愛の光通信    2019年冬号通巻53 2019.12    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321    東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局  (写真)国立トリブバン大学(TU)で、白杖を持ったラクシミ・ネパール氏を介助するネパール盲人福祉協会(NAWB)ラトナ・カジ・ダンゴール教育課長。ラクシミ氏はTUの大学院修士課程の修了式を控えており、TUの試験管理事務所に修了式参加のための登録をしなければならなかった。ところが普段授業を行うキャンパスとは別だというので、教育課長が一肌脱いだのであった。同事務所では、大学卒業のために登録を行う学生もいて長蛇の列を作っていた。視覚障害者は優先的に登録できるので、ラクシミ氏の手続きは意外に早く終わった。 ●【視覚障害者の夢@】 国際NGOのディレクタービマル・ポーデル氏 元NAWB事務局長/ホーム・ナット・アルヤール  【ネパール史上最大の偉人といえば、仏陀ことゴータマ・シッダールタにとどめを刺す。日本では「お釈迦様」として親しまれている紀元前5世紀前後に実在した仏教の開祖である。  釈迦の生誕地は、ネパール連邦民主共和国第5州(ルンビニ州)ルパンディヒ郡ルンビニ村である。同地は世界遺産で、1978年に建築家・丹下健三氏がマスタープランを作成し、それに従って現在もルンビニ聖園の整備が進められている。  最寄りの都市はシッダルタナガール(旧バイラワ)で、観光客は仏陀の名を冠したこの地に宿泊することになる。  本稿の主人公であるビマル・ポーデル氏(32歳)はルパンディヒ郡ルドラプール村、著者であるホーム・ナット・アルヤール氏はルパンディヒ郡マニグラム村の出身である。以下、敬称略。(編集部)】     釈迦の生誕地で生まれて  ビマル・ポーデルは、1987年11月5日に、インドとの国境にあるルンビニ州の村で生まれた。彼が生まれたとき、誰も彼の目の異常に気づかなかった。2歳になったとき彼は、「網膜色素変性症で視力は回復できない」と医師から宣告された。  両親は可愛いわが子の視力障害に失望したが、父親はインドでしっかりした教育を受けており、視覚障害児がインドで勉強しているのをその目で見ていた。  そこで息子が6歳になると、父親は国境を越えてインドのウッタル・プラデーシュ州にある人口67万5,000人のゴーラクプル市に息子を連れて行った。そして学校当局と交渉して、1カ月後に息子を同地の盲学校に入学させることに決めた。  意気揚々とインドから自宅に帰る途中、ネパールの国境を入ったところにある釈迦の生誕地シッダルタナガールで、父親は偶然ルパンディヒ郡教育事務所長に出会う。そして、他の旅人にも話したように息子をインドの盲学校に入学させることを決めてきた話をした。  すると教育事務所長は、「そんな遠くに行かなくても日本の支援でマニグラム村のシャンティ校で、視覚障害児のための統合教育事業が昨年から行われている」と教えてくれた。  父親は半信半疑ながらその足で、シャンティ校に出向くと、実際に視覚障害児が勉強していた。そして校長に相談すると、東京ヘレン・ケラー協会の支援で寄宿舎の寮費をも含めて一切無料であることが説明され、その場で入学が認められたのだった。  「灯台もと暗し」とはこのことで、国境を隔てなくとも同じ郡内に息子が勉強できる学校があり、しかも無料であることを知り父親は驚喜した。  現在、視覚障害児が無償で学ぶには奨学金を受けるための順番待ちをする必要がある。しかし、当時はまだ視覚障害教育が一般社会に浸透していなかったので、常時空きがあり、いとも簡単に入学できたのだ。こうして息子は晴れてシャンティ校の統合教育2期生となった。  幸運に恵まれてシャンティ校に入学したビマル・ポーデルは学友にも恵まれた。視覚障害のある新入生6人のうち、彼は最年少の6歳だった。他の5人は7〜9歳であったが、そこから仲良く切磋琢磨し合った。彼等6人以外は健常者の生徒で、40数人のクラス中、成績が首席から3席まですべて視覚障害児で、残る3人も常に上位にあり、優秀な視覚障害児ばかりが集まっていたのだ。彼は順調に学業を続け、2005年4月に学校教育修了証明(SLC)試験を5段階評価の上から2番目の「A」で合格し、シャンティ校の10年課程を卒業した。SLCを卒業した後、12年課程の修了試験に合格して大学に進学。教育学の学位を得て、2015年には英語の修士課程を修了した。     国際NGOで働く  大学院を出ると、彼は視覚障害者の当事者団体であるネパール盲人協会(NAB)が主催するIT研修会を受講した。こうして英語に堪能で、ITにも長けたプログラム・コーディネーターとして、全国障害者連盟(NFDN)で2年間勤務した。  彼は現在さらにキャリアアップして、CBM(クリスチャン・ブラインド・ミッション)ネパールのプログラム・オフィサーを務めており、『男女平等と社会的包含 ― メインストリーミング』を担当している。本事業は、英国政府の国際開発省(DFID)とドイツの有力な国際NGOであるCBMのコンソーシアムの事業で、2018年度と2019年度の2年間、彼は雇用される契約であった。  2016年12月に、彼は7歳年下で弱視者のギータと結婚した。彼女もまた、SLCを2011年に「A」の成績で合格し、シャンティ校を卒業。現在、TUの教育学部でネパール語を専攻している。  彼女は、2002年4月にシャンティ校に入学して順調に進級し、現在、ネパール盲人女性クリケットチームの副主将である。  彼女たちのクリケットチームは、今年パキスタンのイスラマバードで開催されたパキスタン女子盲人クリケット協会主催のT20シリーズ女子盲人クリケット世界選手権大会で優勝した。  ビマル・ポーデルの実弟であるニルマル・ポーデルもまた視覚障害者で、兄同様シャンティ校の寄宿舎に入り統合教育を受けた。SLCを卒業した後、彼も学業を続け大学院の修士過程を修了し、現在はルパンディヒ郡サルジャンディにある12年制学校の教師をしている。  視覚障害のあるSLC合格者は、統合教育事業の優れている点をよく覚えている。  彼らは点字教科書・点字用紙・点字器・点筆、それに満足のいく食事と設備の整った寄宿舎で快適に生活でき、勉強に集中できた。しかも東京ヘレン・ケラー協会とNAWBによる統合教育事業のモニタリングのおかげで問題点は改善され、視覚障害生徒は質の高い教育を受けることができた。  このようなわけでビマル、ギータ、ニルマルは、シャンティ校で統合教育を支援してくださった日本の皆さまの親切に深く感謝している。 ●ゴルカ兵と竹籠  ポカラ市にある2階が安宿になっている定食屋の廊下で、「DHARAN A」と書かれた竹籠を見つけた。  不審に思って女主人に聞くと、「これからゴルカ兵になる人たちが、今うちに泊まっていて、30kgの砂袋をそれに入れて、毎朝担いで訓練に出かけるのよ」とのことであった。  ダラン(Dharan)市とは、東ネパールの中心都市の一つで人口は15万人。以前は英国陸軍ゴルカ旅団の新兵募集センターが置かれていたので、それとこの竹籠は関係あるのだろう。  ポカラ市には英国陸軍ゴルカ旅団のリクルートセンターが今もあり、毎年230人の歩兵(ライフルマン)の訓練生が採用されているが、それに応募するのは1万7,000人にものぼるので狭き門である。このため予備校のような組織もある。  合格者はそれから9カ月間訓練を受けるが、そのうち26週間は歩兵の戦闘訓練で、その他、英国で暮らすための語学と文化を学び、将来設計を含めたキャリア管理等を受けるのである。 ●ネパールの♪ドナ・ドナ♪  水牛を満載して、タライ平野からカトマンズに向かうトラックを見かけるたびに、私は♪ある晴れた昼下がり、市場へ続く道♪でお馴染みの「ドナ・ドナ」の悲しげな歌を思い出す。  原曲は1938年にウクライナ生まれのユダヤ系米国人ショロム・セクンダが作曲し、ベラルーシ生まれのユダヤ系米国人アーロン・ゼイトリンが作詞した「Dana Dana(ダナ・ダナ)」というイディッシュ語(中東欧ユダヤ語)の歌である。  作詞・作曲の二人が米国に移住したのは、19世紀後半から20世紀前半に東欧で吹き荒れた「ポグロム(ロシア語で「破壊」の意)」というユダヤ人に対する大規模な集団的迫害が背景にあり、それが「ダナ・ダナ」にも色濃く反映されている。  しかし、私たちが知っているのは、米国の女性シンガーソングライターであるジョーン・バエズが、1961年にギターを弾きながら歌った英訳された方である。  その後、英語版から再翻訳されNHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採用されたので、広く知られるようになった。  ちなみに彼女は2017年に「ロックの殿堂」入りを果たし、2019年2月に高い声が出なくなったことを理由に78歳で第一線から引退した。  カトマンズに運ばれた水牛はミンチにされ、ネパール餃子「モモ」の具材にされる運命にあるので、こちらもやはりもの悲しい。  カトマンズでモモを注文するとき、「バフ(水牛肉)」というと、NAWBのドライバーや教育課長が少し嫌な顔をするので、最近は「チキン」ということが増えた。(福山博) ●カフェ風「フォー99」  ベトナムのハノイ生まれで、米国、カナダ、シンガポールにも進出している「フォー99」が、ネパールにも登場したのかと思ったら、ポカラ市とパタン市にはとっくの昔からあったそうだ。  だが、カトマンズの観光街「タメル」にあるこの店は、カフェにしか見えなかった。実際にウィンドウには英語でこう書いてあった。上から「エスプレッソ、カフェ・マキアート、キャラメル・マキアート、カフェ・ルンゴ、ブレンド・モカ、モカ・フラペチーノ、コールド・チョコレート、季節のスムージー、サンデー・アイスクリーム」。  店構えもカフェにしか見えなかったが、実際に入店してメニューを見てびっくり! ベトナムの麺料理である「フォー」各種が、真っ先に書いてあるではないか。  しかし、私はカスタードプリンと緑茶を注文した。プリンはちょっと柔らか過ぎたが、味は本格的でミントの葉も利いていた。ティーバッグだったが、緑茶も当地の日本料理店の番茶と比べると比較にならないほど美味しかった。  後日フォーも食べたが、これは絶品であった。 ●国際点字郵便の正しい送り方  (写真)日本国内の郵便局に差し出した国際点字郵便物(まったく無傷)  (写真)NAWBに届いた国際点字郵便物(ぼろぼろの状態で補修されている)。しかも3箱のうち届いたのは2箱だけだった。  視覚障害者の方から海外に点字用紙を送る方法を聞かれたので、NAWB宛を例に紹介する。  郵便事業会社の指定を受けた施設からなら、一包み7kg以下であれば、無料で点字用紙を送付できる。その際の注意点は以下のとおりである。  @日本国内で盲人用郵便物で点字用紙を送る場合は、中がのぞける半開封の状態で送るが、国際郵便の場合は全面開封にする。ただし、全面開封にすると点字用紙が汚れたり折れたりするので、実際は開封にしないで、英文で「検査のために郵便業務で開封することができる」を意味する「May be opened for inspection by the postal service.」と書く。  A切手を貼る位置に「盲人用」を意味する英語で「Items for the blind」と書く(仏語でも可)。  B宛名の下に「航空便」を意味する英語で「AIR MAIL」と書く。「航空便」と書かないと自動的に船便になるが、ネパールは海に面していないので、カルカッタからはるばる陸路で運ばれてくるとひどい扱いをされるので必ず「航空便」にする。  C先方の電話番号は必須ではないが、書いておく。ネパールでは私書箱(P. O. Box)宛に送る場合が多いので、私書箱に入らなかったりすると「早く取りに来い」と郵便局員が催促する場合があるからだ。担当者を「ATTN: 氏名」で書いておく。  Dネパールに盲人用郵便物を一カ所に大量に送る際は現地と連絡を密にして、いつ送ったからいつ頃届くだろうという情報共有が必須だ。それを怠るとどこかに消えてなくなる。  E点字用紙を段ボールに入れる際は詰め物をせず、段ボールを切ってピッタリ入るようにする。詰め物をすると、上記写真「NAWBに届いた国際点字郵便物」のような残念な結果になるからだ。 【下記は、宛名ラベルの例】 -------------------------------------------------------------- May be opened for inspection by the postal service. Tokyo Helen Keller Association 14-4, Ohkubo 3 chome, Shinjuku-ku, Tokyo 169-0072, JAPAN TEL. (03) 3200-1310 FAX. (03) 3200-2582 Items for the blind (Envois pour les aveugles) To Nepal Association for the Welfare of the Blind (NAWB) P.O.Box 3255, Tripureshwar, Kathmandu, Nepal TEL: + 977-1-4260583 ATTN: Dr. Malika Prasai AIR MAIL (PAR AVION) -------------------------------------------------------------- ●【視覚障害者の夢A】 スニタ・タパ先生は素晴らしい女性 元NAWB事務局長/ホーム・ナット・アルヤール  スニタ・タパは1986年7月13日に、首都カトマンズから北へ11q行ったシヴァプリ山(2,732m)のふもとにある人口1万5,000人のカトマンズ郡ブタニールカンタ町で生まれた。  彼女には生まれつき視覚障害があったが、少し見えたので両親に抱きついたり、飛んだり、跳ねたりして遊ぶとても活発な子供だった。  彼女の両親は娘の失明が残念で、視力回復の望みを抱いてカトマンズ市マハラジガンジにある国立トリブバン大学教育病院(TUTH)に娘を連れて行った。TUTHは、1982年に日本政府による開発援助(ODA)の無償資金協力で建設され、その後も継続的に無償資金協力で医療機材整備が実施されているネパールでもっとも設備の整った先端医療が受けられる病院だ。だが、TUTHの眼科医からも「治る望みはまったくない」と宣告された。それでも納得できなかった父親は、彼女をインドの首都デリーに連れて行ったが、そこでも治せないといわれた。  眼科治療のために家族は多くの努力を払ったが万策尽きた。あらゆる努力は無駄になったが、家族はこのスニタの失明を受け入れることができず、絶望の中から立ち直ることができずにいた。  それが変わったのは、スニタが6歳になったとき、両親が視覚障害児も学校に行き、勉強できることを知り、家族に希望の光が射したときだった。  両親はスニタをネパール盲人福祉協会(NAWB)に連れて行き、今後どうしたらいいかカウンセリングを受けた。そしてスニタは、カトマンズ市に隣接するバクタプール市にあるアダーシャ校(当時は10年制校)が統合教育事業を実施しているので、同校に入学して勉強したらどうかと紹介された。  同校で実施されていた統合教育事業は、東京ヘレン・ケラー協会によって財政支援されていた。このため授業に必要な点字教科書、点字器、点字用紙等の教材費や食費・被服費など生活に必要な経費はすべて東京ヘレン・ケラー協会が支出していた。よって視覚障害生徒の経済負担はまったくなかった。  現在は年に1回になったが、彼女が入学していた当時はNAWBと共同で実施する統合教育事業をモニターするために、東京ヘレン・ケラー協会から職員が年に2回同校他を訪問していた。こうして定期的にモニターし、助言するため、そこで勉強している視覚障害生徒の多くは優秀な成績を残した。  スニタ・タパも学校と寄宿舎で歓迎され、寄宿生として勉強を続けると、すぐに明晰な頭脳の持ち主であることを示した。そして、彼女は2002年に学校教育修了証明(SLC)試験を「A」で合格。  彼女は11・12年生をトリブバン大学(TU)で修了し、続いて大学・大学院もTUで学び、教育学士を修め、2015年に法学修士を修了した。  彼女は2010年に、全盲でネパール民間航空局(CAAN)に勤務するスダン・タンドゥカーと結婚して、現在5歳になる娘にも恵まれた。 スニタ・タパは、現在カトマンズ市のガンガブにある12年制のマノハー校で教鞭を執っているが、そのかたわらボランティアで、視覚障害者のリハビリテーションを行ういくつかの組織で活躍している。現在、彼女はNAWBの理事であり、NAWBに本部を置く全国組織のCBRナショナル・ネットワーク・ネパールの会計担当役員でもある。  東京ヘレン・ケラー協会とNAWBに対して彼女は、「素晴らしい教育の機会を提供していただき、私たちは社会的・経済的に自立することができました。これからは、私たちが恵まれない視覚障害者のためにできるだけの支援を行うつもりです」と、感謝の言葉と共に、今後の抱負を語った。 ●ポンカンとスンタラ  日本で柑橘の代表といえば温州ミカンだが、最近まで私はこのミカンの原産地は中国であると思い込んでいた。なにしろ温州とは、東シナ海に面した中国浙江省の都市名だからだ。  ところが、温州ミカンは鹿児島県出水郡長島町に偶然生えた強い甘味と種無しの、いわゆる突然変異種だった。同町には1944年まで樹齢300年の温州ミカンの古木があり、現在は原木から採穂して接木した4代目がある。また、温州ミカン発祥の地を記念してみかん博物館「日本マンダリンセンター」もある。  中国の温州は柑橘の名産地なので、ただそれにあやかって名付けただけで、温州ミカンは中国とは直接関係のない名前なのである。  例年、温州ミカンをいただいている方から、いつもとは違った柑橘をいただいた。食べてみると、ネパールで「スンタラ(Suntara)」と呼ぶ柑橘にそっくりだったので、お礼がてらその旨述べると。  「あれはポンカンです。原産地がインドですからネパールのものも似ているのでしょう。温州ミカンは猪に食べられ全滅したので、また餌食にならないよう、収穫したものです」との返事だった。  そこで、「ポンカン」を調べたら、原産地はインドのスンタラ地方と書いてあったので驚いた。そこで私はネパールのスンタラと日本のポンカンは同じものではないかと考えさらに調べた。  ポンカンの「ポン」とはインドデカン高原にあるマハーラーシュトラ州第2の都市、人口550万人の大都市プネー(Pune)の英国植民地時代の旧称プーナ(Poona)に由来するという。  ポンカンは原産地のインドを始め、スリランカ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、ネパール、中国、台湾、日本、ブラジルなどで栽培されており、それぞれの国で、固有の名前で呼ばれており、長い間、それぞれ種類が異なるものと思われていた。  ところが、柑橘属の分類研究の世界的権威であった田中長三郎博士(1885〜1976)が、戦前各国を踏査し、鑑定した結果、異名同種であることが判明。それ以後、海外でもこれを認証することになり、現在、日本の呼び方である「ポンカン(Ponkan)」が共通語として世界的に使用されているのだという。(福山博) ●ネパールの道路事情  道路工事現場の奥に見えるのが私たちが乗ってきたトヨタ・ランドクルーザーである。水牛や母親におぶられた赤ちゃんは通れるが、4WDであっても世界の名車は通れない。しかも、ネパールの地方では、このようなことは日常茶飯事である。  私たちは一般の外国人が立ち入らないような農村僻地にも足を踏み入れるので、深刻な道路事情に泣かされることも多い。  数年前に結婚した日本に住んでいるネパール人は、父親が校長先生をしているという奥さんの実家にまだ行ったことがないという。一度、カトマンズからタクシーで近くまで行ったが、結局、断念せざるを得ず、引き返したといっていた。  結局、この日は1時間ほど待ったら車が通れるようになったのでラッキーだった。とはいえ、舗装されているわけではないので、乗車しているだけなのにスマートフォンの歩数計は休むことなくカウントを続け、結局2万歩を越えてしまった。 ●ご隠居の水タバコ  旅の昼食休憩で見かけた街道のご隠居風が喫しているのは水タバコである。ペルシアで発明されたと考えられているイスラム圏で大成した喫煙具で、水煙管とか、水パイプとも呼ばれる。糖蜜などで固めて専用の香り(フレーバー)が付けられたタバコの葉に炭を載せるなどして熱し、出た煙をパイプの中の水を通して吸う構造である。1回の燃焼時間が1時間程度と長く、重さもあり気軽に持ち運びはできないが、煙が水を通る間に多少冷やされることから、昼間の気温が高いインドや中近東で人気がある。 ●綿飴売りの少年  観光はネパールの生命線だが、2015年4月に発生した地震でそれが危うい。ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「リトル・ブッダ」のロケ地としても知られ、世界遺産でもある古都バクタプールの旧王宮のあるダルバール広場も大被害を受けた。つっかい棒で倒壊を防いでいる寺院の前で、ピンク色の綿飴を売っている少年も観光客の激減で商売あがったりである。 ●寄附のお願い ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために寄附をお願いいたします。  寄附金のご送金には下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 ●寄附金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第 217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄附は、所得税法第78条第2項第3号及び租税特別措置法第41条の18の3、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記 本誌の2ページで紹介しているビマル・ポーデル氏は、本誌通巻40号(2013年夏号)の5ページにも登場しています。  当時、彼は地元の大学の大学院修士課程に在籍しながら、視覚障害者の当事者団体であるネパール盲人協会(NAB)ルパンディヒ支部役員をしていました。  そしてボランティアでノルウェー視覚障害者協会(NABP)の支援を受けて視覚障害者の雇用創出プログラムを運営していました。  私たちのネパールにおける事業の最終目標は、視覚障害者が後進の目標となるような仕事に就き、社会的に自立することです。  このため、少しくどいかも知れないですが、これからも私たちの事業で就学して、立派に社会人になっている視覚障害者を本誌で紹介致します。(H. F.) 発行:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072東京都新宿区大久保3−14−4 TEL:03-3200-1310   FAX:03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com  ※迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。