愛の光通信    2018年冬号通巻51 2018.12    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321    東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局  アマルシン校(Amar Singh Higher Secondary School)は、ネパール第2の都市ポカラに1957年設立された教育設備と人材が整ったモデル教育校で、古くから視覚障害児のための統合教育を実施してきており、2ページに出てくる1956年開校のラボラトリー校とともに、ネパールにおける統合教育を牽引してきた視覚障害児教育の両雄である。 ●【ネパールからネパールさんが来た】これまでの私と、これからの夢 ダスキンリーダー育成事業19期生 ラクシミ・ネパール  私はネパールから来た全盲女性のラクシミ・ネパール(26歳)です。私はダスキンリーダー育成事業19期生として2017年9月末〜2018年6月中旬まで日本に滞在しました。この研修は、公益財団法人ダスキン愛の輪基金の支援を受けて実施されるアジア太平洋の障害がある若者のための9ヶ月のリーダーシップ研修です。  ここでは私の経歴を紹介すると共に、私がネパールに帰国してからの夢について記します。  1992年2月23日に、私はカトマンズに隣接するバクタプルで生まれました。両親には3人の娘がおり、私はその末っ子です。次女と私は先天盲です。両親はお茶の産地であるネパール東端のイラムから、娘たちのためによりよい教育を求めてカトマンズ近郊に転居してきたのです。  1996年に、カトマンズのキルティプルにあるラボラトリー校(Laboratory Higher Secondary School)に私は入学しました。同校は視覚障害児と晴眼児が一緒に勉強する優れた統合教育校ですが、初めの頃、私は学校があまり好きではありませんでした。その理由は2つありました。  第1の理由は、学校が自宅からかなり遠かったことです。寄宿舎の寮費は両親が払うには高すぎたので、私はバス通学のために朝と夕方各2時間かけて通学しました。そして奨学金をもらい寄宿生になることができたのは7年生からでした。  第2の理由は、充分な配慮なしに子供が点字を学ぶのは難しかったということです。私はダスキンの研修で日本の盲学校を訪問しました。そこでは、点字を学ぶ前の事前活動として、小さな子どもたちのためにさまざまなゲームなどを通して、形の大きさや位置に慣れ親しむ準備が行われていました。  私が小学校に入学した当時、ネパールでは子供たちのために点字を学ぶ前の事前活動はほとんどなく、点字を理解することがとても難しかったのです。しかし、数年の授業を経た後、私は徐々に慣れて勉強が楽しくなってきました。  ネパールの英語で授業を行っている学校で勉強している子供たちに、将来何をしたいかと聞いたら、そのほとんどが医師かエンジニアと答えるでしょう。同様に7・8歳頃の私は、将来医師になりたいと望んでいましたが、高等学校に上がると数学と理科が私に重くのしかかってきました。  私のクラスでは、40人のクラスメイトのうち3人が視覚障害者で、他の37人は晴眼者でした。そして教師は点字の知識がない晴眼者でした。しかも、数学と理科の解答は、黒板に書いて説明し、私たちは置き去りにされたので、私は医師になるという夢をあきらめました。  私の両親や知り合いは、子供時代の私がさまざまな話題について議論していたので将来は弁護士になればいいと慰めてくれました。  私の学校には、点字教科書はほとんどありませんでした。ネパール盲人福祉協会(NAWB)等に より作成された点字教科書はありましたが、それはネパール語で書かれていました。私の学校は英語で教育していたので、点字教科書なしで勉強するしかなかったのです。授業は目が見える生徒に合わせて行われたので、私たちが図表や図形関連の課題を学ぶことは困難でした。  しかし、統合教育校には利点もありました。それはいつも目の見える友人が助けてくれることです。教師が黒板に書いたものを友人は何でも口述してくれました。彼らは私のために本を読み、私はそれを聞いてノートを取り勉強しました。  私が学んだ学校の良い点の1つは、視覚障害学生が課外活動に積極的に参加し、成果を出していたということです。学校の内外で行われるクイズやスペルコンテスト、スピーチコンクール、討論会、音楽会など、多くのプログラムやコンテストに私は参加しました。これらのプログラムの一部は、視覚障害者のために活動していた団体によっても実施されていましたので、私は障害者のリーダーたちに会い、彼らから強い影響を受けました。  9〜10年生の頃に、私は障害者の権利運動家として働くことに決め、16歳の時から障害者の権利キャンペーンに参加しました。  私は政治に強い興味があり、「障害者は政治を含むより高いレベルの意思決定の仕組みに参加しなければならない」と信じていたので、大学では政治学を専攻することを望みました。しかし、先進国と違ってネパールでは、「政治学は勉強したくない、やむを得ず大学進学を強制された学生によって選ばれる学科」とみなされていたので、結局、私は政治学を専攻しませんでした。  2009年に私は大学に入学し、2013年にカトマンズにある国立トリブバン大学ラトナジャヤ・ラクシミ校のジャーナリズム学科を卒業しました。その後、2013〜2014年にかけて、私はフルブライト奨学金を受けて、米ミズーリ州立大学の学部1年コースで政治学と国際関係学を履修し、ネパールで果たせなかった夢を実現しました。  米国に行ったとき私は21歳で、初めての海外渡航でした。多くの人々が私の人生をより良くするために、そのまま米国に永住するように助言してくれました。しかし、すでに米国は先進国であり、私は米国よりネパールで、特に視覚に障害があるネパール人のためにより大きく貢献できると考えました。そこで帰国して、ネパールの視覚障害者の福祉向上に取り組むことにしました。  米国から戻ると私は、2014年にトリブバン大学大学院修士課程の紛争と平和および開発研究学科に入学しました。この学科は政治学、ジェンダー研究学、開発研究学を含む多くの学問領域にわたる分野をカバーしています。  社会に不平等が存在すると、社会内で紛争が起こります。不均衡はジェンダー(性別)、カースト、階級、民族、または障害をベースに起こる可能性があります。人生における私の目的は、障害がある人々が長い間直面している、構造的不平等を解消することです。  そこで、私は大学での学業と並行して、障害者権利キャンペーンの活動も続けました。特に、ネパールの多様なアクセシビリティ(アクセスのしやすさ)分野で働くために、私たち青少年グループは2015年9月に「アクセス・プラネット機構」を結成し、私はその組織の創立メンバーの一人として、以来、次のような活動を行っています。  (1)ITトレーニングを提供する。  (2)キャリアカウンセリングを提供し、留学を申請する学生をサポートする。  (3)農村部の女性にリーダーシップ訓練、人格育成訓練、ジェンダー訓練を提供する。  私は日本で様々な研修を受け、特に教育と雇用に関する制度について興味深く学びました。  日本におけるガイドヘルパー制度や駅構内でのアクセシビリティを確認したときは本当に驚きました。また、日本における国や地方自治体から教育のために提供されるサポートは、本当に賞賛に値するものです。  ネパールに帰国したら、私は特に教育と雇用の分野で働くことを計画しています。ネパールでは、視覚障害者のための全国的な図書館はありません。また、ネパールは山岳国家なので、山間部で点字図書を入手することは極めて困難です。そこで私は帰国後、次のような事業を計画しました。  (1)DAISYの素材制作に取り組み、視覚障害者のための全国的な図書館を開設する。  (2)ネパールには視覚障害者と晴眼者が一緒に勉強している79の統合教育校があるので、そのすべてに質の高い教育を提供するためにコンピュータとインターネットを利用できるようにする。  (3)子供たちが点字学習のためにあらかじめ準備できるように、幼稚部に点字を学ぶ前の事前活動を導入する。  (4)雇用に関しては、アクセス・プラネット機構で、視覚障害者のための仕事関連の技術を提供する雇用センターを設立する。  一方で、ネパールでは視覚障害者の雇用について、さまざまな企業や団体が提唱しています。私は、視覚障害者が教育の光を得て、経済的な権限が与えられ、生活の質が変わると、他の人々の態度も自ずとポジティブになると信じています。  ネパールの視覚障害者の教育と雇用状況を改善するために、私が日本で得た知識を活用したいと思っています。  日本での豊かな経験を身に付けた後、私は6月16日にネパールに帰国しました。日本を離れることは悲しくもあり、幸福でもありました。多くの日本の友人と日本のとても便利な交通アクセシビリティと別れなければならなくなることは悲しいことでした。しかしそれ以上に、私がネパールに帰国して、視覚障害があるネパールの兄弟姉妹たちの生活改善のために自分の知識が活用できることはやりがいのあることに思えました。 ●菜の花の苦い思い出  ネパールに行くまで、「菜の花」とは菜種油を搾油するためのアブラナの花のことだと思っていた。実際に『広辞苑』を引いても「アブラナの花」と定義されているのでこれで間違いはない。しかし、当協会の中庭に、八重桜と共に咲いた小松菜の花も菜の花だという。『広辞苑』がいう「アブラナ」が食わせ物で、「狭義の菜の花」はアブラナの花だが、「広義の菜の花」はアブラナ科アブラナ属の花の総称なのだ。したがって、ナタネ以外にも、小松菜、白菜、からし菜、高菜、野沢菜、カブ、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、チンゲンサイ、ザーサイなどの花も「菜の花」なのだ。  ネパールでは、菜の花を普通英語で「マスタード」と呼ぶ。そこで私は辞書を取り出して、辛い油ならマスタードだが、辛くない油を絞る植物はアブラナで、英語では「レイプ(rape)」というと言って、同席していた米国婦人とネパール人を凍りつかせたことがあった。  「強姦」とまったく同じスペル/発音の植物なので、ネパールでは気を利かして、「マスタード」と呼んでいたのかも知れない。生半可な知識が命取りになるというよい見本だった。(福山) ●【クリシュナ基金より】カトマンズに全員集合 海外盲人交流事業事務局長 福山博  協会有志らによる「クリシュナ君遺児育英基金」と「クリシュナ+2育英基金」は、2002年に突然死したNAWBバラCBR事業の現地スタッフ(眼科助手)故クリシュナ・ムキーヤ氏の遺児4人のうちの3人をNAWBを通じて2005年から学業と生活全般を支援する事業で、当協会は支出を伴わない範囲で事業管理に協力している。  上記奨学生の1人である長女のアルチャナ・ムキーヤ(22)は、昨年高校を卒業。今年の1月からカトマンズにあるニュー・チューリップ・スクール(NTS)で教師として自立したので上記育英基金を終了した。彼女は働きながらラリトプールにあるマイルストーン・インターナショナル・カレッジ(MIC)のビジネス科学学科に昨年11月に入学した。  長男のローシャン・ムキーヤ(20)は、バクタプルにあるサマジック・カレッジの情報処理学科に昨年の11月に入学した。  ここまでは小誌昨年冬号で詳しく紹介したが、その後、次女と三女もカトマンズに上京してきた。  次女のプジャ・ムキーヤ(19)は、今年の3月にバラ郡カレーヤ町のブライトランド校(第10学年)を卒業し、4月に中等教育修了国家試験(SEE)を受けて、100点満点で73点、「B+」という好成績を収め、ラリトプールのMIC高等部(+2)の11年生に入学した。  三女のアーラティ・ムキーヤ(17)は、バラ郡カレーヤ町のブライトランド校の第8学年を今年の3月に修了し、この4月にNTSの第9学年に編入し、彼女の学費や生活費はスペインのバルセロナにある国際NGOのアミックス(Amics)・ネパールが支援している。「アミックス」とはカタルーニャ語で「友だち」の意味である。  三女のアーラティは4歳のときNCO(Nepal Children's Organization)が運営する孤児院に預けられた。その後、NCOを支援するアミックス・ネパールの手配で次女と同じ学校に入学したが、その時、長女と長男は高校(+2)に通うために隣町のビルガンジに下宿していた。このため4人は、この13年間同じ屋根の下で一緒に暮らしたことはなかった。上の3人はその昔、両親と一緒に楽しく暮らした記憶を持つが、三女は幼すぎてその記憶がない。  昨年の12月次女と三女はバラ眼科診療所で眼科検診を受けた。その時、ぽろっと私が彼女の父親の話をしたら、「父はこの診療所のOA(眼科助手)だったの!」と、目を潤ませて三女のアーラティは叫んだ。  彼ら4人きょうだいは、現在、NTSの正門から20mほどのアパートで仲良く暮らしている。  カトマンズ盆地は、カトマンズ、ラリトプール、バクタプールの3つの郡で構成されている。カトマンズにある4人の自宅からラリトプールにあるMICへは徒歩で10分。4人の自宅からバクタプールのサマジック・カレッジは徒歩25分ほどの距離にある。つまり、彼ら4人の生活圏は3郡の境界近くに集中しているのである。 ●ラミチャネ博士が、世界の優秀な青年10人に!  2003年8月にダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業で来日して以来、当協会海外盲人交流事業で応援してきたカマル・ラミチャネ博士がまた、快挙を達成しました。  全国695の青年会議所を会員として組織される日本青年会議所(日本JC)は、米国ミズーリ州セントルイスに本部を持ち1915年に設立された国際青年会議所(Junior Chamber International:JCI)に加盟しています。  JCIは、国際連合経済社会理事会、欧州評議会、ユネスコにおいて協議資格を持つ国際NGOで、125カ国の青年会議所が加盟しており、18〜40歳までの青年による市民活動を推進しています。  JCIは活動の一環として、毎年、世界中の40歳未満の優秀な青年10人(JCI TOYP)を選んでいますが、今年度の受賞者の一人に全盲のカマル・ラミチャネ博士(筑波大学准教授、37歳)が選ばれ、10月30日〜11月3日にインドのゴアで開催されたJCI世界会議で表彰されました。  同氏はネパールのトリブバン大学在学中に、ネパール盲人福祉協会(NAWB)において、触読校正のアルバイトを行っていました。その縁で私たちは知り合いました。  先に述べたダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業で来日したときは日本障害者リハビリテーション協会にある事務局がフルサポートしたので問題ありませんでした。しかし、同氏が筑波大学大学院修士課程の受験準備のために2004年9月に来日したときは自費渡航だったので苦労が絶えませんでした。  そこでNAWBから当協会に支援要請があり、私たちは筑波大学附属盲学校の教諭らと共に宿舎確保に奔走したり、受験勉強の支援や介助を行いました。  晴れて合格すると2005年の2月と3月、同氏は入学手続きや学費免除の申請書類の作成、査証申請等のために連日当協会に通っていました。  文部科学省奨学金を受けて筑波大学大学院修士課程修了後、東京大学大学院に進み、2010年に先端学際工学(障害学)で学術博士を取得しました。  2010年4月〜2012年3月、同氏は東京大学大学院経済学研究科において日本学術振興会外国人特別研究員として、2012年4月〜2014年12月は国際協力機構(JICA)研究所において研究員として勤務しました。  現在、同氏は筑波大学教育開発国際協力研究センター(CRICED)准教授で、JICA研究所招聘研究員および東京大学先端科学技術研究センター協力研究員を兼任しています。なお、同氏の研究分野は障害学、インクルーシブ教育、教育と労働経済、国際協力です。 ●英語教科書の深刻な問題  ラクシミさんが「私の学校は英語で教育していたので、点字教科書なしで勉強するしかなかったのです」と3ページで述べているが、これはラボラトリー校だけの問題ではない。  ネパール語による教科書は、国定教科書のようなもので1種類しかないので、計画的に点字教科書を製作することができる。  しかし、英語の教科書は無数にその種類があり、それがビッグビジネスになっているため、激しい受注合戦が繰り広げられている。  こうして同一の学校で、毎年、違う教科書が採択され、それも授業が始まる3ヶ月前くらいにならなければ、どこの出版社の何という教科書が使われるのか決まらないというありさまである。これでは点字の教科書の製作など到底無理である。  担当教師だって手をこまねいているばかりではない。校長にせめて採択する教科書を1年前に決めて欲しいと何度も要望しているという。だが、教科書の採択は大きな利権となっており、利害が錯綜してどうにもならないというのだ。  ネパールは上意下達の国なので、校長は学校運営に巨大な権限を持っている。しかし、それでもどうにもならないというので、だれもがサジを投げている状態である。 ●謎の16ルピー札  インドを経由してネパールに入ってくる物資の大部分は、ビルガンジ市(人口21万人)を通って、ネパール全土に運ばれるので、この地は、内陸国にとっては他国の港湾都市に匹敵する重要都市だ。あるときこの町の雑貨店で、ミネラルウォーターとジュースを買ったら、おつりに見慣れないお札が混じっていた。怪訝そうな顔をしたら、その店の主人が「ノープロブレム(問題ない)」を連発した。  インドとネパールの通貨交換レートは、1インド・ルピーが1.6ネパール・ルピーに固定されている。ということは10インド・ルピーは、16ネパール・ルピーと等価で、国境地帯ではいわば16ネパール・ルピー札として通用しているのだ。むろんこれは法に抵触するが、インドと国境を接する地域では、最も近い商店がインド側とか、勤務先がインドとか、親戚はみんなインドに住んでいるということもあるので、大ぴらに通用している。  ローカルな銀行では英語で「外国為替」の看板を出していても、実際に両替できるのはインド・ルピーとネパール・ルピー間だけだったりする。地方での日本円や米ドルの両替は、もっぱらスタンダードチャータード銀行が引き受けており、ビルガンジにも支店がある。しかし、両替には1時間ほどかかり、レートもあまりよくない。 ●被災地コカナ村の搾油協同組合  カトマンズ盆地にあるラリトプール郡のコカナ(Khokana)村は、カトマンズの先住民で高度な文化を誇るネワール族の伝統的な村である。ユネスコの世界遺産にも指定されており観光地でもある。現在は隣接する4つの村と合併してカルヤ・ビナヤク町に統合されているが、地元では今でも誇りを込めてコカナ村と呼んでいる。  コカナ村は500年前から菜種油を製造しており、税金の代わりに王宮に上納してきた歴史を持つ豊かな村で、1911年にカトマンズを差し置いてネパールで最初に電灯がともった場所としても有名である。  伝統的な菜種油の製造は、菜種をふるいにかけ、鍋でローストして、木製の搾油器で菜種を押しつぶして染み出た油を漉して造る。しかし、この伝統的な菜種油の製造が危機に瀕している。  従来、原料はカトマンズ盆地内で調達してきたのだが、都市化の波にあらがえず、現在はネパールの農村部やインドから輸入してしのいでいる。  人口5,000人未満のコカナ村で、20年前までは8カ所の搾油所が稼働しており、約150人が働いていた。しかし現在は1カ所だけで、しかもたった5人が働いているだけである。  伝統的な方法で生産された菜種油は効率が悪くて、現代的な設備による搾油工場に価格で太刀打ちできないのだ。  具体的には、伝統的方法で1リットルの油を生産するためには3.5kgの菜種が必要で、そのためには原料代だけでも235ルピーが必要である。一方、近代的な搾油工場の生産原価は1リットルあたり182ルピーで、1リットル200ルピーで販売できる。さらに、大豆やヒマワリなどの食用油ともなれば、1リットル150ルピーで販売されている。コカナ村製の菜種油の品質には定評があるが、高価すぎて売れないのである。  そこで2002年に伝統的な搾油所を救うため、2008年5月には540人の組合員が搾油所を運営するための資金として250万ルピーを投資し、コカナ村の有名な祭にあやかりシカリ(Sikali)多目的搾油協同組合が設立された。  ところが、2015年のネパール地震に見舞われ、コカナ村の歴史的な建築群が被災したため、この協同組合は現在二重の困難に直面している。 ●ヨマリとエッグバラ  紡錘形の白いヨマリ(Yomari)はネワール族の伝統的なお菓子で、ジャポニカ種のタイチン米を挽いた米粉の生地に、中のアンはチャク(精製していない黒砂糖)である。その下に敷いてあるバラはネワール族の伝統的な料理で、レンズ豆の一種を一晩水につけ、ふやかした後、豆の皮をとってすりつぶして香辛料などを加えて、丸く形作って焼いたものだが、卵を加えてあるのでこれはエッグバラ(Egg Bara)である。 ●FedExでPCを送る  ネパールの観光地チトワンで預かったノートパソコンを、地方空港のクーリエサービスでカトマンズに送ろうとしたが、書類以外はお断りだった。ドイツに注文した印刷機の部品はFedExで東京に届く。そこで同サービスを探してもらうと、その日の宿泊地ビルガンジにあった。送料は1,000ルピーとちょっと高めだったが、翌日には無事届いたので納得の料金だった。 ●寄附のお願い ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために寄附をお願いいたします。 寄附金のご送金には下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 ●寄附金に対する減免税措置 東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第 217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄附は、所得税法第78条第2項第3号及び租税特別措置法第41条の18の3、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記 読者から「ネパールの団体・盲教育者につき、主観的な評価が記されている。児童・生徒について成績などの情報が実名で報道されている」との苦言がありました。  主観的な評価については反省するべき点があり、今後は具体的事例を示すようにします。  日本の報道機関が実名報道を原則としているのに、匿名報道を行うのは報道被害を防ぐためです。  ネパールの視覚障害児はNAWBから学費も生活費も100%支給されているので、報道被害を起こさない範囲で、今後も正確性を担保するため実名でお知らせします。  ネパールでは視覚障害者の95%が教育を受けられない現実があります。  これこそ人権侵害だと考え、我々は今後も微力を傾注する所存です。(H. F.) 発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL : 03-3200-1310   FAX : 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com  ※迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。