点字ジャーナル 2024年5月号

2024.04.25

目次

  • 巻頭コラム:気分はお笑い芸人なのか?
  • (寄稿)あはき法改正等の取り組みは、盲学校に何をもたらしたか?
  • (追悼)憎めない、どこか魅力のある男・高橋實さんの死を悼む
  • (追悼)舛尾政美先生の死を偲んで
  • ネパール・ハイウェイを行く(3)古着の寄贈式
  • スモールトーク プーチン暴挙のとばっちり
  • 読書人のおしゃべり 人々の言の葉から見える戦争 ~『戦争語彙集』に編まれた証言より
  • ネパールの盲教育と私の半生(35)同窓会と奨学金基金
  • 長崎盲125年と盲教育(13)学友会誌の発行
  • 自分が変わること(178)東京人のけなげさ
  • リレーエッセイ:牧師であること(上)
  • アフターセブン(110)充電式ワイヤレススピーカーが便利すぎる話!
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (261)尊富士が110年ぶりの新入幕優勝の大快挙
  • 時代の風:障害者や高齢者にも使いやすい自販機へ、
      後期高齢者保険料伸び率最大、
      唾液を用いて下咽頭がんを早期に発見、
      神奈川県視覚障害者投票補助具活用、
      木村敬一選手新刊発売
  • 伝言板:耳で楽しむバードウォッチング、
      劇団民藝公演、
      府中市民交響楽団演奏会、
      瞳かがやきコンサート、
      クラシック講座
  • 編集ログ

巻頭コラム:気分はお笑い芸人なのか?

 自民党の御用新聞と目されることも多い『産経新聞』が、3月8日自民党青年局の懇親会における乱痴気騒ぎをスクープした。そのあおりで藤原崇(ふじわら たかし)衆議院議員が自民党青年局長を、中曽根康隆(なかそね やすたか)衆議院議員が同青年局長代理を辞任し、過激パーティーを企画した川畑哲哉(かわばた てつや)和歌山県議は自民党離党という憂き目に遭った。
 そもそも同懇親会は、裏金問題が発覚して大騒ぎになっていた時も時、昨年の11月18日、自民党青年局の国会議員や近畿2府4県の若手地方議員や党関係者など約50人が参加して和歌山市内のホテルで行われた「青年局近畿ブロック会議」の後に開催されたものだ。おそらく参加者の誰かが面白半分に動画を撮影し、それを今年『産経新聞』が入手し、灸を据える意図で報じたのだろう。
 既視感があると思ったのは、岸田首相の長男・翔太郎氏が、総理大臣公邸で親族と悪ふざけした写真が流出して、昨年の6月1日に総理秘書官を辞職したときと同じパターンだからだ。
 8月には松川るい参議院議員が自民党女性局長を辞任した。女性局がフランス研修中に撮影した豪華な食事やおどけたエッフェル塔記念写真を交流サイト(SNS)にアップし、小学生の次女同伴だったことも問題にされたのだ。
 裏金問題の当事者でもある世耕弘成(せこう ひろしげ)参院自民党幹事長(当時)は記者会見で、「この出張は女性活躍推進という観点から、地方の女性議員も同行をし、政治における女性活躍の先進国であるフランスの現状とか制度とか……内容は極めて充実しているということだから、できるだけ早く、出張の報告を取りまとめて、私の方にも見せて欲しい」と要請し、弁護した。
 自民党のホームページに昨年7月24日付で「令和5年女性局海外研修」がアップされたが、写真8枚に本文はたった360字だった。御用新聞でも見放すような内容の薄さである。(福山博)

(追悼)憎めない、どこか魅力のある男・高橋實さんの死を悼む

聖明福祉協会会長 本間昭雄

 3月22日の朝、いつものように5時のニュースを聞いてベッドを離れた。冬の名残りで冷え切っていた部屋が漸く温まったところに電話のベルが鳴った。「父が亡くなりました」と、高橋和哉君がつぶやいた。
 次子(つぎこ)夫人から、夫が骨折で入院したこと、その後誤嚥性肺炎を起こしたけれども、いまはリハビリに入っていると聞いていたので、信じられなかった。
 くるべきものが来たと思いつつも、周りの友人が次々と亡くなり、心寂しく思っていたときだけにショックは大きかった。
 60年以上書き続けた日記を書棚から取り出してみた。読み進むと、随所に彼の名前が見つかった。「高橋夫妻来園。楽しく歓談。未来を語りビールが進む」等々、思い出が次々と指先に伝わってきた。
 帰郷し父親と対面した和哉君から電話が入った。20人ほどの家族葬で見送るとのこと。不便な所だし、95歳という年齢を考えてみれば無理もないのだが、大阪まで来て体を壊すようなことがあれば父の本意ではないという意味の言葉が返ってきた。骨折したときにお見舞いに行けばよかったと悔やまれてならなかった。それではと、お花を贈るので霊前に手向けて頂きたい旨依頼した。そして高橋さんが親しくしていた田中徹二<タナカ・テツジ>日点会長と茂木幹央(もぎ みきお)日本失明者協会理事長のお二人だけには、私の責任で連絡を取ることにした。
 そのときたまたま電話が鳴って「田中さんから電話です」とのことで受話器を取ると、「NHK盲人の時間が60周年になる…」と切り出されたのを遮るように「高橋實が亡くなった」と伝えた。しばし沈黙ののち、「偲ぶ会でも考えてはどうだろう」との提案があった。やはりくるべきものが来たと田中さんも思ったのだろう。茂木さんにも同様のことを伝えると、遠くなった私の耳にも絶句している声が届いた。
 高橋實さんが青雲の志を立てて日本大学に学び、確か彼が3年生の年だったか駿河台キャンパスの教室で彼を中心とする仲間の人たちに話をした。そのとき感じたのはとても明るい声の青年だということで、自信に満ちた司会進行を務めていた。中身は忘れたが、私も若かったせいもあり、彼に魅力を感じ、交流が深まっていった。
 憲法が大きく変わり、学ぶ意志のある晴眼者は誰もが進学を認められるのに、盲人は依然として受験すら拒否される、彼の大きな目標の一つとして、大学の門戸開放を目指す活動を始めた。そのことは、数年前に刊行された『盲人と大学 門戸開放70周年』(高橋實監修)に詳しいが、そこには今日に至る苦闘の歴史が描かれている。
 彼は盲学校在学中からジャーナリストを目指し、大学で十分学び、力をつけて点字毎日への就職を目指した。周辺の支援を受けて就職運動を続けたが、簡単なことではなかった。一度は就職浪人という苦い経験を味わう。そのようなとき、彼の情熱と夢に共感した日本点字図書館の本間一夫先生と私の法人が、浪人中の彼にできる範囲での生活保障をしたことを懐かしく思い出す。
 当時は毎晩のように次子夫人とともに我が家に来られ、まずやかん一杯のお茶を飲むことから始まって、ビールを何本も空けた。大したつまみもなく、二人で飲み、夜を徹して語り続けた。ときに見解を異にすることもあったが、懐の深い高橋さんにいつも先手を取られたものである。
 浪人中の仕事として、ある全盲の小学生に点字を教え、ご家族との話し合いに行ってもらったことがあった。その少年は何とその後筑波大学の名誉教授になった。この事例のごとく、何事にも誠実に熱意をもって取り組むのが高橋實だったのである。
 その後、夢と希望がかなって点字毎日に就職。以来、彼は定年になるまで健筆を振るった。いつも盲人に寄り添い、思いやりのある取り組みには、感心させられたものである。
 一方、盲学生運動においても、彼は日本盲人福祉研究会「文月会」の中心的役割を担った。田中徹二さんとともに月刊誌の発行その他、新しい分野を切り開いていった。
 その文月会を母体として宿願であった社会福祉法人を取得することになり、私が会長として、高橋さんとともに厚生省や東京都に通ったことも懐かしい思い出だ。1996(平成8)年10月29日、この日は彼にとっても、天国へのお土産として最も大きなものの一つに違いない。
 この日は高橋實ご夫妻と私ども夫婦が一緒に都庁を訪問し、福祉推進部長室において、視覚障害者支援総合センターの法人認可書を受け取った。11月1日が点字制定の日で、この日付で認可書を受領し、高橋實体制が誕生した。私が法人認可書を受領し、その後高橋さんに理事長を譲り、「思う存分好きなようにやるといいですよ」と言った。
 この法人認可には、愛知県立岡崎盲学校の勝川武(かつかわ たけし)さんからも「高橋さんの夢を何としても叶えてあげたいので、お力添えをぜひぜひお願いします」と懇請されていた。勝川さんは亡くなるまで高橋實を信頼し、協力を惜しまなかった教育者だ。
 その後センターの理事長は2代目榑松武男(くれまつ たけお)、3代目引田秋生(ひきた あきお)と益々発展している。おそらく後顧の憂いはないだろう。
 また先ごろ、彼は第57回点字毎日文化賞を受賞した。そのとき、彼を慕う多くの人々が相集い、受賞を祝福した。そして彼は2021(令和3)年10月に『この道一筋 点字毎日文化賞受賞ならびに卒寿記念 点毎と文月会とセンターと』として出版したが、ここには彼の生涯と人間性すべてが凝縮されている。
 最後に酒の話であるが、いつの頃からだったか、彼は焼酎を嗜むようになった。彼は非常にこだわりの強い男で、焼酎も「いいちこ」を必ず注文し、梅干しを一つ入れて飲むのを欠かさなかった。お互いに90歳を過ぎ、電話で話をするときも、「飲んでますか」と問いかけると、「相変わらずいいちこを飲んでいます」との返事があり、お互いの健康を確かめ合った。いずれ近いうちに私も行くので、「いいちこ」を飲みながらまた語り合いたいものだと、今は静かに過ぎし日を懐かしんでいるところである。
 激動の生涯、まさに人生に悔いなしの生き方をした男、ついに逝く。

(追悼)舛尾政美先生の死を偲んで

山口県盲人福祉協会点字図書館 館長 岡本博美

 社会福祉法人山口県盲人福祉協会舛尾政美理事長が3月17日、老衰により87歳で逝去されました。
 舛尾先生は、昭和11(1936)年福岡県行橋(ゆくはし)市生まれで、3歳の年麻疹(はしか)で失明。その後山口県下関市の山口県立盲学校(現・下関南総合支援学校)で鍼灸あん摩マッサージ資格を取得し、下関市内で開業に至りました。
 昭和24(1949)年に発足した山口県盲人会(現・社会福祉法人山口県盲人福祉協会)の役職に携わるようになり、以降60余年福祉運動の中で、点字ブロックの敷設や盲人用信号機の設置を山口県下に広めるとともに、昭和45(1970)年には山口県独自の点字出版事業を考案して実現させ、点字出版部を設立。昭和49(1974)年に山口県盲人福祉協会点字図書館を設立しました。そして、昭和56(1981)年6月に山口県盲人福祉協会理事長に選任され、施設経営に直接関わるようになりました。
 山口県下唯一の養護盲老人ホーム建設運動の第一人者として、同志とともに、県下3カ所で「竜鉄也歌謡ショー」を開催したり、県内の自治会に物品販売の協力を呼びかけるなどして資金集めを行う一方、自治体や関係機関に対して要望・陳情運動を続けました。
 運動も終盤に迫る昭和60(1985)年、私(岡本)を盲老人ホーム設立準備事務担当に指名しました。爾来、2人3脚で昭和62(1987)年4月1日に定員50名の盲老人ホーム「春光苑(しゅんこうえん)」が開苑しました。
 社会福祉施設長資格を取得するために、舛尾先生は開苑1年前から通信教育を受けられ、この期間中に私と1週間静岡県熱海市で行われたスクーリングに参加しました。そのとき、先生は「いよいよ開苑も近づいた。私は小さな頃から目が見えなくて周りからいじめられながらも耐えてきた。そして社会に出てからも、視覚障害者専用の老人ホームを建設する大きな夢を持って死にものぐるいで活動してきたが、周りからは所詮叶わぬ夢であり、施設の柱が1本でも立つまでは到底信用できないと馬鹿にされてきた。あんたは目は見えるが、もしこの仕事が実現したとしてもまだまだ若輩者。私が苑長となりあんたが事務長職に就いたとしても、苑長は目が見えない上に事務長はただの若造とののしられるだろう。しかし、『人生とは耐えることなり』、耐えて2人で頑張っていけば、盲老人福祉の道が見えてくるのは間違いない。大きな経験をした己を信じて頑張りなさい」と励まされたこと、決して忘れることはありません。
 開苑後は2度の増築で定員80名となり、平成18(2006)年に障害者と高齢者のデイサービスセンター「あかり」を春光苑に併設するとともに、ヘルパーセンターも創設しました。
 平成23(2011)年には共同生活援助事業「グループホーム光明園(こうみょうえん)」を開設し、就労継続支援B型事業所・鍼灸マッサージ治療所「光明園」を併設するなど、春光苑開苑前は点字図書館のわずか5名しかいなかった職員が、全事業所で100名を超える大きな組織に育て、舛尾先生は山口県盲人福祉協会の中興の祖として大きな功績を残されました。
 また、令和元(2019)年6月~令和3(2021)年5月は、日本盲人社会福祉施設協議会(日盲社協)理事長、日本盲人福祉委員会(日盲委)副理事長として全国の盲人福祉施設や団体を指導する盲界のリーダーとしても尽力されました。
 一方、戦国武将が大好きで、日頃から施設や事業所の経営に関わる話を歴史にたとえて言い表すなど、ユニークな遊び心も旺盛でした。仕事上はとても厳しい先生でしたが、情に脆く感情が溢れて思わず涙を流す姿を幾度となく見てきました。
 約40年間、片腕としてお供させていただいたことを深く感謝申し上げますとともに、先生の「人生とは耐える異なり」の言葉を深く胸に留め置き、これからも精進してまいりたいと思っております。

編集ログ

 下着のような衣装をつけたゴーゴーダンサーに口移しでチップを渡すことのどこが、「ダイバーシティー(多様性)」なのか、川畑哲哉和歌山県議の企画意図を疑うが、きわどいサービスで有名なダンサーチームと知り合いなので、懇親会に呼んだらインパクトがあるとの岸田翔太郎氏にも通じる「仲間内で楽しむための悪ふざけ」だったのかも知れない。
 自民党女性局のフランス研修に参加して顰蹙を買った広瀬めぐみ参議院議員は、よく目立つ赤いベンツの助手席にカナダ人のイケメンを乗せて新宿区歌舞伎町のラブホテルに入る姿を『週刊新潮』(3月7日号)に掲載され、報道を事実と認めて次のように謝罪した。
 「私の軽率な行動で学生時代から支え続けてくれた夫を裏切ることになり、子どもたちにもつらい思いをさせ、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と、涙ながらにコメントし、「それでも家族はこんな私を許してくれ……私も一生かけて夫と家族に償ってまいります」と。
 安倍派は2022年のパーティーの前に、会長の安倍晋三元首相が「現金のやりとりは疑念を招く」として、現金還付を行わないことに決定した。
 しかし7月に安倍氏が亡くなると現金還付を求める声が上がり、しかも、2022年に開いたパーティーについて、改選となる参議院議員に販売ノルマを設けず、集めた収入を全額キックバックしていたが、参議院自民党を仕切る世耕氏は「私には何の相談もなく、勝手に決まっていた」と参議院の政治倫理審査会で強弁した。安倍氏は草葉の陰で「言わんこっちゃない」とでも言って、苦笑いしているに違いない。
 法曹資格を持っていたり、高学歴の先生たちの倫理以前の児戯に等しい行為は、ただ頭のネジが外れているだけなのだろうか。あるいは、テレビのお笑い芸人を真似することで庶民派をきどりたいのか。それとも我が国全体が劣化してきている証左なのだろうか。

    編集長より
 小誌にもご寄稿いただいた舛尾政美先生と高橋實先生のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げますとともにご冥福をお祈りいたします。(福山博)

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