愛の光通信    2008年冬号通巻31号 2008.12    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 (写真) 寄宿舎の男子ベッドルームに、一堂に会したドゥマルワナ校の視覚障害生徒。後列の左から3人目の女性が、リーダーのアンジュさん(2、3ページ参照) ●団体交渉と浪花節 ―― ドゥマルワナ校における対話集会 ――  海外盲人交流事業事務局長/福山博  昨年(2007)バラ郡のドゥマルワナ校を訪ねるとネパール盲人福祉協会(NAWB)のアルヤール事務局長だけが男子ベッドルームに呼ばれ、私はその間手持ちぶさただった。内輪で解決したいという視覚障害生徒達の配慮だろうと、そのときは考えた。アルヤール氏も生徒達とどのような話をしたのか一切語らなかった。しかし、2008年8月24日(日)の今回は、ドアは閉鎖されず、私もごく自然にその対話集会に参加することになった。 ◆リーダーのプロフィール  同校の視覚障害生徒を束ねているのは、10年生のアンジュ・クマーリ・ダイタルさん(19)である(表紙の写真参照)。  幼い彼女の姿は、本誌通巻第9号(1994年8月号)の表紙と4ページに掲載されている。  彼女は同級生の視覚障害を持つ男児と共に、バラ郡の国道に面したパタライア小学校において、小学校1年生として3年間過ごす。同校は旧ソ連の援助で道路を敷設するためにできた作業小屋を基に開校した小学校(5年制)で、当時240人の児童を4人の教師が教えていた。この陣容では、視覚障害児の統合教育は困難で、彼女たちが2年生に進級できなかったのもこのためだ。自宅から歩いて通えるのが、唯一の取り柄であったが、家族もさすがにこのままではまずいと考え転校に同意した。こうして、彼女たちは親元を離れて、ドゥマルワナ校の寄宿舎で生活することになったのだ。  その後、男子児童は新しい環境についに慣れず退学。一方、アンジュさんは適切な教育指導の下、めきめき頭角を現した。このため、彼女は教育環境については、とても敏感である。 ◆彼女たちの要求  彼女が代表して舌鋒鋭く要求していたのは、以前は授業が終わってから、寄宿舎での2時間の自習時間に教師が付き添ってくれたが、今はいないので質問できない。そこで、校長に何度もお願いし、昨年はアルヤール氏にも要望したが、いまだに実現していないというもの。  これに対してアルヤール氏は、防戦一方で、なだめるのが精一杯。対話集会はなにやら、今や懐かしい団体交渉の様相を呈してきたのであった。  私は困惑するアルヤール氏に助け船を出すため、外国の事例を持ち出すことにした。 ◆ブラジルのサンパウロにて  ブラジル移民のクララ・てる子・馬場さん(79)は、永年勤めたサンパウロ州立病院を退職して悠悠自適の生活。今年が日伯交流年であるため、彼女は来日し、当協会にも立ち寄ってくれた。  彼女は、家族と一緒に1歳になる前に日本から移民船に乗り、ブラジルに渡った。戦争のため目の悪い彼女は小学校への入学が大変遅れ、サンパウロの盲学校に入学したのは18歳だった。高校に進学する視覚障害生徒のいない時代、彼女は点字教科書を手作りして高校に進学。大学は試験を受けさせてもらうために陳情を繰り返してついに入学、苦労して大学を卒業し、念願の物理療法士になったのはなんと42歳のときであった。 ◆スーダンの首都ハルツームにて  スーダン出身のモハメド・オマル・アブディンさん(30)は、現在、東京外国語大学の大学院修士課程の学生。彼は、日本にくる直前にやっとアラビア語の点字を習うことができたが、大学に入学するまでは耳学問だけで、丸暗記して勉強してきたため、数学や理科に関する知識が決定的に不足している。また、彼が読んだ点字の本は、教科書も含めて、ほぼすべて日本語。しかも、成人してから点字を習ったので、今でも点字を読むのが遅いと残念がっている。 ◆中国東北部の瀋陽市にて  瀋陽市出身の王崢さん(32)は、中学校の成績はクラスで首席なのに、弱視者であるため高校への入学を拒否された。彼女はその1年後の1993年に中国で最初に高等部が開設された青島盲学校に進み、そして中国で最初の視覚障害を持つ大学生になった。彼女は高校に行けない1年間、ラジオの通信講座で日本語を勉強し、大学卒業後、日本に留学。東京で日本人と結婚し、現在は大学教員のご主人の仕事の関係で、富山市に住んでいる。  中国は今年、北京オリンピックを開催し、近年非常に発展しているが、視覚障害者が高校や大学に進学することができたのは、ネパールよりもはるかに遅れてのことだったのだ。 ◆悪くない教育環境  以上を述べ、「皆さんはネパールは開発途上国だから、劣悪な教育環境で勉強していると思っているかも知れません。しかし、スーダンのアブディンさんのように点字器も点字教科書もなくて、勉強しなければならない人が世界にはたくさんいます。寄宿舎で自習をするとき、教師が付き添うと、その分の人件費を払わなければならないので、これはとても贅沢なことなのです。授業中にわからないことがあったら、授業が終わってから先生や同級生に聞いてください」と続けた。 ◆ネパール教育のウィークポイント  私の話は、実際には、それぞれの国で視覚障害者がどれだけ泣いてきたかという、浪花節調の話になった。しかも、それをアルヤール氏が思い入れたっぷりに語るので、聞いている生徒の中には涙ぐむ者さえ出てきた。そして、アンジュさんも納得して、「他の国の視覚障害者に負けないようにがんばります」と決意を述べたのであった。  こうして対話集会は和気あいあいと終わったのだが、私は問題の本質をずらし、視覚障害生徒を煙に巻いた自覚があったので、胸が少しうずいた。  ネパールの視覚障害教育は非常に健闘しているとはいえ、ウィークポイントが無いわけではない。とくに数学教育の貧困は頭が痛い。  10年課程修了時に行われる学校教育修了国家試験(SLC)で視覚障害生徒が決まってつまずくのは数学である。ネパール語、英語、社会科は軒並み 70点以上の好成績を取る生徒が、数学だけが35点という合格点ギリギリの成績なのだ。  これはもちろん視覚障害生徒の責任ではない。ネパールの公立学校における数学教育に問題があるのだ。数学教師自体、教えている内容を十分に把握しておらず、質問に対して、それをかみ砕いて教えることができないのだ。  こうして、視覚障害生徒は学年が進むにしたがって、ますます数学がわからなくなるのである。 ●明るい数学教師  「ネワール人のようだけど、ずいぶん明るい先生だなあ」と思っていると、突然、きれいな日本語で話しかけられ、驚いた。  カトマンズの中心部から古都バクタプールに向かって、その手前で国道から急坂を駆け上ると陶磁器で有名な、カトマンズ盆地の先住民族ネワール人の町ティミに着く。4WDで約30分の距離である。この町の歴史的建造物の一つが、私たちが支援するアダーシャ校である。なにしろ校内に古い弓矢などを保管した武器庫もあり、この町が城砦都市で、同校がその中心であったことがよくわかる。  同校を含むバクタプール郡の公立校が、日本人ボランティア教師井野瀬歩さんの赴任地である。新卒で海外青年協力隊に採用され、すでに1年半。この地域の公立校を巡回して、ネパール人数学教師と共に、いわゆるチームティーチングで、数学を教えており、ネパール語もすっかり板についてきた。明るい性格からか、すっかり同校の人気者で、休み時間に彼女が校庭に出ると、低学年の子供達が一斉に取り囲んだ。 (写真)子供達に取り囲まれた井野瀬さん ●安達禮雄育英基金の創設 ―― 奨学金の給付は2010年4月から ――  当協会がネパールで実施する事業の熱心な後援者であった安達禮雄氏が、2007年秋に逝去されました。遺族である安達家から同氏を記念した奨学金をネパールに創設したいとの申し出があり、同年12月に200万円が当協会に寄せられました。  当協会海外盲人交流事業事務局長は、2008年8月のネパール出張時に、この件についてネパール盲人福祉協会(NAWB)会長をはじめとする同協会幹部と協議しました。  NAWBからは「ネパールには貧しさゆえに就学できない視覚障害児が大勢いるので、大変ありがたいお申し出であり深謝する。NAWBには同様の奨学金が3件、事業基金が4件あり、長年の運用実績を誇っており、問題点はなにもない。具体的内容に関しては、後日文書で提示したい」と、申し出に対する心からの謝意と、この基金を確実にネパールの視覚障害児のために役立てることへの強い決意が表明されました。  その後、NAWBは、創設する育英基金の内容を文書で提案してきました。その骨子は以下のとおりです。  奨学金の名称は「安達禮雄育英基金(Reo Adachi Scholarship Fund)」とする。  安達禮雄育英基金を保証するため、安達家、NAWB、当協会の3者が「覚書」を交換する。  NAWBは200万円に相当するネパールルピー(以下、ルピーと略す)をカトマンズの信頼できる銀行に定期預金として預け、2010年の4月からその利息の中から奨学金を給付する。  NAWBは、定期預金から得られる銀行利息だけを使い、元金は、定期預金の口座に常に保たれ、安達禮雄育英基金は永続するものとする。  支給対象者は小学校から高校までに就学する視覚障害児・生徒5名を予定しており、1人あたりの奨学金は年額1万5,000ルピーとする。  奨学生が高校教育を終了すると安達禮雄育英基金は新しい視覚障害児に与えられるものとする。  NAWBは奨学金総額の5%を超えない金額を管理費として使用できる。  NAWBの年次総会において、安達禮雄育英基金の事業報告と会計報告を行う。  NAWBは毎年12月末に、安達家と当協会に対して、奨学生の学業報告と会計報告を行う。  安達禮雄育英基金を保証するため、安達家、NAWB、当協会の代表が2008年11月9日付けで「覚書」を交換しました。  2008年11月27日、当協会は「安達禮雄育英基金」を創設するため、安達家よりお預かりしていた200万円をNAWB宛に送金しました。  なお、同基金の設立を提案したNAWBからの英文の手紙と安達禮雄育英基金に関する英文の「覚書」と、その和訳は、当協会のホームページ上にて公開しております。 ●長女と長男は飛び級で3年生  協会職員等による国際協力事業「クリシュナ君遺児育英基金」は、協会が実施していたバラCBRのスタッフであった故クリシュナ・ムキーヤ氏の遺児のうち、孤児院に引き取られた末っ子を除く3人に、10年課程の教育機会を提供する事業です。同基金の支援を受けた長女のアルチャナさん(12)と長男ローシャン君(10)は本年4月、飛び級により1年生から3年生に、次女プジャさん(9)は幼稚園の年少組から年長組に進級しました。  協会は費用の支出を伴わない範囲で、子供達の成長を見守る等の側面的支援を、同遺児育英基金に対して行っています。 (写真)4人の遺児 ●学校巡回の悲惨 ――ネパール出張日誌より――  海外盲人交流事業事務局長/福山博  ネパール出張では必ず支援する統合教育校を訪問するが、そのほとんどは農村部の、しかもインド国境沿いのタライ平野にあるので、舗装されていない道路も多く、橋も落ちたままで、そこを無理に渡河するため、いきおいワイルドな冒険旅行の趣となる。しかし、そんなことには慣れていると思ったが、今回は違った。 ◆インド製4WDの3回のパンク  カトマンズからタライへの道路が閉鎖されるというので、私とNAWBのアルヤール事務局長は、ブッダ航空機でバラ郡のシムラ空港に飛び、現地調達のインド・マヒンドラ社製の4WD「ボレロ」に乗った。見かけはさほどでもなかったが、これがとんでもないオンボロで、なにしろ空港からバラCBRセンターに行く途中でいきなりパンク。足下は牛糞だらけの戸外の茶屋でチャを飲みながら、40分ほどタイヤ交換を待った。これは当地では良くあることだが、再出発して10分も進まないうちにまたもやパンクしたのにはまいった。先ほどは前輪の左側、今度はその右側で、後日右後輪もパンクするので、無事だったのは後輪の左側のみ。  ネパール語でパンクのことを「パンチャ」というが、語源はパンクと同じ英語の「puncture(パンクチュア)」。若い運転手の2度目の「パンチャ」という声を聞いて、この男に8日間も命を託すことになるのかと思うと、目の前が真っ暗になった。その後、運転手は人が変わったように運転が慎重になったが、このため朝7時頃出発して、宿舎に帰るのは日没直前の7時前。この間、学校に滞在するのは2時間ほどという強行軍になった。  それは新米運転手のせいだけではなく、いつにもまして国道の閉鎖が多く、迂回して農道を走ることが多かったことも関係する。しかも、2回ほどぬかるみにはまって、久しぶりに車を押すこともあった。とにかく、雨期であったから道は泥沼状態で、車は前後左右に激しく揺れ、車から降りてもしばらくは、身体が揺れているような船酔い状態が続いた。 ◆閉鎖された空港への道  悪いときには悪いことが重なるもので、間違った道を教えられて、1時間半も迷走することもあった。そして、バスビッティ校へは途中車を捨て、裸足になって川を渡り、徒歩で、行きは45分、帰りは55分もかかったのであった。  最大の危機は、いよいよカトマンズに帰る日に起きた。シムラ空港への道は工場労働者のストライキで閉鎖されており、夜半の雨でどろどろの農道を使って迂回したら、こちらも国道に出たところでチャッカ・ジャム(道路閉鎖)。前日、武装警察に射殺された労働者を弔うため、工場労働者の組合が、道路を塞ぐように直径70cmほどの丸太を置き、火を放ったのだ。  そこで車から降り、アルヤール氏と私は、荷物をかつぎ徒歩で、その閉鎖線を越え、空港を目指した。そして、途中でヒッチハイクの要領でオートバイの後ろに乗せてもらい、ほぼ定刻どおりに飛行機は離陸したのであった。運転手に不安があり、出発時間を2時間も前倒ししたのが、結果的に吉と出た。  その後の話では、ラーハンという町は私たちが出発した15分後に交通が全面遮断され、シムラ空港に私たちを運んだ車は、帰りは農道も閉鎖され、行きに1時間半かかったところを、迂回に次ぐ迂回で、5時間もかかったという。 (写真)泥道で立ち往生するトラック ●オイル高騰と薪の運び屋  今に始まったことではないが、今年はとくに自転車で薪を運ぶ人々の数が目立った。彼らの多くは不法に伐採した薪の運び屋だという。取り締まる森林管理官は4WDに乗っているので、私たちを険しい表情でうかがう。  2008年の8月末ネパールでのガソリンの正規価格は当時のレートで、邦貨にして1リットル160円だったが、これでは入手できず、闇では240円もした。  調理に使う灯油やプロパンガスも、もちろん軒並み値上がりした。したがって、大規模に不法伐採して、トラックで運ぶのはもちろん言語道断だが、このように自転車で運ぶことは、必要悪のように思われた。 (イラスト)自転車の三角フレームに大量の薪を突っ込んで押して運ぶ ●タマン家次男の「お食い初め」  1994年の年末から翌年の年始にかけて実施した当協会のネパールツアーで、現地通訳として大活躍したスクマン・ティン・タマン氏は、当時19歳の学生。6年前にコンピュータ関係の仕事で来日し、2年後には、家族も日本に呼び寄せました。  8月3日(日)夕刻、同氏次男スミット君の「お食い初め」が、千葉県市川市のネパールレストランにおいて、ガネシュ・ヨンザン・タマン駐日ネパール大使夫妻を主賓に、盛大に開催されました。 (写真)挨拶するスクマン氏と家族、隣が大使 ●募金のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために募金をお願い致します。  寄付金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 銀行口座:三菱東京UFJ銀行高田馬場支店  (普)0993756 ●寄付金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号にかかげる社会福祉法人なので、当協会に対するご寄付は、所得税法第78条第2項第3号、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記  平成元年に初めてネパールを訪問してから、平成20年8月の出張で21回目の訪問となりました。▼ネパールの友人に「20年たっても少しもネパールのことがわからない。マオイストの問題が少し理解できるようになったら、今度はマデシ(インド系ネパール人)問題。つい数年前まで、そんな問題があること自体知らなかった」と、こぼしました。すると、彼は「自分も含めてネパール人もほとんどの人が知らなかったことで、この国は誰にもわからない」と断言。▼マオイストが政権をとっても、相変わらずネパールの政局は混迷の度を増し、混沌としております。地方都市の治安が、年々悪くなっていることも気がかりです。▼そんな中でも、懸命に視覚障害児・生徒は勉強しております。皆様の変わらぬご支援を、なにとぞよろしくお願い致します。(H・F) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL : 03-3200-1310  FAX : 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com ※ 迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。