点字ジャーナル 2025年6月号

2025.05.26

目次

  • 巻頭コラム:編集長就任の挨拶
  • (インタビュー)改革の2年間を振り返る
      ―― 小林康雄都盲協会長に聞く
  • (寄稿)目が不自由な人はいないことになっている?!
  • 銀座でダイバーシティ駅伝
  • ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
      (4)柔道が守るもの
  • セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(8)水
  • ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(10)日本研修の成否 その1
  • 長崎盲125年と盲教育(26)『学校通信』の発行
  • 自分が変わること(191)気の短いシェパード
  • リレーエッセイ:佐藤由紀子のイタリア探検(上)
      ――イタリア点字あれこれ
  • アフターセブン(123) 損をしないための秘訣
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (274) 三役に復帰した元大関、悲願の初優勝も近い!?
  • 時代の風プラス:第43回日本ライトハウスチャリティコンサート、
      韓国でバス乗車の新技術開発、
      関節リウマチ患者の歯周病治療における効果、
      「睡眠障害」診療科名に追加を要望
  • 編集後記

巻頭コラム:編集長就任の挨拶

 今年(2025年)5月1日付で『点字ジャーナル』編集長を拝命いたしました、戸塚辰永(とつか・たつなが)です。
 私は2003年4月に東京ヘレン・ケラー協会へ入職し、本誌編集部に配属されました。それ以来、水谷昌史(みずたに・まさふみ)、福山博両編集長のもとで22年間、記者兼編集者として勤務してまいりました。
 その間、2009年4月からは福山編集長が点字出版所長を兼務することとなり、私はデスクとして編集業務に深く携わってきました。これからは編集長として、全体を統括するという大変責任の重い職務を担うこととなり、身の引き締まる思いです。
微力ではございますが、皆さまのお声を伺いながら、視覚障害者の問題に深く切り込む「点字総合月刊誌」を目指してまいります。
 なお、福山前編集長は今年7月末をもって当協会を退職されます。それまでの間、しっかりと引き継ぎを受け、編集長として独り立ちできるよう精進してまいります。
 私は生まれつき右眼しか見えない斜視の弱視でしたが、近所の子どもに石を投げられ、9歳で右眼も失明しました。
 盲学校を卒業すると、大学では西洋史を専攻。特にナチスの強制断種や「安楽死」について学び、単身旧西ドイツへ留学しました。
 そのときの経験談は「ブレーメンの奇妙な雲行き」と題し、本誌2004年1月号から2008年4月号まで連載しました。
 また、この職に就く以前は、静岡県浜松市にある視覚障害者の作業所「ウイズ」に通所したり、理療科で学び、特別養護老人ホームで機能訓練指導員として勤務した経験もあります。これらの経験を活かし、誌面づくりに取り組んでいきたいと考えております。
 本誌は硬派な印象がありますが、今後は女性や若い方にも積極的に執筆いただき、点字文化の裾野を広げてまいります。
 編集長は交代いたしますが、今後とも変わらぬご愛読を賜りますとともに、至らぬ点も多々あるかと存じますが、ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

(インタビュー)
改革の2年間を振り返る
――小林康雄都盲協会長に聞く――

【4月4日午前、東京都盲人福祉協会(都盲協)を訪れ、小林康雄都盲協会長に1期2年間を振り返っていただいた。取材・岩屋芳夫、構成・戸塚辰永。以下、敬称略】

 岩屋:お忙しい中取材に応じていただきありがとうございます。都盲協についての話に入る前に経歴をお聞かせください。
 小林:1945年9月に世田谷区烏山で生まれ、現在79歳です。私は生まれついての強度の弱視で左は光覚、右は0.02くらいで、点字使用者です。1952年に東京教育大学教育学部附属盲学校小学部に入学し同校中学部を経て、同校高等部理療科専攻科を1966年に卒業し、はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師の免許を取りました。最初は浦和(現・さいたま市)にある整形外科病院で4年ほど働きました。そのあと、1970年1月から国立小児病院といういい所に職を得ましたが、同僚の親父さんが兵隊上がりの人でとても厳しく、馬も合わなくて5年くらいで辞めました。ただ、その間の1973年に理学療法士の特例試験に合格しました。それでも、病院勤めは墨字の読み書きが十分できないので、その後開業しました。開業して飯は食えたんですけど、昼となく夜となく患者が来るので、体力的に持たなくなって7年ほどで辞めました。その後、理学療法士として病院に勤め、本当は70歳まで働きたかったのですが、最後は中野共立病院で65歳まで勤務しました。ちょうどその頃突発性難聴に罹り、行動することに危険を感じ仕事を辞めました。
 岩屋:都盲協との関わりを教えてください。
 小林:多摩市で暮らしていましたがたまたまガイドヘルパーさんから話しかけられて、多摩市の視覚障害者福祉協会に入りました。そうこうしているうちに、2016年に第48回東京都盲人福祉大会が多摩地区で開催されることになり、会場としてパルテノン多摩大ホールがあるからそこでやろうという話になり、地元だから俺がやるしかないということで、多摩市の障害福祉課の課長が助けてくれて、ゲストに毒蝮三太夫も呼んで大会を成功させることができました。その後、昔世田谷区で暮らしていたこともあり、10代のころから存じ上げている笹川吉彦会長から私に都盲協のシルバー部会長をやってくれないかと打診され、それを引き受けて都盲協との関わりが深くなりました。シルバー部会長は4年間やりました。笹川会長が高齢になってこられて、福祉大会などの経緯を見ているともっと斬新に、近代化しなくてはいけないなという思いがありました。そこに、私を都盲協の会長に推す声が上がり、私はずっと固辞していました。
 岩屋:それで会長選挙に立候補したのですか?
 小林:私も77、8歳になったから、1期だけと言うことで、もしも当選してしまったらやるしかないなということで立候補しました。立候補するには推薦人が最低20人必要ですが、思ったよりも多くの方々が推薦してくださいました。会長選挙は代議員が投票して行います。私の他にも立候補した人がいて、その方は日本視覚障害者団体連合の元副会長で、笹川会長の下で都盲協の副会長をやっていた佐々木宗雅(ささき・むねまさ)さんです。この人がいい人ですし、佐々木さんの応援演説をした人が大胡田誠弁護士でした。だから、当然私は落ちるなと思っていたんです。ところが結果は僅差で私が当選してしまったんです。当選したときはびっくりして「俺の力で会長が務まるのか」という思いでいっぱいになりました。
 岩屋:会長になってからどうなさったのですか?
 小林:前体制から十分な引き継ぎがされず困りました。そんなことは言っていられないから1つ1つの案件を処理していきました。私のブレーンになってくれたのが、副会長、常任理事、理事でした。特に、3人の副会長たちが助けてくれました。私の方針は、私が何を考えているなんていうことは外に置いて、若い人が何を考えているか、思っているかを引き出すことです。
 岩屋:執行部の運営はどのようにしていますか?
 小林:正副会長を含む常任理事8人、常任理事を含む20人の理事で決めます。あらかじめ正副会長と常任理事で議題を話し合って、理事会で議論し、決定します。
 岩屋:都盲協として行事をしたり、様々なことをしますが、公益社団法人なので、予算の半分以上は公益事業をしなくてはいけないということがありますよね。
 小林:基本的には全部が全部公益事業のようなものです。要するに営利なことは何もできません。それでは、事務局職員にいい給料も払えません。そこら辺りが今のところ1番の悩みの種です。例えば、同行援護事業所をもってある程度資金調達ができるようにしたいと思いますが、その事業をするにしてもノウハウがないといけません。それから、1番の問題は資金です。1人あたりの会費は2000円しかもらっていません。都盲協には、1100人会員がいてそれしか会費が集まらないのに何ができるの? ということです。笹川さんの頃にはどっからお金を工面したのか分かりませんが、福祉大会でお弁当を出していました。実際問題お金を出せないので、私は弁当を出すのを止めました。どうして今まで出していたのに出せないんだという声がいっぱい飛んできました。そういう意味ではひんしゅくを買ったのではないかと思います。
 岩屋:都盲協には専従の職員もいますよね。
 小林:はい。当然職員の給料を工面する必要があります。この原資は東京都からの受託事業です。そういったことを処理することにもしっかりした人が事務局にいなければなりません。そうした職員の給与を何とか上げるのに頭を悩ませています。
 岩屋:受託事業としてどんなものを引き受けているのですか?
 小林:大きなものでは、広報東京都のデイジー版製作です。あとは点字出版です。自分で企画して何かをやるということはあまりありません。
 岩屋:そういう中で就労継続支援B型事業所のパイオニアを2011年に開所しましたが、同行援護事業も都盲協でしていませんでしたか?
 小林:同行援護事業はやっていません。TOMOは別なんです。都盲協と縁深く作ったようですが、別なんです。私はお金と訳の分からない話には近寄りたくありません。お金に触ると何が起こるか分かりませんから。
 岩屋:そうはいっても都盲協は何人もの職員を抱えて、会員さんも大勢いてお金のこと知らん顔できないですよ。
 小林:でも、私には、信頼できる人材がいます。10年も20年も頑張っている職員もいるし、そういうものの計算とか道筋を立てられる副会長もいますから。とはいっても、実際に何か起これば司直の手に掛かるのは会長の私ですから、そういうことでは腹をくくっています。
 岩屋:先ほどお話しされましたが、会長選挙で僅かな差で勝ち抜いて、そのあと十分な引き継ぎがあったようななかったようなお話でしたが、そうはいっても1100人もの大所帯を抱えて運営していかなければならないので、ご苦労もあったのではないでしょうか?
 小林:気疲れだけですね。実際に何か動いてやることよりも、みんながいろんなことを考えていてくれて、希望されたりすることをちゃんとお聞きした上で最終的な決断は正副会長レベルでやります。だから、私がやるんだという感覚があまりなくて「方向を決めていくのに決断力が欠ける」と怒られるんです。そういう点では誠に申し訳ないと思っています。笹川さんはトップダウンで、色々と金策もやっていたようだし、そういうバックボーンは私にはありません。公益社団法人ですから、金も持っていない、人脈もない、何も持っていない中で会長としてやっていくのは容易じゃありませんでした。
 岩屋:笹川さんが20年以上都盲協の会長をやって来られましたが、都盲協の改革はできましたか?
 小林:当初から1期2年と決めていましたから、都盲協の改革は十分できませんでした。しかし、トップダウンでやるのではなくて、理事会をはじめとする役員会を重視してきちっと論議し決めるという点では良かったのではないかと思います。新しい会長になられる方がどうやっていくのか、楽しみだと思っています。
 岩屋:今日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。

(寄稿)目が不自由な人はいないことになっている?!

NPO日本インクルーシブ・クリエーターズ協会副代表理事/川口育子

 私は普段駅員介助は使いませんが到着駅で目的地の方向確認のため有人改札で尋ねることがあります。
 その日は企業研修を行っており、その中で『駅員介助を使う』ミッションがありました。
 東京メトロ新御茶ノ水駅、有人改札に伸びるはずの誘導ブロックがありません。通りがかりの方が「駅員さん呼びますか」と声をかけてくださり、腰の高さ辺りにあったタブレットに話しかけています。「マイクのボタンを押して話してください」とタブレットから連呼する声に自力では対応できませんでした。
 後日歩行訓練士のTさんに現場を確認してもらいました。
 その時『電波状態によって通信できない時がある』と知り、不確かなものを導入したことに驚きました。
 そして「これは目の不自由な人には使えないし、タブレットの利用法を書いたポスターが貼ってある」とTさんが言いました。
 ポスターがあるということは、このシステムは既に他の駅でも導入されているのか? 視覚障害者が使えないものが広がることは絶対に食い止めなければいけないと思いました。
 お客様センターに電話するよう言われ、私は直接話をしに行きたいと言いました。しかし場所は教えられないの1点張りです。案内されたナビダイヤルは忘れ物センターの番号だし、そもそもこちらが電話代を負担することに納得できません。
 この一連のことをフェイスブックに投稿したら、シェアが640件を超えました。メディアから取材の申し込みもあり、とあるルートで国土交通省に通じ指導が入ったそうです。
私は心の中で、省庁からの指導では「まずかった」で終わり、本質を考えなければ同じことを繰り返すだろうと思いました。
 次の私の行動として、東京メトロも登壇するセミナーを見つけ現地参加することにしました。目的は名刺交換です。何とか繋がらなければと必死でした。
帰宅後すぐにその方にメールを送り、やっと担当者から返事が来ました。内容は、人員削減等メトロ側の事情と、券売機の呼び出しボタンで対応するというものでした。
何度読み返しても言い訳にしか聞こえません。券売機で対応するというのは、その場の思いつきに思えました。
 そもそも視覚障害者は、初めての駅や広い駅では、券売機の位置もわからず、どこに人が並んでいるか、自分の番で良いかも不確かですが、そういう事情も想像できないことがわかりました。
 そこで私は、行動観察からやりましょうと提案しました。不便な時間を共に過ごし、自分の目で見て、気づいて、感じることが大事だと思ったからです。
私がここまでやるのは、後世の視覚障害者に少しでも生きやすい社会を残したいからです。
 問題発覚から約1か月、メトロ側4名と直接会うことができました。道路から駅に入る階段から改札までと券売機まで私の行動を観察してもらいました。担当者は真摯に学ぼうとする姿勢でした。
 場所を移してのディスカッションではこの問題の本質を確認し、幾つか提案もしました。
 その後「話を聞きつつ実際に体験できるのが良いと実感した。良いお知らせができるよう検討を進める」と担当者からメールが届きました。
今回一番の問題は「目が見えない人をいないことにした」ということです。なぜそういうことになるのでしょう。
 視覚障害のため、同行者がいることが多いのも一因かもしれません。
 コンビニも無人化でセルフレジばかりの店舗もありますが、同行者がいれば困りません。
 1人でこのような店舗に入ってしまったらさぁ大変です。便利と思えるセルフレジは、私にとってできていたことを取り上げられた感覚です。だから何とかしなければ、社会にこれでもかとできていたことをできなくされてしまう。
 同行者の有無で当事者の問題意識に差が出ると感じます。誰でも自分が困ることは大問題ですが、困らなければ問題にすらなりません。だから視覚障害者自身もいないことにされる事実に気が付いていないのではないかと思います。
 無人化やセルフ化と言う言葉を聞いても単独で行動し自分が困らない状態なら大きな問題ではないと捉える人もいるかもしれません。しかし依存型の社会は持続可能ではありません。
 持続可能な社会は自分ができることは自分でやる自立型でないと実現できないと私は考えます。困らなければ気が付かないのは当事者も同じです。
 飲食店で呼び出しボタンさえタブレットの中に収納され、大きな声で店員を呼ぶしかなくなりました。物理ボタンが邪魔なのか、どんどん無くなっていきます。音声案内や物理ボタン等がないと困る人がいる事実を発信し続けなければなりません。
いざ頼れる人がいない時、何もできない社会にした一因が自分にもあるということは避けたいです。
 社会には目が不自由な人が存在する。その人達が自分でできるようにわかるものを残しておくことは重要です。
 「それ当たり前だよね」という社会にしてこの世を去りたいです。

編集後記

  お詫びと訂正
 『点字ジャーナル』2025年4月号連載記事「ヒマラヤに響く柔道の力 (2)ブラインド柔道事始め」の26ページ20行目と21行目が、点字自動製版機の誤作動により判読できないことをお詫び申し上げます。また、今号に詫び状とともに、同掲載記事を同封いたします。(編集部)
 今号で、「改革の2年間を振り返る」と題して小林康雄都盲協会長にインタビューしました。その際、笹川吉彦都盲協前会長はトップダウンだったと話しておられたことに驚きました。というのは、私は日盲連会長時代から、評議員会を含めて、笹川さんを何度か取材したことがありますが、周囲の意見をよく聞き、決定する方だと感じていたからです。
投稿をお待ちしています。本誌に関する感想、意見、日ごろ感じていること等、点字32マス27行あるいは漢字かな交じり文で400文字、住所、氏名を記し、本誌編集部宛にお送りください。(戸塚辰永)

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