点字ジャーナル 2025年5月号
2025.04.25

目次
- 巻頭コラム:トランプ関税は本当に国難なのか?
- (インタビュー)楽しさを切り口に視覚障害者の仕事の場づくりを模索
―― 浅見幸佑の挑戦 - ヘレン・ケラー学院閉校までの6年間
- ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
(3)柔道を通して世界と触れ合えるように - セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(7)臨床研修
- ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(9)点字出版所の建設
- 長崎盲125年と盲教育(25)永井隆博士との交流
- 自分が変わること(190)アフリカの男と女
- リレーエッセイ:「みんなのエンタメ」を目指して(下)
- アフターセブン(122) モンスターコーヒー
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(273)いきなり試練に見舞われた新横綱豊昇龍 - 時代の風プラス:日盲委による「ミャンマー被災視覚障害者支援募金」受付始まる、
ばっかりばっかりインフォメーション、
クレジットカードのサイン認証原則廃止 - 編集後記
巻頭コラム:トランプ関税は本当に国難なのか?
米トランプ政権は2025年4月9日、「相互関税」について、報復関税を発動せず、米国との交渉を求める国・地域については90日間停止すると発表した。
このトランプ関税について、石破首相は「国難」と位置づけ、その影響を踏まえた経済対策の一環として、政府・与党は国民向けの現金給付を実施する方向で調整に入った。しかし、「国難」というのは大げさであり、参院選前にバラ撒きをする口実だとしたら、それは遺憾千万だ。コロナ禍の2020年に政府は全国民一人当たり10万円を給付する「特別定額給付金」を実施したが、財源は全額国債の発行だったので、この給付金は利子も含め、最終的には国民が税金で返済することになった。同様に消費税増税につながる愚策は御免被りたいものである。
2009年から2012年の民主党政権時代、ドル相場は1ドル80円~85円で推移し、2011年には一時的に1ドル75円台を記録した。当時、自動車をはじめとする輸出産業の経営者や業界団体は、円相場が1ドル100円を下回ると競争力が低下し、厳しい状況に陥ると警鐘を鳴らした。
現在、1ドルは約147円であり、1ドルが147円から100円に変わることは約32%の円高を意味する。トランプ関税は、日本からの自動車や鉄鋼・アルミニウムに25%、それ以外には24%が課せられるため、極端な円高に振れなければ、輸出産業は手ひどい打撃を受けずにやっていけるのではないだろうか。
もちろん、現在の産業構造は一昔前とは異なり、トランプ関税が経済に与える影響はそう単純ではない。例えば、米国向け輸出が近年伸びている食品業界は大打撃を受けると予想される。一方で、世界シェアの9割以上を占める内視鏡カメラなどの医療機器は、ほとんど影響を受けないと考えられる。このため、実際に打撃を受ける特に中小輸出企業に対して手厚い支援を行うべきではないだろうか。(福山博)
(インタビュー)
楽しさを切り口に視覚障害者の仕事の場づくりを模索
――浅見幸佑の挑戦――
【3月25日(火)夕刻、当協会に、「見ても見なくても見えなくても楽しめるを増やして、一緒にワクワクする世界へ」を活動方針に掲げる一般社団法人ビーラインドプロジェクト浅見幸佑(あさみ・こうすけ)代表理事を招き、同プロジェクトのこれまでの活動、これからの活動の突破口となるムーンループカフェについて聞いた。取材・構成は、本誌戸塚辰永。以下、敬称略】
プロフィール
浅見幸佑は、2003年3月20日、東京都昭島市生まれの22歳。彼は、立教大学4年の晴眼者だ。浅見は一人っ子で、子供思いの親の家庭で育つ。父親の仕事の関係で、生活保護受給者や中途で障害を持つことになった人など、社会における「マイノリティー」と括られる人たちの話を幼少期より常に耳にしてきた。貧乏ではなかった自分の家庭環境と、すぐそばで起きている社会が生む軋轢のギャップを肌で感じていた。高校2年の時に参加したカンボジアでのスタディープログラムで解決が困難な社会問題をソーシャルビジネスの視点から解決できる糸口があることを知った。そして、大学進学後は環境や教育問題に関心を持つ中で、たまたま履修した福祉の科目で視覚障害者のことを知り、視覚障害者の世界にのめり込んだ。
趣味はユーチューブで料理の動画を見ること、餃子と二郎系のこってりしたラーメンを食べること、そのためもあってかジムに通い体を鍛えることだ。そのほかには、サッカーの動画を見たり、バドミントンをすること。彼はどこにでもいそうな若者だ。
ビーラインドプロジェクトとは
浅見は小さな頃から遊びが好きな少年で、いつも家の前にある公園で友達と遊んでいた。また、マンガやアニメを通じて友達の輪が広がっていった。大学1年時に履修した福祉の講義で視覚障害について聞いた浅見は、もし自分が視覚障害だったら遊びがほとんどできなくなり、それと共に友達もいなくなってしまうのではないかと思った。ちょうどその当時リアル脱出ゲームを作っていた人に弟子入りしていた彼は、だったら視覚障害者も楽しめるボードゲームを作ることを計画し、友人らに呼びかけビーラインドプロジェクトを立ち上げた。
ちなみに福祉の講義を担当したのは、障害のない韓国人の非常勤講師だったが、その熱意が彼を視覚障害者に関わることへと導いた。
ビーラインドとは、浅見が考えた造語で、blindとbe line(横並びになる)という2つの意味が込められており、視覚障害のない人もある人も遊びを通じてフラットな関係になるということでそう命名した。
ビーラインドプロジェクトの中心メンバーは、現在大学生3人で、彼らは皆晴眼者だ。しかし、昨年まで視覚障害者のメンバーが2人いた。その1人は川本一輝(かわもと・かずき)だ。彼は全盲で、筑波技術大学の現役学生だが、合同会社を設立している。川本は盲学校の地域格差をなくしたいと思い、点字を使用する大学生と点字で学びたい視覚障害児をマッチングするアプリを開発している。加えて、今年(2025年)2月17日にオープンしたMOONLOOP CAFE(ムーンループカフェ)で働いている視覚障害者2人もプロジェクトメンバーと同等の関係といってよい。
筆者が学生の頃、つまり40年前は大学の門戸解放や学習環境整備を大学に求めたり、点訳サークルの仲間と話したりする中で友人を作ったが、今はそうではないようだ。1番の関心は、楽しさをどう共有していくかにある。それは単純に遊ぶことだけにとどまらず、働くことにまで考えが及んでいる。近年障害者雇用は進んできているが、晴眼の上司や同僚とコミュニケーションが取りづらかったり、思うような仕事ができず悩んでいる視覚障害者も少なくないと聞く。会社内で一緒に楽しめる人が増えていくことで視覚障害者への理解が促進され、雇用の拡大や職場環境の改善に結びつくと彼らは考えている。そして、ゆくゆくは誰もが楽しみを共有する社会づくりを目指して活動している。
これまでの活動
ビーラインドプロジェクトでは、プロダクト(開発・販売)、イベント、研修事業、飲食事業を行っている。
プロダクト事業では、見える見えないにかかわらずできる、4人で楽しむ重さ当てボードゲーム「グラマ」の開発・販売を手がけている。そのほかに、見える見えないにかかわらず一緒に楽しめるミュージカルのワークショップも企画している。
グラマの開発費用を調達するためには、クラウドファンディングを活用し、120万円の寄付を集めた。グラマは返礼品として寄付者に寄贈された。また、北は北海道、南は福岡でグラマの体験イベントを開催し、それらがメディアでも多く取り上げられた。
ここでグラマを紹介しよう。グラマの形状は十字型の天秤。天秤の先には皿がついている。皿の下にプリン型の土台がある。ゲームでは、鉄球や木やプラスティックでできた約100個のおもり、それからおもりを入れる手のひらサイズの巾着袋を使う。最初に代表者1人に巾着袋4枚の中にランダムにおもりを入れてもらい、1人1つの巾着を持つ。そして、1つのテーマにしたがって4人で話し合いながら自分の巾着袋の重さを表現していく。テーマは、例えばコンビニで売っているサンドイッチの重さ。各人がその重さを言葉で表現し合い、2番目に重たいと感じた人を標準に決め、その基準に合わせて他の3人が想像しておもりを調整する。最後に巾着袋を天秤に乗せて釣り合ったら成功、ガチャンと落ちたら失敗というゲームだ。さらに、このゲームには発展編がある。テーマが書かれたカードを1枚引く。そこには、緊張感、愛情、悲しさの度合いといった抽象的な概念が記されており、それらの重さを量るものだ。グラマは100回以上試行錯誤を繰り返し、視覚障害者と共に開発したボードゲームだ。
グラマを使ったイベントは数え切れないほど行っており、これまで約2500人が体験した。また、グラマは企業や学校で、多様性とインクルージョンやチームワーク向上の研修にも使われ、好評を得ている。
浅見幸佑の夢
浅見は大学3年次、ビーラインドプロジェクトの活動に集中するために、ある人からお金を借りて生活していた。今は、ムーンループカフェの店員をする以外は、医療系の会社で9時から19時までめいっぱい働いている。プロジェクトに専念するために半年間休学しているので、卒業は9月になる。卒業後は、教育系の会社に就職する予定だ。7月から8月までにカフェでの人件費の調達、そこでのメニュー開発の流れなどに道筋をつけることに浅見は専念する。一般社団法人の代表理事は、ほかにやりたいという強い意志を持つ人が現れるまで続けるつもりだ。ただ、30歳前までには力をつけて、視覚障害の職業支援分野に進みたいと彼は思っている。スペイン盲人協会(ONCE)が四つ星ホテルのイルニオンホテルを経営しているが、そこでは従業員の40%が何らかの障害があり、その中にはもちろん視覚障害者もいる。そこまでのレベルを目指す企業をゆくゆくは作りたいと夢みている。
ムーンループカフェ
筆者は、3月17日(月)に東京都杉並区の井の頭線富士見ヶ丘駅近くにある視覚障害者が店長を務めるムーンループカフェを訪れた。その日、店長を務めていたのはいっしー。彼は大学1年で、片目がわずかに見える程度だ。ムーンループカフェの由来は月の満ち欠けにあり、交代で務める店長の目の見え方でその日の看板メニューのチャイの味が変わる。彼は片目がほんの少し見えているので半月。いっしーがムーンループカフェについて説明し、筆者は点字のメニューを読んでチャイと生チョコレートのセットを注文した。カウンターキッチンで晴眼者のスタッフが淹れたチャイができあがると、いっしーが1人分を注いだポットを席まで運び、予めテーブルに備えてあるカップにチャイを注いでくれた。一緒に行った雨宮記者は「客の目の前で注いでくれるライブ感が、緊張感もあっていい」と話してくれた。
このカフェにはコンセプトとなっている味わう食体験と感じる人との繋がりという点で様々な工夫がされている。墨字メニューの下部に短い言葉が点字で打ってあり、来店客は点字一覧表を見ながらそれを読み解いていく。点字を知らない人にとっては、暗号解読のようなもので、今流行の謎解きに近い体験となっているようだ。この反響は大きく、来店客は解読に夢中になり、話が弾む。最後には、点字器と点筆が渡され、感想を書いていっしーに手渡すと、それを読んだ彼はとても喜んでくれた。
視覚障害者と出会う中で、「人とふれ合える仕事をしてみたい、接客業で働いてみたい」という声を浅見はよく聞いた。そういう中で、彼がNPOのイベントで知り合った蜃気楼珈琲のオーナー田上倫太郎(たのうえ・りんたろう)に相談し、ようやく開店にこぎ着けた。カフェは毎週月曜日に蜃気楼珈琲を借りて営業している。カフェのメンバーは4人。店長は弱視のいっしーと大学4年で全盲のまりりん。それにキッチンで働く晴眼大学生のスタッフ2人だ。
カフェでの工夫は、チャイをテーブルに運ぶ際にカップに入れて運ぶとこぼしたり、客にかけてしまったりする恐れがあるので、店長がポットに入れて運び、客の目の前でチャイを注ぐようにした。また、ポットとカップを一緒に持っていると両手がふさがるため、予めカップをテーブルの上に置くようにした。さらに、テーブルにカップだけ置かれていると味気ないし、場所もわかりづらい。それに、客がカップを触って移動させてしまうこともあるので、トレイの中にカップやフォークを置くようにした。
店長の移動しやすさや客へのサーブしやすさのためにも工夫をした。テーブルを壁から離して配置し、店長が壁を伝いながら自由に移動できるように配慮。また、当初は4人掛けのテーブルが2つ中央にくっついて置かれていたが、それらを離す配置に変えた。これによって通路が確保され、客の後ろからではなく、テーブルの横からサーブできるようになった。
またチャイを注ぐ際にポットを傾けすぎてカップからチャイがあふれることもあった。これまでポットとカップを空中で持ちながら注いでいたが、それをやめてカップに注ぐことにした。これによって、チャイを注ぐ際の安定感が増した。カフェのメンバーは毎週ミーティングをして、良い点、改善すべき点を話し合い、接客の向上を図っている。
今後のメニューとして、視覚障害者が食べづらいパフェを、盛り付け方を平らにし、かわいらしく見えるようにして提供することも考えている。
カフェで働くことによって気持ちの変化も見えてきた。まりりんはダイアログインザダークでアテンダントをして働いており、収入の面ではそれほど困っていないが、カフェで働きたいという希望が叶ってとても満足している。高校まで盲学校で学んでいたいっしーは、生徒会長等を主体的にこなしていた。だが、大学に入ると、友達をつくることやアルバイトの面接に難しさを感じていた。しかし、このカフェで働くようになってから、リーダーとして意欲的に取り組む姿勢がさらに見えてきた。それによって、自身でメニューを作ったり、新たなアルバイトに応募したり、とさらに意欲的に成長した。浅見は2人の成長をうれしく思っている。
点字体験や視覚障害者について紹介したマガジンをテーブルに置くことで目の見える来店者は視覚障害者への興味を持ってくれるようになった。視覚障害者の客からは、「こういったカフェがもっと広がってほしい」、「カフェで働いてみたい」といった声をよく聞く。
浅見らは、視覚障害の文化についてより楽しく、おいしく体験できるカフェを設計したいと考えている。これからいっしーがコーヒーを淹れ、トーストなどの軽食を提供し、まりりんはカクテルを作り、おつまみも出す予定だそうだ。
営業は月曜日だけだが、軌道に乗った段階で週に2日にし、将来的には自分たちの店を持ちたいという大きな夢がある。トライアンドエラーを重ねながら、視覚障害者とともにつくる飲食のロールモデルを浅見は日本で作りたいと願っている。
ムーンループカフェでは、毎月月末にイベントを計画している。トップバッターは、まりりん。彼女は4月末にピアノ弾き語りを披露する予定だ。
店舗情報
場所:東京都杉並区久我山5-24-1(京王井の頭線「富士見ヶ丘駅」より徒歩3分)
営業時間:毎週月曜日17時半~21時半(ラストオーダー21時)
席数:12席
予約:可能(事前予約推奨)
備考:事前連絡で「富士見ヶ丘駅」まで迎え可能
メールアドレス:info@blinedproject.org
ヘレン・ケラー学院閉校までの6年間
東京ヘレン・ケラー協会理事長・第11代ヘレン・ケラー学院長/奥村博史
社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会附属ヘレン・ケラー学院は今年3月、あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師(あはき師)を目指す視覚障害者のための養成施設・専修学校の歴史に幕を下ろしました。身体障害者福祉法が施行された1950年に開校し、75年間で延べ1,984人の修了・卒業生を輩出しました。
最多105人に上った学生数は減少の一途をたどり、私が着任した2019年度には24人となり、うち9人が修了・卒業しました。翌2020年度に入学した3人を最後に、新入生募集を停止しました。
時代が移る中で、医療の発達や職業選択の拡大は大変喜ばしいことですが、少子超高齢社会を背景に、あはき師を目指す視覚障害者の激減は当学院だけではなく、全国の盲学校で深刻化しています。
学院の前身は、1906年に東京・浅草の教会で、大儀見元一郎(おおぎみ・もといちろう)牧師が開いた「浅草訓盲所」(後に東京同愛盲学校)とされます。関東大震災や第二次大戦の戦禍などで経営難に陥った同校を、当協会の前身である東日本ヘレン・ケラー財団が経営を引き受け、医師3人を含む15人の教授陣をそろえて1950年、「ヘレン・ケラー学院」と改名、開校したのでした。
こうした長い歴史と伝統を誇る学院の閉校は、理事長としても苦渋の決断でしたが、私の着任前に方向性は示されていました。着任する前年度の理事会で、当法人・学院の経営環境の厳しさを見据えた新年度事業として、前理事長、監事、施設長らで構成する「将来像検討委員会」が設置されました。第2回会合から私も加わり、約1年間にわたり協議しました。テーマは、学院の出口戦略と、学院の設備やノウハウが生かせる新事業に乗り出すか否かです。
協議の結果、「在校生が修了・卒業した段階で閉校する」「閉校に向け新事業に着手する」との工程も決め、理事会に諮りました。同時に、新事業に向け、各種助成金を活用して老朽化した外壁などの改修や中庭に緊急避難路を設置するなどの工事を行いました。
こうして2022年4月、就労継続支援B型事業所「ヘレン・ケラー治療院 鍼灸・あん摩マッサージ指圧」が開業しました。今年4月1日現在、事業所の利用者は17人で、うち8人は学院の卒業生です。
何より想定外だったのは、コロナ禍です。2020年度新入生の入学式、始業式、対面授業のスタートは2カ月遅れの6月1日になりました。新年度初めからその間、各講師が授業内容をCDに録音し、職員が学生宅に郵送して対応しました。対面授業が始まっても厚労省・文科省の「事務連絡」に沿って「三密」回避や消毒の徹底をはじめ、授業時間を短縮するなどして感染防止対策に追われました。
実技・実習の再開の時期については、教員、職員の間でも意見が分かれました。ワクチンに一定の効果がみられるようになり、各地の盲学校では徐々に再開されていたからです。しかし、都心に位置する学院としては、感染のピークが過ぎては再び拡大に転じるパンデミックに慎重に対応し、臨床実習再開は2023年3月になりました。
さて、今年3月14日、卒業式を行い、最後の学生3人を送り出しました。同22日には「思い出を語る会」として閉校式を行い、卒業生ら100人を超す関係者が古い学び舎に集まりました。好天にも恵まれた両日、治療院兼務の学院職員2人が行事を仕切って有終の美を飾ってくれました。
閉校式では、再会を懐かしむ声があちこちで聞こえました。仕出し弁当のお昼を挟み、白木幸一先生、木村愛子先生の記念講話や歴代学院長のあいさつが続きました。かつての賑わいが戻ったひと時、校舎には、役割を終えた学院へのそれぞれの思いに満ちた空気が、穏やかに流れていたように感じました。
編集後記
2003年10月号から2025年5月号までの21年7カ月間、老生は小誌編集長を務めてまいりました。長い間、ご声援、ご鞭撻を賜り、ありがとうございました。
恥多き編集人生でしたが、生きている人を「故○○氏」と記事にすることがないよう注意を払い、間違いは素直に訂正し、謝罪することを心がけました。それでも、読者の皆様にはどのように映ったでしょうか。
次号からは、現在デスクを務めている戸塚辰永が編集長を引き継ぎます。彼は2003年4月に入職したので、その当時の編集長は水谷昌史氏でした。小誌の初代と2代目の名目上の編集長は晴眼者でしたが、それ以降は老生以外、視覚障害者が務めてきました。戸塚は、本来の小誌の伝統を引き継いでくれることでしょう。
昔から「福山さんの文章はお爺ちゃんが書いたみたい」と言われることが多かったため、今年の1月に70歳になったのを機に、あえて一人称を「老生」とさせていただきました。(福山博)