愛の光通信    2024年新春号 通巻61号    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321    東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 (巻頭写真のキャプション)  ユネスコの世界遺産シンジャ渓谷にあるバイラブ高校(幼稚部〜12年課程)へは、カトマンズから一部飛行機も使って片道3日間かかった。開発の遅れた貧しい地域なので、NAWBのアルヤール理事が古着33kgを持参して視覚障害児と小学校低学年50人に配った(詳細は3〜4ページ参照)。 ●ネパール出張報告 なぜ、不便なところに、無理を押して出かけるのか?  海外盲人交流事業事務局長・福山博  11月15日〜12月3日の旅程でネパールを訪問した。目的は、@奨学金事業に関係する統合教育校の視察、A今後の支援事業に関するネパール盲人福祉協会(NAWB)との協議である。  この出張で視覚障害児・生徒が学ぶ統合教育校7校を視察したが、最初に訪問したバイラブ高校へは、片道3日間、往復6日間もかかった。  なぜ、そんな交通が不便なところに、わざわざ無理を押して出かけるのかというと、まず、支援している学校は必ず訪問して教育環境等を調べるということが原則だからだ。  日本では農村僻地の児童数50人に満たない小学校でも2階建ての鉄筋コンクリート造りの校舎があり、体育館があり、25mプールがあり、1周200mのグランドが整備されており、訪問しなくても教育環境についておおよその検討がつく。だが、ネパールでは、実際にこれでは教育どころではないだろうと心配になる学校さえまだ多い。  私たちが13年間視覚障害者のためのCBR(地域を基盤にしたリハビリテーション)を実施したバラ郡にあるドゥマルワナ高校は今でこそ校舎も立派で、設備も充実しているが1990年代はかなり問題があった。  報告書レベルでは寄宿舎があり、シャワー室もあることになっていた。だが、現地調査をすると、シャワー室というのは、校庭の隅に地面から1mほどの高さに蛇口があるだけのオープンスペースだった。トイレだってオープンスペースだったので、大慌てで寄宿舎を建設したのであった。  NAWBでバイラブ高校を訪問したことがあるのは10年ほど前に教育課長が1度行ったきりだった。その行き方がふるっていた。カトマンズからネパールガンジ空港へまず飛行機で行く。次はジュムラ空港まで行くのだが定期便がないので、ネパールガンジ空港に日参して1週間ほど待って搭乗し、ジュムラ空港からは徒歩で2日間かけてバイラブ高校に着いたという。  もちろん私と同行するアルヤール氏はそんな悠長なことはできないから、ネパールガンジで現地の悪路に慣れた運転手付4WDをチャーターしてバイラブ高校のあるシンジャを目指した。     悪名高きカルナリ・ハイウェイ  日本語のハイウェイには「高速道路」という意味もあるので、勘違いする人もいるが、ネパールに高速道路はない。たしかにネパールガンジからジャングルを抜けてビレンドラナガルまで行く片側2車線の舗装道路ラトナ・ハイウェイはまっすぐで、どの車も時速80km以上を出すので高速道路と一瞬錯覚する。しかし、誰もが無視するが、象と虎の絵を描いた出没注意と「警笛鳴らすな」のマーク、制限速度時速40kmを示す標識がところどころに確かにあるのだ。  ネパールガンジからシンジャまで322kmなので、当初、私は1日で走りきれると思ったが、アルヤール氏の指摘で途中1泊することにした。  ビレンドラナガルと山間僻地のジュムラ郡を結ぶカルナリ・ハイウェイは、政府とマオイスト(毛沢東主義派)による内戦が勃発し、ジュムラ郡がマオイストの拠点の1つとなったので政府が計画し、陸軍が建設した道路だ。NAWBのパワン・ギミレ常務理事は現役の陸軍中佐だが、2003年、25歳の中尉のとき道路建設の巡察途中、我々が1泊したマンマ・バザールの近くで軍用車ごと地雷に吹き飛ばされて全盲となった人だ。  ビレンドラナガルから遠ざかれば遠ざかるほど道は険しくなり、前方から対向車のバスやトラックが来たらその都度道を譲るために時間がかかる。しかもこのハイウェイは危険すぎるので警察は夜間通行を禁止しているが、それでも毎年少なくとも50人は死んでいると新聞は報じる。  車は午後3時過ぎに標高750mの谷底を走っていた。すると前方が開け、深いV字谷の前方に山の尾根が立ち塞がり、そこには無数の建物が白く光っており、「あれがマンマ・バザール(標高1,714m)。あと1時間半で着く」と運転手は言った。  町一番と運転手が太鼓判を押したホテルのエントランスは4階にあった。そこから階段を降りた3階が我々の部屋で、最初窓のない部屋に案内され、「ここでいい」と言った運転手の部屋は1,000ルピー(1,000円)だった。私とアルヤール氏は1,500ルピーの絶景が望める窓付きの部屋を選んだ。お湯が出ることをチェックイン時に確認したのだが、結果的にお湯が出たのはなんと運転手の部屋だけだった。驚いたのはこの3階の廊下の突き当たりには壁がなかったことだ。これではほろ酔いも危険なので、我々はビールも飲まず午後8時前に寝た。翌朝は午前4時起床、5時ホテル出発だった。     設備の整った学校の薄着の子供たち  シンジャに向かうハイウェイは1車線の未舗装道路だが、午前7時まではほとんど車が通らないので距離を稼げた。道はその後さらにひどくなり、7時半頃からバスやトラックの対向車にも悩まされたが、もっとも手間取ったのは羊の大群で、出会うと車を止めて15分ほど通り過ぎるのを待った。後の路面にはコロコロと黒い小さな糞が残った。  12〜14世紀に西ネパールを治めたカサ王国の宮殿趾へは70歳のヒンドゥー教の司祭が案内してくれた。車で20分行くと、鉄製の吊り橋があり、ユラユラ揺れながら渡ると、小高い丘に向かう手すりのついた階段状の遊歩道があり40分上ると、ヒマラヤ松に覆われた場所にたどり着いた。ここに王妃の館があったと言ったが、土塁と石がゴロゴロあるだけで、いわゆる山城趾の風情だ。その当時はレンガ造りではなく、石と赤土で宮殿も建設したとの解説だった。  その後、一目散にバイラブ高校のある町を目指し、午後3時過ぎにホテルに到着した。部屋にトイレットペーパーがなかったが、この町にはそもそも売っていなかった。こんなこともあろうかと、東京から1ロール持参してきていた。  リュックから懐中電灯を取り出すと電球から先が折れていた。リュックも激しく上下していたがまさかこんなことになるとはショックだった。  翌朝、4WDで山の尾根にあるバイラブ高校へ向かうと5分も行かないうちに運転手がわだちが深すぎるのでこれ以上は無理だと音を上げた。そこでホテルにもどり、3包みの古着はオートバイで学校に運んでもらうことにして、私とアルヤール氏は徒歩で学校に向かった。20分で着くと聞いたが、結局、40分かかった。極貧地域と聞いていたので教育環境もひどいだろうと想像していたが、施設も人材も意外なほど充実していた。  午前10時に校庭で朝礼が始まり生徒の前で自己紹介を兼ねた挨拶をさせられた。その後、寄宿舎の食堂のテーブルに古着を並べて、視覚障害児と低学年の児童を対象に1人ずつ呼び込んで、アルヤール氏がその子に似合いそうな服を選んで渡した。中には汚れて穴の開いたシャツを着た子もおり、その子には2着渡した。  もらった子供は満面の笑顔で食堂から出てくるので、これからもらう1列に並んだ子供たちは自分たちの分はあるのか気が気ではなく、誰もが前のめりだった。  20年前まで車道が通じていなかったジュムラ郡は開発に取り残されたとても貧しい地域だ。しかも工業製品はすべて悪路のハイウェイを通って運ばれるので、その輸送費がプラスされ都市部より高い。もちろん衣類もその例外ではない。このため寒い地域であり、この日の最低気温は1℃であるにも関わらず子供たちは薄着で、多くの子供はサンダル履きだった。     堤防のない川岸と半分はげた山  世界遺産シンジャ渓谷(Sinja Valley)の伝統的な木の橋には、入り口と出口にそれぞれ4人の人物の等身大の彫刻があり、いにしえのカサ王国の夏の首都であったことを今に誇っている。とても驚いたのは、この渓谷の川には堤防がなかったことだ。標高が2,440mなので降雨が少なく、これでも水害が起きないのである。なお、乾期の現在も川に水が流れているのは、ヒマラヤの氷河が溶けたからだ。また、山が半分はげているのは、ここが森林限界で、植生もヒマラヤ松だけだった。  バイラブ高校を午前中に訪問してからホテルで昼食を取った。ホテルといっても宿泊客はほとんどおらず、町の食堂が片手間で宿屋も経営しているのであった。  その昔、ネパールではダル・バート・タルカリ(ネパール定食)を食べた客を、食堂の2階に泊める習慣があった。このため地方では英語で「○○ホテル」と看板を掲げていても、営業実態は食堂のみというケースが今も見られる。  ネパールガンジを出発してから車のはげしい振動のためめっきり食欲が衰えた。しかもシンジャは赤米だ。野生の稲のほとんどは赤米で、玄米の種皮や果皮にタンニン系の赤い色素を含むので赤飯のような色になる。赤米は病害虫や気候の変化に強いので、棚田などの環境の悪い田んぼでも生育が比較的容易である。ただし、収量が少なくアミロースやタンパク質が多いので粘りがなく、タンニンの渋みで味が悪い。  アルヤール氏が「赤米は消化が悪い」と言ったので、私は食後に持参の太田胃散を飲んだ。小説家・村上春樹氏は、「太田胃散を世界遺産に」と提唱されているが、むろんこれは冗談だろう。だが、冗談ぬきで国際協力機構(JICA)はネパール農業開発省と協力して、農業の専門家をシンジャ渓谷に派遣して、収量の多い白米生産を支援すべきではないかと思った。むろん素人の単純な考えなので、問題はそう簡単ではないとは思うが。  ネパールは不公平な社会なので、同じ公立高校でもピンキリだ。カトマンズから車で4時間、標高2,000mのチャリコットにあるカリンコック高校には教職員の出勤時間、退勤時間を指紋や顔認証で記録する装置(下記写真)があり、豪華な革張りソファーのある校長室には31台の監視カメラをモニターするディスプレイも備えられていた。  NAWBが支援する学校は、モデルスクールといわれる設備の充実した公立校が多いが、中には気の毒になるような学校もある。設備の充実した公立校はほぼ例外なく、それを支える地域社会の支援体制が整っており、視覚障害児のための統合教育に関する問題も少ない。     問題のある学校の弱視姉妹  11月27日に訪問したマデーシャ村のジャンタ高校は農村僻地にあり、道路を挟んで広大な田んぼが広がっており、稲刈りが行われていた。  同校は精神障害児と聴覚障害児用寄宿舎はあったが、視覚障害生徒のためのリソースティーチャーはいなかった。  校長室で4年生のカリシュマ・カトリと8年生のカルナ・カトリの弱視姉妹に会った。同校では10年生の長女も学んでおり、晴眼者の彼女が2人を連れて現れた。そして次女が涙ながらに「文字が見えない」とさかんに我々に訴えた。  学校に入学させる前に弱視者に眼科検診を受けさせるのはネパールでも常識だが、それさえできておらず、同校は弱視姉妹にはほとんど何のサポートもしていないようだった。さらに驚いたのは、カトリ姉妹の家族が誰も携帯電話を持っておらず、連絡するときは、「近所に住む叔母に携帯電話を借りる」と言っていたことだ。  ネパールでは2,000ルピーから携帯電話を買うことができるので、中学生以上のほとんど誰もが持っている。昼食代の小遣いで買うので、1〜2ヶ月は昼食抜きで我慢する。その後は毎月100ルピーあれば携帯電話は使える。だが、3姉妹は毎日昼食抜きなのでその手が使えないのだ。  ここまで聞いて、私はアルヤール氏と相談してポケットから5,000ルピーを出してビラトナガールの眼科病院に行き、眼科検診を受けるように姉妹に勧めた。その費用を校長に渡すと、校長は次女にその場で渡した。この頃になるとカトリ姉妹の母親(弱視)も現れたので、次女は5,000ルピーをすぐに母親に渡していた。  その2日後、アルヤール氏のネットワークで無償眼科検診のプログラムを探し出し、カトリ姉妹は無償でビラトナガール眼科病院で眼科検診を受け、眼鏡をもらうことができた。支出は交通費だけだったので、残金で携帯電話を買うように連絡し、母親が携帯電話を持つようになった。  その過程で意外なことがわかった。半年前まで三女はダーラン盲学校に在籍していたのだ。だが、夏休みが終わり、彼女を盲学校に連れて行く者がいなかったので退学した。というのは長女は平日の朝夕と、休日は親戚の家で家事手伝いとして働いており、送って行くことができなかったからだ。  だが、この説明は本当だろうか。カトマンズのラボラトリー高校は弱視教育を行っているのだが、ダーラン盲学校はいまだに弱視児に対しても点字教育を行っていた。文字が読める三女は、それを嫌ったのではないか。日本の盲学校が60年前から徐々に実践してきた弱視教育をダーラン盲学校では行っていないことはとても残念なことである。よい設備、すばらしい人材がいるのにもったいない限りである。 ●尾根筋に沿って生きる  ネパールの古い町並みは、丘の上や尾根筋にある場合がとても多い。これは、マラリアを媒介するハマダラカは低地、特に湿地帯や川のそばに多く繁殖するからである。もちろん前近代の人達は、マラリア原虫の存在など知らなかったが、経験則で低地に居住することは危険だと考えていたのだ。「マラリア」とはイタリア語だが、イタリアの古い町の多くも丘の上にあるという。  日本でも山歩きをする場合、尾根筋は位置が把握しやすく、コースがわかりやすいため、道としてよく使われる。また、道に迷った場合も尾根筋に出るのがよいといわれている。このようなことから、古くから尾根筋は山を踏破する際の通り道として使われた。たとえば熊野古道の山間部はその多くが尾根筋で、要所要所で谷底に下りつつ、また尾根をのぼる繰り返しになっている。普通あまり起伏のない部分は尾根筋を通り、ちょっとしたピークではその山腹を通る。山を越える場合、長く続く尾根があれば最も低いところで越えるが、このような地点を峠という。これはネパールでも同様で尾根筋は今でも重要な生活道であり、その一部は観光客のトレッキングルートとしても利用されている。ただ、尾根筋は古来より水の確保に苦労した。このため現在は、背後の高い山の中腹の沢からパイプが何kmも谷を下り、急坂をのぼって水を共同水道に導いていることが多い。  人口8万2,000人のキルティプルは、カトマンズ渓谷の南西に向かう狭い尾根沿いに位置する中世の集落である。首都・カトマンズの南西8kmにある古都で、伝統的なネワールの町として知られている。標高は1,224〜1,524mで、パタンやバクタプルのようなネワール族の旧市街同様レンガ敷きの路地、レンガ造りのネワール建築の家屋、石板の屋根、町のいくつかの中心部を占める大寺院等が丘の斜面に何ブロックかに分かれて建っている。ネワール族の伝統的な家屋は3〜5階のレンガ造りで、大家族が一緒に住んでいたりする。そのような建物が建ち並び、迷路のような路地が通っているので、「天然の要塞」と呼ばれる。  また、キルティプルには、15万人以上の学生が在籍するネパール最大の大学であるトリブバン大学の本部キャンパスがあることでも有名である。 ●王様のヨーグルト  カトマンズ盆地の東端にある古代ネワール族の都市・バクタプルの名物は、「ズーズー・ダヒ(JU JU Dhau)―王様のヨーグルト」と呼ばれる素焼きの容器に入ったヨーグルトである。牛乳よりも脂肪分の多い水牛のミルクから作られた「王様のヨーグルト」はその昔、毎日カトマンズの王の元へ運ばれていたことからこう呼ばれる。  実際にとても美味しいので、バクタプルにお出かけの際はぜひご賞味あれ! ●「ハイヤー・セカンダリー・スクール」はもう使わない  11月23日、反政府デモのため乗り場が変更になった路線バスに乗り込み観光地のドゥリケットにある高校に向かった。50分ほど乗ると目的地であるサンジワニ高校のジャージを着た生徒が次々に乗り込んできた。そのジャージには学校名「Sanjiwani」の次に「モデル・セカンダリー・スクール」を意味する「Model S.S.」と「モデル・ハイヤー・セカンダリー・スクール」を略した「M.H.S.S」とを書いた2種類があったので不思議だった。  その昔、ネパールの高校は10年過程で修了だったため世界各国で問題を起こした。そこでネパールでも12年課程修了により高校卒業にすることになった。だが、移行期間を30年近く置くことにし、高校2年と3年に相当する2年間を「プラス2」と呼ぶことにした。そして、セカンダリー・スクールにプラス2の学年を設置した学校をハイヤー・セカンダリー・スクールと呼ぶことにした。  私の疑問に対するアルヤール氏の回答は、「2年前に移行期間は終了し、12年課程の学校を『セカンダリー・スクール』と呼ぶことにし、それ以降は『プラス2』も『ハイヤー・セカンダリー・スクール』も使わないことになった」だった。  「こんな重要なことをなぜNAWBは知らせてこないのだ」と思ったが、ネパールでは誰もが知っていることは、日本人の関係者も当然知っているものと思い込んだためであろう。 ●経口補水塩(ORS)  下痢を原因とする脱水症状を起こしたら薬局で経口補水塩「ジーバン・ジャル」1袋(20.5g)10ルピーを求め、水1リットルに溶かせて飲む。水さえ吐いていた人がこれで助かる。ジーバン・ジャル(サンスクリット語で「命の水」)は本来商品名なのだが、4WDを「ジープ」というようにネパールでは、一般名詞化しておりよく通じる。 ●ガーデンレストランで魚料理  できるだけ繁盛している店に入りたいが、単身だと気が引ける。そこで一足早く5時過ぎに出かけ、 満席になる7時前には勘定を済ませることが多い。  ネパールの野菜はとても味わい深い。魚はコイ科の淡水魚が多く、臭みがなくて食べやすい。だが、油で揚げるか、ソテーするかの一辺倒なので少しオイリー。「刺身とはいわないが、塩焼きならできそうなものを」とワインを傾けながらいつも思う。 ●寄附のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために寄附をお願い致します。  寄附金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 寄附金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄附は、所得税法第78条第2項第3号及び租税特別措置法第41条の18の3、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記  11月15日〜12月3日の旅程で、ネパールを訪問しました。  貧しいジュムラ郡にある学校は教育環境も劣悪だと思っていましたが違いました。学校関係者や地域コミュニティが懸命に支えている成果です。  弱視のカトリ姉妹はカトマンズのラボラトリー高校に転校したら十分なサポートを受けられるのですがあまりに遠く残念です。  ジュムラ郡よりはるかに豊かなスンサリ郡にあって、学校の貧弱な設備に驚きました。学校関係者や地域コミュニティが現状に満足しているためでしょうか。  そういう意味では弱視児にも点字による教育を行うダーラン盲学校の関係者も現状維持派といっていいでしょう。設備の整ったとてもいい学校なのに残念です。(H. F.) 発行:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072東京都新宿区大久保3−14−4 TEL:03-3200-1310   FAX:03-3200-2582 http://www.thka.jp/   E-mail: XLY06755@nifty.com  ※迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。