---------------------------------------------------    愛の光通信    2004年冬号通巻23号    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局  (写真:右から2人目が日本点字図書館田中徹二理事長)  (写真:右から当協会藤元節常務理事、NAWB(ネパール盲人福祉協会)ラ  ウト会長の順) (写真:プライベートな旅であったがNAWBを表敬訪問し、英文タイプライ ターを寄贈した) ---------------------------------------------------------------------------------------- ●(特別寄稿)18年ぶりのネパール  日本点字図書館理事長・田中徹二  ◆悠久のときが流れる  カトマンズ市内のパシュパティ寺院。横を流れる聖なるガンジス河の支流バグマティ川の河畔に火葬台が並んでいる。カトマンズ市民の火葬場だ。私たちが訪れたとき、6基の台のほとんどがうまっていた。焼き終わって残った灰を、作業員が川に掃き落としている台。まだ盛んに火炎があがり、煙が対岸の私たちまで流れてくる台。まだ新しい薪が積み上げられている台などなど、日本ではお目にかかれない情景だ。  石段に腰かけていると、新しい火葬の儀式が行われ始めた。それから何時間過ぎたであろうか、晴眼者の説明を聞きながら、煙を浴びて悠久のときは流れた。薪が整然と積み上げられた前では、僧侶が死者を弔っているらしい。鐘の音が小さく聞こえてくる。現地の人によるとヒンドゥー教の葬儀だという。僧侶が白い布で巻かれた死体の周りをぐるぐる回っている。家族か親戚の人か、頭のあたりで何かをしている。  突然女性の号泣が聞こえてきた。身をよじらんばかりの激しい泣き方だ。別れを嘆く奥さんだろうということになった。彼女は、数人の男性に囲まれて近くの建物の中に連れられていった。それからも死体の前では、長々と葬儀が続いた。  骨ごと川に投げ捨てられた台では、作業員がバケツの水で洗っているという。そこへ犬がやって来て台の表面をなめ始めた。死体から流れ落ちた油をなめているのであろうか。犬だけではない。牛もやって来てなめている。  やっと死体が川上を頭にして薪の上に載せられた。しかし、それからもなかなか火はつけられない。僧侶が死体の周りを回り、何人かの男たちが同じ動作を繰り返す。やがて供え物が供えられると、どこで様子を見ていたのか、いっせいに猿が登場する。子猿までまじり、次から次へと供え物を取って食べる。寺院を自由に出入りしている猿どもだ。供え物はあっという間になくなり、あとを山羊が悠々と通り過ぎる。  一方、私たちが座っている後ろを、下校する小学生たちが通る。私たちに「ハロー」と声をかけながら、誠に無邪気だ。毎日見ている対岸の火葬は、動物たちと同じように、日常に埋もれているようだ。  やっと儀式が終ったらしく、作業員が出てきてわらに火をつけ、薪の間に差し込んでいる。慎重に火をつけたわらをあちこちに差し込むと、今度は川の水をたっぷり含ませたわらを死体の上に並べ始めた。体が燃え上がったとき爆発するのを防ぐためのようだ。火が薪に燃え移って煙が立ちのぼり始めたのを機に、私たちは腰をあげた。すでに空は暮れていた。  ◆健在だった足踏み式製版機  私が東京ヘレン・ケラー協会の当時の井口点字出版局長に頼まれ、初めてネパールを訪れたのは1985年だった。海外援護事業をネパールで始めるのに、何ができるかを調査に行ったのである。そのとき井口さんに提言したのは、点字出版所を設置すること。点字教科書がなかったので、まずそれを製作できる態勢を作るのが最初だろうと考えた。つまり、教科書をしっかり与えて優秀な視覚障害者を育てる。その人たちが将来リーダーとなって社会へ出れば、視覚障害者の地位は高まる。先進国の視覚障害者が実践してきた道を辿らせようと思ったのである。早速、足踏み式製版機が送られた。また、技術者を東京に招き、製版技術を指導した。今回盲人福祉協会を訪れてみると、コンピュータ製版、点字プリンタも導入されていたが、足踏み式はまだ健在だった。教科書は小学校から高校まですべて点字になっていた。問題は教育省が買いあげてくれないことだ。国の予算不足が理由のようだが、東京ヘレン・ケラー協会の援助だけでは限界があるように思った。統合教育で教育を受ける視覚障害児の数は、昔に比べはるかに多くなっているからだ。  盲人福祉協会のスタッフの話では、今年大学受験資格を取った視覚障害者は20人だったという。みんなたいへん優秀で大学に進んだと誇らしげだった。わが国の大学進学者数の半分近い。私たちの最初のもくろみは成功しつつあるように思った。  続けて1986年には、トヨタ財団の助成で視覚障害児実態調査を実施した。当時の担当職員野崎泰志氏(現、日本福祉大学助教授)を軸に、やはり当時の広島大学五十嵐信敬助教授、国立特殊教育総合研究所の千田耕基研究員らに視力の検査等をお願いした。そして、そうした調査結果や、日本のノウハウを報告するセミナーを開いたのである。全ネパールから統合教育で盲児を担任する教師や特殊教育の学者等が集まった。盲人福祉協会会長だったプラサド博士の尽力が大きかったが、一般児童の就学率がまだまだ低かった同国では、画期的なセミナーになった。  調査では、ポカラにあるアマルシン学校を訪れた。統合教育校で、通学できない盲児たちは寄宿舎で寝泊りしていた。カトマンズからポカラまで飛行機の手配がつかず、車で往復した。車はポンコツ寸前。前部ドアは閉まらない。ひもでくくり付けられているだけで、うっかりすると外に放り出される。助手席に座っていた五十嵐先生は、ドアを腕で押さえていて腕が痛くなったとぼやいていた。  運転手を入れて7人がぎゅう詰めの車内では、悪路に悪戦苦闘した。道路状況は都市部も同じ。牛が道路の真中を悠々と歩いていて車が来ても動かない。まだそれほど車が多くなかったので、渋滞はなかったが、食事がネパールの伝統的なカレーしかなかったのとあいまって、私に強烈な印象を残した。  伝統的な食事というのは、いわゆる外米に豆で作ったダルスープをかける。それに鶏肉や野菜をカレーで煮たものを混ぜ、右手で食べる。どこの家に招待されても出てくるのはこれだけ。ポカラの帰途、道端の食べ物屋に入った。コカコーラとサンドウィッチぐらいあるかなと期待したが、裏切られたことを覚えている。  ◆ビーフを出す高級ホテル  それが18年ぶりに来て、その変化に驚いた。カトマンズやポカラなど都市部に限られるのかもしれないが、食べ物はあふれていた。繁華街にはさまざまなレストランがひしめき、伝統的なカレーを食べようとしても店が見つからない。また、市内の道路はほとんど舗装されている。相変わらず牛は車道をゆっくり歩いているが、渋滞は格段にひどくなった。表通りが一方通行になっているので、目的の建物が見えていてもなかなか到着しない。  プラサド博士に久々に会った。78歳になり耳がやや遠くなったが、かくしゃくとしておられる。私たちをディナーに招待してくださった。息子さんが関係しているという豪華ホテル・ドゥアリカのプールがある中庭。昔は高級ホテルといえばヤク&イエティぐらいしかなかったのに、今は5つ星がいくつもある。ドゥアリカも外国人が多い。バーベキューだったが、食べ物はなんでもある。ヒンドゥー教徒は決して口にしないビーフまであるのにはびっくりした。神聖な牛を食べるとは何ごとだと、ヒンドゥー教徒の原理主義者に襲撃されないのが不思議なくらいだ。  そのディナーに招待されるに当たり、おもしろい体験をした。何しろネパールだからとブルージーンズだけで行ったのだ。まさか高級ホテルにジーンズではかっこうがつかない。考えたあげく、ズボンだけ買うことにした。カトマンズに帰ってからでは間に合わないので、ポカラで洋服店に寄ってもらった。でき合いで間に合うだろうと気楽に考えていたら、つるしは1本もない。すべて仕立てだという。しかたがないので生地を選んでもらい仕立てることにした。一晩でできるというので、体を計ってもらった。  日本のように裏生地は付いていないが、仕立ては上々。東京でも充分着て歩けるということだ。ところがその値段に驚いた。生地代が1125ルピー、仕立て代はわずか250ルピー。1ルピーが約1.5円だから約2千円だ。生地はともかく、仕立て代は500円しない。高い人件費に慣れている日本人には考えられない値段である。  日本への連絡は、インターネットカフェでEメールを活用した。読むだけなら日本語に対応したコンピュータがそろえられている。昔は電話をかけるのにも苦労したことを思い出し、イチローの記録や大相撲の成績をチェックしながら感動した。インターネット電話もあって、国際電話の通話料は非常に安い。先進国なら当然だが、今では発展途上国でも都市ならどこにでもある風景だ。  そうした意味でも、今回はときのうつろいを強く感じた旅だった。(『点字ジャーナル』2004年11月号より) ---------------------------------------------------------------------------------------- ●7名の卒業生を送り出して  当協会が支援した統合教育校の10年課程を終了した7名の視覚障害児が、2004年度学校教育修了国家試験(SLC)に合格した。  ネパールの学校制度は、下記の表のようになっている。日本では大学を卒業するためには、通算16年間の教育を受けなければならないが、ネパールでは少なくとも文化系は15年間で修了し「学士」(Bachelor's Degree)を取得することができる。  (ネパールの学制)  小学校(Primary School)第1学年〜第5学年(6〜10歳)  初等中学校(Lower Secondary School)第6学年〜第8学年(11〜13歳)  中学校(Secondary School)第9学年〜第10学年  高等中学校(Higher Secondary School)ダイ11学年〜第12学年(16〜17歳)  大学、第13学年〜第15学年(18歳〜20歳)  大学院(修士課程)第16学年〜第17学年(21〜22歳)  大学院(博士課程)第18学年〜第20学年(23〜25歳)  ネパールでは10年課程の終了時の春に学校教育修了国家試験(SLC:School Leaving Certificate)が全国一斉に実施される。この試験に合格して晴れて中学卒業となる。そればかりか、SLCに合格すると小学校の正規教員になる資格も与えられる。このため、この試験はネパール人のその後の人生を決定づけるといってもけっして過言ではないほど重要な試験である。 ●学校別合格者  ◆ドゥマルワナ統合教育校(Nepal Rastriya Higher Secodary School Dumarwana)、所在地:バラ郡ドゥマルワナ村  (1)J・マハトさん(Jaldhari Mahato)20歳、母語:ボジュプリ語  (2)R・ヤダブさん(Ramayan Ray Yadav)24歳、母語:ボジュプリ語  ◆アマル・ジョティ・ジャンタ統合教育校(Amarjyoti Secondary School)、所在地:ゴルカ郡ルインテル村  (3)L・グルンさん(Lalu Maya Gurung)23歳、母語:グルン語  ◆ジュダ統合教育校(Juddha Secondary School)、所在地:ロータート郡ゴール町  (4)S・ケサリさん(Saroj Kumar Keshari)22歳、母語:ボジュプリ語  (5)G・ネパールさん(Gyanendra Nepal)20歳、母語:ネパール語  ◆シャンティ統合教育校(Shanti Model Secondary School)、所在地:ルパンディヒ郡マニグラム村  (6)K・ポクレルさん(Khem Raj Pokharel)19歳、母語:ネパール語  (7)T・ブーサルさん(Tikaram Bhusal)21歳、母語:ネパール語 ●SLC合格までのハードル  今年度(2004)われわれが直接支援する統合教育校の視覚障害卒業生(SLC合格者)7名の平均年齢は21歳であった。10年間の一貫教育の修了時ということは、日本の高校1年の修了時と同じであるから順調にいけば16歳の春に卒業ということになる。4頁の「ネパールの学制」を見ていただければわかるとおり、これはネパールでも同じことである。したがって、この3〜8年の遅れは、彼らの苦闘の道程を示すものだ。しかも、もしかしたら彼らの本当の年齢は、今少し高いのかも知れないのだ。  7名全員が、小学校入学から遠く親元を離れての寄宿舎暮らし。しかも、このうちの4名は、母語がネパール語ではない。ネパール王国の国語はネパール語であるから、ネパールの公立学校の授業はネパール語で行われる。したがって、母語がネパール語以外の児童は、まったく理解できない言語の海に溺れかかりながら、少しずつ会話の修得からはじめるのである。  ネパールの教員は、少なくともSLCに合格している建前になっている。しかし、農村僻地の学校では資格を持たない教師が、小学校の低学年を教えている。そして教育技術を云々する前の、恐るべき丸暗記一辺倒で教えているのである。視覚障害児は小学校までは、おしなべて成績が良い。学年で首席から三席まで視覚障害児ということも珍しくはない。ところが、中学校からは途端に成績が振るわなくなるが、それは理科と数学が「赤点」(100点満点で30点)ギリギリで、それ以外は好成績というかたよったもの。  点字理数記号がネパールに導入されはじめたのは、平成6年にNAWBのホーム・ナット・アルヤール事務局長が、来日して当協会で研修を受けたときからである。平成13年にはJICAの招聘で同氏が再来日して、当協会で不十分な点を補強した。しかし、点字教科書における点図の不備などもあって、点字理数記号が十分にネパールに浸透しているとはいえないのが実情である。 ---------------------------------------------------------------------------------------- ●10年目に実現した旅 マチャプチャレとの幸福な邂逅  海外盲人交流事業事務局次長・福山博  写真の前列右端がモンジュ・ダハールさん。彼女は1989年発行の『愛の光通信』4号と1990年発行の5号で紹介しているので、あるいは読者の中にはご記憶の方がおられるかも知れない。その後彼女は紆余曲折を経て、今から10年前にわが国の鍼・灸の国家試験に見事合格し、1994年4月27日に離日した。  ダハールさんが学業を続けるにあたっての応援団はたくさんいたが、最大の支援者は毎日新聞社を定年退職後、当協会発行の点字情報誌『ライト&ライフ』の編集長を当時されていた秋岡義之さんであった。彼女は、その恩人とカトマンズでの再会を堅く誓って日本を後にしたのであった。  ところが、ほどなくして秋岡さんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)という神経難病に見舞われ、闘病の末1997年9月20日に帰らぬ人となる。その悲報を聞き、ダハールさんは再来日し、ご位牌に手を合わせると共に、奥様のネパール来訪を懇請した。しかし、秋岡夫人を誰がネパールまで案内するかなどの問題もあり、訪問は延びのびになっていたのだが、それがこの9月に実現した。  参加者は完全に個人の資格で、秋岡夫人の房枝さん(前列左から二人目)を筆頭に、秋岡さんの縁戚にあたる元毎日新聞社の契約写真家・井上紀美子さん(前列左端)、田中徹二日本点字図書館理事長(前列右から二人目)、同夫人で翻訳家の美織さん(後列右から二人目)、藤元節当協会常務理事(後列左端)、川田孝子同経理課長(後列左から二人目)および私(後列右端)の7名。藤元常務は毎日新聞社の出身であるため、井上さんとは旧知の間柄。また田中夫人は元当協会職員であるため、和気あいあいとしたツアーグループとなった。旅程は9月18日(土)成田発、27日(月)早朝帰着の9泊10日だが、田中夫妻のみは、19日関空発、26日帰着であった。  まったくプライベートな旅ではあったが、参加者それぞれに強い思いがあり、ネパール盲人福祉協会(NAWB)を訪れ、英文タイプライターを贈呈したり、JICAのネパール事務所を表敬訪問もした。また、藤元常務と井上さんは、お釈迦様の生誕地にほど近いタライ平野のブトワルに毎日新聞社と毎日新聞社会事業団が日本全国に呼びかけて集まった募金で建設し、アジア医師連絡協議会(AMDA)が運営するネパール子ども病院を日帰りの強行軍で視察。連絡がうまく伝わっておらず、暑い中、空港からタクシースタンドまで約40分もリキシャに乗ったという。  ダハールさんは現在、カトマンズ近郊の農村部ゴカルナ村にある総合医療・教育機関RHESCセンター(山根正子院長)にて、鍼灸の施術と後進の指導を行っていた。治療室では何人もの患者が、背中や足にたくさんの鍼を刺されていた。その治療風景に、私はちょっとたじろいだが、鍼がすっかり認知されるようになり、多めに刺鍼されることが好まれるようになった結果だという。私が1989年に訪問したときRHESCはまだ小さな診療所であったが、増築が重ねられ現在は4階建の堂々たる貫禄で、病室はどこも患者であふれ、待合室では賑やかなおしゃべりが聞こえた。  奇しき因縁だが、この旅行中に秋岡義之さんの8回忌が回ってきた。この旅行を企画したのは私で、日程は私の仕事の都合に合わせて決めたので、これはまったくの偶然だ。ただ、秋岡夫人だけは、当初からそれをはっきり意識していたという。  ポカラでは、ヒマラヤは見えないが町の眺望と夕日だけでも眺めようとサランコットの丘へ出かけた。すると見る間に雲が流れ、美しいマチャプチャレが突然くっきりと見えた。峠の茶屋では、2週間も通って見ることができなかった日本人の女の子が、昨日泣いて帰ったといっていたが、われわれは1時間以上も山を眺めて、飽きなかった。  これは後に聞いた話だが、偶然に偶然が重なり、命日に美しいマチャプチャレと邂逅することができた秋岡夫人は、これは「主人の導きに違いない」と考えたという。そこで、井上さんに手伝ってもらって、持参した遺影を丘の上でひっそり焼き、改めて冥福を祈ったのであったという。 ---------------------------------------------------------------------------------------- ●2003年度事業報告(平成15年4月1日〜平成16年3月31日)  ネパールにおける事業は、本年度よりプロジェクト単位の支援は行わず、ネパール盲人福祉協会(NAWB)に対する側面的支援を原則とすることにした。しかし、事実上の打ち切りに等しいほど支援が急減すると、現地に混乱が生じるので、今年度は従来の予算規模とほぼ変わらない予算を執行した。  当協会の会計年度は4月1日から翌年の3月31日を「年度」としてくくっている。しかし、日本郵政公社国際ボランティア貯金の会計年度は、7月1日から翌年の6月30日である。このため、平成14年度国際ボランティア貯金の配分金を受けた事業のうち平成15年4月1日〜6月30日分が、平成15年度にずれ込んだ。この事業に関連し、同年5月4日〜5月15日の日程で、職員1名をネパールに派遣した。 1.点字教科書作成・配布  全国63校(盲学校1校を含む)の視覚障害児と、ネパール政府が農村部において開始した「基礎的・初等教育事業」で学ぶ視覚障害者合計約1千人を対象に、点字教科書・副読本、点字カレンダー等を作成し無償配布した。 2.統合教育の推進  寄宿制統合教育校4校に在籍する66名の視覚障害児の就学を保証・支援した。 3.広報・募金活動  ネパールにおける事業の報告集である『愛の光通信』を2003年5月(通巻20号)と12月(通巻21号)に発行し、募金を呼びかけた。 ---------------------------------------------------------------------------------------- ●圧力鍋をめぐる攻防  わが国でその昔、爆弾騒ぎになると決まって登場したのは消火器爆弾だったが、ネパールではもっぱら圧力鍋爆弾である。  ネパールの国民食はダル(豆のスープ)・バート(白飯)だが、燃料を節約し、調理時間を短くする圧力鍋はネパールの台所に欠かせない。  一方、爆弾を製造するためには、頑丈な密閉容器が不可欠。そこで、わが国ではちょっとした建物ならどこでも無造作に置いてある消火器が使われ、ネパールでは圧力鍋が使われる。  圧力鍋爆弾はマオイストが警察署に仕掛たり、地雷代わりに道路に埋設する。このため、当地では、国外からの圧力鍋の持ち込みにも神経質で、登山隊が圧力鍋を取り上げられるトラブルが続発。  標高の高い所では沸点が低くなるので、登山隊にとって圧力鍋は家庭の主婦以上に必需品で、持ち込む数も半端でなく、鍋をめぐって警察とハードな交渉が日々繰り広げられるという。(イラスト:圧力鍋爆弾) ●筑波大修士課程に合格したネパール人 ― 来日にあたっての危機一髪 ―  全盲でネパール出身のカマル・ラミチャネ氏(23歳)が、平成17年度筑波大学大学院修士課程教育研究科の入学試験に合格した。  本誌前号でも紹介したが、彼はダスキンの障害者リーダー育成事業により昨年8月末より今年の7月初旬まで日本で研修を受けていた。そして9月6日(月)に再来日し、多数のボランティアの支援の下で、かなりハードな受験勉強を行い、難関を突破したのだ。 しかし、彼が来日する直前までネパールには外出禁止令が出されていた。イラクでネパール人12人が虐殺されたことに抗議する暴動が9月1日(水)にカトマンズで起こったためである。メールで来日の予定を聞いていた私は、9月4日(土)の午後に彼のケータイに電話した。すると、そのとき彼はちょうど航空券を受け取りに旅行代理店に向かっているところであった。その日は3時間だけ解除され、翌日は全面解除されるという。これで筑波大の最終受付日にぎりぎり間に合うと、彼はバイクの後部座席に乗って弾んだ声で叫んでいるふうであった。(福山博) ---------------------------------------------------------------------------------------- ●平成15(2003)年度収支計算書  自 平成15年4月1日  至 平成16年3月31日  (借方)  以下、科目、金額(円)の順。 事務費 608,352  賃金 240,000  印刷製本費 57,750  役務費 265,602  雑費 45,000 事業費 5,303,214  海外出張費 296,395  海外援護費 5,006,819 雑支出 77,122  雑支出 77,122  小計 5,988,688  当期繰越金 △4,175,094  合計 1,813,594  (貸方)  以下、科目、金額(円)の順。 寄付金収入 1,799,292  募金収入 1,799,292 事業収入 7,200  販売収入 7,200 雑収入 7,102  雑収入 7,102  合計 1,813,594 ●貸借対照表 平成16年3月31日現在  (借方)  以下、科目、金額(円)の順。 流動資産 2,235,170  現金 20,980  預金 2,214,190  資産合計 2,235,170 (貸方)  以下、科目、金額(円)の順。 繰越金 2,235,170  前期繰越金 6,410,264  当期繰越金 △4,175,094  純財産合計 2,235,170 ---------------------------------------------------------------------------------------- ●海外交流事業記録(2003/6〜2004/5)  2003年8月:国際ボランティア貯金へ完了報告書提出  2003年10月27日:JICA障害者リーダーコース(サウジアラビア、コロンビア)見学  2003年12月:「Light of Love(愛の光通信)No.21」発行  2003年12月18日:ダスキン「アジア研修生」(ネパール)見学  2004年3〜5月:ネパール人視覚障害者カマル・ラミチャネ氏に対する外出支援  2004年1月:名古屋大学大学院博士課程で学ぶロシア人視覚障害学生ニキータ・S・ヴァルラモフ氏をラミチャネ氏に紹介  2004年4月7日:ダスキン「アジア研修生」(中国、タイ)見学  2004年5月:「Light of Love(愛の光通信)No.22」発行  2004年5月:ラミチャネ氏に対する代筆支援(英文和訳を含む) ---------------------------------------------------------------------------------------- ●寄付者ご芳名(五十音順・敬称略)平成15年7月1日〜平成16年6月30日  温かいご支援ありがとうございました!  (個人) 青木貞子/秋山倶子/浅野幸子/芦田賀寿夫/安達禮雄/阿部淳/在田一則/有本圭希/有本成子/安藤生/池田義明/石井芳重/石川はな/石田隆雄/石谷喜代/石原幸栄/石光貞子/伊藤啓子/伊藤幸子/岩下富子/岩屋芳夫/植竹清孝/上野伊律子/遠藤利三/大岡信/大竹英雄/大谷善次/大西明絵/大西正広/大橋東洋彦/尾形雅子/岡本好司/小河静/小野塚耕吉/貝元利江/勝山良三/加藤万利子/金森なを/上村健次/苅安達男/川上勲/川尻哲夫/菊井維正/北風政子/木塚泰弘/清宮篤志/小泉周二/小出隆家/小笹孝/古賀副武/後藤良一/小林明子/小林一弘/近藤光枝/斎藤惇生/坂口廣光/坂本栄友/坂本美佐子/佐々木秀明/佐々木信/指田忠司/佐藤謙次郎/三遊亭小遊三/柴沼豊子/島岩/霜崎喜久子/白木幸一/鈴木俊勝/菅原温子/杉沢宏/芹沢良恵/染矢朝子/高橋恵子/田中さ加恵/田中茂/田中正和/田中亮治/玉井義臣/寺嶋アキ子/照井タカ子/当山啓/徳間綾子/鳥羽田節/富永敏/直居鉄/長尾洋子/中島章/中嶋千代志/長棟まお/中村保信/中山弘子/成田稔/新阜義弘/西條一止/野津虎雄/橋本時代/長谷川一郎/林紘子/原田美男/檜山寿子/藤井悦子/藤井清光/藤田福夫/古市薫/星野彰/間下勉/増野幸子/町田英一/松浦先信/松葉幸子/松本滋/三浦光世/三原冨美子/宮崎勇/目黒千代子/森山朝正/森典子/柳家小三治/山崎邦夫/山田あき子/山田隆造/山根昭市/吉田禮/米沢かよ/米田昌徳/渡辺勇喜三  (団体等) ◆(有)大本印刷 代表取締役・大本貞堅 ◆岡山商店・岡山美恵子 ◆ガイドヘルプ若葉の会 ◆岐阜盲学校高等部生徒会 ◆古和釜幼稚園 ◆シャンバロー芸能事務所・白井雅人 ◆スズキフレッシュルーム・鈴木雅夫 ◆田中産婦人科・田中雅治 ◆つつじ点訳友の会・神山貞子 ◆日本ネパール友好協会 ◆花園神社 宮司・片山文彦 ◆三好稲荷閣 満福寺 ◆武蔵野女子学院中高等学校 ●点字の手紙:せっかく続けてこられた事業を終えなければならないことは、直接にはかかわりのない私共も残念に思います。でもこれからも色々な形で生徒さん達とのつながりが続けられますよう、祈りつつ協力させていただければと思っております。誠に僅かですが、献金させていただきます。今後とも多方面に一層よいお働きを続けてくださいますように。草々(岐阜県郡上市・三原冨美子さまから) ---------------------------------------------------------------------------------------- ●研修生・高梨真奈美さん  高梨真奈美さんは英国イーストアングリア大学 (University of East Anglia)で国際開発を学ぶ学生。最終学年にあたり、国際協力の実際を現場で学ぶためネパール盲人福祉協会(NAWB)で、9月中旬から12月中旬まで3ヶ月間研修する。  この卒業研修はカトマンズのNAWB本部だけでなく、NAWBがコーディネートする農村僻地の統合教育校でもおこなわれるため、かなりハードになりそうだ。 ●眼鏡の再利用法  寄付者の方から「使わなくなった眼鏡を海外で活用できないか」との問い合わせがあった。  〒880-2103宮崎市生目345番地の生目神社(0985-47-8272)では、全国から広く眼鏡を集め、毎年10月初旬に「めがね供養祭」を行っている。そしてNPO法人宮崎県ボランティア協会を通じて、フィリピンに贈り、現地で再利用されているという。 ●フィッシュテール・ロッジ(FTL)の受難  ポカラに1960年創業のFTLは、各国の首脳も泊まるほど由緒があり、しかも利益のすべてを、毎年心臓病の治療と研究に寄付しているホテル。ただ、王族の経営というのが玉に瑕で、そのためたびたびマオイストの標的にされ、本年9月もやむなく休業。早くから予約していたわれわれも、土壇場でキャンセルしたのであった。(福山) ●募金のお願い  ネパールにおける失明防止と視覚障害者援護の充実をはかるために、募金をお願い致します。  寄付金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 銀行口座:三井住友銀行新宿通支店(普)5101190 ●寄付金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号にかかげる社会福祉法人でありますので、当協会に対するご寄付は、所得税法第78条第2項第3号、法人税法第37条第3項第3号の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記  12名のネパール人がイランで虐殺されたため暴動が起こったのは、われわれがネパールに出発する2週間前。このため旅行のキャンセルが続出したようで、遅れて予約した藤元常務も同行することができました。▼これまでに蒔いた種は、田中先生の「18年ぶりのネパール」でも触れられているように、着実に育っています。▼今号は来し方を振り返り過ぎて、ややセンチメンタルに流れたかもしれません。▼力不足を感じながらも、なんとか最初に手がけた点字教科書の製作・配布事業だけは今後も継続したいと、私共は強く願っております。皆さまの変わらぬご支援を切にお願い致します。(H・F) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL : 03-3200-1310  FAX : 03-3200-2582 E-mail : XLY06755@nifty.ne.jp