点字ジャーナル 2024年7月号

2024.06.25

目次

  • 巻頭コラム:父の介護
  • (インタビュー)パラ柔道のレジェンド松本義和さん
  • 熊本で日視連大会開かれる―― 5年ぶりに対面で
  • ネパール・ハイウェイを行く(6)路線バスで悶絶する
  • 鳥の目、虫の目 誤嚥性肺炎を防ぐために
  • ネパールの盲教育と私の半生(15)ヘレン・ケラーの来校
  • 長崎盲125年と盲教育(14)就学義務制の要求
  • 自分が変わること(180)レクイエムの月(上)
  • リレーエッセイ:共に歩む柔の道
  • アフターセブン(112)忖度の抜け道!
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (263)史上最速優勝の大の里、ちょん髷大関も現実味?
  • 時代の風:iPS網膜特許で和解、
      物理楽入門の新刊を点字本に、
      磁気乗車券廃止、
      劇症型溶連菌の感染者急増
  • 伝言板:千夜一夜座公演、
      スポーツ教室、
      第46回全国視覚障害者将棋大会、
      視覚障害者音楽教室
  • 編集ログ

巻頭コラム:父の介護

 父の体重が1年で10kgも減ったので、4月23日に熊本県球磨・人吉地域の拠点病院である医療センターに検査入院したとの連絡が、同日父と同居する妹からあった。
 やせすぎて栄養失調なので、入院初日の夜点滴を開始。だが、薬液が血管内に入らず、皮下の周囲組織に漏れ疼痛のため眠れない一夜を我慢して過ごした。このため看護師が発見したときは点滴をした右腕がパンパンに膨らみ、薬液は右脇の下から腰にかけて漏れ、なんと両足もパンパンに膨らんだのであった。
 栄養失調の原因は、それまでに大量に処方された12種類の飲み薬にあった。食欲が湧かず、それでも食べなければと考え込み、ため息をつくインターバルが必要であるため、食事に費やす時間は長く難行苦行の様相を呈していた。ある種の薬害だが、その問題点を医師に指摘せず我慢していた父にも瑕疵があるように思う。我慢強さという昭和のいささか古くさい美徳であったとしてもである。
 それが点滴事故後、飲み薬が5種類だけになると食欲が湧くようで、右腕の浮腫(むくみ)のため右手で箸を使うことができないにも関わらず、食事は常識内の遅れで済ませることができるようになった。
 一応の治療が行われた5月12日に医療センターから一般の総合病院に転院したが、両病院とも食事のまずさは同じで、一日中ベッドの上にいるため、歩くことが極端に少なくなった。
 食事やトイレ・入浴介護のために私は5月22日午前中に空路帰郷し、同日の午後、父が退院した。
 介護の大変さ煩わしさは様々なところで見聞きしてきたが、実際に体験してみると想像を絶する肉体的・精神的な厳しさと悲しみがあった。
 昨年の6月、父は92歳になったのを機に運転免許証を返納した。そしてあらかじめ覚悟していたことではあったが急速に衰え始めた。人は生きるモチベーションというか、何かを日々達成しているという充実感を喪失すると、生きる意欲が衰えるようである。(福山博)

(インタビュー)
パラ柔道のレジェンド松本義和さん

 【シドニーパラリンピック柔道100kg級銅メダリスト、アテネパラリンピック開会式日本選手団旗手、59歳にして東京パラリンピック出場等国際大会で活躍し、日本の視覚障害者柔道を長きにわたり牽引してきた松本義和氏(61歳)が昨年(2023年)末をもって現役生活を引退した。そこで、5月13日(月)、大阪府に住む同氏にオンラインでインタビューし、これまでの柔道生活を語っていただいた。以下、敬称略。取材は本誌 戸塚辰永・岩屋芳夫、構成は戸塚辰永】

  自暴自棄の頃

 松本義和は、1962(昭和37)年6月30日に大阪市浪速区で4人兄弟の末っ子として生まれ、地元の小・中、高校と進んだ。高校では軟式テニス部に入り、練習に励んだ。
 だが、高校1年生の冬に異変が起こった。それまで、テニスボールを普通に打ち返すことができていたが、ラケットを振り遅れるようになった。仲間は「スランプだから気にするな。そのうち良くなるよ」と励ましてくれた。しかし、一向に良くなる気配はなく、「眼に異常があるのでは」と彼は疑った。
 そして、眼科を受診すると、極めて重度の緑内障と診断され、大きな病院を紹介された。春休みに右眼の手術を受けたが、視力を温存するものではなく、眼圧を下げるものだった。手術直後に右眼は失明した。左眼も徐々に悪化、視力も落ち、視野も狭まっていった。
 春休みが終わり、2年生となった彼は、右眼を失明したことをクラスメイトに明かすことができなかった。周囲から同情されることも嫌だったし、そうされることで、惨めに感じる自分を受け入れられなかったからだ。彼は、眼が悪いことをひたすら隠して高校生活を送った。
 それまでスポーツが好きだった彼が、球技大会や体育祭があっても参加できないし、参加したとしても惨めな思いをするだけなので、「そんなのやってもしょうがない」と行事をサボってやさぐれ仲間と喫茶店に行ったりした。その頃クラスメイトから付けられたあだ名が「タイマン」だ。タイマンにはけんかっ早いやつという意味と、不真面目なやつという意味がある。彼は後者で、不真面目なやつだと思われていた。
 高校3年生になると、黒板の字も教科書も見えなくなり、ノートも取れなくなった。何もできなくなってしまった彼は、クラスの中で1人孤独感にさいなまれる日々を送った。
 高校を卒業したものの、自宅に閉じこもり悶々とした日々を過ごした。このまま眼が見えなくなったら、何もできなくなってしまう。いっそそれだったら死んだ方がましだと考えもした。
 そんな折、福祉事務所の担当者から、日本ライトハウスの職業・生活訓練センター(現・視覚障害リハビリテーションセンター)を勧められた。盲学校があることは知っていたが、盲学校や訓練施設は、自分とは関係ない別世界だとかたくなに拒んでいた。訓練センター入所の朝も気乗りせず、重い足取りで向かった。

  孤独からの解放

 訓練センターでは集団生活をする。居室は6人部屋で、全国から訓練を受けに来た視覚障害者がそこにいた。それまで、眼が悪いのは世界で自分1人しかいないとまで思いつめていたが、「眼が悪いのは自分だけではない。眼が見えなくても頑張れば生きていける」と感じ、胸につかえていたものがすっと取れた。彼は、すぐに打ち解けてその日夜遅くまで同室の仲間と語り合った。19歳の春のことだった。
 入所して視覚障害者の様子がわかってきた。入所前年の1981(昭和56)年には全盲の竹下義樹(現・日本視覚障害者団体連合会長)が点字受験で初めて司法試験に合格したことや視覚障害のある教師が教壇に立って活躍していること、コンピューターの訓練を受け一般企業で働いている人がいること、多くの人が鍼灸マッサージで生計を立てていること、家族を持って生活している人もいることなどを知った。
 20歳の11月に左眼も失明し、全盲となったが、彼は絶望しなかった。というのも、高校時代からじわじわと眼が見えなくなっていく過程の方がはるかに辛かったからだ。「落ちるところまで落ちたんだ。後は這い上がって行くだけだ」と腹をくくった。全盲になって辛いこともあったが、得るものは多くあり、むしろそこに希望を感じた。「義和、全盲になってずいぶん明るくなったね」と叔母からも言われた。

  柔道にのめりこむ

 翌年(1983年)、大阪府立盲学校(現・大阪府立大阪南視覚支援学校)専攻科理療科に入学した松本は、先輩から誘われ、柔道部に入部した。当時身長こそ186cmあったが、体重は63kgとがりがりだった。もともとスポーツが好きな彼は水を得た魚のように柔道に熱中し、2年生で初段に昇格。近畿地区盲学校柔道大会で活躍した。
 同校を卒業した1986(昭和61)年には、日本視覚障害者柔道連盟が発足し、第1回全日本視覚障害者柔道大会が講道館で開催された。腕試しと思って出場した松本は71kg級にエントリーした。すると、各階級に四段五段の猛者が何人もいて驚いた。いうまでもなくこてんぱんに負けた。
 卒業と同時に鍼灸マッサージの資格を取り、就職して1年間修行した後、彼は24歳ではりマッサージ松本治療院を開業した。努力の甲斐があり、仕事はすこぶる順調に運び、30歳を迎える頃には従業員を10人ほど雇うまでになった。
 仕事に打ち込む一方、柔道の稽古も欠かさなかった。そんな中、ソウル1988パラリンピックから柔道が正式種目に採用されることとなった。自ずと、1987(昭和62)年の第2回全日本視覚障害者柔道大会がソウルパラリンピック選考大会となった。松本も78kg級に出場したものの敗戦。一方、盲学校の4歳年上の先輩、新川誠が60kg級で優勝。ソウル1988パラリンピックに出場し、銀メダルに輝いた。

  目標はパラリンピック

 盲学校で共に稽古をし、ライバルとしていい勝負をしてきた新川が、大舞台で銀メダルを獲った。「彼ができるなら俺もできるはず」と目標はパラリンピック出場に定まった。その時、松本は26歳だった。
 しかし、バルセロナ1992パラリンピック柔道代表をかけた国内選考大会で敗退。その4年後のアトランタ1996パラリンピック柔道代表選考大会では惜しくも国内2位でまたしても出場を逃した。ただ、ここで諦める訳にはいかなかった。せっかく2位まできたのだから、次は1位しかない。それからは「4年後のシドニーに絶対出たい」と、朝から晩まで柔道のことばかり考えていた。施術は従業員に協力してもらい極力控え、柔道の稽古に時間を割いた。また、民間のトレーニングジムも快く協力してくれた。
 それほどまでに仕事や柔道にがむしゃらに励むのには訳があった。20歳で失明した彼は、「健常者の世界には絶対負けたくない」という意識が人一倍強かったからだ。それでも、視覚障害ゆえの壁に阻まれることも少なくなかった。移動の際、歩いていて電柱に頭をぶつけたり、自転車に引っかかったりして、悔しい思いも数限りなくした。だが、彼は自由を求めて独り歩きをし続けた。それは今でも変わらない。

  夢が叶う

 そしてついに、1999(平成11)年のシドニー2000パラリンピック代表選考大会では100kg級に出場し、みごと優勝。悲願のパラリンピック出場権を手に入れたのだった。パラリンピック出場は、20歳で失明してから18年、視覚障害者として生きてきたことを証明するものであり、それはその後の人生においても大きな自信に繋がった。
 シドニーでは1回戦で負けはしたものの、敗者復活戦を勝ち進み、銅メダルを獲得した。「銅メダルは結果としてついてきたものです」と松本は謙遜する。
 大会期間中は様々な障害者と出会い交流した。その誰もが人生を楽しんでいることに感銘し、勇気づけられた。例えば、車いすの選手が段差をもろともせず乗り越えていく姿を目の当たりにして人間の可能性を感じた。
 当初は38歳でパラリンピックに出場できたことで選手生活に区切りをつけるつもりでいた。ところが、日本への帰路、楽しい思い出ばかりのパラリンピックを振り返って、「あと4年頑張ってみよう。もう一度パラリンピックに出場したい」という想いが強くなった。

  パラリンピックに出る理由

 プライベートでもパラリンピック出場を機に変化があった。若い頃から結婚願望があり、彼女のような人はいたが自分に自信がもてず、結婚に踏み切れなかった。ところが、パラリンピックに出場したことで、自信がつき何事にも臆することがなくなった。
 シドニー大会を終えて1、2か月した頃、彼は「山の会」に参加した。そこで後に妻となる健常者の女性と知り合った。松本は積極的にアプローチし、交際へと進んだ。結婚を意識するようになったが、彼女の父は結婚に賛成したが、彼女の母は反対だった。また、「何でわざわざ障害のある人と結婚するの?」と悪気はないが、彼女の友人はそう言ったという。その話を聞いた彼は「そうした周囲の不安を跳ね返そう、彼女のために頑張ろう」というモチベーションで、次の2004年のアテネパラリンピックに向けて稽古に励んだ。
 その結果、好成績を出した彼はアテネ2004パラリンピック出場を勝ち取った。そして、晴れて2004年2月に結婚したのだった。
 アテネパラリンピックの開会式では、日本選手団旗手という大役を任された。試合は負けたものの、アテネから帰国して11日目に娘が誕生した。
 父となった彼は家族を養うために仕事に励んだ。共働きで娘を0歳児から保育園に入れた。松本も娘の送り迎えをした。保育園では、「○○ちゃんのお父さんは眼が見えない」と同情の眼で見られるのが嫌だった。それよりも、パラリンピック出場に向けて頑張っている、かっこいいアスリートとして見てもらいたかった。2006年には長男も生まれ、家族は4人となり、今度は「家族にパラリンピックで活躍する姿を見せてあげたい。友人、知人に元気を与えたい」という気持ちがふつふつと湧き上がってきた。しかし、2008年の北京、2012年のロンドン、2016年のリオと出場を逃した。リオでは、54歳。心身共に限界だ。出場できなければ現役引退と決めていた。
 ところが2013年に2020年のオリンピック・パラリンピックの自国・東京での開催が決定した。オリンピック・パラリンピック出場者にとって自国開催は身近な人に直接自分の勇姿を見てもらえるまたとない機会である。「東京まで頑張ろう、みんなに自分の戦う姿を見せたい」という気持ちが後押しし、見事出場権を勝ち取った。

  新型コロナで1年延期

 新型コロナウイルス感染症が2019年12月に中国・武漢で発生し、2020年初頭から世界中へと伝播し、パンデミックとなり、東京でのオリンピック・パラリンピック開催は1年延期された。政府は「3密」を避け、不要不急の外出をしないよう呼びかけた。そのため、柔道場も閉鎖するところが増えた。彼は練習場確保に奔走し、かろうじて開いている道場で稽古した。だが、それは十分なものではなかった。
 そんな時、摂南大学の柔道部員が稽古相手を買って出てくれた。若い学生との稽古はとても辛かった。稽古と筋力トレーニングを積み重ねた体は、満身創痍だった。
 そんな中、子供たちが幼い頃から家族ぐるみでつきあってきたママ友家族2組から、「松本さんの試合を見に行くから、観戦チケットを取ったよ」という嬉しい知らせが舞い込んだ。彼は応援に応えようと、懸命に頑張った。
 結局、東京2020オリンピック・パラリンピックは無観客開催となり、試合会場での観戦は叶わなかった。試合は内股を食らい1回戦で敗退。彼の東京パラリンピックはあっという間に終わってしまった。「全部やり終えた。これで現役生活引退」とさばさばした気持ちで帰宅した。そんな彼を家族は労ってくれた。

  ビッグチャンス到来の矢先

 2022年に視覚障害者柔道の環境が激変した。それまで全盲も弱視も関係なく戦ってきたが、全盲は全盲同士、弱視は弱視同士で対戦するクラス分けが導入されたのだ。パリ2024パラリンピックまで3年弱。彼は、パリに向けてトレーニングを再開した。というのも、シドニー、アテネ、東京で負けた相手は全て弱視だったからだ。2022年の世界ランキングは11位だったが、全盲に限ると3位。これならメダルも射程圏内だ。
 2022年12月11日に講道館で行われたIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)柔道東京国際オープントーナメント大会ではJ1クラス90kg級で、松本は強豪ウズベキスタンの選手に粘り勝ちし、見事優勝を果たした。彼にとって、これが国際大会個人戦での初優勝だった。「自分自身の力で君が代を流すことができたのはほんまに感激しました」と振り返る。
 パリパラリンピック出場に必要なポイントを獲得し、意気揚々と2023年正月から乱取りの稽古を始めた。ところが、普段は4分やっても大したことはないが、2分もしないうちに息が上がり、体もふらついた。「これはおかしい」と脈をとってみると、脈が飛んでいる。すぐに病院に行くと、心房細動と告げられた。
 心房細動による不整脈は、心臓で発生した血栓が脳へ行くと脳の血管をふさぎ、脳梗塞を起こす。その結果、半身まひを生ずることもある。有名人では、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督がそれだ。
 松本は心臓のカテーテル手術を2度受け、病気は完治した。そして、6月から稽古を再開し、国際大会に出場したものの、どれも初戦敗退。ポイントが1点もつかなかった。昨年12月に開催されたIBSA柔道グランプリ2023東京大会も初戦敗退。これで、完全にパリパラリンピック出場の芽が消えた。
 「次のロスでは66歳。そこまではやれない」と、61歳で現役引退を決めた。

  みんなのために、これからのパラアスリートへ

 現在は、大阪市長居障がい者スポーツセンター柔道部代表として、同センターの道場で若手視覚障害者の指導や講道館五段であることから大阪市立修道館講師として、稽古もかねて後進の指導をしている。
 また、松本は大阪市住吉区視覚障害者福祉協会理事等の役職を務めている。そのほかにも、住吉区障害者相談員としても活動している。「相談員をしていて、私が役所へ行くと職員が話をよく聞いてくれるんです。それで、『困ったら松本に相談しろ』とみんなが言うんです」と苦笑する。
 日本は少子化が進んでいる。これは視覚障害者も同じだ。しかも、昔は盲人野球、盲人バレー、盲人卓球、水泳、陸上くらいしかなかったが、今はブラインドサッカー、ゴールボール、マラソンなど視覚障害者スポーツは多様化している。才能のある選手が分散し、柔道といったマイナーなスポーツには選手が集まらない。その点、マラソンは手軽にできる。
 現在、彼の趣味はマラソンで、ハーフマラソン、フルマラソン、ウルトラマラソンを完走している。「体重100kgで100kmを2回走った男」が自慢だ。
 また、「盲学校の児童・生徒数も減ってきているのは寂しいけれど、インクルーシブ教育を受けた人、学生時代に視覚障害が進行した人が、SNSを見て視覚障害者スポーツに関心を持ってくれるようになりました。実際、パラアスリートの多くがインクルーシブ教育を受けています」と松本は今後のパラアスリートが生まれるきっかけについても語った。
 まずは、間近に迫ったパリでの日本選手の活躍を願いたいものである。

編集ログ

本稿は郷里の熊本で書いています。
 2つの病院で通算30日間入院した父は単独歩行ができなくなり、居間のソファーから隣の仏間にある仏壇までは4mの距離なのですが、その間は手すりがないので歩けません。
 入院前、父は必ず午前6時に起床し、洗面の後、仏壇に線香をあげていたのですが、病院からの退院後は起床時間が不規則になりました。だからといって夜、眠れないということはなく、それどころか昼寝に加えて、午前7時前に起きた日は決まって午前10時頃、ソファーに横になって熟睡することさえあるのです。ただ寝息が聞こえないとき、僕らは父が息をしているのか、その見極めに緊張します。
 こんな状態ですが、平日午後4時から始まるテレビ番組の「水戸黄門」の再放送は見逃しません。そこで、その前後に1600m、30分弱の「散歩」と称して、車椅子に乗った父を戸外に連れ出します。途中、知り合いや保育園児のグループと挨拶を交わしたりするので、気分がいいようです。車椅子には座っているだけですが、一応舗装されているとはいえ、半分は堤防の上を通るのでガタガタして、それが少し運動になっているようです。たまに段差に気付かずにガタンと音を立てることがあると、「気をつけろ!」との叱責があり、そのたびに僕は「無免許運転なのですみません」と謝っています。
 無免許運転は「排せつ介助」についても同様で、トイレと入浴の介助を父は妹にはさせないので、「介護の便の拭き方を知ってグ~ンと楽になる」などのウェブの情報で学びながら悪戦苦闘しています。ただ、ウェブ上の具体例を見るとまだ僕らの苦労は序の口のようです。
 退院直後、立ち上がることさえできなかった父が、ものに掴まって独りで立ち上がり、伝い歩きもできるようになりました。腕の震えも和らぎ、菓子の小袋を自分の手で破ることもできるようになり、食欲も出てきて、お八つもむしゃむしゃ食べて少しずつ快方に向かっています。
 喫緊の課題は、僕が東京に帰った後、排せつ介助をどうするか見通しがついていないことです。妹はやる気満々なので、自尊心を傷つけないように父を説得するだけなのですが。(福山博)

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