点字ジャーナル 2024年9月号

2024.08.23

目次

  • 巻頭コラム:パリ五輪直前の詰め腹
  • ウイズ30年の歩み(上)―― ウイズはこんなところ
  • (新連載)ネパールに愛の灯を
      ―― わが国際協力の軌跡 (1)プロローグ
  • 健康にそして自分らしく生きるために
      ―― 2024全国ロービジョン(低視覚)セミナー報告
  • 2024年点字考案200年記念事業開催される
  • ネパール・ハイウェイを行く(8)弱視姉妹と高校を卒業したマニーシャ
  • スモールトーク 岸辺の風景
  • 長崎盲125年と盲教育(17)校歌の制定
  • 自分が変わること(182)原稿書きと友情と
  • リレーエッセイ:熱く響け!太鼓の音(上)
  • アフターセブン(114)真心の価値
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (265)秋場所は関脇以下に元大関が6人も
  • 時代の風:第22回チャレンジ賞・サフラン賞受賞者、
      タウンページと番号案内サービス終了、
      日本人の平均寿命延びる、
      睡眠時間と糖尿病合併症リスク
  • 伝言板:宮沢勝之コンサート、
      新国立劇場観劇サポート公演、
      和波たかよしコンサート、
      東京都パラスポーツ次世代選手発掘プログラム
  • 編集ログ

巻頭コラム:パリ五輪直前の詰め腹

 7月19日、日本体操協会は東京都内で緊急会見を開き、パリ五輪の女子代表選手である宮田笙子(19歳、順天堂大学)が代表を辞退したと発表した。
この問題について輿論は賛否両論に分かれているが、小欄は本人の辞退というあまりに内向きな決着に異を唱えたい。が、その前に事件の背景を眺める。
 以前から宮田は態度の大きさや横柄な口の利き方をする“女王様気質” で、しかも「タバコ臭い」と関係者の間では有名だった。今年の5月に群馬県高崎市で五輪の最終選考会が行われたのだが、宿泊先のホテルで彼女が飲酒や喫煙をしていたという通報があった。だが、この段階では、管理責任は所属チームにあるということで、とくに体操協会は聞き取り調査などは行わなかったらしい。
 ところがパリ五輪直前に再度の内部告発があり、5月に宮田の飲酒と喫煙についての通報があったのに、聞き取り調査を行わなかった隠蔽体質が露見することを恐れた体操協会が、「本人の辞退」という形で幕引きをはかったのではないかといわれている。
 ところで部員間の暴力行為で甲子園への出場を辞退するというのは記憶に新しいが、辞退を決めるのはいつも当事者の選手たちではない。このため暴力行為に無関係の部員にとってはまったくの濡れ衣での詰め腹だ。だが、高校野球は教育の一環らしいのでここでは深追いしない。
 詰め腹の本来の意味は「強いられて、やむをえず切腹すること」だが、宮田は身から出た錆とはいえ、あまりに大きな代償を払わされた。体操女子パリ五輪代表は全員10代であることからもわかるとおり、選手生命は短い。五輪代表辞退という選手生命の終焉に等しい詰め腹を切らされることになったのは、あまりに日本的な時代錯誤ではないか。
 五輪は教育の一環ではなく国際的なスポーツイベントである。不祥事についても国際的な規範や常識に従って処理することが、望ましいのではなかろうか。(福山博)

ウイズ30年の歩み(上)
 ―― ウイズはこんなところ ――

NPO法人六星・ウイズ相談役/斯波千秋

 鰻とピアノ、そしてバイクなどで有名な浜松に今から30年前に全国で初めてできた視覚障害者中心の作業所、NPO法人 六星(ろくせい)・ウイズがあります。法人名の「六星」は浜松出身で1890年に日本語点字を翻案された石川倉次が晩年によく揮毫された「六星照道」(六つの星・点字が視覚障害者の生きる道を照らす)からいただきました。そこには、視覚障害者の集う施設として大切な文字である点字にこだわった仕事をしたいという思いが込められています。
 また、ウイズは英語の「WITH・一緒に」の意味です。私たちは見えないことが障害ではなく、見えないために世の中の人たちと色々なことが一緒にできないこと、その環境が障害だと考えています。学びも楽しみも仕事もすべて「一緒に」にこだわります。
 今から30年前に視覚障害に特化した無認可施設の「障害者授産所ウイズ・WITH」は7人の仲間と4人の職員でオープンしました。苦しい経営のなかでも楽しく一生懸命に歩み続け、2006年に自立支援法が施行されるのを機にNPO法人格を取得しました。また、その前年には浜松市の高級住宅街に第二ウイズがオープンしたことで不安定な小規模授産所から脱皮し、「障害者就労継続支援B型事業所」と変身。そして世の中のICTが急速に進化し、障害者にとってスマートフォンなどが必需品となってきました。しかし、これらを使いこなす技術を身につけないと、使える人と使えない人との格差が広がり、延いては障害者差別につながります。そこで2022年に浜松駅前の一等地に第三ウイズを視覚障害リハビリ提供の拠点として設立しました。
 それぞれ所在・町名を冠して、ウイズ半田・ウイズ蜆塚・ウイズかじまちと名付けました。2024年4月の時点で通所利用者60名、職員16名が「みんなで一緒に元気に楽しく一生懸命」を合言葉に、居場所・出会いの場・仕事の場・そして訓練の場として利用しています。

  私のことと時代背景

 1949年生まれの私は1972年より父の仕事(創業1959年、盲人福祉研究会)を受け継ぎ、盲人用具の開発・製造・販売を仕事とし、(社福)日本盲人社会福祉施設協議会の用具部会員として全国の盲人会や施設、そして個人と関わりを深めてきました。また、幸いにも障害者福祉を切り拓いてきた多くの大先達から直接薫陶を受け、行政との闘いを目の当たりにすることもありました。視覚障害リハビリテーションという言葉を知り、もっと深く学ぶために1972年に日本ライトハウスが募集する「歩行訓練士育成事業」に応募しましたが、「四年制大学卒業」の壁に追い返されました。これを機に手探りで学び始め、トーマス・キャロルの『失明』という書に出会い、また東京で開催されたIBMウェルフェアセミナーなどに参加し、世界の視覚リハビリの考え方・実践を知りカルチャーショックを受けました。
 1981年の国際障害者年のテーマである「障害者の社会参加と自立・完全参加と平等」の考え方が広がるなか、1988年から静岡県の事業として視覚障害者ガイドヘルパー養成講座を県内各地で担当することになりました。
 1990年には県教委の海外視察団に参加しスウェーデンの視覚障害者福祉と教育を、また1992年にはダスキン障害者リーダー育成事業の指導員として多くの若い視覚障害者と共に視覚リハビリやADAアメリカ障害者差別禁止法などを学びました。障害者差別禁止と合理的配慮についてはこの時に深く学ぶことができました。また、当時は県内の盲人会や中途視覚障害を考える会などに参加する度に静岡県内にリハビリ施設が全くない悲しい現実に出会いました。機会ある度に盲人会や県庁福祉課に視覚リハビリの拠点施設の必要性と早期開設を訴えたのですが、全く動く様子は見られませんでした。そして、国際障害者年を機に全国的に障害者作業所建設運動が広がりつつありました。1985年には静岡県内で59ヶ所の小さな作業所ができ、全国でも稀な小規模授産所連合会が結成され着実な活動を展開していました。このような背景もあり、浜松盲学校の退職教師や卒業生、在校生たちと視覚障害者を取り巻く海外・国内そして県内の情況について語り合い、何かをやらなくてはいけないとの結論に至りました。

  設立準備会

 夢は叶えるもの、そして多くの人に話すことで期待は広がり仲間も増えてきました。福祉の考え方が、施設福祉から地域福祉へ、そして障害者は親や行政に生き方を決められるのではなく社会の中で主体的に生きる権利があるとの考え方「措置から選択する」が広がりつつありました。また、全国で養護学校の先生方と親御さんたちが集まり、卒業後の子供たちの居場所づくりが作業所運動というかたちで広がりました。浜松市でも県・市の補助金事業として1977年に精神・知的障害のある人たちの作業所「くるみ作業所(居場所のないくるしみの生活から死を取り去る場)」がつくられました。
 1993年には全国で4,000ヶ所もの作業所ができたのですが、視覚障害者を対象にした作業所は1ヶ所もありませんでした。障害に関わる人たちの中でも目が見えないと生産活動はできないと決めつけられていたのです。視覚障害に特化した作業所の前例は無く、お金も力も無い私たちは小規模授産所建設を目標に仲間を集めました。盲学校の退職教師、卒業生、在校生、そして白杖や用具を購入した人たちにも声をかけ夢を説明しました。
 土曜日の夜の集まりには20人を超す当事者やサポーターが集まり、どんな施設にするか、どんな仕事を、楽しみをするかなどを語りあい夢を膨らませました。この集まりには隣の市から母親と一緒に参加する浜松盲学校の中学生の利発なお嬢さんがいました。話題が「施設の名をどうするか」となった時に「先日英語の授業で習ったウイズ・WITHがピンときた」と言うのです。みんなと一緒にいろいろとできないことが障害なのだから、一緒にできるように技術や知恵を使い仕事や楽しみをしましょう!とみんなの合意でウイズ・WITHに決定したのです。この時からウイズ設立準備会が正式に発足し、土曜の夜には開発されたばかりの画面読み上げソフトを使ってのパソコン教室や、後にウイズの大切な仕事となる白杖づくり講座なども楽しくスタートさせました。みんなで作るウイズの目標は安心できる居場所、見えなくなった人たちの相談と視覚リハビリの提供、ウイズを中心とした地域福祉の充実、次世代の福祉のリーダー育成などです。熱い夢がどんどん膨らんだ時に私は浜松市の障害福祉課に呼ばれました。担当からは「小規模授産所は運営ができない。授産事業は仕事ではなく訓練だから、お金が発生しても10人の障害者で年間80万円以上は稼いではいけない」と釘を刺されたのです。私は「ウイズで見えない知的障害の人を訓練したら市役所で雇用しますか?」と反論し、「雇用できなければ我々は稼ぎます!」と宣言しました。

  授産所ウイズの開所式

 2年間の土曜日の会合でウイズ・WITHの名前とともに7人の利用者、4人の職員が決まり、いよいよ障害者授産所ウイズの開所式。全国初の視覚障害者中心の小さな作業所です。多くの方々に知って頂きたく、県内はもちろん、全国の視覚障害者団体や県議会議員・市議会議員、近隣の方々とボランティアさんたちを合わせ200名ものお客様が集まりました。地域の公民館ホール一杯のお客様にこれからのウイズのやるべきことを説明し、利用者代表の熱い決意表明、そして日本点字図書館館長や浜松市長などの祝辞が続き、最後は初代ウイズを支える会会長である島津成悠氏と六星筝の会の皆さんの演奏で新生ウイズはスタートしました。
 開所式終了後、貧乏で小さなウイズに場を移し、祝賀パーティー。たくさんの記者から「ウイズはどのような仕事をするのですか?」と質問され、「白杖づくりや、いずれは点字印刷もしたいのですが… 実は記者の皆さん!皆さんがウイズ最初のお客様となります。皆さんお持ちの名刺を10枚ずつ置いていってください。ウイズのみんなで点字名刺にして返送します。1枚10円ですので100円も一緒にお願いします」と答えました。
 十数人の記者が応じてくださり、その中のテレビ局1社がウイズに強く興味を持ち、以来2年間の密着取材が続き、1時間のドキュメンタリー番組「メイド イン ウイズ/ウイズ2年目の春」として全国放映され、民放連のドキュメンタリー大賞にもノミネートされました。
 翌日から各方面への送迎と早朝の歩行訓練、そしてウイズでの楽しいおしゃべりと仕事です。ウイズの船出は忙しい中にも笑い声の絶えない希望に満ちたものとなりました。

  ウイズの仕事は工夫がいっぱい

 ウイズの看板作業は白杖づくりです。1959年から専売特許の折り畳み式白杖も木製の物から軽金属の細い形態と変わり、製作のほとんどは私や元盲人福祉研究会の技術者が基本作業を担当し、利用者はおしゃべりをしながら楽しく組み立てと袋詰めが仕事です。中途視覚障害の若者はパソコン技術の習得と点字を覚えたい意欲があり、記者さんたちの名刺作りが仕事です。利用者7名の内、点字の読み書きのできる人は2名だけです。この2名が名刺の内容のお手本点字を練習用の紙に書き、職員が携帯用点字器の板面に布のガムテープで名刺の大きさの型枠を作ります。作業治具の第一号です。
 点字を習いたい青年が練習用の紙を型枠に納め、左手の指でお手本の点字をそっと左から右へ撫でて読み取り、右手の点筆の針先で枠を確認しながら左手の指の点字を頭の中で裏返しながら、右から左へと書いていくのです。何度も何度も繰り返し練習し本物の名刺に打点し、それを職員がチェックしてOKが出れば、見えなくなってから初めての自分の稼ぎ10円です。最初の1枚は感動の1枚となります。
 ウイズの視覚リハビリはコミュニケーションリハビリをやりながら、点字を習得し、収入も得るというかたちなのです。
後に記者が県知事への取材の折に手渡した点字名刺が福祉課に渡り、多くの県庁職員からの注文に繋がりました。また、この時の記者は今でも点字名刺を注文し、使い続けています。嬉しいことです。

編集ログ

 宮田笙子の五輪代表辞退の報に接し、インターハイ(高校総体)でもあるまいにと思ったのは私だけではないでしょう。喫煙・飲酒で重い処分を行うのは高校までだと思っていたのですが、インターカレッジ(大学選手権)を飛び越えて、パリ五輪でとは驚きです。日本体操は、未だに旧態依然のようです。
 フェンシングにしろ、やり投げにしろ、サッカーやバスケットボールにしろ、長年低迷していた日本選手が頭角を現すようになったのは、海外での武者修行や監督やコーチを海外から招聘した結果でした。
 国際体操連盟(FIG)の会長は、渡邊守成(わたなべ・もりなり)氏(65歳)という日本人です。競技のルール、技の難易度は同連盟が定めます。ところが選手の管理に関して日本体操協会は、「代表活動中は20歳以上でも喫煙や飲酒を禁止する代表選手行動規範」を定めていますが、役員が守れないようなものを選手だけに課すのは妥当と言えるでしょうか。私も体験しましたが、禁煙はそう簡単なものではないのです。
 たばこを吸うと体内にある一酸化炭素が、酸素が結びつくはずのヘモグロビンの量を減らし、全身に運ばれる酸素量を減少させるので、持久力低下につながります。このためマラソンや駅伝の選手はたばこを吸いません。しかし、体操はいわば瞬間の技なので持久力を必要としません。その一方、ちょっとしたミスで転落したり、大けがをするため精神的に過酷で、プレッシャーを和らげるために体操選手は伝統的に喫煙者が多いといいます。
 そういう事情を知りながらしれっと代表選手に禁煙を要求することが、いかに現実にそぐわないか日本体操協会は考えなかったのでしょうか。
これでは役員らの身の保全を最優先して管理強化を推し進め、違反者には厳罰を処して、みせしめの一罰百戒となすなどは甚だしい時代錯誤と弾劾されても致し方ありません。
 日本には「管理ファースト」という因習がありますが、グローバル化が叫ばれている現在、それを「選手ファースト」の世界基準に見直すべき時ではないでしょうか。(福山博)

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