り届け、2016年に最初のエベレスト柔道クラブの柔道場が建設されました。実は、この柔道クラブができるまで、エベレスト地域には本格的なスポーツというものはありませんでした。ボール遊びなどはあっても、コーチがつき、競技として取り組むスポーツは柔道が初めてだったのです。
しかし、物語はこれで終わりではありませんでした。このエベレストでの柔道に心を動かされたのが、オーストリア出身の女子柔道家サブリナ・フィルツモザーさんです。
オリンピックに4度出場した柔道界のレジェンドサブリナさんは、偶然エベレストをトレッキングしているときに、柔道の存在を知りました。そして、こんな過酷な場所で柔道を学ぶ子どもたちの姿と、柔道の持つ精神性に大変感銘を受けたのです。
一方で、このエベレスト柔道場には課題もありました。モンジョ村の学校は8年生(日本の中学2年生)までしかなく、それ以降は生徒たちはさらに標高の高い3,790mのクムジュン村にある学校へ進学し、寮生活を送ります。そのため、柔道を続けたいと思っても、進学を機に諦めざるを得ない状況がありました。
クムジュン村の学校は、エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリー卿が1961年に設立したエベレスト地域で最も大きな学校(生徒数約500人)です。そして奇跡的なことに、このクムジュンには、かつてカトマンズで柔道をしていた柔道家の先生が暮らしていました。柔道を学びたい子どもたちと、教えたい先生がいる――しかし、畳だけが足りなかったのです。
この課題に気づいたサブリナさんは、旧知の井上康生東海大学教授に相談しました。井上先生は2000年シドニーオリンピック柔道男子100kg級金メダリストで、日本代表監督を務めた方です。そして先生が理事長を務めるNPO法人JUDOsからクムジュン村にリサイクル柔道衣50枚、畳50枚が寄贈されることになりました。
こうして山間の小飛行場から徒歩で2泊3日かかる富士山よりも高い3,790mの地に、2022年5月29日に新たなエベレスト柔道場の竣工式が行われました。連絡調整、畳の受け取りと発送手配を行った私も、サブリナさんとともにこの式典に参加しました。
モンジョ、クムジュン、チョーリカルカの3柔道クラブの総称であるエベレスト柔道クラブが設立されてから8年が経ちました。先日行われたネパールの地区大会では、同クラブの選手が大会MVPに選ばれました。一本を取った後に相手の手を取って立たせてあげたり、大会中に柔道場のゴミを拾うなど、柔道を通して育まれた姿勢が高く評価された結果でした。
一方で、モンジョ村で柔道場を作ったカジ先生には、新たな夢も生まれました。それは、クムジュン村に柔道場が完成したら、世界一高い柔道場で世界一強い人を決める「天下一武道会」を開きたいという夢です。エベレストの子どもたちが世界一になる姿を見たいという強い願いが込められています。この夢は、ただの浪漫ではありません。
エベレスト地域では「エベレストマラソン」という世界一過酷なマラソンが毎年開催され、多くの人が訪れます。登山以外の目的で大勢の人々が集まり、地域の大きな産業となっています。同じように、柔道の大会を通じて、登山だけでなく「人」が主役となる場を作りたいのです。
ネパールの山々にだけ光が当たるのでなく、これからは山々に暮らす人々に光があたるように、柔道が光を授けてくれたらと思います。
編集後記
今号の「巻頭コラム」とロービジョンセミナーの取材記事の執筆者は、本誌編集部唯一晴眼者の北見記者です。彼女は今年5月から編集部の一員となり、今回が初取材。これから、視覚障害関係のシンポジウムやイベント等の取材記事を書いていきますので、皆様よろしくお願いします。
巻頭でインタビューした大内龍成さんについて、『点字毎日』2025年7月29日号の「趣味いろいろ」を読んで「越された!」と思わず声を出してしまいました。そこでは大内さんのスケートボードの技や最近のことが主に書かれていました。本誌では彼の半生や、これからの夢についてインタビューしています。龍成という名は、竜巻の竜の旧字と完成するの成という漢字を書きます。名は体を表すと言いますが、大内さんはまさにそれを体現しています。彼の活躍が楽しみです。
「リレーエッセイ」では、沖縄在住の和泉芳さんに書いていただきました。これから3回の連載です。こちらも楽しみにしてください。(戸塚辰永)