点字ジャーナル 2023年5月号

2023.04.25

目次

  • 巻頭コラム:マスク着脱の悩ましい判断
  • (特別寄稿)岩橋武夫が歴史に残した遺産
      ――ライトハウス100周年におもう――
  • 中国全人代に初の視覚障害者議員誕生
  • (新連載)長崎盲125年と盲教育(1)創立以前その1
  • ポストコロナのネパールを行く 荒れた街の不条理(5・最終回)
  • ネクストビジョン&タートル共催イベント
      「職場ぐるみで取り組む社内アクセシビリティ」報告
  • ネパールの盲教育と私の半生(23)JICAと弱視教育
  • 自分が変わること(166)「さらば、あとはよろしく」
  • リレーエッセイ:甲斐商店物語(上)
  • アフターセブン(98)縁結び
  • 大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
      (249)霧馬山初優勝で大関取りへ
  • 時代の風:胃がん発症リスク高める遺伝子変異発見、
      アルツハイマー病治療薬を効率よく脳へ、
      関節リウマチ等悪化させるタンパク質特定、
      視覚障害者とボランティアつなぐアプリ
  • 伝言板:てんじのてんじ 点字製版「マイスター」佐藤實の
      「仕事」と「工夫」展、瞳かがやきコンサート、
      劇団青年座公演、川島昭恵語りライブ、
      点字ディスプレイと歩行支援機器体験会
  • 編集ログ

巻頭コラム:マスク着脱の悩ましい判断

 日本政府は「これまで屋外では、マスク着用は原則不要、屋内では原則着用としていましたが、令和5年3月13日以降、マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本となりました。本人の意思に反してマスクの着脱を強いることがないよう、ご配慮をお願いします」と国民に呼びかけた。
 この政府の方針を受けて、わが社ではどうしようかと会議を開いた企業も多かったのではないだろうか? 個人的な判断と言われてもマスク着用はCOVID-19感染防止の観点から政府が強く求め、2020年6月以降多くの国民が「周りにうつしたくないし、自分もかかりたくない」という心理から協力してきたものだ。それはCOVID-19が当初、得体の知れない病で、罹患した芸能人や政治家があっけなく亡くなったため、その言い知れない恐怖が背景にあったと思われる。
 必ずしも巷間言われているような政府に従順な国民性からではなかった。それが証拠に、一転「経済を回すためにマスクを外しましょう」と政府に言われても、素直にその呼びかけに応じている私のような手合いはごく少数だ。それはCOVID-19の不安や恐怖から国民がまだ解放されていないからだろう。
 2022年5月24日に、政府は屋外のマスクの着用は不要であることを示した。そこで私は念のため感染症対策アドバイザリーボードの「マスク着用の有効性に関する科学的知見」を読んで納得したので、それ以降率先して屋外ではマスクを外してきた。しかし、今に至っても少なくとも東京都心では、屋外でも圧倒的多数がマスクをしているのが現状である。
 諸外国では感染症対策の一貫として、多くの国でマスク着用を義務づけたし、都市封鎖(ロックダウン)を行い外出を厳しく制限した。人口が極めて少ない島嶼国等を除けば、人口の多い国で罰則を設け強制力を行使しなかったわが国のような例は希有である。強制力のない方がいいに決まっているので、わが国のこの感染症対策はもっと高く評価されていいように思う。(福山博)

(特別寄稿)岩橋武夫が歴史に残した遺産
 ―― ライトハウス100周年におもう ――

日本社会事業大学学長室多心型福祉連携センター研究員/
聖明福祉協会会長秘書 本間律子

1.はじめに

 3月3日、メルパルクホール大阪において、三笠宮家の瑶子女王殿下御臨席のもと、日本ライトハウス「創業100周年記念式典・記念行事」が開催されました。当日は晴れやかな陽気に包まれ、約550名の関係者が会場につどい、私も義父・昭雄とともに出席させていただきました。
 第1部では、瑤子女王殿下のお言葉ののち、厚生労働大臣、大阪府知事、大阪市長、日盲社協理事長、日視連会長のご挨拶があり、その後感謝状および第40回岩橋武夫賞贈呈式、視覚障害ヴァイオリニストの川畠成道氏による記念演奏会が行われました。また第2部では、「Go Forward 101年目からの日本ライトハウスに求められるもの」と題し、100年の歩みを振り返るとともに、「日本ライトハウスを通じて社会に期待すること」と題するシンポジウムが行われました。式典の中で橋本照夫理事長は、「日本ライトハウスは、世の中の変化やニーズに沿いつつ、創立者の『愛盲の精神』の理念を支柱に邁進してまいります」と力強く宣言されました。
 筆者は、関西学院大学大学院在学中、日本ライトハウスにて資料収集をさせていただき、博士論文を執筆しました。そのようなご縁から、ここに岩橋武夫と日本ライトハウスが歴史に何を残したのかについてご紹介したいと思います。

2.ライトハウスの設立

 明治より前、盲人は鍼・灸・按摩などを営み、一定の経済的自立を得ていました。また当道座などの自助組織を作り、さらには盲官という官位と特権が与えられてきました。
 ところが明治に入りますと、1871(明治4)年、盲官などの盲人の特権が廃止されました。そのため盲人の伝統的職業は晴眼者の進出により蚕食され、盲人は職業的自立の危機を迎えました。そこで按摩を盲人の専業にしようと運動を起こしましたが、十分な成果は得られませんでした。明治から昭和初期にかけてのわが国の国家目標は、国力の増強であり、そのための自由競争社会の維持でした。そのため、職業選択の自由に制限を加える政策は、たとえ相手が盲人であり、かつ按摩業という小さな範囲であったとしても認められなかったのです。
 昭和のはじめには、盲人が伝統的職業にのみ執着することに危機感を抱く者が現れました。その一人が岩橋武夫です。彼は、1898(明治31)年、大阪に生まれました。親は鉱山業を営み、家は裕福だったといいます。何不自由なく育った武夫は、1916(大正5)年、早稲田大学に進みました。ところが翌年の早春、人生を狂わす大きな試練が彼を襲います。風邪がもとで網膜剥離を起こし、わずか1週間のうちに盲目となってしまったのです。失明した武夫は、一度は死を覚悟するものの、それを救ったのは母の愛でした。失明の年の大晦日、意を決して手に取った短刀を、母親がすんでのところで取り上げたのです。
 その後武夫は、盲学校で点字を学び、また点字の書物を通じて世界の盲偉人を知ることで、再び学問の道を目指し始めました。そして関西学院に進み、さらには英国エジンバラ大学に留学しました。この英国留学で武夫が見出したもの、それは、「欧米で盲人問題の解決が進んだ背景には盲人をハンディキャップを補うことで自活可能なものとして肯定する『合理的保護』概念の発見がある」、というものでした。そして、英国で調査した盲人のための社会事業を日本にもたらそうと、日本の実情に即した「愛盲事業」を構想するに至りました。そして1928(昭和3)年、自宅に「ライトハウス」の小さな看板を掛けました。なお武夫はこの年、母校関西学院の講師の職に就いています。
 その後の武夫は、講演活動、著作活動を精力的に進めていきました。1934(昭和9)年には、アメリカでも講演旅行を行い、その際、ニューヨークのヘレン・ケラー宅を訪れ、女史から日本訪問の約束を取り付けています。武夫は講演会で得た収入で資金の目処を得るとともに、1933(昭和8)年には大阪盲人協会の会長に就任することで盲人たちの間で地位を得て、1935(昭和10)年10月、大阪にライトハウスの建物を建築しました。これが日本ライトハウスの直接の前身です。同館は愛盲事業の実験場でした。以後武夫はライトハウスを拠点に、生涯を掛けて盲人問題に取り組んでいくのです。

3.早川分工場の取り組み

 武夫は、生まれたばかりのライトハウスの経営に弾みをつけるとともに、盲人問題への世間の関心を高め、盲人の教育問題および社会問題解決の端緒を得ようと、1937(昭和12)年、ヘレン・ケラーを我が国に招聘しました。ところが、平和の使者として来日した女史でしたが、皮肉にも同年7月に勃発した日中戦争のために帰国を余儀なくされ、残念ながらその成果は十分なものとはなりませんでした。
 一方武夫は「戦争は悲劇の父であるとともに、革新の母である」として、起きてしまった戦争を盲人問題解決の好機としてとらえようとしました。国のほうでは1938(昭和13)年に厚生省が発足、さらに傷兵保護院、失明軍人寮および失明軍人教育所が設置されるなど戦時体制を整えていきました。武夫はそのような国の動きに呼応し、陸軍病院への慰問や職業補導、点字教授のための講師派遣などの事業を始めました。
 やがて我が国は、太平洋戦争へと突入していきます。ライトハウスでは建物を改装し、また建物と設備を恩賜財団に寄付して名称も失明軍人会館に改め、シャープ(株)創業者早川徳次の協力を得て、1943(昭和18)年10月、失明軍人講習会を開きました。そして翌1944(昭和19)年1月、同講習会を終了した6名の失明軍人からなる早川分工場を設立し、早川電機工業の指導のもと、航空無線機の部品製造を始めました。これらの取り組みは、職業リハビリテーションの黎明ともいえるものでした。その後同工場は拡張され、武夫は関西学院の職を辞して失明軍人会館の経営に専念することになりました。
 1945(昭和20)年になると本土空襲が激しくなり、会館も疎開を余儀なくされました。そして終戦となり、早川分工場は短い生涯を終えました。こうして武夫と早川がともに取り組んだ職業リハビリテーションの小さな灯は一旦消えてしまいましたが、そこで培われたものはやがてライトハウス金属工場やシャープ特選工業(株)へと引き継がれ、障害者の職場として後々まで生き続けるのでした。

4.日盲連の設立過程

 以上のように、武夫はライトハウスを設立し、ヘレン・ケラーを日本に招聘しました。これにより彼は活動の基盤と知名度を得ることができました。その後の武夫は、紀元二千六百年を契機に全日本盲人大会(以下「橿原大会」と称す)を企図し、1939(昭和14)年、関西盲人事業連盟を発足させました。同連盟はやがて全日本盲人事業連盟となり、全国盲人協会連盟、全国盲学校同窓会連盟とともに橿原大会を成功させました。
 武夫は同大会後、全日本愛盲連盟準備会を組織し、橿原大会の決議を実行に移そうとしました。そして、「愛盲報国号」という戦闘機の献納運動を成功させ、2年後に再び全国大会を開きました。この会議が準備会となり、1942(昭和17)年11月、今関秀雄を会長とする、盲人初の本格的な全国組織である大日本盲人会が結成されました。しかし、終戦前後の混乱のため、同会は十分な機能を果たすことができませんでした。
 戦後になると、鍼灸存廃問題が起きました。これは、盲人の多くが従事する鍼灸按摩マッサージ業を、彼らから完全に奪い去りかねないものでした。幸い、武夫を始めとする業界、盲学校、盲人たちによる全国的な運動により、この問題は解決しました。このとき盲人たちは、新たな全国組織の必要性を痛感しました。
 また、戦時中に途絶えていた武夫とヘレン・ケラーの通信が戦後まもなく再会し、ケラーの再来日が決まりました。武夫はケラー来日を契機に、その受け入れ母胎として日本盲人会連合(以下「日盲連」)の設立を図りました。GHQの強力な後ろ盾と、ライトハウス金属工場による経済的基盤を得、周到な準備がなされました。そして、1948(昭和23)年8月、現在まで続く日盲連が設立され、武夫が初代会長に就任しました。   

5.身体障害者福祉法成立に果たした役割

 身体障害者を支援するための法律や制度は、戦前には、戦闘で負傷して障害状態となった傷痍軍人を対象としたものがありましたが、広く障害者全体をカバーするものはありませんでした。しかも終戦後には、GHQの指示により、この傷痍軍人を支援する制度すら奪われてしまいました。そのため生活に困窮した傷痍軍人の中には、電車の中や街頭で物乞いをする者まで出てきました。政府もこの状態を放置できず手を尽くそうとします。しかし、非軍事化・民主化を占領政策の基礎に置くGHQを前に、政府が最初にとった傷痍者保護対策は、GHQが方針としていた無差別平等という枠内で、生活保護法を弾力運用するという限定的なものにならざるを得ませんでした。
 その一方で、占領状態が続くにつれ、GHQでも、占領政策を成功させるためには傷痍軍人の問題を放置できないとの機運が出てきました。しかしそうは言っても、非軍事化・民主化という基本方針を取り下げることはできません。そのような行き詰まり状態の中で傷痍者対策を身体障害者福祉法(以下「身障法」)へと発展させるためには、戦争を連想させにくい対象者が必要でした。そこに登場したのが盲人でした。
 ここまで述べてきたように、近代を通じて職業的自立の危機に苛まれてきた盲人たちは、戦前から盲人のための法律制定を求める運動、愛盲事業や職業リハビリテーションの実践、全国組織の結成などに取り組んできました。戦後になると、ヘレン・ケラーを招聘し、その受け入れ母胎として日盲連が結成されました。このように盲人たちの間では、歴史・実践・組織の面で、自分たちのための法律を受け入れて運用・発展させていく土壌が整っていました。
 日盲連を結成した武夫率いる盲人たちは、1948(昭和23)年のヘレン・ケラー・キャンペーンを通じて、盲人福祉法の実現を世間に訴えていきました。政府およびGHQも、これら盲人たちの動きに乗っかる形で盲人を傷痍者対策の中心に据え、ヘレン・ケラー・キャンペーンを演出し、身障法の実現へと歩みを進めていきました。同年12月には、法案の検討委員会が結成されました。メンバーには、障害当事者として唯一、武夫をはじめとする盲人の代表が含まれていました。そしてケラー来日の翌年である1949(昭和24)年12月、身障法は成立・公布されました。同法は盲人たちが目指していた盲人単独法ではありませんでしたが、盲人たちが盲人福祉法として求めていた政策の多くが同法に盛り込まれました。武夫と盲人たちは、「名よりも実を取る」形で自分たちの主張を取り下げ、障害者全体のための法律を受け入れたのです。

6.日盲社協の設立過程

 身障法成立の目処が立った1949(昭和24)年11月、武夫は米国調査に旅立ちました。これはヘレン・ケラーが相談役を務めるアメリカ盲人援護協会から招聘されたものでした。武夫はその調査で、盲人の更生施策の中に米国流の合理性を背景とする現実解を見ました。彼はこれを「愛盲リアリズム」と呼び、調査結果を身障法の適正な運用や日盲連の発展に活かそうとしました。
 また同じ時期に発生した按摩単独法等の問題に対しても、盲人たちは按摩単独法反対という判断を示しました。按摩単独法は、戦前に盲人たちが長年にわたって行ってきた、按摩専業運動の実現に近づくもののようにも見えましたが、身障法が成立した後には、身障法の拡大にこそメリットがあると、盲人たちは合理的に判断したのでしょう。
 一方、1951(昭和26)年には社会福祉事業法が制定されました。これに呼応し、岩橋武夫は米国の例も参考にして、それまで渾然一体の運用であった大阪盲人協会とライトハウスを分離し、武夫は大阪盲人協会の会長の座を退きました。
 さらに1953(昭和28)年、盲人の運動体である日盲連から事業者を分離し、事業者団体としての日本盲人社会福祉施設協議会(以下「日盲社協」)を設立し、武夫は初代会長となりました。そして日盲社協と日盲連は、車の両輪のように助け合いながら、盲人の福祉のために運営されることになりました。

7.次代の盲人を世界へつなぐ

 身障法を手にして以降、国内の体制整備と並行して武夫が取り組んだのが、わが国の盲人を世界につなげることでした。英国で目の当たりにした欧米の進んだ社会事業に触発されて、ライトハウスを設立した武夫にとって、それは最後の仕上げともいえる仕事でした。
 1954(昭和29)年8月、第1回世界盲人福祉会議(以下「パリ会議」)がパリで開かれることになりました。武夫はこの会議に日本代表を派遣すべく、同年3月、世界盲人福祉協議会日本委員会を設立し委員長に就任しました。そして世界盲人福祉協議会(以下「世盲協」)に加盟するとともに、パリ会議には喘息が悪化した武夫に代り長男英行と鳥居篤治郎が派遣されました。なお世界盲人福祉協議会日本委員会は、後に日本盲人福祉委員会(以下「日盲委」)に名前を変えて今日まで続いています。
 パリ会議への日本代表の派遣は、翌年に計画していたアジア盲人福祉会議の準備の意味合いもありました。第1回目のヘレン・ケラー来日では日中戦争の勃発により、2回目では秘書ポリーの体調不良により、ケラーのアジア歴訪は中断せざるを得ませんでした。武夫は、未完に終わったケラーの意思を引き継ぐとともに、太平洋戦争で失ったアジア諸国との友好を回復するため、1951(昭和26)年頃よりアジア盲人福祉会議の構想をあたためていました。その後わが国は独立を回復し、世盲協よりの資金援助、厚生省の人的・財政的支援が得られることが決まりました。
 同年10月26日、更生課長松本征二が武夫宅を訪れ、アジア盲人福祉会議は厚生省が責任を持って開催する旨の報告をしました。武夫はそれに安心してか、10月28日、56年の生涯を閉じました。

8.最後に

 こうしてごく簡単に武夫の足跡をたどってみましても、日盲連、日盲社協、日盲委という視覚障害者を代表する3つの団体いずれもが岩橋武夫が中心となって結成されたものであり、しかも身障法という障害者にとってなくてはならない法律制定にも関与するなど、改めて彼の偉大さを思い知らされます。彼が自宅で父親と点字出版を始めたのは1922(大正11)年のことでした。それ以来100年の長きにわたり、武夫が創業した日本ライトハウスは営々と事業を続けてこられました。この100年の間に視覚に障害のある人たちは社会との関わりを深めるとともに、職業を持って自立する人も増えました。今日のこの状況を見るにつけ、岩橋武夫と日本ライトハウスが視覚障害者福祉の歴史に果たした役割の大きさを感じざるを得ません。

編集ログ

 現在、私は戸外ではマスクをしませんが、がら空きの場合はともかく、混み合う電車の中ではさすがにマスクを着けています。COVID-19は5月8日から季節性インフルエンザと同じ「5類」へと移行されます。そうなると、私は政府のいう「主体的な選択」を行使して、混み合う電車内でもマスクを外すつもりです。が、世間はどうなるのでしょうか。少なくとも現在、東京の一般社会は、政治的主張に関係なく、私とくらべてはるかに保守的だと思われるのですが。もちろん因循姑息とまでは言いませんが。
 今月号から久松寅幸先生による新連載「長崎盲125年と盲教育」が始まりました。戦後は、歳末たすけあい運動、赤い羽根共同募金、あしなが育英会、24時間テレビなど、組織的なチャリティーが盛んに行われるようになりました。一方、戦前は、富裕層によるチャリティー精神の発露としてのそれだったのでしょうか。今後の展開が楽しみです。
 本間律子さんは2017年に『盲人の職業的自立への歩み 岩橋武夫を中心に』と題する著書を関西学院大学出版会から上梓されています。さらに2022年2月17日には日本ライトハウスに招かれて、「2021年度職員全大会」で、「岩橋武夫が日本の障害者福祉の発展に果たした役割と今日に残した遺産」と題して、講演もされておりますので、今や岩橋武夫研究の第一人者といって過言ではないでしょう。
 同氏は3月3日にメルパルクホール大阪で開催される日本ライトハウス「創業100周年記念式典・記念行事」に参加されるということを聞き、小誌に特別に寄稿していただいた次第です。
 岩橋武夫先生が逝去されたのは1954(昭和29)年で、先生存命中の法人名は「社会福祉法人ライトハウス」でした。「社会福祉法人日本ライトハウス」と改称したのは1960(昭和35)年のことです。そこで、「岩橋武夫が歴史に残した遺産 ―― ライトハウス100周年におもう」の中で本間律子さんは、きっちり「ライトハウス」と「日本ライトハウス」を使い分けておられます。(福山博)

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