点字ジャーナル 2025年3月号

2025.02.25

目次

  • 巻頭コラム:点字ブロックの日
  • (新連載)ヒマラヤに響く柔道の力 ―― すべての人に可能性を
      (1)ネパールとの出会い
  • 盲学校から逃げた弱視児を連れ戻すまで
  • あしらせ体験レポート
  • セントルシアで視覚障害指圧師を育てる(5)郵便事情
  • ネパールに愛の灯を ―― わが国際協力の軌跡(7)CBRとビタミンA剤配布事業
  • 長崎盲125年と盲教育(23)ヘレン・ケラーの来崎と盲・聾生徒のお出迎え
  • 自分が変わること(188)違いち、同じ
  • リレーエッセイ:人生を楽しみDスタイルあれこれ(下)
  • アフターセブン(120) 日々の喧騒を乗り越えるために
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (271)横綱照ノ富士、ついに力尽く
  • 時代の風:声で案内するハザードマップ、
      うめきた広場にてブラインドサッカー国際公式大会、
      「AIスーツケース」新モデル、
      BinBがスクリーンリーダーUIを実装
  • 伝言板:詠進歌 来年のお題が「明」、
      大人が楽しむバリアフリーコンサート、
      劇団銅鑼公演、
      落語会
  • 編集ログ

巻頭コラム:点字ブロックの日

 フランス人のルイ・ブライユが6点点字を考案したのが1825年。ブライユ16歳の時である。今年は、ブライユが点字を考案してからちょうど200年となる。近頃では、生活のいろいろな場面で点字に触れられるようになった。何冊もの本を持ち歩かなくてもピンディスプレイで読書ができるようにもなった。大阪万博では、4月に点字をテーマとしたイベントが企画されているという。
 私達は、指の触覚で点字を読んでいる。同じように触覚で情報を得るものに点字ブロックがある。
 点字ブロックを考案したのは、岡山に住んでいた三宅精一である。三宅は、ある日、国道を横断する視覚障害者を見かけた。視覚障害者が安全に歩くために何か良い方法はないだろうかと思案した。そして考案されたのが点字ブロックである。
 最初に点字ブロックが設置されたのは、岡山市内の国道2号線原尾島交叉点である。1967年3月18日に渡り初めが行われた。
 これを記念して3月18日が「点字ブロックの日」に認定されている。これは、岡山盲学校元教頭の竹内昌彦氏が中心となって日本記念日協会に申請して認められた。竹内氏らは、原尾島交差点近くの公園に「点字ブロック発祥の地」の記念碑を建立している。
 点字ブロックをたどって歩くと方向を間違えることなく確実に歩くことができる。ところが、点字ブロックの上に人が立っていたり、自転車が止められていたりしてぶつかることも少なくない。点字ブロックが視覚障害者のための設備であることが知られていない結果だろう。先日、出勤途上のJRの電車の中で、「黄色の点字ブロックは目が不自由な方が安全に歩くための設備です。点字ブロックの上で立ち止まったり、物を置いたりしないようにご協力下さい」というアナウンスを聞いた。また、駅の構内でも同じような注意をうながす放送を聞いたことがある。スマホを操作しながら点字ブロックの上を歩く人がいるという。点字ブロックが誕生して58年になる。その意義を多くの人に理解してもらうにはまだ時間がかかりそうだ。(岩屋芳夫)

(新連載)ヒマラヤに響く柔道の力
――すべての人に可能性を――
(1)ネパールとの出会い

カトマンズ在住・写真家/古屋祐輔

 「おい、古屋。ネパールに行って柔道を教えてきてくれないか?」
 大学の先輩から突然の連絡がありました。その言葉に「いいえ」と言い出すことができず、2009年の夏、私はネパールで柔道をすることになりました。元々私は高校時代はラグビー部に所属しており、柔道については全くの門外漢でした。しかし、今ではネパールで9年も暮らし、柔道の普及に努めています。
 あのとき先輩があのような言葉を掛けてくれなかったら、今の私はなかったかもしれません。
 私の大学の先輩は、柔道では名前の知られた方でした。柔道でインターハイや国体に出場するほどの実力者だったのです。しかし、大学4年生の時に就職活動をしましたが、結果は全滅でした。そこで先輩は「もっと自分を強くするために、世界中の強いヤツと戦う旅に出る!」と宣言し、柔道衣を持って世界の旅に出てしまったのです。
 ケニアではマサイ族と戦い、ブラジルではブラジリアン柔術家と戦い、世界中の<強そう>な人を探し出しては戦いを挑んでいたそうです。
 そんな旅を続けている中で、先輩が次に選んだ国がネパールでした。
 「世界一高いエベレストがある国なんだから、世界一強い人がいるに違いない」
 何とも先輩らしい発想です。しかし、それを実際に行動に移してネパールに行ってしまうあたり、私は尊敬せざるを得ませんでした。
 当時はまだインターネットで「ネパール柔道」と検索しても見当たらなかったため、先輩はカトマンズの中心部であるタメル地区を柔道衣を着て歩き回りながら、「I am JUDO(俺は柔道家だ)」と言い続け、柔道を知っている人を探しました。
 その結果、人づてに何とか柔道場を見つけ出しました。
 先輩がアポ無しでその柔道場に入ると、そこではネパールの小さく、痩せた子どもたちが柔道をしていました。
 その子どもたちの横には、屈強な柔道衣を着た男性がいました。先輩が話しかけると、そのネパール人柔道家はこう言いました。
 「この子どもたちは、学校に行っても授業についていけませんし、親も面倒を見ません。ですが、最低限柔道をやっていれば、道を外さずに済みます」
 先輩はその言葉に感銘を受けました。
 それまで勝つか負けるかという世界で生きていましたが、「柔道は教育」という新たな考え方に触れたのです。
 世界中の強いヤツと戦い強くなりたいという先輩の旅は、ここで終わりました。そして、このネパールの柔道を発展させるために自分にできることはないかと、先輩はネパール人柔道家に尋ねました。
 「もしネパールに来そうな人がいたら送って欲しい。そうやって橋はできるのです」
 そう言われた先輩は、日本に戻るなり私に「ネパールに行って柔道を教えてくれないか?」と頼んできたのです。
 私はそれまで一度も海外に行ったことがありませんでした。ましてや飛行機に乗ったこともありません。柔道についても体育の授業で習った程度でしたが、先輩曰く「ネパールの子どもたちが相手なら問題ない」とのことでした。
 私と先輩は埼玉大学の教育学部に通っており、先輩には筋トレをするためのトレーニングジムでお世話になっていました。私も高校までラグビーをやっており、先輩後輩の上下関係が厳しい環境に慣れていたので、どうしても先輩からの頼みに「いいえ」と言いづらかったのです。ただ心の奥底ではラグビーをやめて、新たに自分が挑戦できることを探していたのかもしれません。
 このような経緯で、2009年、大学2年生の時に夏休みを利用して2週間ネパールに行くことになったのです。
 南アジアに位置するネパールは、南はインド、北は中国に囲まれた小さな国です。そんなネパールに到着し、飛行機を降り立った瞬間、私の感覚は一気に異国を感じ取りました。お香が混ざったような匂いや乾いた空気の味、そしてけたたましいクラクション。これらがすべて、ここが日本ではないことを教えてくれました。
 先輩が出会ったネパール人柔道家が空港で待っていてくれました。彼の名前はダルマ・クマール・シュレスタといいました。ダルマさんは空港から直接、児童養護施設に連れて行ってくれました。
 その施設のドアを開けると、子どもたちが「ナマステ」と挨拶をし、きちんと礼をします。その礼儀正しさには柔道で鍛えられた感じがありました。
 私はその児童養護施設の1室を与えられ、そこで生活することになりました。子どもたちはとても人懐っこく、私のそばにきては様々な質問をしてきます。「柔道が好きですか?」はもちろん、「サッカーは好きですか?」「家族は何人ですか?」などと聞いてきました。
 ただ、私はこんなにも子どもたちが懐いてくることが信じられませんでした。元々ストリートで物を盗んで生活していたと聞いていたからです。そのため、子どもたちが懐いてくるのも、私を油断させて何かを盗むためではないかと思い、ウエストポーチに入れた財布とパスポートを絶対に盗まれないようにと誓いました。
 子どもたちは朝は学校に行き、帰ってきてから柔道場に向かいます。私も一緒に柔道場に行きました。私は柔道は中学や高校の体育の時にやったくらいで、それくらいしかできません。ですが、子どもたちの年齢も小さいと7歳から大きくても13、4歳の子どもたち。柔道の技術よりも、柔道をするための身体機能の向上が大事な時期なので、ラグビーの練習でもよくやっていた下半身の強化のスクワットや腕立てや、柔道の帯を使ってのゲームなどを一緒にやったりしました。
 ダルマさんに聞いたところ、ストリートチルドレンに柔道を教えることで、いくつかの良い効果があるそうです。
 1つ目は、しつけです。柔道では上の人の話を聞くことや礼儀を重んじる習慣が身につきます。
 2つ目は、チームスポーツだと、どうしても個人の努力が見えづらくなりますが、柔道では個人のがんばりがそのまま結果に反映されます。
 3つ目は、柔道が守るためのスポーツであることです。空手やテコンドーなどでは、ストリートで育った子どもたちがそれを武器として使ってしまう恐れがありますが、柔道は自分の身を守るためのスポーツであるため、そうした心配が少ないのです。
 4つ目は、柔道には神様がいることです。柔道の創始者である嘉納治五郎先生の写真は、世界中すべての柔道場に飾られています。そして、練習を始める前には必ず嘉納先生に礼をします。ネパールは多神教の国であり、嘉納治五郎先生もキリストやブッダと同じように神様として崇められているのです。
 ネパール人にとって、柔道場は日本でいう神社のような場所なのです。
 柔道をしている子どもたちを見ると、本当に以前ストリートで暮らしていたのか? と思うほど素直で、柔道の練習も一所懸命に取り組んでいました。子どもたちは、環境さえ整えば真っ直ぐ育つのだろうと感じました。
 ネパールでの2週間はあっという間に過ぎました。最後にはお別れパーティーまで開いてくれて、とても良い旅で終わりました。心配していたような盗難もなく、子どもたちとは感動的な別れを迎えることができました。
 日本に帰国してみると、日本の静けさに少し戸惑いながらも、ネパールでの出来事を思い出し感傷に浸っていました。
 自宅について荷物を片付けていると、鞄の奥からネパールのお札が出てきました。20ルピーと5ルピー札です。25ルピーは日本円にすると20円くらいの価値です。
 「こんな所にお金をしまっただろうか?」と思いながら見てみると、そのお札には「YUSUKE Don’t forget me Dinesh(祐輔僕を忘れないでね、ディネス)」と書かれていました。
 ディネスは僕に一番懐いていた男の子でした。当時16歳で、肌が黒く細い目をしていて、思春期のニキビが多かった子です。ただ運動神経は目を見張るものがあり、柔道はもとより、ダンスがとてもうまい子でした。いつも児童養護施設では私の隣に来てご飯を食べるときも「ユースケ、ネパールのごはんおいしい?」と毎回尋ねてくれました。
 あのディネスが僕にお金を入れてくれたんだと、思い出がよみがえります。
 しかし、私は嬉しかったというよりも、自分への怒りのような、何ともいえない複雑な感情を抱きました。私はネパールに滞在している間、「この子たちは何かを盗むのだろう」と疑っていたのです。
 「元々ストリートチルドレンだったし」とか、「ネパールは貧しい国だから」といった偏見を持ちながら、変な色眼鏡でネパールや子どもたちを見ていました。
 先輩に旅の報告として「子どもからお札をもらった」と伝えると、先輩はこう言いました。
 「そのお金はいくら積んでも買えないものだ。だからその分、ネパールに返していこう」
 ネパールで一度は道を外してしまった子どもたちが、柔道によって立ち直っていました。
 だからそのネパールの柔道をサポートしていくことが、ネパールの未来に繋がるのだと感じました。
 先輩と一緒に、日本で不要になった柔道衣や畳を集めて、ネパールに送る活動を始めました。
 私は大学を卒業後、教員になりました。学校の先生の良いところは、夏休みや冬休みを長く利用できることです。そのため、長期休暇を利用してネパールを訪れ、生徒たちへのお土産を買って帰ることもありました。
 しかし、教員を続けながらも、いつか自分の人生をネパールで過ごしたいと思うようになりました。
 そして、2017年に教員を辞め、ネパールに移住しました。
 ネパールで暮らしてみると、社会的弱者にとって柔道が役立っていることが分かりました。最初は児童養護施設で暮らす子どもたちにとって、柔道がまさに人生の道を作る存在となっていました。しかし、それだけではありませんでした。例えば、エベレストなどの僻地に暮らす子どもたち。彼らは学校に通うために1時間も2時間も歩くので体力がありますが、その体力をスポーツとして発揮できる場がありませんでした。
 また、障害を持つ子どもたちにとっても柔道は非常に重宝されています。耳が聞こえないろう者や、視覚障害者にとっても、柔道は単なるスポーツではなく、人生にとって大切なものとして扱われています。
 日本発祥のスポーツである柔道が、遠く離れたヒマラヤの麓の国ネパールでこれほどまでに重要視されていることに、私は大きな誇りを感じています。
 これから何回かに分けて、ネパールで柔道がどのように障害やハンディを抱えた方々にとって大切なものになっているのかを、お伝えしていきたいと思います。

編集ログ

 従来、「巻頭コラム」は一貫して福山博が担当してきましたが、今号は点字と点字ブロックについて詳しい岩屋記者が執筆しました。このような試みが、新展開につながればいいなと思っています。
 今号から古屋祐輔氏による「ヒマラヤに響く柔道の力――すべての人に可能性を」を連載します。コロナ禍もあって大変な苦労をしながら、ブラインド柔道とデフ柔道の普及に尽力されています。ご期待ください。
 本誌2024年9月号「ネパール・ハイウェイを行く」では、「ジャンタ高校」と記載しましたが、本号では同校を「ジャナタ高校」に改めました。というのは、同校で「Janata Secondary School」と書いてある文書を見たからです。
 これまで、ネパール盲人福祉協会(NAWB)は、同校を一貫して「Janta Secondary School」と表記していたので、「スペルが違いますよ」とNAWBホーム・ナット・アルヤール理事に軽く注意をしました。すると彼は「同じじゃないですか。ネパール語での発音は、ほとんど同じです」と言い返しました。
 日本でも大谷を「Otani」とも「Ohtani」ともローマ字表記するので、それと同じことだと言うのです。そういえば私の姓も「Fukuyama」とも「Hukuyama」とも書き、どちらも正しいローマ字表記です。しかし、訓令式で書くと、スペイン語やフランス語圏では「ウクヤマ」と発音されるので、私はヘボン式で姓を記載しています。
 ネパールでの実際の発音は、ジャンタとジャナタの中間あたりにあるのでしょうが、「Janata」を「ジャンタ」と記載すると、今後、この間の事情が忘れ去られたときに混乱が生じる恐れがあると愚考し、今回書き直した次第です。
 なお、大谷の正しいローマ字表記は「Otani」です。「Oh」という表記は、王貞治選手が巨人に入団して「背番号1」の上に「O」と一文字だけ表記すると大変違和感があるので、このような表記がされました。以来、球界のレジェンドに敬意を表して「Ohtani」のような表記が球界では浸透し、定着したようです。(福山博)

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