愛の光通信    2017年冬号通巻49号 2017.12    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321    東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局  ルパ・タマン(13歳)は、カトマンズ市に隣接するパタン市にある公立モデル校マチンドラ校の6年生で点字使用者だ。この日はタマン族の民族衣装で私たちを迎えてくれた。タマンとはチベット語で「騎馬戦士」の意で、チベットの国境警備に当たっていた人々の末裔である。このためその多くが敬虔なチベット仏教徒で、現在も英国やインドでグルカ兵として勤務する者も多い。 ●内戦で失明した将校の悲嘆と希望 海外盲人交流事業事務局長/福山博     愚かな王様の誕生  東京都心を仮に山手線一周34.5kmの内側とすれば、ネパールの首都のそれはカトマンズ市とパタン市をぐるりと囲む27kmの「リングロード」という環状道路の内側ということになるが、そこに約100万人が住んでいる。  現在38歳のネパール国軍パワン・ギミレ少佐は、1978年7月1日カトマンズ市に隣接するパタン市で、恵まれた家庭の長男として生まれた。  ネパールは非常に不公平な社会で、身分格差、貧富の格差、都市と農村の格差はいずれもはなはだしい。その点、ギミレ氏は、都会で恵まれた高位カーストの家庭に育ち、狭き門である国立トリブバン大学理工学部に進学。2000年に大学を卒業し、ネパール国軍に志願して、順調に出世街道を邁進した。  すでにその頃は山岳地帯で、マオイスト(ネパール共産党毛沢東派)のゲリラ活動が行われ、警察が掃討作戦を展開していた。しかし、大元帥たるビレンドラ国王の方針で、この「内戦」に国軍は一切介入しておらず、軍人は高みの見物を決め込んでいた。  同国はご存じのように内陸国なので海軍はなく、独立した空軍もない。各地方に置かれる6個師団と航空旅団、空挺旅団、治安旅団の独立3個旅団からなる9万5,000人の兵員による陸軍があるだけで、当時はそれを「ロイヤル・ネパール・アーミー」と呼んでいた。  中尉に任官したばかりの彼に悲劇が訪れたのは2003年のことであったが、その前に当時のネパールの時代背景をここで説明しておこう。  2001年6月1日にネパールの首都カトマンズ市のナラヤンヒティ王宮において、英邁な国王として国民からとても敬愛されていたビレンドラ国王をはじめとする一族9人が、王族だけのパーティの最中に射殺された。  犯人は結婚を反対されたディペンドラ皇太子で、泥酔状態で銃を乱射して、自身も直後に銃で自殺を図ったと政府は発表した。しかし、優しい性格で国民からの信頼も篤かった皇太子の仕業だと信じた国民はまずいなかった。というのは、銃弾は右利きだった皇太子の左側頭部から右側頭部にかけて貫通しており、かなり不自然な体勢をとらなければ自殺はできなかった。しかも、検視の結果、皇太子からアルコールは検出されなかったばかりか、現場に残された凶器は、ライフルや軽機関銃等4丁もあったのである。  このような場合、真犯人として疑惑を向けられるのは、本件で最も利益を得た者であると相場は決まっており、実際にそういう人物がいた。ビレンドラ国王の弟で国民から忌み嫌われていたギャネンドラが、すかさず新国王に即位したのである。  彼よりも王位継承権が優位にある者は、この事件ですべて殺されていた。  新国王には、パラスというこれまた蛇蝎のごとく国民から嫌われていた王子がいた。麻薬はやる、ひき逃げ事件は起こす、絶世の美女がいると聞くとかどわかして愛人にするという、ちょっとしたギャングの頭目のような男である。あまりに素行が悪いので、殺された前国王から、今度問題を起こしたら特権を剥奪して王族から追放すると引導を渡されていた。  しかも、前国王の家族は子供まで皆殺しにされたにもかかわらず、新国王一家は全員無事で、新国王は王族の定例パーティがあった日に、何用でか景勝地ポカラの別荘にひとり滞在していた。  亡くなった国王は、英国の名門イートンカレッジを卒業後、東京大学やハーバード大学にも留学した国際派知識人で、父王の死去に伴い国王に即位した当時は絶対王政であったネパール王国を少しずつ民主化してきた。そして1990年に国王は「専制君主制から立憲君主制の議会民主主義への緩やかな移行」を宣言し、憲法改正を行い、政党選挙による議会制を導入した。また、マオイストのゲリラ活動についても、国王に統帥権のある国軍を動かせば問題がさらに先鋭化すると考え、「ゲリラといっても同じネパール人であり敵ではないので、あくまで警察の取り締まりにまかせる」というスタンスをとっていた。  これに対して、弟のギャネンドラは絶対王政を死守して、マオイストは軍隊によって一挙に鎮圧すべきであると事あるごとに述べ、兄王と対立していた。  このような事情を知る一般国民は、新国王が息子のパラス王子に命じて、前国王一家を虐殺したと噂し、事件はギャネンドラが王権を奪取するために行ったクーデターであると誰もが確信した。このためギャネンドラの王位継承は祝福されたものではなく、国王虐殺に不信感と疑惑を持つ民衆らが首都カトマンズ市に集結し、ギャネンドラ即位の反対集会を開き、警官隊と衝突して死者が出る騒ぎとなった。  かくして、新国王即位により時代は急速に不穏な空気に包まれていった。そして、新国王は非常事態宣言を発令して議会を停止し、内閣を側近でかため、国王親政による専制政治を復活させた。また、マオイストとの戦いに軍隊を投入し、ネパールは激しい内戦へと突入したのであった。  この間、マオイストだけでなく、新国王に批判的な政治家や弁護士、ジャーナリスト、自由主義者や穏健な社会主義者をも逮捕して弾圧したため、それに対する反発も激しくなった。そして、2006年4月には大規模な民主化運動が起こり、ついに国王の政治的特権はすべて剥奪された。そして、2008年5月28日、制憲議会で共和制が議決、王制は廃止されギャネンドラは退位することになり、ネパール王国(ゴルカ朝)は449年続いた歴史に終止符を打ったのであった。  王制が続けばいずれパラスが国王になるが、それだけは何としても阻止したいと考えた国民は、王制廃止までは踏み込めないでいた国民会議派と統一共産党の支持者までもが、何と王制廃止を公約に掲げたマオイストに投票して、マオイストに政権をゆだねて、王制は廃止されたのである。  背景説明が長くなった。詮無い話ではあるが、愚かな弟が見当違いの自信を持たなければ王宮虐殺事件はなく、国軍がマオイストと戦うこともなく、したがってギミレ氏が失明することもなかったのである。  なお、パラスは、2010年にはネパール南部チトワン郡のホテルで発砲事件を起こし逮捕・起訴され、2012年と2014年には滞在先のタイ王国で大麻所持で2度とも逮捕されている。     地雷による失明  2003年、工兵であるパワン・ギミレ陸軍中尉(25歳)は、山深いカルナリ県カリコット郡に巡察に赴くことになった。  その当時、ネパール国軍はカリコット郡から同県ジュムラ郡にかけて国道を作っていた。現在のカルナリ国道のカリコットとジュムラ間である。現在でも崖下への転落事故が絶えないので、「世界で最も危険な道」とウェブ上で注意喚起されている道路である。  カリコット郡はネパールの中西部に位置し、人口13万人ほどのとても小さな地域である。隣接するジュムラ郡はさらに山に入った地域で人口は12万人弱でしかない。ネパールでもっとも人口の多い郡は、カトマンズ市とその周辺の町村を含んだカトマンズ郡で人口201万人である。首都であるから当然大きいのだが、私たちがCBRを実施したインド国境沿いの農村僻地であるバラ郡でさえ、人口は69万人もある。それに比べ、カリコット郡やジュムラ郡は急峻な山岳が連なるネパールの中でも最も貧しい、開発の遅れた地域なのである。なにしろ国軍がこの道路を整備するまで、車が通れる道路が存在しなかったのだ。  日本でも採算があわない山間部の道路工事を自衛隊が訓練を兼ねて受託するケースがあるが、ネパールでも事情は同様だ。それに加えマオイストの強い影響をそぐためにも道路の完成は急務であった。  新王ギャネンドラの命令により、国軍がマオイストを鎮圧することになった。愚かな国王は圧倒的な軍事力で一気に攻勢を強めれば、ゲリラは簡単に制圧できると考えた。しかし、ネパールは世界一の山岳国であり、ゲリラ戦にはうってつけの地理的条件を備えている。また、国軍が前面に出てきたため、マオイストもそれに対抗するために強力なリクルートを行った。山岳部で失業状態の青年達をかなり強引に勧誘したのだ。時には、誘拐とか強奪という手荒な方法まで使い、少年兵を含む強制的な徴兵が山岳各地で行われた。その一方、地主の土地を取り上げて、小作人に配ったりもしたので、いくらか生活も楽になり、一蓮托生と思い込む住民も少なくなかった。また、乱暴なマオイストは嫌いだが、新王親子はもっと嫌いで虫唾が走るという巷の声も多く、それが、結果的にマオイストにとっては追い風になっていた。  ネパール観光の目玉は雄大なヒマラヤを望むトレッキングである。1週間ほど歩き回る道を我々は登山道とつい誤解するが、その多くは実際は山羊や馬、水牛なども通る生活道である。また、舗装されていないデコボコの車道に我々は不満の声を上げるが、それでも実際は比較的開発が進んでいる地域である場合が多い。  ネパール国軍工兵大隊が道路を建設したカリコット郡へ行くには、まず首都カトマンズ市からネパールガンジ市という人口13万人の地方都市へ飛行機、あるいは車で移動する。飛行時間は1時間弱だが、陸路だと西に直線距離で約300kmを走破するのに約16時間かかる。そこからジープで約3時間のところにある人口35万人のスルケット郡の郡庁所在地である人口5万人のビレンドラナガール市で1泊する。ここからカリコット郡までは、道路距離にするとせいぜい120kmほどだが車での走破には10時間ちょっとかかる。  道中のほとんどが峻険な山道で、山を登り、下り、また登り、また下り、川沿いを走り、また山をひたすら登るという悪路で、平坦な道はほとんどない。到着したカリコット郡の郡庁所在地マンマ村は、標高2,033mにある人口4,000人の山村僻地である。一幅の絵のように自然が素晴らしく、そして、絵に描いたような貧しい村である。  2003年パワン・ギミレ中尉はこのカリコットからジュムラまでを巡察している途中、軍用車ごとマオイストのおそらく手作りであっただろう遠隔操作の地雷に吹き飛ばされた。  すぐに陸軍航空隊のヘリコプターでカトマンズの陸軍病院に搬送されたので彼は生き残ったが、同乗者は亡くなり、彼自身2カ月間の治療もむなしくついに視力は戻らなかった。  それから1年間自宅療養をしたが、その間彼は大きな喪失感にさいなまれ、世界が今までとはまったく違うものに感じられた。そして後ろを振り返り、失ってしまったものを求め、なんとか取り戻したいと願いながら、それが無理なことを知り悲嘆にくれた。なぜ自分はこんなことになってしまったのか、答えの出ない問いを発し続け、彼は「自分の世界は終わった、いっそ死のう」とさえ思い詰めた。  すると実母がそれを敏感に感じて、「目が見えなくなっても、生きていて欲しい」と涙ながらに懇願した。そして彼は「自分に何かが起こったら、母もきっと後を追うに違いない」と確信するようになり、自殺を思いとどまった。     パソコンとクリケットが復帰の両輪  悶々とした日々の中、彼は視覚障害者を支援する団体であるNAWB(ネパール盲人福祉協会)の存在を知る。更生相談と言っても最初のうちは涙ながらの悩み事相談のようなものであった。が、足繁く通ううちにいくらか落ち着き、当事者団体であるNAB(ネパール盲人協会)でコンピュータを教えていることを知る。半信半疑で出かけて行き、彼は社会復帰の切っ掛けをつかむ。それまで自分自身「目が見えなくなったので何もできない」と思い込んでいたが、スクリーンリーダーの「ジョーズ」を使えば、曲がりなりにも自力で英文を作成することができ、それに力づけられた。  このように少しずつ光明が見えて来はじめた頃、もう一つの衝撃的な出会いがあった。2006年にパキスタン盲人クリケット代表団がカトマンズを訪問したのだ。クリケットは野球の元になった球技といわれる英国発祥のスポーツだ。このため英国の他、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、西インド諸島、南アフリカ、ジンバブエの英連邦諸国では、ラグビーやサッカーと並び絶大な人気を誇る。そしてネパールも20年ほど前からとても盛んになり、日本の子供達が少年野球に夢中になるように子供達もクリケットに打ち込む。  盲人クリケットは、1922年にオーストラリアのメルボルンで開発されて以来、長い道のりを歩んできたが、これまでネパールではその噂さえ聞いたことがなかった。ギミレ氏は学生時代はスポーツ万能で、もちろんクリケットもよくプレイしていたが、失明により永久にできないと思い込んでいた。  パキスタン代表団のコーチはネパールで33人に盲人クリケットを教えると共に、4本のバットと20個のボールを置き土産にして、彼に生きるための新たな夢を与えた。  かくして2006年のこのパキスタン代表団の訪問は、ネパールの盲人スポーツと彼の生活を一変させた。彼は生まれ変わったようにいきいきと活動し、会長としてネパール盲人クリケット協会の組織化と、チーム強化に邁進。そして早くも翌2007年1月には、インドのニューデリーで開催された盲人クリケットのワールドカップに初参加した。  ギミレ氏は我々に「ネパールで盲人クリケット選手になるのは容易ではありません。私たちは、障害を持つ人々が社会に貢献することをほとんど期待していない社会に住んでいるからです。盲人は一日中ラジオを聞いたり、歌ったり、話したりすることができる人々とみなされていますが、それを変えたいのです」と述べた。  ギミレ氏らの尽力で短期間にネパール国内の盲人クリケット登録選手は450人以上に増えた。この業績により彼は2013年には、パルサースポーツ賞特別賞という大きな賞を受賞した。また、今年の1月31日には、英連邦以外としては異例だが、世界盲人クリケット評議会の第2副会長に選出された。  これまでにギミレ氏は英国、ドバイ、クウェート、パキスタン、インド、米国、マレーシアの世界7カ国をまわってきたが、マレーシア以外はクリケットの遠征だった。  マレーシアに2010年に行ったのは、日本点字図書館が主催する「池田輝子ICT奨学金事業」に招聘されたためで、現地で田中徹二理事長とも親しく挨拶を交わした。この出会いが、ギミレ氏の情報通信技術(ICT)のブラッシュアップに大いに役立ち、そのお蔭で軍務にも復帰して、現在349人いる障害を負った兵士にスポーツを指導している。そのためにはプログラムを計画し、実施し、総括しなければならないので、パソコンによるICTが彼にとって不可欠なものになっており、「パソコンがなければ、軍務もクリケット協会の仕事も満足にはできないだろう」と言う。  現在、彼はNAWBで副幹事長(ジョイント・セクレタリー)の重責にあり、視覚障害者にもっとICTを普及したいと考えている。  よく誤解されることだが、電力事情の悪い開発途上国にはICTの導入は時期尚早という声を聞く。日本を含む先進国が歩んできたように、ボランティアを養成して点字図書、録音図書を整備し、その後にデジタル機器を導入するという考え方である。しかし、そのようなことを真に受ければ、ネパールの視覚障害者は百年河清をまつことになる。  ネパールに限らず、開発途上国では固定電話の普及率は非常に低い。有線電話は1876年にアレクサンダー・グラハム・ベルが発明した古い技術である。しかし、電話線の敷設のためには莫大な費用がかかるので、開発途上国では一足飛びに携帯電話が普及したのである。郵便事情が悪く、無料の点字教科書が地方の学校に届くまで3カ月もかかるような国では、点字図書館事業などは絵に描いた餅に他ならないのだ。  その点、パソコンをインターネットに接続すれば、たちどころに視覚障害者でも世界中の情報に接することができ、自分で文章作成も容易にできる。  しかし、そのためには適切なICTトレーニングが不可欠だが、ネパールではその訓練設備が非常に遅れており、訓練を受けたい視覚障害者が無償、もしくは廉価でいつでも受けられるにはほど遠い現実がある。彼はこの現実を打破するために、現在、各方面に協力を要請している最中である。(『点字ジャーナル』2017年5〜7月号より) ●ただしい喜捨とは  ネパールでは物乞いに遭遇することが多いが、病院の敷地内では初めてだった。  失明した妻が病気に罹ったが治療費がない。そこで元兵士の彼は、インドに隣接するビルガンジ市の県立病院で喜捨(バクシーシ)を始めた。  それを見た、当協会の現地ボランティア・アルヤール氏は「どうぞ、寄附してください」と私に声をかけた。そこで、ポケットに入っていた百数十円相当のネパール札を渡すと、元兵士は、手の平を相手に見せるネパール陸軍式の敬礼で応えた。  外国人が珍しい土地で、真っ先に日本人が寄附をすれば、遠巻きにしている地元民も次々に寄附するのではないか? とアルヤール氏は考えたようだった。それは図星となり、10ルピー札や20ルピー札を手にした人々が元兵士の前に集まった。そして、ものの10分もたつと治療費が集まったのだろう、バクシーシは唐突に終わった。  カトマンズの観光地には、借りてきた赤ちゃんをダシにして1人から千円、2千円と巻き上げるプロの物乞いがいる。そのような手練れには、1 円も払いたくないが、「ただしい喜捨の場合はささやいてください」と、以前、アルヤール氏には頼んでおいたのだ。 ●【クリシュナ基金より】高校を卒業しました  協会有志等によるクリシュナ基金は、2002年に突然死したNAWBバラCBRスタッフ(眼科助手)の遺児3名の教育を支援する事業で、2005年から実施してきたが、この秋、長女アルチャナ・ムキーヤ(21歳)はHKMC(Hari Khetan Multiple College)の+2経営科を、長男ローシャン・ムキーヤ(19歳)はNIC(National Infotech College)の+2科学科を修了した。2人は晴れて12年課程を修了して、高校卒業の資格を得たのだ。  そこでアルチャナは出身地であるバラ郡に近い地方都市ビルガンジで職を探したが、見つかった仕事は、午前10時から午後4時までの労働で月給Rs.6,000だった。日本円に換算すると約6,000円で、これでは自活は難しい。  そこで、元NAWB事務局長で当協会の現地ボランティアであるアルヤール氏が、月給Rs.9,500で1年後に20%アップするという条件の私立校の経理補助の仕事を見つけてきた。しかし、勤務地がカトマンズなので、家事一切できない長男が地方に一人取り残されることになる。  そこで、ローシャンもカトマンズの大学に進み、来年、10年課程を修了する次女プジャ(18歳)も+2をカトマンズの学校で学ぶことになった。しかし、その場合は、カトマンズの方が学費も生活費も高いので、その補填が必要で、協会有志がさらに100万円をNAWBに追加送金した。  こうして、ローシャンとアルチャナは10月29日にカトマンズに引っ越して、ローシャンはサマジック大学(Samajik College)情報処理学科(Bachelor of Science in Computer Science & Information Technology)に入学し、同大は11月5日に始業式を行った。  アルチャナはニュー・チューリップ・スクール(New Tulips' School:NTS)に勤めるかたわら、MIC(Milestone International College)のビジネス科学学科(Bachelor in Business Science)に進学し、授業は11月19日から始まった。  彼女が受けるコースは、午前6〜10時だが、午前9時45分までにはNTSに戻らなければならない。つまり彼女は毎朝大学の最後の授業を受けないで、朝食を食べ、午前9時45分までにNTSに出勤する必要があるのだ。そしてNTSの夏休や冬休みに別途授業料を払って集中講義を受けるのである。実際、NTSの4人の教師が、この方法で勉強している。  2人のアパートは、NTSやアルヤール氏の自宅のすぐ近くで、MICへは約800m、サマジック大学へは約2.7kmの道のりだ。  アルヤール氏には、彼らの生活全般に関して日常的に指導することをお願いしている。とくに、「男は家事を一切やらない」というネパールの田舎に残る古い慣習を払拭し、ローシャンをたたき直す必要がある。そうしないと仕事と学業を掛け持ちしなければならないアルチャナの負担が増えて、学業にそのしわ寄せがくるからだ。実際+2在学中にでそのような問題が起きて、アルチャナは1科目落として追試を受けている。 ●イエガラス(House Crow) 日本でおなじみの真っ黒いハシブトガラスもいるが、ネパールでよくみかけるのは首のまわりだけグレーであとは黒のシックなツートンカラーのイエガラス。分布地はネパール、バングラデシュ、インド、パキスタン、スリランカ、タイ、イランなので日本の自然界にはいない。が、1981年に大阪市で1羽捕獲された記録がある。もちろんそれは飼育されていた個体が逃亡したものである。 ●青果市況  国営放送のネパール・テレビジョン(NTV)のニュースの最後に、青果市況を放送していた。野菜と果物は品名ごとに高値・中値・安値を表示していた。が、とてもネパールらしかったのは、最後に、おまけのように魚が出てきたことだった。しかも魚のカテゴリーは一つだけで、種類は無視されていた。 ●寄附のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために寄附をお願いいたします。 寄附金のご送金には下記口座をご利用ください。 郵便振替口座:00150−5−91688 ●寄附金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄附は、所得税法第78条第2項第3号及び租税特別措置法第41条の18の3、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記  ニュー・チューリップ・スクール(NTS)の理事長はアルヤール氏で、校長はアルヤール夫人。  ただ、同校は「貧しい家庭の子供たちによりよい教育を提供する」をコンセプトに、オランダのNGOであるICFONによって創設され、現在も財政支援を受けています。  このため理事長や校長の一存で人事を決めることはできません。  アルチャナの就職の件は、アルヤール氏がICFONを説得したものと思われます。  また、アルヤール氏はプジャが3年後に+2を修了したら、NTSで教師として迎え入れると約束しています。  クリシュナ基金の目的は、クリシュナ君の遺児を職業人として自立できるように支援することなので、取りあえず3人のうちの1人が目的を達しました。(H. F.) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4 TEL : 03-3200-1310 FAX : 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com  ※迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。