愛の光通信    2016年冬号通巻47号 2016.12    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321    東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 マニシャ・ギリさん(10歳)は強度のロービジョン(弱視)で、本誌2013年夏号で紹介したので、覚えておられる方がいるかも知れない。そのときは牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、カトマンズの自宅近くにある小さな学校で勉強していた。2年前の2014年に会ったときは「見えなくなり、勉強ができない」と泣いていたが、いまはこのとおりとても元気。母の期待を背に、「勉強ができてとても幸せ!」と語っていた。(3ページに関連記事) ●バラCBRに発見され教育の機会を得て 現地ボランティア/ホーム・ナット・アルヤール  インド国境沿いの農村地帯バラ郡の中でもさらにインド寄りの村に住んでいた全盲のシャム・スンダル・マハト君(当時7歳)は、1994年に同郡にある公立ドゥマルワナ校の就学前に点字を習う「リソースクラス」に入った。家からは通える距離ではなかったので、それ以来、彼は大学を卒業するまで親元を離れて生活した。  彼は、ネパール盲人福祉協会(NAWB)バラCBR事業のフィールド・ワーカーによる戸別訪問調査で発見された。その後、順調に進級試験に合格して同校で勉強を続け、2004年、10年課程修了時の全国統一SLC(学校教育修了)試験に5ランクの上から2番目のA(first division)で合格した。  NAWBの支援は10年生までなので、それから先は別途奨学金を得て、ビルガンジ市にあるトリブバン大学タクール・ラム校に進学。当時は日本の高校2・3年に相当する教育も大学で行うのが一般的で、2006年に12年課程修了の「インターメディエイト試験」に合格。同校の大学部に進み、ネパール語を専攻して、2013年に学士となった。  彼の両親は貧しい農民で、5人の子供をもうけた。シャム君は上から2番目で、彼だけが視覚障害者だ。彼の兄と弟は、10年間の普通教育を受けたが、結局、SLC試験には合格できなかった。彼の18歳の妹は現在7年生で、15歳の妹は5年生だが前途多難だ。彼らの母語はヒンディ語に近いボジュプリ語だが、学校教育はネパール語で行われるのでハンディがあるのだ。彼以外のきょうだいは健常者だが、教育環境には恵まれなかった。  シャム君だけが、優秀な教師のいる整った教育環境で継続的に勉強できた。しかも当時のドゥマルワナ校の校長パラット・プラサド・チョーダリ先生は、心の温かい人格者であった。  シャム君は、点字教科書がタイムリーにNAWBから提供されているかどうかを尋ねるために、東京ヘレン・ケラー協会のスタッフがドゥマルワナ校をよく訪問していたことを覚えている。  同校は貧しい地域にあったため、晴眼児の同級生は破れたり汚れた服を着ていたが、視覚障害児はいつも清潔で新しい服を着ていた。実家と違い、食事も栄養価の高いものを腹いっぱい食べられた。また、視覚障害児童・生徒が適切に勉強できるよう寄宿舎ではよく補習が行われた。  彼は、2011年1月からバラ郡ドゥマルワナ村のラジャハッタにある12年制の一貫教育を行う公立ジャンタ校(Janta Higher Secondary School)の小学部で晴眼児を相手に教師をしている。現在、まだ非常勤講師なので、常勤の教師に昇格したら彼は結婚するつもりでいる。  もし、東京ヘレン・ケラー協会の支援によるバラCBR事業がなかったら、また、その後の統合教育に対する継続的な支援がなかったなら、彼の人生はかなり悲惨なものになっていたであろう。それを想像すると、彼はぞっとする。  そして彼のいまがあるのは、とくに学業に対して親身な支援を行ってくれたNAWBと東京ヘレン・ケラー協会の存在があればこそで、いまでも深く感謝している。 ●設備の整った学校に少女が転校するまで―― 貧弱なインフラと医療事情 海外盲人交流事業事務局長/福山博 それでも日本は黄金郷  私たちは何かに遭遇し、その対処法を考えるときには過去の経験則なり、知識なりを総動員する。そして、小誌読者の多くは主に日本語で得た知識と、「高度な工業化を達成し、経済が大きく発展し、技術・医療・生活水準の高い日本」で得た経験を基に考えているはずだ。小誌に八百屋と出てきたら、写真がなければ多くの読者は日本の八百屋をイメージするはずで、広場にムシロを広げて野菜を並べただけの光景を思い出す人は少ないだろう。  読者の中には「ちょっと、日本を持ち上げ過ぎではないか」と怪訝に思われる方がいるかも知れない。しかし、ネパールと比較するとどうしても上記のように書くしかないのだ。  たしかにわが国は繁栄を謳歌したバブルがはじけて以降、デフレスパイラルと「失われた20年」で経済は低迷し、まだ、そこから充分立ち直っていない。しかし、ネパールからみたら、それでも日本は夢のような黄金郷なのだ。  それが証拠に、ここ数年で日本には雨後のタケノコのようにネパールレストランが林立した。そして、多くのネパール人がわが国で豊かな生活を享受しているのだ。  東日本大震災で被災したネパール人が、避難先の体育館で、近所に住む日本人に「遅くとも2日後には救援物資が届くのでそれまでの辛抱」といわれたが、まったく信じることはできなかった。ところが、実際に救援物資が届いて、改めて「日本は本当に凄い!」と実感したと言う。  また、トリブバン大学附属教育病院に勤務する臨床研修医が、昨年の冬、福島県の仮設住宅を訪問したときの感想は次のようなものだ。  <ネパールの地震被災者も日本のように立派な仮設住宅に住むことが出来たなら、凍えるような冬をやり過ごし、暮らしを改善させることができるのに、まだそのような状態ではないので、つくづく発展途上国の悲哀を感じた。>  昨年、当協会が救援金を集めてNAWBに送り、その一部でトタン板を購入して地震被災障害者に配布した。  被災者はそれを活用して仮設住宅を建設したのだが、そのできばえは実際はバラック小屋というべきものだった。ただ、それでも悲惨なテント生活に比べればとても快適で、被災障害者は恵まれていると感じてわれわれにとても感謝していた。     貧弱なインフラ  観光でネパールを訪れると、旅行代理店が綿密なお膳立てを行い、高級ホテルに宿泊するので、彼我の差を深刻に感じることはない。しかし、仕事で出向いて日本の感覚で独自に動くとトラブル続出である。例えば、地方の空港にはタクシーはおらず、サイクルリキシャのみなので途方に暮れる。また、われわれは雨期にタライ平野の学校に行くことはできない。乾期に干上がった河や水が引いた河を4WDで渡河するのは、そこに橋がないからだ。しかし、雨期になるとそれらの河は、轟音を立てて流れているので、行けるわけがないのだ。しかし、われわれは、それをなかなか実感できないのは、日本では交通網、道路網が整備されており、「橋がないので行けない」と言われても、「そんな馬鹿な!」と、日本の感覚で考えてしまうからである。  このようなことを書いたのは、われわれが支援する孤児たちに「大学生になったら、新聞配達とか、コンビニの店員とかのアルバイトをさせたらいいじゃない」という助言をもらったからだ。  1日中きつい肉体労働をしても家族を満足に食べさせられない国で、学生アルバイトなど成り立つはずがない。日本では、それがたとえ最低賃金であっても、1時間働けば普通の食事1食分を賄うことができるが、それは先進国だから可能なのである。それに第一、ネパールにはコンビニはない。 目が見えるようになった  2012年の12月に会ったロービジョンの少女・マニシャさんは、当時7歳であった。母親もロービジョンでまったく学校教育を受けていないので、娘には高校までの教育をなんとか受けさせたいと、掛け持ちで家事代行のアルバイトに精を出している。彼女のご主人は八百屋だが、それだけでは普通の生活はできないのだ。  2年後の2014年の12月にマニシャさんに会ったとき、彼女は「文字が読めなくなって、勉強ができない」と言って泣いていた。日本であれば拡大読書機や複数の弱視レンズを活用して残存視力を有効活用できるのだが、それらの器具は、その家族の数年分の年収にも相当し、とても手がでないのだ。  ところが昨年(2015)の12月に私がカトマンズ郊外のラボラトリー校に行くと、10歳になった彼女はそこで学んでいた。しかも、そのときは厚いレンズのメガネをかけていなかった。  ラボラトリー校は、米国の財政支援で建設された実験学校で、視覚障害児童・生徒対象の統合教育も古くから行っており、教育環境も、教員や職員の質も量も頭抜けて充実している、特別に優遇されているエリート校である。  マニシャさんがこの春、同校で検眼を受けると、メガネをかけるよりも、むしろ裸眼の方がよく見えていると診断された。そして、同校での授業にも充分ついていけると判断されて、彼女は晴れて転校することになったのである。  思わず脱力するような結論だが、なぜ、そのようなことが少なくとも1年間わからなかったのか? なぜもっと早く眼科病院に行かなかったのか? というと、そこには開発途上国ならではののっぴきならないネパールの医療事情がある。  日本は国民皆保険の国なので、お腹が痛い、あるいは風邪気味だと言っては、気軽に病院に行くことができる。そのために乳児死亡率などの健康指標がとても高く、世界トップクラスの長寿国を誇っている。  一方、ネパールでは裕福な人々でもなかなか病院に行きたがらない。その理由の一つは、医療費が諸物価と比べかなり高額であること。そのために重篤になって、死にそうになってからやっと病院に行く。このため「病院に行っても病気は治らない。病院に行ったら死ぬ」という風評がある。  また、病院にはコレラとか、赤痢とか、結核のそれも重篤な患者がおおぜい隔離されずに入院しているので、院内感染も起こりやすい。医療レベルも低く、病院の衛生状態も驚くほど悪い。  このため在ネパール日本国大使館は、軽症の場合は大使館が推薦する私立病院に、重症になったら日本、シンガポールあるいはバンコクで医療を受けるようにホームページで警告している。  われわれは「ネパールで病気になったら、安宿を引き払って、病院ではなく、高級ホテルに泊まれ」と教えられてきた。高級ホテルには先進国で医学教育を受けた専属契約の医師がいるので、往診にきてくれるのだ。  大使館が推薦するようなカトマンズの私立病院に入院したら、入院費に1泊あたり1,000米ドル(約10万5000円)も取られることがあるので、1泊200米ドル(2万1000円)の高級ホテルの方が、かえって安上がりというわけである。 ●【クリシュナ基金より】ファミリーネームにまつわる大問題――三女が、次女が学ぶ学校へ転校  協会有志等が作ったクリシュナ基金は、突然死したNAWBバラCBRスタッフ(眼科助手)の遺児3名の教育を支援する事業で、2005年から実施してきた。現在、長女アルチャナと長男ローシャンはカレッジの2年生(日本風に言えば高校3年生)、次女のプジャは9年生である。  孤児院に入っていた三女アーラティはこの春から、スペインのバルセロナを拠点にネパールの子供たちを支援する国際NGOアミックス・デル・ネパール(Amics del Nepal)の財政支援を受け、プジャが学ぶブライトランド校に転校し、7年生に編入した。「アミックス」はカタルーニャ語で「友達」のことなので、「アミックス・デル・ネパール」とは、「ネパールの友達」という意味である。 市民権が取れない  NAWBのラトナ・カジ・ダンゴール教育課長の実の妹プレムソバ・マハールジャンさんは、奈良県にある女子短大を卒業して千葉県八千代市で働いている。二人の姓「ダンゴール」と「マハールジャン」は共にネワールの農民カーストで、どちらが上でも下でもないまったく対等の関係。そのため、俗に「ダンゴールとマハールジャンはまったく同じだよ」などという言い方をする。  ラトナ・カジ氏は10年課程修了時の全国統一SLC試験受験のとき、深く考えることなく「ダンゴール」という姓で受験した。しかし、他のきょうだいは「マハールジャン」で受験したため、きょうだいで姓が違うことになったのである。  ラトナ・カジ氏によれば、彼が生まれた時代には出生証明書を役所に提出する習慣はなかった。SLCの成績表は人生の節目で、必ず提出を要求される重要書類なので、かくして彼の本名は「ラトナ・カジ・ダンゴール」に確定した。  アルチャナ・クマーリ・ムキーヤとローシャン・クマール・ムキーヤとの市民権証明書取得問題はさらに難解で、かつ深刻である。  二人はこの名前で10年間勉強してきたので、SLCもその名前で受けた。そして16歳になり市民権を取得しようとした。通常であれば、役場に行って市民権を持つ両親のどちらかが申請すれば簡単にけりが付く問題だ。しかし、二人の両親はすでに亡くなっている。そこで、両親の市民権証明書に出生証明書を添えて申請しようとした。すると出生証明書には「ムキーヤ」の後に「ビン(Bin)」という姓がついていたので、ラストネームは「ビン」ということになる。  ムキーヤというのは彼らの父方の姓で、ビンというのは母方の姓である。出生証明書を提出したのは母方の祖母(故人)で、孫の名前に自分の姓がついていないのを寂しく思い、教育を受けたことのない彼女は、勝手にビンをつけるように役場の書記に頼んだようなのだ。  つまり、二人のファミリーネームは、SLCの成績表上は「ムキーヤ」で、出生証明書上は「ビン」となっているので、申請から3年もたつのに市民権証明書が未だに降りないのだ。  しかし、これは10年前からわかっていたことである。ムキーヤきょうだいの一番下の妹は、今年の3月まで孤児院に入所していたが、そこに登録されていた名前は、アーラティ・クマーリ・ビンだった。そこで私はきょうだいで姓が違うのはおかしい、将来に禍根を残すと力説した。  ところがその当時、ネパールの友人・知人たちは、こぞって「ムキーヤとビンは同じ姓だから、まったく問題ない」と笑い、まじめに取り合ってくれなかったのである。 ●アドバイスの受け方  トレッキング中に高山病に罹ったら、すかさず下山しないと生命にかかわるので、ヘリコプターによる緊急移送となるが、その費用は1回あたり30万から50万円と高額だ。このような重篤な病態での出費に備えて、ヒマラヤ登山やトレッキングを計画したら、出発する前に日本で緊急移送特約を含んだ海外旅行傷害保険へ加入すべきだと、在ネパール日本国大使館の医務官はホームページ上で強く訴えている。  カトマンズの日本料理店で、たまたま同席した日本人から高山病に罹ってヘリコプターを呼んだという話を何度か聞いたことがある。  その中に、初のヒマラヤトレッキングであるにも拘わらず単独で決行したつわものがいた。しかも、その若い男は山岳ガイド料を値切ったので、ガイドは彼に形通りのアドバイスしかしなかったとしても無理はない。一応、その日程では高山病に罹るリスクがあると言っているので、ガイドは決して不誠実だったわけではない。緊急移送特約を契約しているので、それなら決行しようとなったというが、そのときガイドは、その若いトレッカーが十中八九、高山病に罹ると踏んでいたのではないだろうか?  こうして2週間のトレッキングの予定であったが、彼は最初の1週間で高山病に罹り、ガイドの付き添いでヘリコプターで下山した。もちろんガイド料は2週間分支払わなければならないので、ガイドは1週間仕事をしただけで、2週間分の報酬を受け取った。  ネパールでは、危険だと言われたら率直にアドバイスを聞いた方がいい。「問題ない!」といってもとんでもないトラブルが起こる国なのである。 ●全盲露天商の仮設住宅  カトマンズ盆地内にある古都バクタプールの国道沿いで、ムシロを敷いてその上に商品を並べて営業する全盲の雑貨商がいた。  商う商品は、靴ブラシ、靴クリーム、爪切り、ピンセット、ひげそり、歯磨き、胸に塗る風邪薬、その他だが、いずれにしても種類も数も少ない。  というのは夕方、店じまいするときは売れ残った商品をすべて自宅に持ち帰り、にわか雨が降ったときも素早く撤収しなくてはならないからだ。  そしてもう一つ彼は「体重計屋」も営んでいる。家庭用の体重計で、人の体重を測って対価をもらう商売で、ネットで調べてみるとネパール以外でもインド、中国、キルギス、ジョージア、ウクライナなどにも同業者がいた。  典型的な小商いだが、彼はこの商売で一人息子に教育を受けさせ、育て上げたのだから立派である。しかも、弁が立ち、この辺りの露天商のリーダー的存在でもあるようだった。  しかも、いまでも地元盲人協会の相談役を務めており、とても人望があった。  彼の自宅は、2015年のネパール地震で半壊して、とても住める状態ではなくなった。そこで、当協会が送金した救援金で、NAWBが購入・配布したトタン板にて仮設住宅を建設した。場所は、自宅近くの公立学校の校庭の隅である。  彼の息子は晴眼者だが、その嫁は弱視者である。彼ら夫婦も被災者なので、当然、トタン板を受け取ったと早合点したが違っていた。  その弱視の嫁は、なぜか盲人協会をひどく嫌っており、配布対象のリストから外されてしまったのだ。  しかし、これはどうも話が違う。日本盲人福祉委員会の救援金で購入した毛布は、視覚障害被災者が対象で、事実上、ネパール盲人協会(NAB)の会員でなければ受け取れない。しかし、当協会の救援金で購入したテントやトタン板は、緊急支援ということもあり、NAWBの要請ですべての障害者をその配布対象としたはずなのだ。  その話をNAWBの担当者に話すと、面倒くさそうに「彼の息子はエンジニアなので、とても良い給料を貰っているので、何の問題もない」と断言。トタン板を彼らに支援したら逆差別になると言わんばかりの勢いであった。  そして、実際にエンジニアであるその息子は、自分でトタン板を購入し、父親とまったく同じ大きさ、同じカマボコスタイルの仮設住宅を、父親のそれの隣に、入り口がお互いに向き合うように建設したのであった。  そして、雨の日でも濡れないで行き来ができるように、テント生地で簡単な屋根を設け二つの仮設住宅をつないでいた。 ●エッグロール  エッグロールは、カトマンズでよく見かける定番の屋台スナックで、塩と青唐辛子が入った平たい円形の卵焼きの上にキャベツの千切りとチリソースを乗せ、さらにその上にチャパティを乗せてくるっと巻いたものだ。しかし、屋台は衛生的とは言い難いので、清潔で安全な店を探した。写真はカトマンズの銀座通りであるニューロードにある高級エッグロール屋、1枚120円也。 あぶない商店  地震で倒壊しそうな雑貨店。しかし、建て直すには莫大な費用がかかり、ない袖は振れぬ。そこでつっかい棒をしてなんとか営業しているわけである。商っている商品は、ハンガー、シャンプー、石鹸、洗剤、洗濯ハンガー、掃除ブラシ、モップ、ほうき、チリトリなどである。とても危険そうに見えるが、地震が来たらすぐ逃げればいい、「問題ない!」ということなのだろうか? ●寄附のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために寄附をお願いいたします。 寄附金のご送金には下記口座をご利用ください。 郵便振替口座:00150−5−91688 ●寄附金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄附は、所得税法第78条第2項第3号及び租税特別措置法第41条の18の3、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記 ネパールでは口癖のように「ノープロブレム!(問題ない)」という人がいる。  しかし、その後大問題に発展することも多い。  「インドにはパスポートなしで行っても日帰りならノープロブレム!」を真に受けて、インドの官憲に捕まって留置された日本人もいる。  ファミリーネームに対する感覚なども独特だ。彼らは無意識にカーストの序列を考えて、「まったく同じ」なんて言っているが、近代的な法体系も一応あるので、「ムキーヤ」と「ビン」は明らかに違うという当然の結論になる。  一方で彼らが「危ない!」と言ったら、日本的常識や感覚は封印して、無条件に気を付けた方がいい。「ノープロブレム!」でも危ないのだから推して知るべしなのだ。(H. F.) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4 TEL : 03-3200-1310 FAX : 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com  ※迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。