「世界で7番目に障害者差別禁止法を施行した韓国に学べ」とか、「FTA(自由貿易協定)で先行する韓国に学べ!」というような声を最近よく聞く。しかし、うわべだけをなぞっても仕方ない。その本質から学ぶべきだろう。韓国の障害者差別禁止法をとりまく状況は、本誌、「日盲連とKBUとの国際交流」を読んでいただくとして、問題は経済だ。
たしかに韓国は、日本に先駆けてグローバル化し、李明博(イ・ミョンバク)政権下で、ウォン安に誘導しているため、サムスン電子や現代自動車などがそれぞれの分野で日本企業をしのぐ成長ぶりをみせており、日本の大手輸出企業はうらやましくて仕方ないだろう。
しかし、ウォン安は一方で輸入物価を押し上げインフレーションを起こす。その対策として、政府は電力料金などを値上げしないように指導したため、それが一因となって韓国電力は、昨年(2011)大規模な停電事故を3回も起こした。そして、公共料金は軒並み跳ね上がった。
韓国経済は日本よりはるかに米国化しており、大手企業のオーナーは巨額の報酬を手にする一方、韓国の最低賃金は4,320ウォン(295円)と貧富の差は大きい。しかも、韓国では最低賃金の時給すらもらえない労働者が200万人近くもいるというのだ。
日本の2010年の大卒就職率は91%で大騒ぎしたが、韓国は51%に過ぎなかった。韓国では非正規雇用の割合が半分を超えているので、もともと就職自体がとても厳しいのだ。
韓国経済は輸出依存度が、日本のそれが13.44%に過ぎないのに比べ、45.98%とずば抜けており、農業を犠牲にし、韓国に不利なサービス関連の条項を丸飲みしてでも米国とのFTAを締結して大手輸出企業中心の成長戦略を描くしかなかった。
その韓国でさえ、国益にならないとして不参加を表明したTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉に、野田首相は参加するという。韓国から学ぶものを取り違えているとしか思えない。(福山)
夜来の雨も上がって、今日のお天気はご機嫌がいいようだ。というのは、この企画は3月26日(土)に実施されることになっていたが、例の東日本大震災によって延期となり、さらに9月3日(土)は台風12号によって再延期となり、11月12日(土)がようやくやってきた。桜雲会創立120周年記念事業として第6弾が企画されたのである。日本児童教育振興財団の協賛で実施された。
午前9時、バスは参加者39人・誘導スタッフ等10人を乗せてまず雑司ヶ谷霊園に向かう。この霊園は広さが約11万㎡(約3万3,000坪)あり青山や谷中の霊園などとともに以前より知られ、夏目漱石をはじめとして大きな仕事をなした人々が葬られている。車内では桜雲会理事一幡良利先生から参加者に歓迎のご挨拶があり、続いてスタッフが参加者の芳名を紹介。雑司ヶ谷霊園には町田則文(まちだ・のりぶみ)、奥村三策(おくむら・さんさく)、斎藤百合ご夫妻(お生まれになった順)の諸先覚者たちが永眠されている。長尾榮一先生が斎藤百合先輩について解説し始めて間もなく、車は霊園に着いてしまった。この間高田馬場から豊島区雑司が谷まで約15分だった。
バスを降り、広々とした霊園、道は幾筋もあり、墓所番地がついている。
斎藤百合夫妻の墓所番地は1-16-12で墓は石が5つ重ねてあって立派な作りである。夫妻には2男3女がいて末娘の美和(みわ)さんのほかは今は皆亡くなっている。昭和20年に次男のタケヒコさんが沖縄で戦死されたことを思い、私は胸が締め付けられる思いだった。
奥村三策先生の墓所番地は1-1-14で二等辺三角形2m余の石が堂々とたち理療科関係の著書をたくさんお書きになられたご努力を忍んだ。
町田則文先生の墓所番地は1-4A-4で戒名に院号があり、隣は息子さんの墓石か、海軍少佐の文字。先生が明治43年、盲ろう分離教育を実現なさったにもかかわらず、この頃はまた特別支援教育の名の下に本来相当性質の異なる障害内容をもつ教育をごった煮にしようとしていることに墓前で不条理さを覚えるのであった。
バスに戻った。長尾先生は斎藤百合さんの伝記を解説なさって、続いて伝通院(でんづういん)に向かいながら、小西信八先生の人となりを語り、盲教育ろう教育に絶大な貢献をされた小西先生を聞いている者たちに印象づけた。盲ろう教育の父と仰がれる小西先生は盲教育については、ブライユ点字の日本語への翻案を石川倉次先生に指示された。ろう教育については口話法・筆談・ろう者同士ならば手話もあるべしと考えていて、また仮名文字論者でもあったので先生の墓石には仮名の文字が刻まれ、墓の向きはろう学校があった白山の方角を向いているとのことであった。この寺にある於大の方と千姫の墓は特に大きかった。
バスは築地へ向かう。今回は一般の参加者の方の中からツアーそのほかのことなど思いや情報を語っていただくのもよいのではないかとまず大橋由昌筑波大学附属盲学校同窓会会長が『なずれば指に明きらけし ―― 盲唖教育分離後100年 筑波大学附属盲学校記念文集』(大活字版)と題する本が生徒の視点からの編集・出版されたことが報告された。
続いて「東京盲唖学校発祥の地」ならびに「日本点字制定の地」の記念碑建立実行委員会委員のお1人で、活躍なされた木村愛子先生から建立のいきさつや記念碑のたたずまいなどを話していただいた。記念碑の所在は東京都中央区築地4丁目の市場橋(いちばばし)公園内に東南向きに建立され、2010年11月1日に除幕式が執り行われた。記念碑の石材はニューインペリアルレッド(赤御影石)。大きさは、底面90cm×60cm、高さ83cmの切妻型家屋の形。傾斜している部分の前面にはブロンズが貼られ、左側に、ジョサイア・コンドルの設計図をあしらった東京盲唖学校の立体図、右側に碑文の凸文字と点字の3種を調和よく浮かび上がらせている。記念碑は地面から30cmほどの大谷石の上に建てられているので、実際には約120cmほどの高さである。
私たちは記念碑を訪れ、昼食をとり、バスに戻り、戸山サンライズへ。この前後に葛飾盲の猪鼻和子(いのはな・かずこ)先生に話していただいた。先生は附属盲の図書室で点字雑誌『むつぼしのひかり』を読み進める中で、明治から昭和へかけて、視覚障害女性たちがどのように思い、またどう思われていたかを雑誌に書かれている文章から考えてみたと話され、視覚に障害のある男性は晴眼女性と結婚すべしとか、斎藤百合さんでさえ盲に加え知的障害のある二重障害者と盲単一障害者とは違うというような差別感を持っていたことに驚きを感じたと述べられた。
次に静岡県から参加された鈴木雅夫(すずき・まさお)氏は浜名湖の西の湖西市に住む岡田すみ子さんという70余歳になる中途失明女性が、100余坪ほどの畑や竹林に出て、耕して種をまき、水やり施肥もし、剪定まで手の触覚と足などによる方向認知によって、葉菜・根菜・豆類など収獲し、自家用はもとより知人たちに差し上げていると述べられた。
続いて神戸の古賀副武(こが・そえむ)先生が、父タケホ先生が昭和5〜8年頃陽光会で斎藤百合さんに会ったと述べられた。神戸は左近允孝之進(さこんじょう・こうのしん)先生や今関秀雄(いまぜき・ひでお)先生の舞台ともなったのだ。
バスは新宿区にある全国身体障害者総合福祉センター戸山サンライズに着いた。午後2時から「盲女子の母・斎藤百合生誕120年記念講演会」が開催された。内容は、
1.「斎藤百合 ―― その歩んだ道」元NHKラジオチーフディレクター川野楠己氏
2.「『斎藤百合』粟津キヨさんを通して」元失明女子を考える会代表伊藤泰子(いとう・やすこ)氏
3.「盲教育の教員養成」元筑波大学教授・医学博士長尾榮一氏
4.「触れて聴く ―― 音楽受容のユニバーサルデザイン」浜松市ユニバーサルデザイン市民リーダー佐々木幸弥(ささき・さちや)氏
5.20弦箏と歌「歓迎歌 ―― ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」(斎藤百合作詞、宮城道雄作曲)、「錦木(にしきぎ)によせて」。大橋雅美穂氏
複雑な漢字の点と画を正確に覚えるのは容易くない。視覚障害児への漢字指導の優れた実践例は、単調な「繰り返しドリル」に偏るのを避け、基本となる「字形」や「部首」を徹底することに意を注ぐ。盲唖院の漢字指導に、すでにその観点があった。「部首」に分けた木刻凸字も作られていたのだ。「七十二例法」と名付けられている。
『明治十一年諸伺』という簿冊(帳面)に、同年七月二十三日に知事へ提出した「七十二例法木刻」の製造伺が綴じられている。この伺に知事は「七十二例法とは何か」と返した。
古河は、「盲人の筆記する文字としては真(楷書)よりも崩し字が適切だ。崩し字での部首を分類し、それを1つずつ木の板に凸状に刻む。これによって、運筆と名称を教え、画数の少ない字から多い字へと発展させるのが適切である。蝋盤や針を用いて実際に漢字を書き、習熟を図っていく」と答える。
「七十二例〈盲者ノ書ハ真ヲ用ウル尤難シ 故ニ能ク草行ノ間ヲ以テセンコトヲ欲セハ此例法ヲ用ウルモノナリ〉ヲ一例毎ニ曲尺二寸四方ツヽノ凸字ヲ木刻シコレヲ授クルニ運筆ト名稱ノミヲ以テシ併シテ其名稱ノ義理ヲ解シ(中略)少畫ノ文字ヨリ入リ多畫ニ及フニ既ニ授ケシ文字ト例法トニ拠ルヘシ 実ニ此例名ヲ能ク記憶ナスニ及ンテハ蝋刻針跡等ヲ以テ單法ノ本字及読本ノ用字熟字等ヲ感覚ナサシムルノu径(近道)ニシテ(後略)」
文字通り72種である。我々に馴染のものを挙げれば、うかんむり・くにがまえ・さんずい・りっとう・こざとへん・にんべん・けものへん・もんがまえなどが見うけられる。それぞれの板の裏には、部首の名称とそれを用いた文字の例が墨字で記されている。保存されている実物は、伺とは異なり、1辺4.3cm大である。
古河太四郎はこれを「知足院・夢覚の下で書を学んだとき教えられた」と記す。
「本朝通用七十二例法之儀ハ古河太四郎嘗テ印青蓮院宮入来道支派知足院夢覚ニ仕ヘ書法ヲ学ヒシ時授カリシ例法ニテ所謂世ニ稱スル処ノ行成傅ニ御座候」
さて、では、この知足院・夢覚とは何者か? これまでは、ただ「青蓮院の夢覚というお坊さん」だとしか分かっていなかった。筆者は「知足院」を寺院の名と誤っていたほどだ。ところが、つい最近、新しい知見を得ることができた。意外な人物だったのである。以下、加藤洋一氏所蔵史料等による。
幕末の京都北部、綾部藩に加藤家があった。医家であり、藩医を務めたこともある。当時の当主・岩右衛門の三男に亀吉がいた。幼児期に常楽寺の住職に見込まれて弟子となり、以後僧籍にありつつ書道の修養に努めた。幕府の公文書に用いられた御家流(別名、入来道)で技を磨き、名を夢覚と改める。この流派は平安時代の書道に秀でた三蹟の一人・藤原行成の流れをくむ。
青蓮院内の金蔵寺に入り、尊宝法親王から「知足院」の号を賜った。万延元年には御家流の皆伝を許され、文久元年に入来道の取締方を命じられて書道の最高権威となった。都合40年間、門跡寺院である青蓮院にあって、維新の頃には尊応法親王(後の久邇宮朝彦親王)を扶けた。
尊応法親王は、安政の大獄で罪を問われ、謹慎を措置された青蓮院宮(中川宮)を指す。知足院は、歴史の表舞台には登場していないが、青蓮院の重役として、尊攘派の志士とも顔見知りであった。
一方、知足院の兄・省吾の学友に楢崎将作がいた。青蓮院宮の侍医であった楢崎は尊攘派の巨頭で、安政の大獄に際しては責めを追う側に属した。坂本龍馬に感化を与えたと伝えられ、龍馬の妻・龍は楢崎の娘である。さらに、2人の結婚・内祝言の式場として金蔵寺を提供した人こそ、他でもなく、知足院だった。古河にも勤王方で奔走した時期がある。
京都盲唖院をたどれば、道筋によっては龍馬にまで及ぶ。奥は深い。
「七十二例法表」
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
『点字ジャーナル』は本号で通巻500号を迎えました。創刊から41年余営々と発行してきたことの証ですから、小誌にとっては大きな節目です。この日を迎える事ができたのはひとえに読者の皆様方のお陰であり、ここに至るまでの執筆者、編集委員の先生方など関係者のご努力のたまものであると深く御礼申し上げます。
今号で「あなたがいなければ」は最終回となりましたが、「あなた」とは伊藤先生のことではなくて、「キリスト」のことだったとはちょっと意外でした。王崢さんの最後の原稿には「原稿を書くチャンスをいただき、本当に心より感謝しています。これから、しばらく育児休暇に入りますが、今後も是非、よろしくお願いいたします」というメッセージと、愛娘・理香ちゃんの愛くるしい写真ファイルが添付されておりました。
「48㎡の宝箱」の今号では坂本龍馬までちらっと登場し、京都盲唖院をたどれば龍馬にまで及ぶことに、京都ならではの歴史と伝統を感じました。
「近代盲教育を支えた先覚者達を訪ねて」は、渡辺勇喜三先生が本文冒頭で述べておられるように、2度延期され、3度目の正直でやっと実現した催しの報告です。この間、先生から2回、すかさず延期されたとの連絡をいただいたため、当方で差し替え原稿を用意できたのは幸いでした。文中、町田則文先生が出てきますが、国会図書館の書誌情報では、著者名としては「マチダ・ソクブン」で、昭和9年に発行された町田則文先生謝恩事業会編『町田則文先生伝』では、「マチダ・ノリフミ」と表記されています。しかし、ここでは渡辺先生のご指摘で、「附属盲」にある胸像に添えられている点字の表記に準じて「マチダ・ノリブミ」と表記しました。小誌2代目の編集長一色直文先生の名前も「ナオフミ」、「ナオブミ」の両論あって迷いましたが、小誌のバックナンバーでは一貫して「ナオフミ」と表記されていました。日本人の名前の読みは本当に難しいですね。
来たる年が皆さまにとって明るく平安でありますよう祈念致します。(福山)