点字ジャーナル 2023年6月号

2023.05.25

目次

巻頭コラム:パイプ爆弾の恐るべき威力

 岸田首相に24歳の男が、鉄パイプ爆弾を投げつけたのは4月15日のことだったが、もはや風化したようにさえ思われるのは、被害が軽微だったからだろう。おそらく容疑者は事前に、安倍氏銃撃犯のように用意周到に実験を行わなかったのではないか。
 もし実験を繰り返して、鉄パイプ爆弾の蓋がはずれなければ、多数の死傷者が出ただろう。地面に転がっていた鉄パイプ爆弾の蓋は、本体がきちんと砕ける前に蓋が聴衆のすぐ頭上を飛んで約60m先にある物置の壁高さ2mに突き刺さった。本体は蓋が飛んだ反動で180度近く回転し、ロケットのようにやはり聴衆のすぐ頭上を越えて約40m先の倉庫の壁高さ3.4mに激突した。本来、蓋と本体は逆方向に飛び出すはずなのに、わずかな時差で同一方向に飛んだのである。
 鉄パイプ爆弾の本体と蓋との接合部は本来は深いネジを切って、本体が砕けるまで持ちこたえるように作る。しかし工作が甘く蓋が飛んで爆発のエネルギーが蓋と本体の飛翔エネルギーに使われたので、火薬量の割に殺傷力が低かったのである。
 蓋は地面から13度の角度で、本体は12度の角度で飛翔し、近くにいた聴衆のすぐ頭上、地面から1.8mの高さで時速140kmで飛んで行ったと推定される。
 拳銃や鉄パイプ爆弾の作り方をインターネットで知ることができるので、その規制を論じる識者がいるが、それはほとんど無意味だ。鉄砲が種子島に伝来したのは1543年で、爆弾は1274年の元寇のときにすでに使われている。749年とか480年前の技術をどのように隠すのだろうか。
 安倍氏銃撃犯の銃やパイプ爆弾は極めて素朴な工作物だったので、どちらもバッグに隠して持ち込んでいる。金属探知機を使うまでもなく、簡単な持ち物検査さえ行えば起きなかった事件である。
 完璧な危険物検査をするためには金属探知機は不可欠である。しかし、だからといって簡単な持ち物検査をしないというのは言い訳にならないだろう。(福山博)

(インタビュー)本間昭雄先生に聞く
 ―― 70年前の盲人福祉と華麗なる人脈

 【昭和28年(1953)9月29日、日本盲人会連合岩橋武夫会長の呼びかけに応えて、視覚障害関係施設代表が東京の日本(にっぽん)赤十字本社講堂に集まり、日本盲人社会福祉施設連絡協議会が発足した。翌年には名称から「連絡」が外れて現在の日本盲人社会福祉施設協議会に改称しているが、略称はともに「日盲社協」である。
 その第1回全国盲人福祉施設大会に日本社会事業学校(現・日本社会事業大学)を卒業したばかりの本間昭雄青年と、その妻(麻子さん)の姿があった。彼は昭和27年(1952)に開学した日本社会事業学校初の視覚障害学生として入学したが、講義は夜間であったため、当時都庁に勤めていた麻子さんが手引きや板書の書き取りなどのサポートをした。そして、卒業翌月の昭和28年(1953)5月に2人は結婚して世田谷区成城で暮らし始めたばかりだった。日盲社協の第1回大会から現在に至る大会まで連続出席しているのは、今や本間名誉会長ただ一人である。
 日盲社協70周年の記念すべき節目に、70年前の盲人福祉事情をたずねることで、新しい知見を得たいと願い、本間昭雄先生(以下、敬称略)にインタビューした。編集部福山博、戸塚辰永】

失明からの更生

 社会福祉法人聖明福祉協会会長の本間昭雄は、昭和4年(1929)2月18日に現在の東京都杉並区で生まれ小学校までは東京で過ごしたが、旧制中学は太平洋戦争の開始にともない疎開を兼ねて本間家始祖の地の名門・県立水戸中学校(現・県立水戸第一高校)に進んだ。
 本間家は水戸藩の藩医を代々受け継ぐ名門で、当然、昭雄も医家を継ぐために大学医学部への進学を目指した。だが不運なことに右手に受けた注射が原因で橈骨神経が麻痺し、国立第一病院(現・国立国際医療研究センター)整形外科に入院。その後昭雄は医療事故で両眼を失明し、病院のベッドの上でもだえ苦しむ毎日を送った。
 闘病が2年も経った頃、叔父・本間憲一郎が見舞いにきた。そして彼は水戸の小学校で同級生だった全盲の鍼治療の大家・平方龍男の名をあげ、「鍼でも、何でも立派な人間はいるぞ! しっかり頑張れ!」と励ました。
 昭雄に少なからず影響を与えたこの叔父は、水戸中学校から東洋協会専門学校(現・拓殖大学)支那語科に進学したが、在学中に陸軍省通訳官試験に合格したので3年生で中退し、通訳官として青島<チンタオ>守備軍に派遣された。その後、右翼の大立者・頭山満(とうやま みつる)の高弟となり、国家主義運動に関わる。
 昭和7年(1932)に陸海軍青年将校による5.15事件に連座し幇助罪で4年間投獄され、戦後も大物右翼として精力的に活動し、昭和34年(1959)9月に70歳で病死する。

高邁な理想の蹉跌

 叔父の薫陶もあって、本間は敬虔なクリスチャンであった平方龍男や中村京太郎(『点字毎日』初代編集長)、永井実太郎と出会う。彼らは同愛盲学校の教師や教師経験者であった。昭和20年(1945)5月の山の手大空襲で同校は灰燼に帰したため東京盲人会館に避難し仮校舎としていた。戦後しばらくは都盲協の事務所も同会館にあったので、東京盲人会館から東京ヘレン・ケラー協会と名を変えても視覚障害者の拠り所であった。そこで本間は多彩な盲界の人士に出会うが、中でも溌剌とした青年教師・永井実太郎に傾倒した。長井は同愛盲学校が発展したヘレン・ケラー学院で三療を教えるかたわら、聖ルカ失明者更生協会を主催し、中途失明者の社会復帰に熱心に取り組んでいた。その永井の人柄と情熱に接して、ともに視覚障害者福祉の道を志し、そのためには犬馬の労をいとわずと本間は決意した。点字は永井から基礎を習い、後は教会に通い聖書を何度も読むことで点字の両手読みができるようになった。
 当時、永井は社会的にも劣悪な環境に置かれていた盲女子にあん摩・マッサージを教え更生をはかるための社会福祉法人を設立するための準備に忙しく、日本社会事業学校に入学したばかりの本間も昼間は彼らの活動を手助けした。
 永井らは、世田谷区三軒茶屋にあった元子爵・小笠原家の邸宅を買収したが、その不動産には東京生命保険会社(以下、東京生命、現・T&Dフィナンシャル生命)が抵当権を設定していた。裁判所からその土地・建物が競売にかけられる旨の通知が届き、永井らは頭を抱えた。
 そこで本間が伝手を頼り、衆議院議員で第12・14・16代農林大臣、自由党や民主自由党の幹事長を歴任した広川弘禅(ひろかわ こうぜん)を訪ね相談した。広川はその場で池田隼人大蔵大臣に電話して「東京生命の社長を知っているか?」とたずねたが、池田は「知らない」と答えた。そこで広川は「池田が知らないのなら大したことないだろう。俺の名刺を持っていけ」と名刺を渡した。
 普通、若者が政界の重鎮たちを訪問すると門前払いにされるのがおちだが、本間は違った。水戸藩の御殿医を代々勤めてきた本間家という家柄が、当時の時代背景の中で社会的な信頼を得ていたのだろう。
 勇んで本間夫妻が東京生命へ行くと、秘書課長が「広川弘禅の名刺を持ってきたって駄目だ。世田谷なら鈴木茂三郎(すずき もさぶろう)の名刺を持ってこい!」と門前払いした。
 鈴木茂三郎は苦学して大学を卒業後、東京日日新聞(現・毎日新聞)記者から政界に打って出た苦労人で、昭和20年(1945)敗戦直後に日本(にっぽん)社会党の結成に加わり、1946年の総選挙で衆議院議員に初当選(以後、9回当選)し、書記長、委員長を歴任した。しかしサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、社会党は左右両派に分裂したので、当時の鈴木は社会党左派の委員長だった。
 「とても立派な人で、『ブギの女王』として一世を風靡した歌手・笠置シヅ子の豪邸の隣の小さな木造の家に住み質素な生活をして、夫妻で私たちを温かく迎えてくれた」と本間は当時を振り返る。
 そして鈴木は「本間(憲一郎)先生は皇室中心の愛国者で僕は社会主義者だから、右と左で大きく違う。それでも国を思う心は同じだ」と言って、東京生命社長宛の名刺を快く渡してくれた。
 それを持って東京生命にいくと、社長は抵当権の実行を延期してくれたばかりか3万円もの大金を寄付してくれた。昭和28年(1953)当時の銀行員の大卒初任給は5,600円だったので、現在の価値では100万円を超える。
 その足で永井のもとへ出向き、抵当権実行が延期されたことを伝え、その間に金策して競売を回避するよう訴えた。永井の協会は信仰する聖公会が資金援助してくれるものと期待していたが実際には1銭たりとも援助はなかった。当てが外れた同協会の台所は火の車で、貧すれば鈍するで、経理をごまかして本間は1銭も受け取っていないのに帳簿上は月5,000円の月給が支払われていることになっていた。それを知った本間は、永井に失望して絶縁した。その後同協会は、社会福祉法人として設立されたもののたちまち資金繰りに行き詰まり、法人解散の命令を受けた。

聖明福祉協会と盲女子支援

 本間は、昭和30年(1955)1月30日、世田谷区砧に聖明福祉協会の看板を掲げた。事業内容は外出もままならない視覚障害者を家庭訪問して点字・歩行・生活訓練を行い、失明予防を行う英国盲人協会(RNIB)が当時世界に先駆けて実施していた中途失明者のプログラムの1つである「ホーム・ティーチャー」にならった事業だった。
 夫妻は、昭和34年(1959)に恵まれない盲女子3、4人を自宅に引き取って面倒を見た。麻子は仕事の合間をみて、編み物や料理、掃除、洗濯のやり方までまるで母親のように教えた。昭和30年代半ばは福祉という言葉も耳慣れない時代で、訪問相談には公的支援はなかった。そこで本間夫妻は職員の給料を工面するために、当時各地で行われていた愛の鉛筆運動に加わり、都内の小・中学校で鉛筆を販売して、事業資金の一部を工面した。
 毎日新聞社を退職後上京して同愛盲学校(後にヘレン・ケラー学院)の講師をしていた中村京太郎から、盲女子が悲惨な環境で暮らしていることを聞いていたが、それは本当だった。家柄がいいところほど、「座敷牢」に閉じ込められており、白杖を突いていくと「来ないでくれ! 目の見えない者が出入りするのは困る」と言われた。
 最初に本間が家庭訪問して点字を教えたのは、鹿島(かしま)孝(こう)ちゃんという女の子で、元徳島藩士で明治23年(1890)に行われた第1回衆議院選挙で兵庫県から選出された鹿島秀麿の孫だった。孝ちゃんは学校に通っていなかったが、年中ラジオを聞いていたので社会情勢には通じていた。点字を習得した彼女は20歳の頃八王子盲学校に入学し、飛び級を重ねて中学部を卒業し、東京光明<コウメイ>寮であん摩・マッサージを学び自立した。その後栃木県でマッサージ治療院を共同経営していたが、60歳を過ぎて聖明園で暮らし、最後は認知症になった。だが本間が病院に見舞いに行き「孝ちゃん僕のことわかる?」と尋ねると、「先生のことを忘れたら、罰が当たります」と言ってくれた。
 また、満州から2人の娘をつれて帰国した盲婦人を福祉事務所から紹介され、本間の仲介でやはり東京光明寮に入所した。その後彼女は、墨田区にある都立墨東病院で乳房マッサージを行い自宅を建てた。彼女は聖明園が青梅にできた時に、「聖明園の歌」を作詞して、それを光明寮の初代所長が補作して、作曲は国民的歌手として名望を集めていた藤山一郎が引き受けてくれた。今でも聖明園ではラジオ体操の前に、この歌を皆で聞いている。
 昭和35年(1960)に本部を建設し、盲女子を3、4人入居させたが視覚障害に加え知的障害もあったので社会復帰は困難だった。現在ではそのような人々は利用者として処遇されるが、当時は収容という立場で生活保護に準ずる費用をもらって共同生活をおくっていた。本間たちは盲女子を世話したり、家庭訪問したりするほか、開眼検診と称して眼科医と提携して年に1回茨城県、山梨県、静岡県などを巡回した。
 本間が当初始めた訪問事業は第2種社会福祉事業だったため、補助金はもらえなかった。日本では箱モノがないと経営が安定しないが、補助金をもらうためには、箱モノを作らなければならないので資金がいるというジレンマがあった。
 当初は盲女子ホームを作ろうと思った本間だったが、高齢者問題が俄然クローズアップされ、昭和38年(1963)に老人福祉法が制定された。父親を早く亡くしたこともあって、本間は親孝行の気持ちで、自分と同じ失明者の老人福祉施設を作ろうと考えた。
 理想の盲老人ホームを建てるには何より広い土地が必要だと本間は考えた。そこで東京都下青梅市の山林が格安だったので、調布市にあった土地300坪と世田谷の聖明福祉協会本部を売って買収した。そして昭和39年(1964)4月に軽費盲老人ホーム聖明園を、翌年(1965)10月には盲養護老人ホーム第二聖明園を開園。また、昭和61年(1986)12月から始まるバブル景気の頃はロータリークラブやライオンズクラブや経団連が応援してくれ、施設を建てるのにも費用の4分の2が国から、4分の1が東京都から補助金として支出され、残りの4分の1さえあれば立派な施設が建設できた。曙荘はそのころ竣工したので基準よりも1.5倍ほど広く贅沢に作ることができた。その後土地を買い増しし、現在は1万坪の堂々たる敷地に盲養護老人ホーム聖明園曙荘、特別養護盲老人ホーム聖明園寿荘、特別養護老人ホーム聖明園富士見荘が建ち、協会全体で170人の職員が働いている。   

多士済々の支援者等と

 だが、その発展の前には越えなければならない大きく険しい山があった。青梅の山は安かったが、建物を建築するためには自力で山を削り整地作業を行わなければならなかった。それには莫大な資金がいることが判明して本間は天を仰いだ。
 そんな折、妻・麻子と山梨県の同郷で世田谷区在住の政治家・笠井重治(かさい じゅうじ)が手を差し伸べてくれた。笠井は1904年に渡米しシカゴ大学政治学科を卒業し、ハーバード大学大学院で国際法と外国史を専攻した。帰国後東京市会議員、衆議院議員を務め、議員引退後は日米文化振興会(現・日米平和・文化交流協会)会長として日米親善に貢献した。
 笠井は米軍立川基地の司令官に話をして、米兵のボランティアを募り、彼らに整地の土木作業をしてもらうことにしたのだ。兵士らは米軍のブルドーザーを持ち込み、休暇を使って、シフトを組んで24時間体制で整地作業を行ったので、何年もかかると思われていた整地作業はあっという間に終わった。
 その作業を視察に来られた美智子皇太子妃(現・上皇后)は、なんと彼ら一人一人と握手をして激励された。このようなエピソードに現れる本間夫妻と皇族方の縁は、故・秩父宮勢津子妃が最初であった。勢津子の父親・松平恒雄は、駐英・駐米特命全権大使だったため、彼女は英国で生まれ米国の名門高校で教育を受けた。そんな英米での見聞から彼女は福祉活動に関心を寄せ聖明園を9度も訪問している。こうした勢津子妃の意志を受け継いで美智子皇太子妃も整地作業の現場に立ち寄られて以来、何かと聖明園を気に掛けておられ、その熱意は秋篠宮家にも引き継がれ、平成17年(2005)の聖明福祉協会設立50周年記念行事には、秋篠宮同妃両殿下もご臨席されたのだった。
 本間の支援者はこればかりではない。世田谷に住んでいた縁で応援してくれた賀屋興宣(かや おきのり)は、大蔵官僚をへて第1次近衛内閣と東條内閣で大蔵大臣として戦時財政の中心的な役割を果たしてA級戦犯として10年間巣鴨プリズンに服役した。昭和30年(1955)に仮釈放され、昭和33年(1958)に行われた衆議院選挙で当選し、岸信介の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長を歴任した傑物だ。
 また、迫水久常(さこみず ひさつね)は聖明福祉協会の役員も引き受けてくれた。彼は終戦直前の鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦証書の起草にも携わった高級官僚である。戦後は衆議院議員、参議院議員を務め、池田内閣で郵政大臣、経済企画庁長官を歴任した。本間の著書『水藩本間家の人々』(1969)の序文を迫水に依頼すると「本間さんから、福祉の心を教えていただいた」と書いてくれた。
 厚生官僚では、社会局更生課長として身体障害者福祉法の制定と実施に深くかかわった松本征二を本間はまずあげた。松本は昭和26年(1951)から英国に長期留学し、リハビリテーションの理論と実践を学んだ。この時のレポートが国連で評価され、国連事務局のリハビリテーション管理係長として昭和35年(1960)から2年半国際的立場で活躍し、その後鉄道弘済会理事となった人だ。「岩橋武夫が身体障害者福祉法の件で一番最初に会ったのが松本だったと思う」と本間は言う。家族ぐるみの交際で、松本が亡くなった後も家族と交流を持った。
 その後の更生課長は實本博次(じつもと ひろつぐ)で、亡くなるまで深く付き合った。その後、更生課長となった板山賢治(いたやま けんじ)とは、日本社会事業学校の同窓生という縁もあり長い付き合いで、板山の告別式では本間が弔辞を述べた。
 聖ルカ失明者更生協会での手痛い経験とその当時から営々と築いた大物政治家や世田谷区選出都議会議員、世田谷区長、厚生官僚との交流はその後の聖明福祉協会の発展になにかと寄与した。
 中村京太郎は、「祈ったらお金が入る」と言ったが、若気の至りで49歳年下の本間は、「祈ってもお金は降って来ない」と反論した。
 見返りを求めるわけではないが、誰もがプラスになるよう、いつも彼は考えた。聖書に「与えるは受けるより幸いなり」という一節がある。「与えるなんていうのはずいぶん傲慢に聞こえますが、そういう心ではなく人のためにできることは何でもするのです。そして見返りは何も求めないのです。それが幸せなんです」と70年前をしみじみ思い出しながら語った。

(寄稿)戦時下の視覚障害者
 ――ウクライナでの日常生活を点描する――

前WBUAP会長 田畑美智子

ロシア連邦がウクライナに大掛かりな軍事侵攻を開始したのは2022年2月24日なので、すでに400日を超えました。
 軍事侵攻に起因して少なくとも150人が新たに視覚障害者になったそうです。軍事作戦で失明し、自殺を考えた元兵士のインタビューがBBC(英国放送)のラジオ放送から流れました。痛ましい限りです。
 終わりの見えない戦禍の中での視覚障害者の暮らしは、ちょっとわが身を顧みれば困難は容易に想像できます。
 言葉や情報発信のハードルがある中での断片的な情報ではありますが、現地の視覚障害者や盲人協会の様子をご紹介致します。

緊急支援

 空爆などが比較的少ない地域の支部に避難場所が設置されており、激戦地から避難してきた視覚障害者が一時避難しています。ウクライナ中部の工業都市ドニプロ(人口97万人)や東部にあるクラマトルスク(人口15万人)などのメディアで聞くようになった都市にも避難所があります。避難してきている人たちの出身地も、クリミア半島に接する激戦地ヘルソン(人口28万人)や東部のドンバス地方のバフムート(人口7万人)など、やはりメディアに出てくる激戦地です。
 行政や企業、国際組織からの支援物資を、盲人協会の地域の会員や国内避難民に配布しています。食料品や衛生用品、薬や文房具などが多いのですが、場所によっては外食クーポン券を配布しているところもあります。
 激戦地からの避難民には、視覚障害者ならではの様々な支援が実施されています。行政の登録手続支援、買い物介助、住宅斡旋、コロナワクチン接種などの病院介助、外国に避難する際の交通手段の手配、ATMでの銀行取引介助などです。中部ポルタヴァ(人口28万人)という街では、こうした視覚障害者支援活動が行われています。

コミュニティを続けること

 戦時下でも大切なのは少しでも日常の暮らしを続けること、とメディアで現地の人がしばしば語っています。視覚障害コミュニティも可能な限り普段の活動を続けるよう頑張っているようです。
 軍事侵攻が始まった後、Homer(ホーマー、つまりホメロス)という名前のインターネットラジオが開局されました。点字出版やコンピュータ支援を実施している情報センターが運営しており、視覚障害関連の情報をリスナーに届ける他、最近日本でも少し耳にするようになったUポップや西側諸国の音楽を流したり、昨年秋にはウクライナの視覚障害者にも人気の高いサッカーW杯を中継しました。また、昨年8月24日の独立記念日には各界からお祝いや激励のメッセージを集めて放送し、筆者もにわか仕立てのウクライナ語でメッセージを送りました。
 北東部にある第2の都市ハルキウ(人口144万人)にあった点字出版所は空爆で被害を受けましたが、首都キーウ(人口295万人)のセンターは点字用紙不足などの困難もある中でも業務を続けており、軍事侵攻後も録音図書や点字図書、定期刊行物などを利用者に届けています。海外に避難した視覚障害児向けウクライナ語の児童書にニーズが高く追いついていないそうです。
 5月の第3木曜日はウクライナの民族衣装である「ヴィシヴァンカ」(ウクライナ刺繍を施したシャツ)の記念日で、昨年のこの日にはゼレンスキー大統領もこのシャツを着ていました。盲人協会でもヴィシヴァンカのファッションコンテストを開催し、参加者同士久しぶりに会って四方山話をするよい機会となりました。
 西部リヴィウ(人口100万人)では、点字書き取りコンテストが開催され、課題を読むのももちろん視覚障害当事者で、時節柄、題材もウクライナ人の英雄伝でした。
 旧ソ連では「ドラフツ」というボードゲームが盛んで、ウクライナ盲人協会でも大会を開催しています。激戦地バフムートには実力者がおり、大会開催地である西部フメリニツキー(人口27万人)を訪問しゲームを楽しみました。

戦時下の宿命

 太平洋戦争下の日本でも、イラク戦争下の米国でも、障害のある人たちが軍隊に協力した話を聞きます。「お荷物」と思われるのはやはり恐怖ですし、何かできることを、と考えるのはやむを得ない判断なのかも知れません。
 ウクライナでも、外国への避難など考えず、カムフラージュネット(偽装網)を編んだり、パンを焼いて軍隊に差し入れるなどの涙ぐましい協力をしています。
 ウクライナにも音楽を生業にしている視覚障害者がおり、軍事侵攻を受けた後チャリティコンサートを開催して、収益を軍隊に寄付しています。
 また、地域によっては、退役軍人の団体と盲人協会が敷地を共有しているところもあり、協力関係の強化が呼び掛けられています。
 早く平和が訪れ、視覚障害者向けの事業がもっと色々できるようになって欲しいと願うばかりです。   

編集ログ

 岸田首相を狙ったパイプ爆弾事件を聞き、私は1974年発行の爆弾製造法を記した『腹腹時計』を思い出しました。それ以前には『球根栽培法』という秘密出版物もありましたが、それは現在、通販サイトのアマゾンでキンドル版が510円で買えます。インターネットを制限しても無意味だという証左です。
 米誌『タイム』の表紙に、眉間に皺を寄せてうつむき加減の岸田文雄首相の顔写真が写っていますが、顔の半分が陰になっているので何やらテロリストか陰謀家のようなポーズです。
 この記事を巡り、外務省が見出しと中身が異なっていると同誌に異議を伝えた結果、5月10日時点で同誌電子版の表題は、「岸田首相が平和主義だった日本を軍事大国に変える」だったが、翌11日午後の時点では「平和主義だった日本に、国際舞台でより積極的な役割を与えようとしている」に変更されたと5月12日付『産経新聞』が報じました。しかし、顔写真については異議を伝えなかったようですね。
 小誌はこれまで何度か岸田首相の言動に異議を唱えてきましたが、同首相の真意は理解できないままでした。しかし、御厨貴<ミクリヤ・タカシ>東大名誉教授の下記のような辛辣な人物評で疑問が氷解しました。
 岸田文雄氏に、宏池会(岸田派)は平和を重んじていたのに、最近は変わったのではないかと聞いたら、岸田氏は平和主義は変わらないが、状況が変わったからしょうがないと言った。これが岸田氏らしい。コロナでもウクライナでも広島で開くG7サミットでも、利用できるものは徹底的に利用する。この精神はすごい。だから、あっという間に原子力政策をひっくり返す。「こういう時代だ」と。状況追従主義は、ものを深く考えないから早く結論が出せるのだ。自分に能力がないことを感じていた首相は過去にたくさんいた。海部俊樹氏も、宮沢喜一氏も党務は一切できないと全部丸投げした。岸田氏が彼らと違うのは、自分の足りぬところを深く考えない点だろう。これまでの宰相で、あそこまでノンシャラン(脳天気)な人はいなかった。(福山博)

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