点字ジャーナル 2024年3月号
2024.02.26
目次
- 巻頭コラム:2次避難したくない心理への対策
- (緊急インタビュー)珠洲市の湯宿で被災した林由美子さんに聞く
- (特別寄稿)能登半島地震の被災視覚障害者 ―― その状況と日盲委の支援
- (新連載)ネパール・ハイウェイを行く(2)町一番のホテルに泊まる
- スモールトーク 英国式洗い方
- 避難マップを提供するクラウドファンディング
- 長崎盲125年と盲教育(11)盲・聾唖学校の県営移管
- ネパールの盲教育と私の半生(33)不幸中の幸い
- 自分が変わること(176)23年のタイムトラベル
- リレーエッセイ:私の柔道人生(上)
- アフターセブン(108)大災害に備える日常生活のすすめ
- 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
(259)新大関琴ノ若誕生 - 時代の風:シチズン・オブ・ザ・イヤーにブラインジェンヌチーム、
パラスポーツの調べ学習に、
筋強直性ジストロフィーの根本的治療薬開発、
変性半月板への衝撃波治療 - 伝言板:視覚障害者専用のスマートフォンサービスを開始、
ふれる博物館第13回企画展、
東京ロービジョンサポートフェア、
音声解説付きDVD映画の体験上映会 - 編集ログ
巻頭コラム:2次避難したくない心理への対策
災害直後は最寄りの学校や公民館など(1次避難所)に避難して、その後、仮設住宅に移るのが一般的だ。だが、山間部が多い能登半島は平地が少なく用地確保が難しい上に、水道の配管がずたずたで上下水道等生活インフラの復旧が難航している。
そこで、電気や水道が断たれた過密な1次避難所では衛生状態が悪く、口腔内の細菌の増加による肺炎、ノロウイルス、インフルエンザそして新型コロナウイルスが広がっている。特に高齢者にとっては命の危険が迫っており、低体温症や体を動かさないために機能が落ちる廃用症候群やエコノミークラス症候群などで膨大な災害関連死につながる恐れさえある。2016年の熊本地震では犠牲者276人のうち、関連死が約8割に上った。
そこで、石川県は被災地外の旅館やホテルなどに移ってもらう2次避難を進めているが、「先祖代々の墓があるから」「地域の皆と一緒にいたい」「住み慣れた土地から離れたくない」、あるいは「自宅を留守にすることに不安がある」との理由から、2次避難がまったく進んでいない。
この被災者の気持ちが私には今ひとつ納得できなくて、92歳の父に聞いたら「よく理解できる」と言った。そこで「自宅が住めなくなって、最寄りの小学校の体育館に避難したものの寒く、断水しているので手や顔も思うように洗えない。災害関連死の危険があるので、県が『隣の県の旅館に2次避難してください』と要請したら応じますか」と聞いたら黙り込んでしまった。
このやりとりを聞いていた父と同居する妹は、「お父さんが移らないと、私も移れない。周りに迷惑をかけるに決まっているのに、困ったことだ」と嘆いていた。
だが、この問題は個々人の人生観に関わるものだけにその説得は非常にやっかいである。2次避難拒否は自殺行為ともいえる生死に関わる問題だけに行政は、たとえば「断水している地域は、特別な残留理由のない人は、1~3ヶ月強制的に避難」のような仕組みも今後考えるべきではないだろうか?(福山博)
(インタビュー)
珠洲市の湯宿で被災した林由美子さんに聞く
【元日に能登半島を襲った地震では、地元民だけでなく帰省先や旅行先で被災した人も多い。知らない土地で災害に遭う可能性は誰にでもある。しかも、普段使って頼りにしている携帯電話の基地局が被災して通信サービスが利用できない状況が発生。さらに地上波テレビのNHKと地方局の北陸放送、石川テレビ、テレビ金沢、北陸朝日放送が受信できなくなってしまった。災害現場では誤情報や偽情報が飛び交う中、被災者にとって正確な情報を知るうえで重要となるテレビ放送が止まるのは深刻な事態だ。震災が発生した後、家庭に電波を送る中継局への電力の供給が途絶え、バッテリーで稼働を続けたが、それも切れてしまったのだ。かくして被災者は、誰もが情報障害者になってしまったのであった。そこで実際に被災した視覚障害者に電話でその体験と教訓を聞いた。インタビューと構成は、本誌編集長福山博】
石川県金沢市で鍼灸マッサージ師として暮らす林由美子さん(60歳)は、石川県珠洲市上戸町の山沿いにある宿に15人ほどのグループで滞在中、震度7の揺れに襲われた。
湯宿の年末は、臼ときねによる餅つき大会、大晦日は蕎麦を打って年越し蕎麦の調理。元旦は須須神社で初詣を行い、東京・自由が丘のイタリアンのシェフが腕によりをかけて2日のディナーの仕込みを行っている最中の惨事であった。
宿泊した湯宿は立派な日本建築だが、部屋にはテレビも電話もトイレもなく、冷房設備もないから夏は団扇と木立をぬける風がたより。冬は囲炉裏と薪ストーブで暖をとる仕組みで、吹きさらしの洗面所の先はもみじ林で、風呂は竹林にある。このため一般的な湯宿にあるサービスは期待できないが、ある種の趣味人には高く評価されている湯宿である。
林さんは2020年から毎月1回、宿に1泊2日で、オーナーやその知人らに出張施術をしている。このため今回もオーナー家族の住まいに身を寄せていたのであった。
元日の午後4時6分震度5強の地震が起きたが、当地では地震慣れしていたので、「今のちょっと大きかったね」くらいで特別に避難とかは考えなかった。
だがその4分後の地震は、震度7であったので、部屋にあるすべてのものが倒れて足の踏み場もないありさまだった。そして隣の部屋から「薪ストーブが倒れたぞ。火を消せ!」という悲痛な叫び声が聞こえた。幸いすぐに消火できたが、煙突に支えられた頑丈なものさえ倒れた事実に驚愕した。
この時点ではスマホもネットも使えたので、津波警報が出ており、しかも余震が何度もあったので再び激震が来たら湯宿(標高11m)が孤立するかもしれないと考えた一行は、4台の乗用車に分乗して高台にある避難所を目指した。
だが、5分も行かないうちに通行止めにぶつかった。道路が寸断されているので近場で避難するしかないと判断して、同じ町内にありいくらか高台の珠洲消防署(標高14m)の駐車場に逃げ込んだ。
林さんも元日の夜は車中泊を覚悟したが、トイレを借りに白杖をついて消防署内に入ると、「目が不自由なのですね。よかったら2階の事務室で休みませんか」と声をかけられた。
一帯は停電していたにも関わらず、消防署は非常用電源で煌々と電灯がともり、なにより暖房が効いており、非常食も提供してもらった。ただ、水道は断水で使えなかった。
翌2日朝になったので、いったん滞在していた湯宿に戻った。建物はしっかりしており、被害もわずかで倒壊するような心配はまったくなかった。だが、宿に通じる小道が崩れたら孤立する危険が心配された。
朝食を宿で食べ、お礼の意味も込めて午前中いっぱい宿の片付けを手伝った後、3グループに分かれた。湯宿に残る組と2カ所の避難所へ行く組である。林さんたちは車で5分の一番近い避難所である上戸小学校(標高2m)に行くことにしたが、その前に珠洲消防署に立ち寄った。すると消防署には他県からの応援部隊が続々と到着しており、駐車場には避難していた車はなかった。消防署では「津波警報が解除されたので、本来の避難所に行ってください」とお願いしたということだった。
林さんは中途の弱視者で、左目は至近でようやく1文字ずつ読める程度の視力だ。普段はスマホを使い、SNSなどの情報を文字と音声読み上げ機能の両方で把握している。それだけに通信が途絶え、被害の状況がまったくわからないことが、何より不安だった。
そこで「避難所の方が情報に触れられるかもしれない」と考え、同じ金沢市から来た夫婦の車で、避難所の上戸小学校に行くと、すでに200人の住民や帰省中の家族らで校舎の2・3階はいっぱいだった。仕方なく数人が身を寄せていた1階の教室に入ったが、そこもすぐに20人ほどで埋まった。そこで「自分には視覚障害があるので、見えなくても移動できる通路を作っていただけますか」とお願いすると、快く応じてくれた。
昼前に小学校に着いていたが昼食は出なかった。夕食は小さめのおにぎり1個と煮染めが少々。そして問題の飲み物は20人に対して1.5Lのペットボトル1本の水だけだった。しかし、空腹や喉の渇きは感じなかった。それよりトイレの心配が先立った。
避難所の係員に白杖を見せて、「視覚障害があるのでトイレまでの動線やものの配置を教えて欲しい」と伝えると、丁寧に案内してくれた。
しかし、トイレだけはとても大変だった。断水で流せないため、どうしても衛生環境は悪くなる。使用したトイレットペーパーなどは袋に捨てる決まりだが、その袋が見えない。消毒液はあったが、手を洗うことができないため、できるだけ汚れないように細心の注意を払った。また、なるべくトイレに行かずにすむように、水分補給も最小限に控えた。洋式トイレには小便はしてもよかったが、大便は厳禁と言われた。だが、翌朝のトイレは悪臭が充満しており、手を洗う水がないので、やたらに触ることができず恐怖の体験だった。視覚障害者は触るしかないのだからウエットティッシュは必需品である。
それに次いで問題だったのは堪えられないほどの寒さであった。薄い毛布1枚を渡されたが冷気が床から忍び寄ってきてとても寒かった。実は林さんが同乗した車のオーナー夫婦は羽毛掛け布団を2組もっており、林さんもその恩恵に浴したのだが、それでも寒く、毛布が入っていたアルミシート製の袋に足を入れるといくらか暖かかった。
羽毛掛け布団を2組もっていたのは、湯宿の主人が、大晦日には最大20人も集まるので、掛け布団が足りないので持参して欲しいと頼んでいたからだ。
通信は改善しなかったが、避難者の話を通じて広範囲にわたる被災状況がわかったので、林さんは少し冷静になれた。そして「珠洲市から七尾市に車で行ってガソリン30Lを売ってもらった」という耳寄りな情報を入手した。通常、七尾市から自宅までは1時間ちょっとの距離である。
そこで、「とにかく金沢に帰ろう」と3日朝7時半、元々珠洲市の方なので土地勘があり道に詳しいという帰省中の家族の車の後をついて、車で避難所を出発した。
昼食は、車中で中能登町にあるおいしいと有名な「月とピエロ」のパンを食べ、ちょっとした至福の時間を過ごした。通常2時間半で着くところを8時間かけてようやく金沢市に到着。内訳は道が隆起して寸断されており珠洲市から七尾市までの道のりに6時間かかり、そこから2時間かけて自宅に着いたのだった。
自宅ではテレビやCDプレーヤーが床に落ちており、本棚の本はすべて飛び出していた。だが、冷蔵庫の扉は開いていたが、食器棚の扉は開いていなかったので、ガラスや陶器が割れなくてよかったとほっと胸を撫で下ろした。本棚と冷蔵庫は揺れた方向に向いていたのだが、食器棚はそれと90度を向いていて助かったのである。
林さんは珠洲市の地震で、この世のものとは思えない地獄をみたので、自分にも何かできることはないかと考えていた。
仕事のかたわら、彼女はライフワークとして「あうわ」視覚障害者の働くを考える会(以下、「あうわ」)を組織して、代表を務めている。留守中に旧知の眼科医である仲泊聡(なかどまり さとし)先生(公益社団法人ネクストビジョン代表理事)から「あうわ」の彼女宛にメールが届いていた。そこで事務局長が代わりに、「代表は珠洲市で被災しました」と返事していたので、自宅に帰るとすぐに仲泊先生に「金沢に無事戻ってきました」とメールを出した。
仲泊先生とは以前に、「あうわ」で講演をお願いした縁で知り合いになり、ネクストビジョンのある神戸アイセンター病院にも見学に行って交流を深めた。
すると先生から「日盲委の対策本部(大災害被災視覚障害者支援対策本部)の人たちが金沢を訪問するので、ちょっと相談に乗ってもらえないかな」と言われた。
この話は1月4日にしていたので、翌5日に金沢入りするものだとばかり思い込んでいた。ところが4日の午後7時頃電話があり「今、向かっています。午後8時に金沢駅につきます」と言われたのでびっくりした。
自宅から金沢駅まではタクシーで5分もかからない至近距離なので、すぐに準備して出向き、対策本部の加藤俊和さんと原田敦史さんに会った。すると5日に富山県庁と富山県視覚障害者協会に行き、その後石川県庁にも行きたいとの意向だった。
林さんは「県の担当者の方も知っているので、県庁に行くときは私も同行しましょうか」と提案し、実際に同行した。
石川県は、断水している1次避難所から金沢市以南へ2次避難させる方針で、そのために金沢市に1.5次避難所を開設し、病気の方、高齢者や障害者の個々のニーズに即した2次避難所を紹介することにした。そこで1次避難所で嫌な思いをしてぎりぎりの状態で来られる能登半島の知り合いの視覚障害者に電話で、金沢市以南へ2次避難をするときの心を含めてサポートをしたり、日盲委の買い物支援へつないだりしている。
大災害はいつ起きるか分からない。林さんは「小さなことだけど、水筒やチョコレートを持っていてよかった」と振り返る。「情報の入手がなにより必要なことはいうまでもないことですが、視覚障害者にとっては情報収集だけでなく、孤立やけがなどの二次被害を防ぐ意味でも、避難所などで人とつながることが大切です」と教訓を語って話を終えた。
編集ログ
個人の意思は尊重されるべきですが、目の前で自殺を図ろうとする人がいたら止めるべきだということに異論はないでしょう。また、インフルエンザに罹患している人が出勤したら迷惑するので、企業は出勤停止を命じることがあります。企業は従業員が安全かつ健康に働けるように配慮する義務があるからです。
しかし、断水と停電の中、車中泊を余儀なくされて、災害関連死が心配されるのに、住み慣れた土地にとどまることを望む人々を強制的に2次避難させることはできません。
そのような愛郷心が理解できないのは、快適であれば国の内外を問わずどこでも住む場所を選ばないという意味において、所詮は私がデラシネ(根無し草)なのだからでしょう。地方から都会に出てくると人間関係が比較的希薄で、過干渉からも無縁なラフな人間関係が暮らしやすいと感じるのです。
もちろん消防署や市役所勤務、あるいは言葉で思いを伝えるのが難しく周囲の環境が変わると気持ちが不安定になり、自傷行為を起こすこともある重度の知的障害者など2次避難が難しい人もいます。そうであるからこそ、2次避難を断る特別な理由がない人は、「避難したくても避難できない人々の1次避難所の生活環境をよくするためにも積極的に2次避難所へ移るべき」なのです。しかし、高齢であればあるほど一時的であっても他の地域への移住を嫌がる人が多いのも事実です。それはおそらく地域のほぼ全員が顔見知りという濃密な人間関係があり、その慣れ親しんだ地域コミュニティーから離れることに恐怖を感じるからではないでしょうか。これは大都市であっても下町には、同様な濃密な人間関係があることを映画「男はつらいよ」は教えています。
平時であれば、移住は無理強いする性格のものではありません。しかし災害関連死のリスクが多い劣悪な環境の1次避難所からの移住は別です。しかも、奥能登では自衛隊が復旧させた道は、悪天候による土砂災害の恐れがあり、いつでも通行できるわけではないので時間をかけて説得するような悠長なことはできないのです。何らかの行政による強力なシステムの構築が必要なゆえんです。(福山博)