愛の光通信    20010年新春号通巻33号 2010.1    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321 ランプの灯をかかげ続けて60年(1950〜2010) 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 (写真)視覚障害者で初めて国家公務員上級職試験に合格したニーラ・アディカリさんと彼女をサポートしてきたNAWBのホーム・ナット・アルヤール事務局長(彼女の下宿先の近くにあるホテル・ヒマラヤのティールームにて。詳細は6頁) ●点字教科書に埋没するNAWB ―― 休日返上、泊まり込みも ―― 海外盲人交流事業事務局長/福山博  「なんだこれは!」。2009年10月23日(金)、首都・カトマンズのネパール盲人福祉協会(NAWB)本部ビルに足を踏み入れた私は、思わず声を上げた。倉庫はもとより、廊下や階段まで、不揃いな段ボール箱が山と積み上げられていたのだ。  NAWBアルヤール事務局長は、やや得意げに、教育省から注文があったのだと述べた。そして、この3ヶ月間は、歩行訓練士など点字出版以外の担当職員も総動員して、点字教科書製作に当たった。そして「昨日、やっと印刷だけは終わった」と、吐息を漏らしたのであった。 ◆ダサイン期間に大量注文  教育省からの注文は、300人分の算数(数学)・英語・理科の点字教科書を初等部(第1〜5学年)用450タイトル、中等部(第6〜10学年)用450タイトル合計900タイトルという大部のものであった。しかも、点字教科書は通常、1タイトルが3、4冊にもなるので、NAWBだけでも約3,000冊にもなる計算である。  他に視覚障害者の当事者団体である「ネパール盲人協会(NAB)」も、同様に社会科とネパール語を受注しており、点字印刷・製本し、あり合わせの箱に詰めて送りつけて来たので、NAWBはまさに点字教科書に埋没寸前であった。  昨年は特に、15日間祝われる秋の収穫祭・ダサインが平年より1ヶ月も早く、最盛期の9、10月は気を揉んだという。その2週間後にはティハールという5日間の灯明祭もあり、ふる里に帰省して併せて1ヶ月間の長期休暇を取る人も少なくない。いわば盆と正月が一緒に来たような賑わいをみせる時期なのだが、NAWBはダサインでも5日間、ティハールでも3日間しか休業しなかったという。 ◆泊まり込んでの作業  点字印刷は、日本とデンマークの国際協力機関であるJICA(ジャイカ)とDANIDA(ダニーダ)から、各1台ずつ寄贈された高速点字プリンタを使った。しかし、毎日のように停電があるので、通電している夜間も動かす必要があった。そこで、職員の一人が連日、NAWBに泊まり込み、夜は10時まで、朝は3時から点字プリンタを動かしたのである。  点字印刷は終わったとはいえ、連続用紙を手作業でばらして、1冊ずつ製本するのは根気のいる作業である。しかも、部数が多いので人海戦術で行うしかない。このため、詰めれば100人も収容できる会議室が、臨時の製本工場になり、学年毎の各点字教科書が床に小山を作っていたのであった。 (写真)NAWBに泊まり込んだガンガさん(JICA寄贈の点字プリンタの前にて)  「これだけの仕事があれば、すくなくとも点字出版所は自立して運営できるね」と、アルヤール事務局長になにげなく聞いたら、ギクッとしたようであった。そして、教育省が提示する単価が安く、残業や公休出勤に対しても時間外手当が払えない現状をこぼした。残業時には夕食を出して、点字教科書の納品が終わってから、振替休日をとってもらうという。また、2010年も教育省から同様に大量の注文があるという保証もなく、実際、かなり悲観的らしい。  というのも、教科書は日本のように消耗品ではなく、点が摩滅して読めなくなった点字教科書だけ注文されても、視覚障害児の就学率が5%では、たかが知れているのだ。 ◆23年後の感慨  ところで、NAWB点字出版所の起こりは、当協会が1986年8月にNAWBの職員を日本に招聘したことにまでさかのぼる。そして、当協会と仲村点字器製作所にて、点字製版・印刷・製本、および点字製版機の組立・保守の技術指導を行ったのである。そして、その職員の帰国に併せて、当協会は点字製版・印刷システム一式をカトマンズに送った。したがって、ここに至るまで23年間を費やしたことになる。当時の足踏み式製版機は、いまや点字カレンダーの製作にしか使われていないが、今でもなんとか現役である。日本でも原版の修正などで、辛うじて命脈を保っているので、これも時代の流れだろう。  変化といえば、障害者に対するネパール社会も、この20年で劇的に変わった。当時は「盲人に教育など必要ない」という声が、あからさまに聞こえたが、現在は視覚障害者の社会進出と共に、そのような声は聞こえなくなった。  このような社会的変化を背景に、十分とは言えないまでも、ネパール政府による点字教科書の買い上げや福祉予算の増額が行われているのだと思われる。われわれもNAWBも非力だが、それでもまさに継続は力なのである。 ●5段飛びの実力者  彼の名はバブ・ラム・ネパリ(26歳)、2007年に会ったときは、就学前のクラスで点字を覚えていた。一昨年、晴れて小学校1年生として入学し、昨年の4月、一挙に小学校6年生に飛び級したのである。  「そんなの有りですか?」と校長先生に聞くと、「彼は優秀だから問題ない」との毅然とした答え。  たしかに頭の回転の速い、機知に富んだ受け答えをする彼だが、なにしろ24歳で点字を習い始めたので、点字を読むのがどうにも遅い。そこで、NAWBアルヤール事務局長の熱血指導が、突然、始まったのである。  ●正雄育英基金と順子女子育英基金の創設 Masao T. Scholarship Fund & Junko T. Girls Scholarship Fund ―― 奨学金の給付は2010年4月から ――  当協会のネパール事業を長年、継続してご支援していただいている視覚障害者の方(匿名希望)から、「父親(晴眼者)が天寿をまっとうしたので、遺徳を顕彰するために、父親の名前を冠した育英基金を、ネパールに作って欲しい」とのお申し出がありました。  また、同氏の奥様(晴眼者)からは、「以前ネパールを訪問した折りに、幼い女の子たちがたくさん働いており胸が痛んだ。何ごとにおいてもネパールでは、女性は男性の後回しにされるため、教育を受ける環境はさらに悪い。視覚障害を持つ女性は、障害者であるばかりか、女性でもあることにより二重のハンデを負っている。そこで、とくに視覚障害を持つ女子のための、同様の育英基金を作りたい」とのお申し出がありました。  両者共に、小誌2008年冬号(通巻31号)でご案内した、「安達禮雄育英基金の創設」をお読みになり、同育英基金に準じて設立したいとのご希望でした。そこで、お志を尊重しながら、基本的には同様の内容で、設立者、NAWB、当協会の3者による「覚書」を交換し、同様の手続きでNAWBに送金し、二つの育英基金「正雄育英基金」と「順子女子育英基金」を創設しました。  各育英基金の支給対象者は、小学校から高校までに就学する視覚障害児・生徒で、1人あたりの奨学金は、ネパール政府の規定により年額1万5,000ネパール・ルピー(約1万9,000円)を予定しています。少額に思われるかも知れませんが、これが児童・生徒が帰省する夏休み等の休暇を除く、10ヶ月分の寄宿舎における生活費のすべてで、この中にはもちろん食費と被服費も含まれます。  ネパールでは、今年に入ってから物価が高騰しているため、次年度の奨学金を政府が改定するかも知れません。しかし、仮に値上げがあったとしても、2010年4月から各育英基金あたり少なくとも5名、3育英基金合計15名以上の視覚障害児・生徒に奨学金を給付できる見通しです。 ●不可解な値上げと飛び級  協会職員・関係者等による国際協力事業「クリシュナ君遺児育英基金」は、現地スタッフだった故クリシュナ・ムキーヤ氏の遺児のうち、孤児院に引き取られた末っ子を除く3人に、教育機会を提供する事業です。  同基金の支援を受けた、長女のアルチャナさん(13)と長男ローシャン君(11)は、一昨年小学校1年生から3年生にジャンプしましたが、昨年4月、再び飛び級により5年生に進級しました。また、次女プジャさん(10)は、幼稚園の年長組から1年生に進級しました。  3人はこれまでバラ郡カレーヤ町で最良と言われていたサニーアカデミー校の寄宿舎で生活しながら学んでいました。しかし、一昨年、長年旧ソ連圏で技術者として働いていた同校のオーナーが帰国してから事情が一変。彼は自分で校長も兼任し、この春、まったく不可解なことに、同校をインドの中等教育中央審議会(CBSE)の認定校にするためと称して、学費と寮費を倍額にすると一方的に宣言しました。このため同校からの転出者が続出し、約1,200人いた在校生は、一挙に約400人に激減。NAWBも3人を寄宿舎を持つ同町のブライト・ランド校に転校させました。  協会は費用の支出を伴わない範囲で、子供達の成長を見守る等の側面的支援を行っています。 ●井口淳氏を偲んで 日本点字図書館理事長/田中徹二 <毎日新聞社から当協会に出向し、点字出版局長、海外盲人援護事業事務局長、理事などを歴任した井口淳氏(全盲)が2009年8月16日、老衰により逝去されました。享年86。  同氏は、1982年にキワニス社会公益賞、1992年に黄綬褒章、1994年に毎日国際交流賞、1996年にネパール王章(ゴルカ・ダクシン・バフ)を受賞しました。本誌では、同氏の冥福を祈念して、公私にわたって親しかった田中先生に、思い出を草していただきました。> 写真:筆者(左)と井口氏、1987年4月2〜4日カトマンズで開催された「視覚障害児統合教育ナショナルセミナー」にて  私が井口さんと親しく話すようになったのは、1969年(昭和44年)のことである。東京都心身障害者福祉センターの視覚障害科に転職し、センターの目の前にある毎日新聞社早稲田別館内の東京ヘレン・ケラー協会点字出版局(現・出版所)に出入りするようになってからだ。当時、『点字毎日』の東京駐在だった牧田克輔さんに連れて行ってもらった。そこに『点字毎日』から出向していた井口さんがいたのである。  業績も立派だし、賞もたくさんもらっていて近づきがたい人のように思えるが、私にとって井口さんは年の離れた兄貴のような存在だった。お互いに酒が好きだったことから、高田馬場付近の飲み屋によく連れて行ってもらった。飲みながらの井口さんの話は、たいへん面白かった。学生時代、朝日新聞の発送部でアルバイトをしていたこと、毎日新聞に入社する前、大阪の繁華街でテキ屋をしていて、泥を混ぜた石鹸を売っていたこと、毎日の記者時代に梅棹忠夫や川喜田二郎らといった京大学者グループと親交があったこと、編集室は昼を過ぎないとだれも現れないという毎日の新聞記者気質などを聞いた。  井口さんとは、東京ヘレン・ケラー協会を退職するまで30数年のお付合いになったが、そのなかで、思い出深いのは国際協力事業だ。1981年の国際障害者年が刺激になったようだが、シンガポールで開かれたアジア盲人福祉協議会に出席し、各国にアンケート調査をした。日本の援助を期待する声が多かったことから、海外交流事業を起こすことを決め、梅棹さんや川喜田さんに相談したようだ。お二人の助言で最貧国のネパールを選んだと聞いたことがある。そこでまず調査団が派遣されることになり、1985年、私は井口さんの命令で職員だった野崎泰志さん(現・日本福祉大准教授)と同行することになった。調査の結果、点字教科書が全くない状況から判断して、カトマンズに点字出版所を置くことになり、同地は停電が多いことから、足踏み式製版機を、ネパール盲人福祉協会へ寄贈することになったのである。  この協力事業は、当時のネパール盲人福祉協会長だったL. N. プラサド博士の肝煎りで順調に成果をあげ、現在では小1から10年課程の点字教科書がそろっている。全国どこの学校に盲児が入学しても、すぐに点字教科書を供給できる態勢が確立されて、優秀な盲学生が育っている。今では大学入学資格試験に合格する盲学生は数10人にのぼり、わが国の盲大学生数を超えているほどだ。  私はこの結果に刺激を受け、日本点字図書館に来てから、1993年の「アジア太平洋障害者の十年」を機に、国際協力事業を立ちあげた。これができたのも井口さんに、ネパールの支援をするように依頼されたお陰である。  このように井口さんと付き合って、私は大きな影響を受けた。晩年、寝たきりになられてからは、ほとんど話すこともなかったが、最期まで自宅で奥さんの介護の下に過ごされたと聞く。お焼香をあげに、ご自宅を訪れた際、奥さんがしみじみ話しておられた。  「元気なころは、早く出てけ、というのが口癖でした。私が出てったら、困るんじゃない? と言えば、『ばかを言え! 列を作ってたくさん待ってるわ』と言われました。それが寝たきりになってから、『お前と結婚してよかったよ』と言うようになりましたん」。  82歳になられる奥さんは、元気で、今でも編み物を教えておられる。 ●初の国家公務員上級職は女性 Congratulations to Miss Neera Adhikari  旧知の指田忠司氏から「ニーラさんを知っている?」と電子メールで照会されたのは、2009年10月10日(土)のことだった。  同氏はWBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)の会長で、WBUのメールマガジン「WBU E-BULLETIN」最新号に「全盲のニーラ・アディカリさんがネパール政府の公務員上級職に合格」と掲載されたのを読んで、問い合わせてきたのだ。  名前には記憶があったが、それもそのはずで、本誌2005年冬号でも紹介しているのだ。彼女と初めて会ったのは、2005年7月にNAWBでのことであった。日本点字図書館の田中徹二理事長から、今度同館が招聘するつもりなので、会ってきて欲しいと依頼されたのだ。そして、アルヤール事務局長の推薦もあり、好印象を持って帰国し、「間違いない人物です」と田中先生に太鼓判を押したのであった。それから一月ほどたってから、彼女は同館主催の池田輝子ICTセミナーに参加するため来日した。そこで、ネパールには海がないことから、彼女の休日に会わせて、横浜港を案内したのであった。  そして昨年の10月31日(土)、ネパール出張の合間に、アルヤール事務局長の案内で、彼女の住むラリトプル市(パタン市)に車で出かけた。片足に障害を持つ若い女性と共に、彼女は下宿の玄関前で待っていた。4年ぶりの再会である。彼女を介助していたのは、教師をしている友人で、下宿仲間だという。  ニーラさんは、現在、管理職研修のまっただ中で、多忙を極めており、翌日の日曜日も試験だという。そこで、同市にある日本人経営の高級ホテルのティールームにて話を聞いた(表紙の写真参照)。  直前の研修では、なんと拳銃の分解・組立、そして実弾の射撃も行ったと、少し物騒な話を愉快そうに語った。治安維持のために警察との連携も欠かせないので、このような研修もあるのだという。警察における3日間の研修には警棒を使った逮捕術もあったらしいが、さすがにこれは免除してもらったと朗らかに笑った。  彼女はこれまでNAWBのサポートにより教育を受けて来たことを述べると共に、2005年夏のICTセミナーをとても懐かしそうに語った。そして、「今の私があるのは、あのICTセミナーに参加できたお陰です。田中先生をはじめ関係者の方々にニーラがお礼を述べていたとお伝えください」と、しみじみと語った。  私はてっきり、そのときもらったパソコン(PC)が役に立ったのだろうと思ったが、そうではなかった。  「もちろんPCを使って、今も電子メールのやりとりはします」と言いつつ、ネパール語のスクリーンリーダーがないので、実はそれ以上使えないというのだ。「その点、ノートテイカーの『ブレイルメモ』はとても役立ちました」と何度も繰り返した。  社会学を専攻した大学院の修士論文も公務員試験も、現在、行われている公務員上級職の管理職研修もすべてネパール語で行われ、この武器がなければ、彼女はここまで来ることはできなかったというのだ。彼女は英語が堪能なので、てっきりPCを駆使していると思ったが、これは私にとってはとても意外であった。  また、今回、他の視覚障害者から「KGSのブレイルメモは幾らするのか?」、「提供してもらうあてはないか?」としつこく聞かれ、驚いたのであったが、欲しがる理由がよくわかった気がした。  彼女は昨年の4月に教員になったばかりだが、そのかたわらNABの理事、NABの有力な支部であるラリトプル郡の支部長、女性委員会の委員長、ネパール全国障害者連合(NFDN)理事、また、WBUの執行委員も兼任しており大忙しであったという。公務に就いてもこれらの活動は続けるのかと聞いたら、これ以上、責任の重い職は無理だが、現職は続けたいし、可能だと語った。  昨年の8月には、スイスのジュネーブで開かれたWBU総会にて、日本でお世話になった田中さんと再会した。そして、女性フォーラムでは田畑美智子さんとも親しくお話をすることができたと嬉しそうに語った。私が田畑さんも良く知っているというと、「お二人にどうぞよろしくお伝えください」と頼まれた。  このようにネパールの視覚障害者福祉にも、ようやく明るいきざしが見えるようになったが、まだまだ課題も山積している。その最たるものは、多く見積もっても5%という視覚障害児の就学率の低さであろう。2万人とも3万人ともいわれる視覚障害児に教育の場を提供できるのはネパール政府以外には不可能なことである。しかし、それまでは、いましばらく、私たちの小さな力も必要なのだろうと、改めて思い知った。日差しだけがやけに強い彼の地の晩秋であった。(福山博) ●ジャングルの不条理 ◆バス運転手は無謬か?  幹線道路を遮断する形で、トラックの横っ腹に観光バスが突っ込んでいる。これは誰が、どう考えても非はバス運転手にある。しかし、彼は頑としてそれを認めない。そればかりか、「ほんのちょっとだけバスを後退させて欲しい」との渋滞に巻き込まれた人々の願いも頑なに拒否。もはやパニックに陥って、彼の頭の中は真っ白なのだ。  結局、警官が来て、ケータイのカメラで現場写真をパチリと写して移動を命じたのだが、それはなんと2時間後のことであった。  私たちは衝突現場からさほど離れていなかったので、これで済んだが、最後尾の車は何時間待たされたのだろうか? ◆警官は無謬か?  ジャングルの一本道を走っていたら、運悪く警察の検問にぶつかった。  「はい、バックして」警官の誘導に従って、私たちを乗せたトヨタハイエースがバックした瞬間、「ガシャン」という異常音がした。  いつの間にかハイエースのすぐ後ろにバイクが回り込んでおり、プラスチック製の前輪泥よけが折れたのだ。  悪いのは、明らかにバックを命じた警官だが、彼が自分の責任を認めるはずもなく、しばらくは、三つどもえの大論戦が続いた。  しかし、ここが考えどころであった。  「警察の誘導に従ったまで」とわがドライバーが正論を頑なに主張すれば、警察署にて丸一日を棒に振ることになる。しかも、私たちの主張が認められる見通しは絶望的であった。そこで、小一時間の交渉の後、800ルピーを私たちが、バイクの運転手に払うことで決着した。この日のレートで、 1,009円也であった。  日本における検問の際の大量動員をみて、これまで、なんて大げさなのだと思っていたが、あれくらいでちょうどいいと思う今日この頃である。 ●なぜ「モモ」を餃子というのか?  その形状から、餃子というよりは焼売じゃないか? と思われる方も多いと思います。でも、これはネワール料理のモモで、チベット料理のモモは、おなじみの三日月型をしており、どちらもネパールではモモ(Momo)と呼びます。もっとも、ネワール料理のモモは形だけでなく味も、香港料理の「小龍包」に似て、とてもジューシーで、やみつきになる美味しさです。  なお、ネワール族は、古くからカトマンズ盆地に高度な文明を築いた、今でも社会的ステータスがとても高い先住民族です。 ●苦瓜の社会的地位  苦瓜を好きだというと、タイでも、ミャンマーでも、そしてネパールでも意外そうな顔をされます。真顔で「日本でも食べるのか?」と聞かれたほどです。もっとも、他の2カ国とは違ってネパールでは庶民的な食堂でも、苦瓜のタルカリ(カレー煮)を食べることはできません。市場には出回っても、お客に出す野菜ではないとみなされているのです。確かにあのほろ苦さは、とても上品な野菜とはいえませんが。 ●募金のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために募金をお願い致します。  寄付金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 銀行口座:三菱東京UFJ銀行:高田馬場支店(普)0993756 ●寄付金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号にかかげる社会福祉法人なので、当協会に対するご寄付は、所得税法第78条第2項第3号、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます ●編集後記  1950年に発足した当協会は、2010年に創立60周年を迎えます。そこで、これを祝い今号より題字に60周年のロゴマークを添えることにしました。そこで、例年なら本号は12月発行のはずなのですが、今回に限り1月号としました。ご了承ください。▼2009年10月21日〜11月3日の日程でネパールに出張して来ました。昨年と比べ、治安が格段に良くなっており、観光シーズンを迎え、カトマンズはとくに欧米からの観光客でごった返していました。そのあおりで、地方を巡回して定宿のカトマンズ・ゲスト・ハウスに帰ってきたら、Wブッキングでその夜は泊まれず、午後9時頃宿を求めてうろうろしてしまいました。▼このまま「シャンティ(平和)」が続けば、ネパールは昨年より良い新年を迎えそうです。皆様におかれましても2010年が「シャンティ(平穏)」でありますように、お祈り致します。(H・F) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL : 03-3200-1310  FAX : 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com ※ 迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。