点字ジャーナル 2024年1月号

2023.12.25

目次

  • 巻頭コラム:ネパールで中国製EVに乗る
  • (インタビュー)視覚障害者運動のレジェンド笹川吉彦氏に聞く
  • 対面の喜びと醍醐味 ― WBUAPプーケット地域総会
  • ISBA柔道グランプリ大会東京2023観戦記
  • 音楽コンクール開催
  • 読書人のおしゃべり 笑えない100年前の菊池寛の諧謔
  • ネパールの盲教育と私の半生(31)私のボランティア活動
  • 長崎盲125年と盲教育(9)第1回西部盲唖教育協議会の開催
  • 自分が変わること(174)ガンビアで目にしたシスターたち
  • リレーエッセイ:やっぱり旅が好き!!
  • アフターセブン(106)本当の幸せってなんだろう
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (257)霧島が大関として初優勝、綱取りへ
  • 時代の風:世界初!受精卵着床過程iPSで再現、
      マウスの糖尿病治療に成功、
      乳がん再発を起こす原因細胞解明
  • 伝言板:第6回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール、
      チャレスポ!TOKYO、
      劇団銅鑼公演、
      教養講座「宮城道雄の生涯と業績」
  • 編集ログ

巻頭コラム:ネパールで中国製EVに乗る

 11月23日(木)、私は古くからの友人でもあるネパール盲人福祉協会(NAWB)のホーム・ナット・アルヤール理事と2人でカトマンズから路線バスに1時間乗り、支援するS校に行った。
 学校に近づくと次々とおそろいのジャージを着た生徒が乗り込んできて賑やかになった。2015年のネパール地震ですべての校舎が使えなくなり、新しく建て替えられていた。しかも広々とした校長室には25台の監視カメラのモニターがあったが、これは近年の当地におけるトレンドであるらしく、ホテルにもあった。
 次は同校から4時間かけて路線バスで山岳部にあるK校に向かった。
 道が極端に悪くなったが、道幅が狭いのでバスは穴ボコがあってもお構いなしに進む。このため荷物棚に頭を2回激しくぶつけ、その反動で尾てい骨がシートの金属フレームに激突したので悶絶した(それから随分緩和されたが、2週間たった現在もまだ痛い)。
 私はそれでも我慢して座っていたが、アルヤール氏は最後の1時間ほどは通路に立っていた。K校を訪問して、近くの食堂でランチを食べた。そしてあのおんぼろバスでカトマンズへ帰るのかと思うと憂鬱になった。すると200~300円余計にかかるが、乗り心地のいいミニバンタイプのバスもあるというので、飛びついた。
 われわれが乗ったのは中国の3大国有自動車メーカーの一つ東風汽車集団傘下の東風小康汽車(DFSK)製の電気自動車(EV)でミニバンタイプのEC36で、本体価格は200~230万円だという。2023年、中国が自動車輸出で初めて日本を抜き、世界首位となったが、それにはこれらのEVが大いに貢献したはずである。
 11人乗りEC36は、インド製4WDを次々と追い越すほど加速もよく、乗り心地も抜群だった。ところが途中、40分の充電タイムがあった。聞くところによると「30ユニット(30分の充電)で60km走る」と言っていたが、充電ステーションには充電器は1セットしかないので、結局10分待たされて、40分かかった。(福山博)

(インタビュー)
視覚障害者運動のレジェンド笹川吉彦氏に聞く

 【2023年10月18日午後、日本盲人会連合(日盲連)会長、東京都盲人福祉協会(都盲協)会長を歴任した笹川吉彦氏に、60年以上にわたる視覚障害者運動に関わる中で、印象に残ったことなどを電話でインタビューした。取材・構成は本誌戸塚辰永】
 笹川吉彦氏は、昭和8年(1933)12月2日生まれの90歳で、日本統治時代の朝鮮・元山で幼少期を過ごした。笹川家は朝鮮総督府が統治を始めた明治43年(1910)に祖父が裁判所書記として東京から朝鮮に移住し、父は朝鮮殖産銀行に勤めており、笹川少年は何不自由なく育った。元山周辺は景勝地が多く、子どもの頃には金剛山によく連れて行ってもらったことが印象に残っている。
 11歳で終戦を迎えるが、その直前の8月10日にソ連軍が朝鮮に侵攻し、避難命令が出たので、身一つで母と兄弟5人が徒歩で避難した。だが、予定していた目的地までたどり着かず8月14日は橋の下で野宿した。翌日朱乙で最終列車に何とか乗ることができ、父と共にソウルにたどり着いた。
 父が銀行に勤めていたので、引き揚げ船の切符が早めに手に入り、昭和20年(1945)10月20日に山口県仙崎港に入港し母国の地を踏んだ。本籍があるので上京するつもりだったが、東京は焼け野原で住宅保障がないと転入することが出来なかった。そのため、まずは佐賀県の親戚に身を寄せた。
 次いで福岡に転居し、高校に入学してしばらくすると先天性白内障と診断され失明した。笹川氏は、このままではなにもできないと思い悶々とした日々をおくった。そんな彼を案じて近所の人が「これならできるでしょう!」と言って、落花生を大ザル一杯持ってきてくれた。笹川青年は、水を得た魚のように落花生の皮むきに朝から晩まで夢中になった。そして、仕事ができる喜びを心底感じたのだった。そんな折、ラジオから盲学校の生徒の柔道大会の様子が放送された。
 これだと笹川氏は飛びつき18歳で福岡盲学校理療科に入学し、勉強に励んだ。だが、大学進学について担任に相談すると、「大学を卒業しても職がない」と言われた。当時九州では西南学院大学の神学部しか門戸を開放しておらず、牧師になった先輩もいたが、遠い存在に感じられた。
 理療科在学中に、点字教科書を国に保障させる全点協(全国盲学校生徒点字教科書問題改善委員会)運動が全国の盲学校で繰り広げられていた。笹川氏もそれに加わり東京での全国集会や陳情に参加しようとしていたが、学校に止められて参加できなかった。
 卒業後1年経った昭和33年(1958)兄を頼って家族で上京した。笹川氏はマッサージの腕を磨くため施術所に就職するつもりでいたが、どこへ行っても全盲ということで断られた。そこで、金融公庫から融資を受けて世田谷区に4畳半のアパートを借りて、出張専門で開業した。
 すると程なく全盲の同業者から「誰の許しを得て開業したのか?」と言い掛かりを付けられ、「もちろん保健所の許可を得ました」と言ったら相手は黙ってしまった。しかし、同業者と角を突き合わせても仕方がないので、彼が進めるままに世田谷区鍼灸マッサージ師会に入会した。すると、同会には「盲人部」なるものがあって驚いた。世田谷区には都盲協の支部がなかったのだ。
 実は笹川氏と都盲協や日盲連との関わりは、昭和34年(1959)頃からあり、視覚障害者の福祉向上のためにすでに国会陳情にも出かけていたのだ。それには大学にも進学できないし、一般社会とのギャップが激しかったので、もう少し社会改革をしないと自分たちの生活は守れないと思って運動に積極的に加わっていたのだ。
 そこで、業団体の片手間では運動は進まないと考え、同志を募って昭和36年(1961)7月に現在の世田谷区視力障害者福祉協会の前身となる会を結成し、笹川氏は27歳の若さで副会長に選任された。
 あはきを開業しながら盲人会の役員をするのは骨が折れた。笹川氏は母親の協力を得て健保取扱を始めたことで経済的な安定を得る。そこで午前中は健保の患者を施術し、午後は盲人会の活動を行い、夕方から一般の患者を対象に往療を行うという慌ただしい日々を過ごした。
 当時世田谷区では本間昭雄氏が、視覚障害女性の自立のために活動していることを知っていたが面識はなかった。箕田作男都盲協会長から本間氏を紹介してもらい、以来本間氏とは60年以上の親しい付き合いである。
 当時日盲連の事務局は大阪の日本ライトハウス内にあり、村谷昌弘事務局長が国会陳情や厚生省との交渉のために上京し、笹川氏も村谷氏に同行した。村谷氏はインパール作戦で失明した傷痍軍人で「お国のために失明した」という自負があり、そうではない笹川氏は感情的な隔たりを感じた。
 村谷氏が活動の拠点を大阪から東京に移すきっかけは、昭和37年(1962)6月の参議院議員選挙において公職選挙法違反容疑で逮捕され、上野警察署に留置されたことだった。「村谷さんは江藤智参議院議員を応援して捕まったのは確かだが、どういう理由かまではわからない」と笹川氏は言う。
 完全黙秘を貫いた村谷氏は起訴猶予となったが、鳥居篤治郎日盲連会長から道義的責任を問われ、日盲連事務局長を辞任するよう迫られた。日盲連のために泥をかぶったという意識の村谷氏は「何も悪いこともやましいこともしていない」と突っぱねた。そこで、鳥居会長が「私が責任を取る」と言って辞職したのだった。そうした経緯もあって日本ライトハウスから日盲連の事務所の設置を辞退するという申し出があった。
 大阪から追い出された村谷氏は、昭和38年(1963)12月20日、いきなり都盲協が事務所を置く東京ヘレン・ケラー協会(以下、当協会)の8畳ほどの1室にロッカー1つ、机1つ、イス2脚、書類の入った段ボール箱を持ち込み、日盲連が移転するまでの2年間狭い部屋で2つの団体が仕事をすることになった。
 都盲協といっても職員を雇うこともできず、事務所には役員が交代で詰めており、電話が引かれていないのでその都度当協会の職員に呼び出された。笹川氏も仕事をしながら時々召集されて事務所に詰めていた。都盲協が法人化したのは昭和44年(1969)4月1日だったが、当協会に昭和46年(1971)まで事務所を間借りしていた。その後新宿区の施設を1年間借りて、それから日本点字図書館の裏で1DKのアパートを借りて引っ越した。その時点で笹川氏が事務局長に選任され、専従職員となった。
 1DKの狭いアパートで3人の職員と仕事をしていて、これではどうにもならないということで昭和50年(1975)に世田谷区松原に2DKのマンションを1050万円で購入した。
 都盲協の会計は年中赤字だった。購入に際し、笹川氏の発案で会員に募金をお願いした。当時の都盲協の会員は約2000人おり、多くの会員が趣旨に賛同し募金に協力してくれた。それでも足りない分は会員に借り入れを頼んだ。借り入れは10年間で返済するという約束だったが、たまたま東京都から広報の音訳版の仕事を請け負ったこともあって5年間で返済できた。活動の場ができるということは大きな意味があり、当協会から離れたことは都盲協としてプラスに働いた。
 当協会の前身は東京盲人会館で、都盲協はその当時から事務所を置いており、多くの会員は新宿に愛着を抱いていた。そんな折、高田馬場に寺の土地があって借地権を購入しようという話が持ち上がった。問題は建物を建てる資金だった。
 どうしても新宿に戻りたいという会員の要望を受けて、再度会員に募金をお願いした。加えて、購入当時よりもずいぶん高い値でマンションが売れたこともあって、新宿区高田馬場1丁目9-23に1棟目となる3階建ての都盲協会館を昭和60年(1985)10月に落成させた。それほど当時の盲界には活気があったのだ。
 村谷氏は昭和51年(1976)から都盲協の会長に、昭和60年からは日盲連会長になったが、ずっと前から日盲連の事務局長であった。そのため、都盲協の活動は笹川氏らに任せていた。関東ブロック大会や年に1回の都盲協大会を開くには、会員の支えもあって何とか資金をひねり出して、笹川吉彦、加瀬三郎、志村一男の3氏が中心となって大会を準備、運営、開催した。
 村谷氏はワンマンな人だったが、笹川氏に無理難題を押し付けることはなかった。もちろん、意見の相違もあってずいぶん激論を交わしたこともあった。例えば、障害福祉年金と児童扶養手当の併給を求めた堀木訴訟では、村谷氏は障害福祉年金で保障されているからそれで十分だとし、堀木さんの主張を支持しなかったが、リベラルな笹川氏は堀木さんの主張を支持していたので、裁判沙汰を好まない村谷氏とは考えが合わなかった。
 笹川氏は、平成10年(1998)に日本あん摩マッサージ指圧師会の会長に就任したが、日盲連ではそれまで理事として活動してきた。村谷氏が平成12年(2000)に引退し、対抗馬が現れなかったので無投票で笹川氏が第6代日盲連会長に選ばれた。その後、6期12年日盲連会長を務め、その間特に苦労したことは、日本盲人福祉センターの建設だった。
 建設に当たっては、全国から寄せられた募金、日本自転車振興会からの助成金、経団連等の協力を得た。そして、平成20年(2008)に新宿区西早稲田2丁目18-2に新しい日本盲人福祉センターを落成させた。
 「経団連会長の御手洗冨士夫キヤノン社長から300万円の寄付をいただいたことが特に印象に残っています」と笹川氏は当時を語る。
 同氏は日盲連会長をしながら都盲協の会長も務めていた。毎朝就業1時間前に都盲協に出勤して、その後午前中は日盲連で執務し、午後は都盲協へ行き都盲協の仕事をした。そして、夜は会議が入り、週末もほとんど休みなく馬車馬のごとく働いた。唯一の救いといえば、都盲協の会長は無給だったが、日盲連会長として給与をもらえたことだった。
 平成12年4月から令和5年(2023)6月まで都盲協の会長を務め、それ以前も含めて65年以上同会に関わってきた笹川氏は、「都盲協への思い出はありすぎて困りますね」と振り返る。
 随分前のことだが、美濃部亮吉都知事が対話集会を何度か開いており、障害者を対象とした集会が以前の都庁があった有楽町で開かれ、笹川氏も参加した。会場からの自由発言の時間となり、真っ先に白杖を高く掲げて振ったことが目に留まって指名された。
 「私は、東京は地方に比べてどうしても物価高だし交通費も高いと主張して障害者のための手当てを出してほしいと都知事に訴えました。それがきっかけで東京都では心身障害者福祉手当が支給されるようになりました。視覚障害者だけではなくて、障害者のためにできた仕事としてはそれですね」と誇らしげに語った。
 またこんなこともあった。世田谷に移転したころ、都盲協内に労働組合が結成され、そのリーダーが極左思想家で、外部から労働運動のリーダーが乗り込んできたりしたこともあった。事務局長として団体交渉の矢面に立って労組とやりあったことも今となっては懐かしい思い出だ。
 特に思い出深いのは、青年部長をしていた頃のことだ。昭和40年(1965)に富士登山を企画し、点字毎日の竹内恒之記者も同行し、最初は青年部だけで20人ほどで行くつもりだったが、募集したら希望者が多くて80人を超えてしまった。中止するわけにはいかないので、万全な体制を作るため、まず防衛庁に行き、協力を打診した。すると、広報課長が「じゃあ、富士駐屯隊に連絡して隊員を出し、ヘリコプターも用意する」と調子よく答えた。安心して83人で行くことにしてバス2台を予約した。だが、登山1週間前になってくだんの課長から電話があり、「現地の都合で支援ができない」と言われてあきれ返ってしまった。それから大慌てで当時青年部員に天理教の信者がいて、山梨県の天理教会に連絡をしてくれて15人ほどボランティアを確保した。それでも不安だったので、笹川氏は個人で強力(剛力)を5人頼んだ。「当時の会長は72歳の高橋豊治<タカハシ・トヨジ>さん(桜雲会理事長)で、下は小学6年生まで83人で無事に登頂することが出来た。これはあまり報道されませんでしたけれど、私にとっては大きな自信になりました」と懐かしんだ。
 それから日盲連の会長職だった時に補装具扱いの白杖を、日常生活用具に格下げするという話が突然舞い込んできて、笹川氏はすぐに厚労省に乗り込んだ。そして、補装具である白杖を日常生活用具に移行するなんてとんでもないことだと40分くらい怒鳴りまくった。すると、その語気に驚いて何事かと思った職員が何人も出てきた。
 「私が自由に活動できたのは、白杖で独り歩きができたからです。通勤もできたし、いろんな仕事もできました。私にとって白杖は一番頼りになるものだったのです。それを補装具から日常生活用具に下ろすなんて絶対許せないと思って騒いだんです。すると、その翌々日くらいに厚労省から6人ほど職員が日盲連に来所し、補装具からは下ろさないという書面を持って来たんです。私は白杖に対しては体の一部のような愛着があるんです。ですからそれは何が何でも補装具で指定されなければいけないということで頑張りました」
 笹川氏は失明直後の自身の経験から、視覚障害者の中にはさまざまな事情で働く場のない人がいることをかねがね気にかけていた。日盲連会長を辞任し都盲協会長に専念した平成24年(2012)4月1日、就労継続支援B型事業所パイオニアを東京都盲人福祉会館内に正式に設立させた。
 パイオニアでは、読み終わった『点字毎日』を利用して、その用紙で封筒やポチ袋、ブックカバー等を作っている。毎年新宿区が開催するバザーでそれらを販売しており、評判も良く売り上げも大変いいそうだ。
 パイオニアで働く利用者は、みな楽しく和やかに作業している。わずかな工賃だが、働く喜びを感じており、彼らの生の声を聞くたびに開所して良かったと、笹川氏はしみじみ大ザル一杯の落花生の皮むきを無心に行った若き日を懐かしんだ。

編集ログ

 11月16日~12月3日の旅程でネパールに出張しました。
 これまでネパール国内の移動には、トヨタ・ランドクルーザー(ランクル)を使っていました。ところが2022年の11月、インド国境沿いの町ビルガンジ(人口26万8,000人)で、このランクルが時速60kmを超えると激しく振動するようになりました。
 日本から送って31年目だったので、帰国後専門家に聞くと、部品さえあれば修理できるが、30年を過ぎたら部品がない可能性が高いと言ったので、修理は諦めました。
 ドイツと日本の車のエンジンは30年を過ぎてもビクともしないが、インド製は5年を過ぎると途端に馬力が弱まると言ったのは、ネパールのプロドライバーです。そこで、今回のネパール出張で、4日間ドライバー付4WD(インド・マヒンドラ製スコルピオ)を1日1万5,000円でレンタルした際は2020年モデルであることを念押ししました。
 何しろ車両取得税が200%かかる国なので、車の価格はとても高いのです。車両本体価格が200万円とすると、税金は400万円かかるので、合計600万円という価格です。
 このためネパールではサイクルリキシャ(自転車の後ろに二人乗りシートがついた三輪車)、オート三輪タクシー「テンプー」、タクシー、ホテルタクシー、路線バス、そして中国製EVのミニバンタイプEC36の乗り合いバスを活用しました。
 EC36はフル充電でどれだけ走れるのかとても気になりました。私たちが4時間かかったチャリコット、カトマンズ間は約130kmあるのですが、途中で充電したということは、その距離を余裕を持って走るだけの自信はないということなのでしょう。
 私たちがネパールの辺境部を4WDで走る場合は、ガソリンスタンドがないので、別途、燃料を持参します。今回の旅でもお湯も出ない暖房もないホテルという名のロッジで、ドライバーが10L缶を持ち上げて車に軽油を補充していました。
 EVの場合はそれはできないので、長距離走行にはちょっと無理があるように思いました。(福山博)

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