THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2011年2月号

第42巻2号(通巻第489号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:「死刑の自然死」を考える ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
(特別寄稿)韓国視覚障害者の文化・芸術活動の現状(パク・ジョングン) ・・・・・・・
5
(特集)不景気に負けない治療院 ―― 田島洋の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12
中村屋でエロシェンコを語る 生誕120周年記念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
今年一押しの人 スーダンの障害者支援に燃える福地健太郎さん(下)  ・・・・・・・
32
自分が変わること:森一久さんのこと その1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
リレーエッセイ:結婚10年を迎えて(佐木理人) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
43
外国語放浪記:遠い遠いヨーロッパ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
あなたがいなければ:伊藤先生との出会い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
大相撲:早大出身関取誕生なるか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
61
時代の風:全盲男性ホームから転落死、
  神奈川に4障害合同の特別支援学校設立、
  iPS細胞を網膜に、歩行者に優しい信号登場 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
65
伝言板:DIDアテンドスタッフ募集、バリアフリー国際シンポジウム、
  花王「くらしの中のサイエンス」に新テーマ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
68
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
「死刑の自然死」を考える

 1月14日、菅第2次改造内閣が発足した。江田五月新法相は、同日夜の就任会見で、死刑制度について「欠陥を抱えた刑罰」と述べ、執行に慎重な姿勢を見せた。
 同氏は弁護士で、死刑廃止を推進する議員連盟(亀井静香会長)のメンバーなので、法相在職中は死刑を執行しない宣言ともとれるが、油断はできない。同じ弁護士で、死刑廃止派でもあった千葉景子法相は、参議院議員の任期が満了する前日、死刑執行命令書に署名したからだ。
 国際的に死刑制度は廃止の方向にあり、先進国で残っているのは日本と米国のみで、死刑廃止国は現在139カ国で、執行国は18カ国に留まる。しかも2007年12月の国連総会では、EUなどが提出した死刑執行の一時停止(モラトリアム)を求める決議案が104カ国の賛成で採択された。
 国民の85.6%が死刑を容認しているわが国で、現在のように(仮出獄のない)「終身刑」が無い状態で死刑を廃止することは、現実的ではない。だが、昨年末で未執行の死刑囚は戦後最多の111人、無期懲役刑の受刑者も2009年末には戦後最多の1,772人に達した。厳罰化の影響で無期懲役刑が確定するケースが増加する一方、仮釈放までの期間が長期化し、2009年に仮釈放された6人の平均服役期間は30年2カ月で、「終身刑」化が進んでいるのだ。
 このような状況下であればこそ、死刑の執行を停止することで、自然な形で世界の潮流に添って、死刑停止国から死刑廃止国への道を歩むことができるのではないだろうか。
 死刑の執行命令を下すのは法相の責務だが、任期切れ直前に、「死刑について広く国民的な議論が行われる契機にしたい」と述べ、千葉法相が死刑執行命令書に署名したのは不可解というしかない。署名しないことで国益に資するという考え方だってあるはずだ。江田法相が前任者の轍を踏まないことを切に望みたい。(福山)

中村屋でエロシェンコを語る

偲ぶ会を開くきっかけ

 ロシア出身の盲人、エスペランティスト(エスペラント語使用者)、放浪の旅人、作家ワシーリー・エロシェンコ(1890〜1952年)の生誕120周年を記念して、「エロシェンコを偲ぶ会」が、彼の命日である12月23日、10時半〜14時、エロシェンコゆかりの新宿中村屋3階レストランにて、東京盲学校時代の同窓会機関誌『六つ星の光』の電子データ化・墨訳・出版の作業部会に参加しているボランティアを中心に筑波大学附属視覚特別支援学校の引田秋生校長ら18名で開催された。
 偲ぶ会を主催したのは、ボランティアグループの「六つ星の光作業部会」有志、呼びかけ人は同作業部会の井崎倫子(いさき・みちこ)氏と、『六つ星の光』などの貴重な資料を管理・保管する資料室の担当者の1人で同校教諭の岩崎洋二氏であった。
 簡単な自己紹介の後、エスペランティストの井崎氏が、「エロシェンコと盲学校」という題で偲ぶ会を開くきっかけを語りはじめた。
 附属盲(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の下田知江(ともえ)先生が生きておられた頃、「ウクライナ在住のエスペランティストで、女性のエロシェンコ研究家が、盲学校にあるエロシェンコの資料を探している」と聞き、下田先生に電話したところ、「関係資料はしまい込んであり、そのうち探し出す」と言うことだった。しかし、下田先生はすでに体調を崩しておられ、要請には応えられなかった。それから何年かたって、ウクライナの研究者のことを忘れた頃、附属盲校長に、ロシア極東連邦総合大学函館校副校長で、エスペランティストのセルゲイ・アニケーエフ氏からの問い合わせがあり、附属盲資料室にあったエロシェンコの資料を漢字仮名混じり文に墨訳したのがきっかけで、その後『六つ星の光』の墨訳作業に関わるようになったという。
 また、エロシェンコは大正3年(1914)9月に東京盲学校に入ったとこれまで言われてきたが、附属盲資料室の資料の中に5月に入学したことを示す文書を見つけたと井崎氏は新発見を報告した。
 続いて、広報を担当する中村屋CSR(企業の社会的責任)推進室の河野奈美江(こうの・なみえ)氏が、「中村屋とエロシェンコ」について話した。中村屋創業者は相馬愛三(そうま・あいぞう)・黒光(こっこう)夫妻だが、最初、夫妻は長野県で養蚕業を営んでいた。東京で教育を受けた黒光は田舎暮らしに飽きたことで、夫妻は上京、パン屋を開くのである。しかし、2人とも書生上がりであったため、本郷の東京帝国大学の前にあった中村屋というパン屋を居抜きで買い取ったのが始まりだという。中村屋は明治42年(1909)に新宿に移り、和菓子、その後洋食を販売・提供、今に至っている。
 中村屋といえばインドカリーが有名であるが、ロシア料理のボルシチとピロシキも看板メニューだ。実は、このボルシチとピロシキは、エロシェンコ直伝。相馬夫妻とエロシェンコの出会いがなければ、味わえなかった品であるという。
 また、当時の中村屋店員の制服は、ルパシカというロシアの民族衣装であった。エロシェンコがルパシカを着ており、動きやすくて機能的ということで、相馬夫妻が採用した。

鳥居篤治郎との意外な関係

 ロシアで開催されたエスペラント語によるエロシェンコ生誕120周年記念論文コンクールに応募した東京光の家職員の田辺邦夫氏は、高杉一郎のエロシェンコの伝記を附属盲の家庭科の後藤綾子先生が授業の合間に読んでくれたことがエロシェンコを知るきっかけだったと語りはじめた。
 大変興味を持って点字図書館からその本を借りて読んだ田辺氏は、その後エスペラント語を習い、熱心に学習を重ねてきた。国際盲人エスペラント連盟(LIBE)とロシア盲人エスペラント協会の共催によるエロシェンコ生誕120周年記念論文コンクールの作品公募が2010年1月に発表された。そして、同年夏ウィーンで行われた第76回国際盲人エスペラント大会(IKBE)で、田辺氏はロシアのエスペランティスト・アナトリー・マセンコ氏の部屋に招かれ、フィンランド人でヨーロッパ盲人連合の名誉会員でもあるアルボ・カルビネンLIBE会長ら4人で酒を酌み交わしながら談笑。話はエロシェンコや高杉一郎におよんだ。その話し合いの後、田辺氏は「日本人がエロシェンコのことを何か書かなければいけないな」と強く思った。エロシェンコの伝記に出会い、エスペラント語を学びはじめ、IKBEで仲間と語り合えたのも、エロシェンコのお陰だと感じて論文執筆を決意。応募締切は10月末で、3カ月余りしか時間はなかった。
 田辺氏は、高杉一郎のエロシェンコに関する伝記を読み直したほか、旧ソ連のエスペランティストによるエロシェンコの伝記やエロシェンコ自身のエスペラント語による原作作品を読んで、エスペランティストの菊島和子氏の助言を仰ぎながら論文を書き上げ、応募した。
 高杉をはじめ、これまでのエロシェンコについての見方は、盲目の詩人であって物書きであったが、田辺氏は「エロシェンコはやはり教育者だと感じました」と語る。モスクワ、ロンドン、東京の盲学校で教育を受けたエロシェンコは、それらの経験を基に考えた独自の盲教育をビルマ、旧ソ連邦のトルクメン共和国で実践した。田辺氏は「教育者エロシェンコ」という観点での論文で応募し、現在(昨年12月)選考結果を待っているところだ。
 視覚障害者に関する研究者でエスペラント語も教えている菊島氏は、エロシェンコから鳥居篤治郎(1894〜1970年)にあてた点字の手紙を英文タイプ打ちしたエスペラント語の資料を高杉一郎から渡されていた。その中にあった、丸々日本語で書かれたエロシェンコの手紙を紹介した。1916年11月14日シャム(タイ王国)のバンコクから鳥居篤治郎を通じて福島県に住む吉田均(ひとし)氏に宛てた手紙で、高杉一郎編『エロシェンコ作品集(2) 日本追放記』に掲載されている初刊の原文である。エロシェンコは日本語での著作を残しているが、すべて何らかの編集を経ている。エロシェンコの生の日本語能力を見る上で、これは貴重な原点資料である。
 エロシェンコの日本語は書き言葉としては完璧な物ではないが、かなりの物であると、参加者皆が感じたはずだ。「話し言葉であれば、彼の日本語は何も問題なかった」と菊島氏はエロシェンコの日本語力を推測し、話を締めくくった。
 鳥居篤治郎を研究している京都府立盲学校教員の岸博実(きし・ひろみ)氏は、京都ライトハウスに保管されている鳥居篤治郎の遺品、ダンボール箱50箱を整理する中で、エロシェンコに関する印刷物や点字の原稿、さらに鳥居篤治郎の日記を発見した。鳥居日記は、歴史的にも1級の価値があり、それらを読み解くことでエロシェンコ研究や視覚障害史研究が一変するかも知れない。鳥居もエロシェンコも敏感な感性を持ち、個性的な性格である2人は交流を重ねた。鳥居日記では、鳥居とエロシェンコとの親密な交流、彼の辛辣な日本人観についていけない鳥居の戸惑い、エロシェンコから鳥居にあてた絶交状への感想、思いやりに満ちた鳥居のエロシェンコへの決別の言葉までが赤裸々につづられている。そのごく一部だが、岸氏は鳥居の日記の断片のいくつかを紹介した。それらは鳥居とエロシェンコの等身大の姿を現しており、実に聞き応えのあるものであった。
 ボルシチとピロシキそしてインドカリーまで味わいながら、大正デモクラシーの息吹に思いをはせた至福の時であった。(戸塚辰永)

今年一押しの人
スーダンの障害者支援に燃える福地健太郎さん(下)

 福地健太郎さんの第二の故郷が、今、劇的に変わろうとしている。
 昨年(2010)9月24日、米オバマ大統領は、ニューヨークの国連本部で開かれたスーダンに関する閣僚会議でパン国連事務総長、スーダン政府のタハ副大統領、スーダン南部自治政府のキール第1副大統領らを前に、スーダンの内戦終結と2011年1月9〜15日のスーダン南部独立を問う住民投票の平和裡な実施を求める演説を行った。
 スーダンでは、南北内戦で200万人もが命を落としたが、ようやく2005年に南北内戦の終結をはかる和平合意を南北間で調印。これによって、南部10州に自治が認められた。そして、紆余曲折を経て、南部独立を問う住民投票がこのほど実施されたのだ。
 複数のマスメディアの報道によると、南部住民の世論から南部の独立はほぼ間違いなさそうだ。

今後の活動

 スーダン障害者教育支援の会(CAPEDS)は、これまで点字板を450面スーダンへ届けた。しかし、それだけでは支援は広がらない。昨年にエルヌール盲学校へ行き、英国から贈られた点字プリンタをパソコンに繋いで動かせるようにした。しかし、パソコンには音声ソフトが入っていなかった。そこで、今度アラビア語の音声ソフトと点訳ソフトのダックスベリーをパソコンに入れて、教員に使い方を教える考えだ。そうすることによって、ようやく自力で点字教材を自由に作成することが可能になるのだ。
 エルヌール盲学校は、スーダンで唯一機能している盲学校ではあるが、それでも点字教科書の不足に悩んでいる。点字製版機もパーキンスもあるのだが、ほとんど壊れていて使い物にならないのだ。1学年10人ほどに対して、点字教科書はわずか2、3冊。子供達は教科書を回し読みせざるを得ない。そこで、2009年に福地さんたちは現地から教科書3学年分と副読本を預かってきた。そして、日本で点訳・印刷して、これらの本を現地へ贈るプロジェクトを現在進めている。
 「スーダンでは、教科書をとても大事に使っているので、日本の厚い点字用紙に印刷された教科書は、たぶん5、6年は持つでしょう」。点字教科書の寄贈と共に、点字データも贈る計画で、これによって、教師がプリンタを操作できるようになった時点で、点字教科書を現地で出力する体制が整うという。
 それから、盲学校の教員やハルツーム大学の視覚障害学生に協力してもらって、地域の小学校に通う視覚障害児童に点字を教えるプロジェクトもスタートさせる計画だ。子供達に点字板を贈り、教員や学生が子供達に点字を3、4カ月間教え、ノートが取れるようにするのだ。CAPEDS代表理事のアブディンさんによると、4、5年生になると耳で聞いているだけでは勉強についていけない子供が増えてくるという。「ですから、勉強が難しくなる前に、点字を身につけてもらいたいのです」と福地さんは計画の趣旨を説明する。すでに点字講習会には、2、30人の希望者がいるようである。
 この点字講習会は、エルヌール盲学校までタクシーで送迎できるハルツーム市内の子供達を対象にしている。なぜタクシーかというと、同市の交通事情や道路が極端に悪く、視覚障害児が一人歩きするには危険すぎるからだという。「日本でいう東京都内限定みたいなところですね。本当は地方にまで対象を広げたいのですが、ネットワーク不足で予算も今のところこれが限度なのです」と言う。しかし、5年後にはスーダンでいろいろな活動を展開して、ハルツーム以外にも活動を広げていく展望を持っている。そうした布石として、一昨年、それまで内戦が続いていたスーダン南部の眼科診療所にある盲学校をアブディンさんが訪れ、点字板50面とパーキンス1台を手渡している。
 また、「スポーツは別として、いつになるかわかりませんが、将来は情報教育支援なら大学が、基礎教育なら教育省が、責任を持ってやるべきだと思っています。僕たちはお手伝いをしますが、障害者に権利がある以上、彼らに権利を保障する責任が政府にありますからね」と彼はきっぱり言う。
 偶然なことに、福地さんらが昨年エルヌール盲学校を訪問した際に、同校をスーダンの教育大臣が視察しており、福地さんはアブディンさんと共に教育大臣と話し合った。
 「教師達に専門性がないから視覚障害のある子供達に教えられないのが、スーダンの課題」という大臣に対して、「『教育省がやる気になれば、点字データさえあれば点字教科書は作れますから、しっかりやって欲しい』と伝え、大臣にも理解してもらいました」と福地さんは朗らかに言った。
 今は視覚障害者への支援しかできないが、将来的にはすべての障害者に支援を広げていくつもりだ。「視覚障害者が中心になってはじめた支援なので、自分たちがわかるところからはじめました。ほかの障害についても勉強をしていくと共に、多障害の当事者団体とも組んで活動の輪を広げていきたいと思っています」と福地さんは抱負を語った。
 現在、CAPEDSのスタッフは仕事をしながら活動をし、ギリギリで運営をしている状態だ。「日本でも、机1つの事務所があれば、研修生に来てもらって、いろいろと教えながら専従で仕事をお願いできます」と福地さんは切望している。広報や寄附金を集める力が弱いから、まずはそうした日本側の基盤を強化する必要があるという。スーダンでいうと、年々事業が拡大している。しかし、すべての事業をまとめる拠点がまだない。日本から行って指示を出して動いているため、日常的に仕事が動かない状態だ。「現地に、僕たちの事業をまとめてくれる事務局長がいればいいのですが。適任者を今探しているところです」と話す。
 スーダン西部のダルフール地方では、今もなお非アラブ系反政府勢力と政府の支援するアラブ系民兵との紛争が続いている。紛争により、2003年以降だけでも40万人以上の人々が亡くなっているという。紛争や貧困のために、ダルフール地方では多くの障害者がなんの援助も受けられずにいる。紛争が平和的な手段によって1日も早く解決することを福地さんは願っている。
 今年も、福地さんは日本とスーダンの架け橋作りに忙しい。(戸塚辰永)

編集ログ

 小誌記事の一部はホームパージ上で公開していますが、2008年11月号の記事、「ノーベル物理学賞の登竜門J.J.サクライ賞」(http://www.thka.jp/shupan/journal/200811.html)の中に誤りがありました。これは、同年にノーベル物理学賞を日本人3人が独占したことに触れ、日本では一般には余り知られていないが、アメリカ物理学会が理論素粒子物理学の貢献者に与える「J.J.サクライ賞」という権威ある賞があり、その賞と当協会の元理事長の関係を思い出と共に語ったものでした。
 上記記事に関して、最近、J.J.サクライ(櫻井純)氏のご遺族から、下記のようなご指摘を受けましたので、ここに訂正してお詫び致します。(編集長福山博)
 「物理学者の兄・純がアメリカ国籍のように書かれて居られますが、正確には永住権を取得したまでで、1982年に日本国籍のまま死去しております。J.J.SakuraiはJun John(ヨハネ)サクライ、真ん中の J は洗礼名です」。
 イタリアは日本の数十倍も泥棒が多い国で、本誌で「自分が変わること」を連載していただいている藤原章生さんのご自宅を兼ねた毎日新聞のローマ支局も昨年末、2人組の侵入窃盗に遭い、現金や宝飾品などが盗まれたと1月17日付「毎日新聞」に、ご自身で書いておられました。記念の品を奪われたようでご心痛もおありでしょうが、くれぐれもご自愛ください。
 「時代の風」でも報じましたが、JR目白駅で亡くなった武井視良(みよし)さんは、約25年前に視覚障害者が楽しめる「ブラインドテニス」を考案し、日本ブラインドテニス連盟の会長を務めていた方で、ヘレン・ケラー学院の卒業生でもあります。2020年のパラリンピックの正式種目入りを目指していたところだっただけに、さぞや無念だったと思います。謹んでご冥福をお祈り致します。(福山)

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