THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2012年1月号

通巻第500号(別冊)
編集人:福山 博
発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310
E-mail:tj@thka.jp

『点字ジャーナル』通巻第500号記念歴代編集長座談会

 福山:本日は諸先輩にお集まりいただきありがとうございます。とくに水谷さんには、大阪からわざわざお越しいただき、まことに恐縮です。『点字ジャーナル』は2012年1月号で通巻500号を迎えました。そこで、小誌にまつわる思い出やエピソードなどを忌憚なく語っていただきたいと思い、存命の歴代編集長である高橋秀治さん(69歳)、阿佐博先生(89歳)、水谷昌史さん(69歳)にお集まりいただきました。司会は、現・編集長の福山(56歳)が務めます。
 『点字ジャーナル』の創刊号は、1970年(昭和45年)6月号です。この年は、八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日本製鐵ができたり、ソニーが「10万円を切る電卓」を発表して話題になったり、大阪万博が行われ日本中が沸いた一方、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫の割腹自決など世間を騒がせる事件が起きた年でもありました。
 創刊号の編集長は、元『点字毎日』編集長の長谷川功(はせがわ・いさお)さんですが、名ばかりで編集にはまったくタッチされていませんでした。2代目は常務理事の一色直文(いっしき・なおふみ)さんですが、これも名ばかりです。創刊から8年を過ぎた第102号から第3代目は井口淳さんになるわけですが、実質的には創刊号から井口さんが編集されていました。
 また、公表はしておりませんが、『点字ジャーナル』では外部からも編集委員を招いています。もはや時効だと思いますので述べますが、創刊当時は外部から村谷昌弘(むらたに・まさひろ)さん(当時日盲連事務局長・48歳)、田中徹二さん(東京都心身障害者福祉センター職員・35歳)、牧田克輔(まきた・かつすけ)さん(点字毎日東京駐在・34歳)、協会からは黒崎久(くろさき・ひさし)さん(点字出版局長・51歳)、井口淳さん(点字出版局総務・46歳)で、この2名は毎日新聞からの出向でした。みなさんとても若かったことに驚くばかりです。ちなみに創刊号に祝辞を寄せていただいた内閣総理大臣佐藤栄作さんが69歳、日身連会長の灘尾弘吉(なだお・ひろきち)さんと日盲連会長の金成甚五郎(かなり・じんごろう)さんは70歳でした。
 なお、創刊当時の編集委員というのは正式なものではなくて、酒を酌み交わしながら談論風発にぎやかなものだったようです。ただ、村谷・牧田両氏は、小誌の編集からはすぐに遠退かれました。この間の事情は、田中徹二さん(現・日本点字図書館理事長)に詳しくうかがいました。
 その後、編集長は第162号から高橋さん、272号から昨年(2011)亡くなった内田捷治(うちだ・しょうじ)さん、299号から阿佐先生、324号から水谷さん、401号からわたくし(福山)が務めることになるわけです。

懸賞小説

 阿佐:わたしは編集長になる必要なんかなかったんだよ。編集長候補として、すでに水谷さんがいたし、わたしは『ライト&ライフ』の編集長もしていたからね。でも、井口さんが短期間でもいいから、どうしても編集長をやれと言って聞かないんだよ、そして辞令を出してしまってね。それで、2年間編集長をして、その後ジャーナルの編集主幹という肩書きをくれたんだよ。
 福山:高橋さんは創刊の翌年に協会に入職されて、すぐにジャーナルの手伝いをされたのですか?
 高橋:いや、3カ月くらいたってからかな。
 福山:1971年の9月21日に日本点字図書館から転職してこられたのですから、1972年の年明け早々からということでしょうか? 今はまったく飲まなくなりましたが、昔は井口さんたちが5時頃からウイスキーをちびりちびりやっていて、6時になったから「おまえ達もこっち来て飲め」ということになったのでしょうね。
 高橋:あの頃は、早ければ3時半くらいから飲んでいたから、6時頃にはすっかり出来上がっていてね。
 水谷:創刊号を、当時僕は日本ライトハウスの職員でしたから大阪で読んだのですが、民間の雑誌に首相が祝辞を書くなんて、他にはあり得ない。すごいなあと思っていましたよ。
 阿佐:あれは、一色さんが毎日新聞を動かしたのだろうと思いますね。
 福山:今回いろんな方に昔の話を聞いたのですが、小誌の業績のひとつに懸賞小説をあげる人が多数おられました。ところが、どなたもが創刊して、数年経ってから始まったと勘違いしておられます(「そうじゃなかったの」の声)。創刊号が6月号で、この年の10月号で懸賞小説を募集して、新年号の通巻第8号で、中林知哉(なかばやし・ともや)・作「死の瞳」が入選しています。翌年は、竹村実・作「波紋」で、選者は戸川幸夫(とがわ・ゆきお)でした。
 阿佐:そうそう、思い出した。盲界に大きな影響を与えたよ。日本盲人作家クラブもできたからね。今は盲人の文筆家が少なくなったね。活躍しているのは馬場麻由子(ペンネーム「三宮麻由子」)くらいだからね。
 水谷:選者が大江健三郎とか水上勉など錚々たる顔ぶれというのも魅力でしたね。
 福山:「『ももたろう』物語」で、水谷さんも入選しています。選者は田中澄江(たなか・すみえ)でした。
 阿佐:わたしが選者を宮本輝に直接頼んだら秘書に断られてね。それで、毎日新聞学芸部経由で、赤川次郎や島田雅彦にもお願いしましたよ。
 水谷:その頃は、応募者もかなり少なくなってきて、常連ばかりでしたね。それで島田雅彦に「リピーターの相手はしたくない」ときっぱり言われたのですが、それでも3回も受けてくれましたよ。
 高橋:懸賞小説では今だから言えるのだけれどひどい目にあいましてね。芥川賞の候補にもなったことのある作家の儀府成一(ぎふ・せいいち)に依頼したのですよ。何しろ宮沢賢治と親交のあった人だから、当時すでに80歳を過ぎている老作家です。ところが、頼んではみたものの約束の原稿が来ない。それで電話してみると奥さんが出て、認知症になってそれどころではないと言うんです。実は儀府成一はわたしの叔父だったので、井口さんに「責任を取れ」と言われて、叔母に儀府成一の名前で書きますよと断って、選評をでっちあげたことがありました(笑い)。

書けない話が面白い

 福山:他の方は失敗談はありませんか?
 阿佐:わたしはね「ジャーナル時評」をよく書いていたけれど、竹下義樹弁護士から抗議が来たことがありましたよ。今は仲直りしたけどね。
 水谷:僕は生きている野球評論家に「故○○氏」と書いたりね(笑い)。後ろに阿佐先生がいたから気が楽だったので、それが禍して、よく訂正記事を書きましたよ。
 高橋:皇族の名前を間違えて、本間昭雄さんに怒られたこともあったな。それから原稿紛失事件もあった。筆者は間違いなく郵送したと言うのだけれど、届いていないので説得してもう一度書いてもらいました。すると、それから半年くらい経ってから、隣の新宿北郵便局から局員が2名訪ねて来て、油まみれの原稿を差し出して平身低頭するのです。それでわけを聞くと、エレベーターの隙間から、地下に落ちたのを気づかなかったと言うのだけれど、後の祭りだよ。
 福山:今はほぼ100%Eメールで送られてきますから、そういう事故はなくなりましたね。もっとも間違えて点毎に送ったり、点毎宛の原稿がこちらに届いたことはありますが。
 阿佐:失敗じゃないけど、「盲界マスコミ拝見」というコーナーがあってね。4人くらいで毎月交代で書くのだけれど、点毎やNHK「盲人の時間」を匿名で酷評するのは、あれは嫌だったな。
 福山:黒崎さんのアイデアで、創刊号からあります。当時は思いつきの企画も多かったようで、すぐに消えた連載なんていうものも少なくなかったようですね。しかも怖いもの知らずで、何かといえば匿名座談会で、言いたい放題だったみたいですね。
 阿佐:飲みながら、誰かが思いつきをしゃべると、すぐに書いたからね。匿名というのは卑怯だし、嫌だったね。
 水谷:僕の頃は匿名はほとんどなくて、「盲界マスコミ拝見」も署名記事になっていましたよ。
 福山:高橋編集長の頃を境に、ジャーナルは様変わりするのですよ。
 高橋:井口さんが視力が落ちて、頑固かつ攻撃的になってね。その記事をいかに当たり障りなくすることにもっとも気を遣いましたね。ただ、これだけは自信を持って言えることは、ポルノを載せなくなった。
 福山:内田さんの時に揺り戻しが来ましたが、阿佐先生もばっさり切りましたね。
 水谷:その頃、いろんな事があり、本当は書けない話の方がよっぽど面白いのですがね(笑い)。
 福山:ところで、匿名のえげつないコーナーで、「バズーカ評論」というのがあり、堀利和さんの支援者から抗議がきたこともありましたね。でも、その後水谷さんは、よく堀さんと高田馬場の場末の居酒屋で飲んでいましたね。
 水谷:堀さんが浪人していたときにね。その後、返り咲くので、余得で議員会館の堀事務所を見せてもらったこともありましたよ。
 阿佐:2期目の時はお祝いの会を高田馬場の宴会場で行って、菅直人も来賓で来たのでみんなで拍手したら、「わたしが歓迎されているみたいだ」と挨拶したね。
 福山:その後、堀さんが議員バッジをつけて編集室にも来ています。これはあまり知られていない話ですが、当時の協会の理事長は堀込藤一さんでその弟さんが、堀込征雄という民主党選出の衆議院議員だったのです。5期務められていたので、堀さんの任期と完全に被っているんです。協会に来られたのはその関係もあったようです。

国際関係

 阿佐:ジャーナルは国際関係にも力を入れていたね。
 福山:和波孝禧さんがロンドンに住んでおられた当時、帰国された際に増田次郎さんと対談されています。1981年3月号です。当時から和波さんは世界的音楽家でしたから恐れ多くて、その時のトラウマで、今でも僕は和波さんの前に出ると萎縮します。
 阿佐:ちょうど30年前か。増田さんもバイオリンをやっていたからね。
 高橋:増田さんは神奈川県の藤沢市で手広く物療院を経営されていて、運転手付きのベンツで、スコッチを手みやげに毎月編集委員会に出て来られました。
 福山:国際関係では、1983年2月号で、井口さんが世界盲人福祉協議会岩橋英行(いわはし・ひでゆき)副会長と「聞きしにまさるアジア盲人の悲惨な生活」のタイトルで対談をしています。
 水谷:エッ、岩橋さんが亡くなる1年前じゃない。驚いたなあ。欧米だけでなく開発途上国にも関心があったんだ。知らなかったなー。
 福山:1989年3月号には、いま、日本福祉大学の教授をしている野崎泰志(のざき・やすし)さんが「カトマンズからの現地報告」を書いています。高橋さんもその後、現地に行ってジャーナルに書きましたよね。
 高橋:バラCBRセンターで、ミーティングをしていたら夕方になって暗くなったけど停電で電灯がつかない。いよいよ暗くなってちょうどお開きになる頃、「パッ」と電灯が点いてね。そんなことを書いたな。
 阿佐:井口さんはアイデアマンで、外国援助の口火を切ったんですね。その後、日点がやり、桜雲会がベトナムでやり、やれ「アミン」だ、沖縄プロジェクトだと続いたわけです。
 福山:ただ、ネパールに関しては、完全に田中さんのリードでしたよ。1989年に、「ネパール政府と協定を締結するから理事長のお供で、君ネパールに行け」と井口さんに命令されます。当時の理事長は、戦前に栃木県知事をしていた内務官僚の櫻井安右衛門(さくらい・やすえもん)さんで、当時すでに90歳だったのです。それで、僕は仕方なく英文の協定書を辞書片手に翻訳したら、なんだかネパール政府に都合のいいことばかり書いてあって、井口さんにこれでいいんですかって聞いたら、「俺は知らん。テッちゃんに聞け」と言われて、田中さんに相談に行ったのです(笑い)。
 阿佐:田中さんが、東京ヘレン・ケラー協会の第1回ネパール調査団の団長だったからね。
 福山:海外関係で言えば、先ほど話題になった竹下弁護士の抗議文を掲載した1996年5月号に阿佐編集長の司会で「ヘレンケラー・ヨーロッパツアー」の鼎談が載っています。
 阿佐:そういうこともあったね。翌年、日本点字委員会の有志ともう一度ヨーロッパに行った。その前には、米国ツアーもあってハーバード大学の女性史博物館で、学生時代のヘレン・ケラー女史の答案を見せてもらったのだけれど、これが読めないんだよ。その頃は縦2列、横4点のニューヨークポイントだったんでね。それから、仕事でフィリピンにも佐々木秀明さんと行ったなあ。

協会の多彩な活動

 福山:佐々木さんは録音課長のかたわら、当時、海外の仕事も兼務されていましたからね。
 高橋:奥さんは、色が白いので「金時」というニックネームでね。『週刊ニュースプラス』というテープ雑誌をやっていました。
 福山:当時、NHKの池上彰さんや経済評論家の海江田万里さんも出演していました。この前の11月号のジャーナルで、エジプト人のムスタファ・サイッドという全盲のウード奏者を取り上げたのですが、これは秀明さんが教えてくれたのです。佐々木さん夫婦は、もう10年以上、東京・西荻窪で「音や金時」というライブハウスを経営していて、その縁で以前から面識があったらしいのです。
 阿佐:2010年に解散したけど、それまでH(ホース)クラブの総会を「音や金時」でやっていたから、年に1度は通っていましたよ。ね、高橋さん。
 高橋:はい、わたしもHクラブの会員でした(笑い)。
 水谷:Hクラブもジャーナルが縁だったのですか?
 阿佐:それはどうだろう? しかし、竹村実さん、直居鐵さん、田中徹二さんとか、関係者が多かったのは事実ですね。
 水谷:木塚泰弘(きづか・やすひろ)さんも編集委員をされていましたね。
 福山:「盲界異色人物伝」という名物コーナーがありました。昔の人は個性的で、多士済々でした。
 高橋:リーダーの側に行けば、話がもらえた時代でしたね。
 福山:全鍼連(全鍼師会の前身)と日鍼会が覇権を争っていてジャーナルでは日鍼会をぼろくそに叩いていた。しかし、一方では、日鍼会の木下晴都会長に原稿依頼しており、そんなことしていいのかと、僕ははらはらしていました。
 阿佐:おそらく芹澤勝助先生のルートでしょうね。井口さんは気遣いのできる人で、人脈や交友関係が多彩で、ジャーナルにもいろんな人に書いてもらっていましたからね。
 福山:宮ア康平(みやざき・こうへい)さんは点字出版局(当時)に来られましたし、文化人類学者の梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんや川喜田二郎(かわきた・じろう)さんとも親しくておられました。
 水谷:大阪にいた頃、ジャーナルの他に『医道の日本』、『点字株式』、『点字サイエンス』、『ライト&ライフ』、そして「大思想全集」なんていうものも発行していて、一点字出版所でよくこれだけできると感心していましたよ。
 阿佐:井口さんの人脈でね。『将棋検定』なんていう雑誌もありましたよ。
 水谷:創刊当時の目次を読むと、科学記事とか株式や詰将棋なんていうのもあって、その兆しをみることができますね。
 高橋:さっきの「盲界異色人物伝」の話だけれど、誰がもっとも異色だったのだろう。
 福山:それはもう、革マル派の最高指導者「クロカン」こと黒田寛一(くろだ・かんいち)にとどめを刺すでしょうね。戦後最大の思想家・吉本隆明(よしもと・たかあき)にクロカン評を電話で聞くと、「電話では答えられないと断られた」とジャーナルに書いてありますよ。
 阿佐:よく150回も続いたよね。
 福山:149回目は田中徹二さんですが、最終回は誰だと思います? なんと日点の本間一夫館長だったのです(「エッ」という声)。
 阿佐:それはとっくに掲載していると思って、忘れていたのだろうよ。(笑い)
 水谷:『視覚障害』が、今、このテーマをやっていますね。ジャーナルも今のうちにデータ化して保存しておいた方がいいよ。いつ頃からデータ化してあるの?
 編集部(小川):途中、データが一部欠落しているかも知れませんが、2000年6月号からですね。
 阿佐:古文書といえば『むつぼし』を今、墨字にしていますね。
 高橋:『あけのほし』も今、データ化していますよ。
 水谷:全部でなくってもいいから、主要な記事はデータ化しておいた方がいいね。
 福山:500号を記念に大変な宿題を出されてしまいましたが、皆さんのお知恵を拝借して、なんとか善処したいと思います(笑い)。
 本日はどうも長時間、貴重なお話しをありがとうございました。

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