ISSN 0913-3321    LIGHT OF LOVE    Overseas Project for the Blind - Plans and Reports 春号・Spring No.18 2002. 5 愛の光通信 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 (写真:青空教室)  皆さまのご支援により、現在視覚障害児15名が学ぶアマル・ジョティ・ジャンタ校は、1〜10学年の小・中学一貫校で、生徒数は約千人です。ネパール王室の発祥の地ゴルカ郡の中では1、2をあらそう伝統校ですが、他の公立校の例に漏れず、深刻な予算不足で十分な教育環境を整えられず苦しんでいます。また、同地はマオイストを名乗る極左武装ゲリラの活動地にあり、治安の悪化が懸念されています。しかし、そんな厳しい状況でも、視覚障害児は明るさを失わず、懸命に勉学に励んでいます。 ---------------------------------------------------------------------------------------- p2 LIGHT OF LOVE       フィールドワーク紀行       ネパールへの道 ― A Passage to Nepal       海外盲人交流事業事務局次長 福山博 (写真:シャッターを閉ざした商店街を行くリキシャ)       第1便 ゼネストで明けた21世紀  すさまじい雷鳴で飛び起きた。するとそれが合図でもあったかのように、夕刻から降り始めた雨が一段と激しさを増した。時計を見ると午後11時を回っており、時差+3時間15分の日本は、すでに21世紀を迎えたはずである。そんなことをぼんやり考えていたのもつかの間、僕はまた深い眠りについた。  予定では、釈迦の名を冠した地方都市シッダルタナガールで、ネパール盲人福祉協会(NAWB)のCBR課長と運転手、それに私の3人で新年を迎えるはずであった。しかし、急を聞き予定を切り上げて大晦日のそれも雨が降り出す直前に、宿舎であるカトマンズ・ゲスト・ハウスにあわててたどり着いた。  デモ隊に警察が発砲し、市民3名が死亡するという惨劇がカトマンズで起きたのは2000(平成12)年12月27日。その日もわれわれは、英字新聞はおろかトイレットペーパーさえ入手できない田舎町に滞在し、大事件にもまったく気づかなかった。夜は9時前に寝、夜明けとともに起きる。昼間は四輪駆動車で草深い村々の視覚障害者を訪ね、事業の進捗状況を調べるという単調な生活で、われわれは疲れ果てていたのだ。  当協会は、カトマンズとそこから遠く離れた農村僻地で支援事業を行っている。短期滞在の出張であるため、地方をまわる期間は約1週間。そこで、現地でハイウェイと呼ぶ国道を疾走するのだが、ときとしていかにもネパールらしい事情で、右往左往することも少なくない。そのようなトラブルの中から、ネパールの抱える問題もまた浮上する。     ■出勤はサイクル・リキシャで  27日の被害者の中には、自宅で流れ弾に当たった子供もおり、それが警察と政府への怒りに油をそそいだ。そこですかさず左翼政党が、元日と翌2日のゼネラル・ストライキを呼びかけたのだ。これまでの経験では、ゼネストになるとすべての商店がシャッターを閉め、飛行機と自転車以外のすべての交通機関が完全にストップする。  2001年元旦のカトマンズは、雲一つない真っ青な空が広がっていた。宿舎からカウンターパートであるNAWBの本部までは、急ぎ足で30分ほどの道のりだ。ゲストハウスの門を出るとリキシャワーラー(車夫)が、5、6人客待ちをしていた。値段の交渉をしてみるが、130ルピーからどうしても下がらない。そこで100ルピーで行く車がないか逆に聞いてみた。するとことの成り行きを見守っていた内気そうな一人が手を挙げた。100ルピー(約170円)というのは、タクシーで行った場合の料金である。カトマンズではリキシャはすでに観光化しており、実はタクシーより高い。  宿舎から東に500mほど行くと王宮に出る。高級店がシャッターを閉めた王宮通りをひたすら南下するとトリプルシュワー通りにぶつかる。カトマンズで唯一トロリーバスが通る動脈だ。そこを100mほど東に向かえばNAWBで、西に200m行けば国際協力事業団(JICA)の事務所である。  カトマンズは北から南にゆるやかに傾斜しており、サイクル・リキシャは警備の警察隊だけが目立つ大通りを快走する。「ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)」と声をかけるのだが、聞こえないのか車夫は憑かれたようにペダルを踏む。カトマンズは、世界でも1、2を争う大気汚染のひどい都市である。しかし、昨夜の豪雨に洗われ、車のない大通りは実に清々しかった。     ■ゴルカからの賓客  ゼネストでもNAWBには、徒歩で続々と職員が集まってきた。ホーム・ナット・アルヤール事務局長は、1時間歩いたという。事務局長室でフィールドワークやゼネストの話をしていると来客である。われわれが支援するアマル・ジョティ・ジャンタ高校(表紙参照)の校長と視覚障害児を担当する2名のリソース・ティーチャーだ。高校といっても小学校1年から10年間の一貫教育校で、ネパールではこの形をとる学校が多い。同校は公立校(National Secondary School)であるが、政府から支給されるのは5年間の義務教育を担当する教員の給与だけで、その運営は苦しい。  学校はゴルカ郡の丘陵地にあり、そこは政府にゲリラ戦を挑むマオイスト(毛沢東主義者)の活動地域だ。このため、外国人は近づかない方が無難と、向こうからわざわざ会いに来てくれた。同校には15名の視覚障害児が健常児と共に学んでいる。いわゆる統合教育であるが、ネパールのそれは本来の統合教育とは少し異なる。  統合教育の理念は、「障害児も差別なく、普通校で就学できる機会が保障されなければならない」というものだ。したがって、特に小学校は自宅から通学できることが前提となる。ところがネパールの農村部では、通学できる学校がなかったり、名ばかりであったりする。このため、いくらか教育環境の整った学校を選んで寄宿舎を建て、統合教育を行うことになる。われわれが支援する学校は5校で、盲児数は合計78名である。そのうち、通学している生徒はたったの3名に過ぎない。  ネパールでは、小学校1年から郡単位の進級試験がある。合格点が100点満点の30点という試験だが、合格できない生徒が続出する。このため、学年の人数が40名であったり65名であったりと、とてもいびつだ。試験にパスできないのは、農作業など家庭の仕事に追われて毎日学校に来られないためだ。 それでも曲がりなりにも通学できる児童は、まだ幸せである。特に女児は学校に通えない方が多い。さらに視覚障害児は、推定される就学児の2%しかまだ教育のチャンスを得ていない。しかし、これでもNAWBの必死なてこ入れで、ここ4、5年で倍増したのである。 (写真:警備の兵士と共に3名の教師《ゴルカにて》) (地図:東京ヘレンケラー協会ネパール事業地図)       第2便 交通事情と予算の意外な関係  「ミスター・フクヤマは、ネパールに30回ほど来たことがあります」NAWB事務局長が妙な紹介をするので、僕はあわてて間に入って「12回だけ」とささやいた。  彼が誤解したのには訳がある。これまでの担当者は、継続的に集中してネパールに出張したため、渡航回数が多かったのだ。しかし僕の場合は当初から関係していたが、仕事の都合で断続的にしか来ていない。     ■平成元年のノー・プロブレム  12年間続いたバラCBR(Community Based Rehabilitation)が、本年6月末をもって終了した。人口40万人余のバラ郡における視覚障害者約700名を対象とした事業で、最盛期には現地スタッフを 30名近く雇用していた。当協会にとっては一大プロジェクトで、立ち上げる際は当協会の職員が1年間現地に張りついた。  僕がネパールを最初に訪問したのは、当協会の職員であった野崎泰志氏(現日本福祉大学助教授)が駐在していた平成元年であった。元内務官僚であった当時の理事長が大喪の儀に出席するため、それを待っての出発であった。  経由地の香港で予定より4時間も遅れ、都合7時間も待ったこと。夕暮れのカトマンズ空港で少年ポーターとスーツケースを引っ張り合ったこと。財務省の庭に桜の木があり、その下で理事長と共に小一時間野崎氏を待ったこと。ヒンズー寺院を借り受けたNAWB本部の階段が、梯子のように急で、格子窓にはガラスが張られていなかったこと。国際電話がつながるのに30分もかかったこと。そのたびにノー・プロブレム(問題ない)といわれたこと。そして、僕はもう二度と来ることはないと思ったこと……。などが想い出される。しかし、仕事であるからそれでも回を重ねてきた。ネパールは、リピーターの多い国である。山好きやNGO関係者の間には渡航歴40回、50回という強者も少なくない。その一方で、1回でこりごりという人もまた多いのだ。  「顔の見える国際貢献をするためには、最低年3回の渡航が必要」といわれる。たしかに事業の最盛期には、それも必要であった。しかし、財政問題もあり2000年から年2回で、出張者も年6〜 10名が、3名に減った。1回の旅程は、往復の渡航をふくめて2週間。うち1週間は地方で、車で移動しながらフィールドワークを行う。そして、ネパールの交通事情に、そのたびに泣かされるのであった。 (写真:丸太の前で協議する警官と兵隊)     ■道路を丸太で封鎖  ここ5、6年、ネパールの主要幹線道路の整備は一段と進んだ。といっても簡易舗装で、崖崩れによる交通遮断が3日間から1日に短縮されたという程度である。しかし、その反面頻発するのが人為的な交通遮断である。  ネパールではストライキのことを「バンダ」という。その最たるものがゼネストで、これもバンダである。本来は「封鎖」という意味なので、 ロックアウトや交通遮断もまたバンダだ。なかでも最もポピュラーなのが、交通事故がらみのものである。  昨年4月27日午前7時、竹内恒之事務局長と車でカトマンズを出発したわれわれは、途中2カ所の崖崩れによる交通規制により結局5時間も待たされた。道路局からブルドーザーも派遣されていたが、主力はショベルでとりあえずの細い道をつくることである。ネパールの最も暑い季節であるため、車内はすでに蒸し風呂状態。やっと車列が動き、流れがスムーズになると、すぐにわれわれの車は追い越しにかかる。人を屋根まで満載したバス、上り坂では極端に速度を落とす満艦飾のトラック、折り重なるように人が乗った軽乗用車をごぼう抜きにする。片道一車線で、崖と川に挟まれた道であるから危険きわまりないが、のろのろ走るのにわれわれはいい加減うんざりしていたのだ。  上り坂が続き山越えになると、雲が激しく流れ突如雨が降ってきた。と思ったら、それが大粒の雹に変わり、われわれは車ごと大樹の下に緊急避難した。気温は急激に下がり、ふるえがきた。はじめて遭遇したが珍しいことではなく、雹に当たってよく鶏が死ぬという。そして最後の難関がバンダであった。  バンダは、村の子供が車にはねられた。そこで警察に逃げた車を捜査することと、ケガした少年を病院に入院させ、無償で治療を受けさせることを要求してのものであった。事故が起きたのは昼過ぎで、すぐに村人は丸太を道路に渡し抗議行動を起こしたという。  われわれがそこに到着したのは夕方の5時過ぎであるから、道路は何キロにもわたって渋滞していた。そして驚くことに、少年は放置されたままである。幸いなことに命に別状はないというが、なんたることであろう。事故現場から目と鼻の先にある橋を渡るとポカラで、病院のある市街地はそこからたった20kmに過ぎない。しかし、行政区画が違うので、はるか遠くの郡庁所在地からかけつけた救急車は、われわれに遅れて到着したのであった。  道路封鎖の理由を聞くと、村人は以前の交通事故を引き合いに出し、そのとき警察はなにもしなかったと口々に訴えた。そのときの教訓から、村人は今度交通事故が起きたならバンダを起こそうと衆議一決したようである。  一方、警察は予算がないので、すべてに対応できないとでもいうのだろうか?数年前、交通事故が起きたので、事故現場まで同乗させてくれといわれ、5名の警官を同乗させたことがあった。また、投票所を守るという武装した軍曹を小学校まで乗せていったこともあった。この強制ヒッチハイクで急行するので、警官や兵士はすぐ現場に到着するが、救急車はそうはいかない。  いずれにしろ、学校ばかりでなく救急病院も、警察も、そして国王の軍隊もすべての行政機関は予算不足で、思うにまかせないのである。 (写真:遅れてきた救急車)       第3便 いかに郷に従うか?  カトマンズから真っ直ぐ80km南下すると、シムラ空港がある。われわれのフィールドであるバラ郡にある空港だ。離陸して30分で到着するが、わがトヨタ・ランドクルーザーは飛ばしにとばしても、6時間はかかる。普通は途中で食事をとるので8時間だ。不条理なほど時間がかかるのは、南下するにはマウンテン・ロードと呼ぶ峻険な山越えとなり、安全を考えるなら西に大きく迂回しなければならないからだ。その昔、舗装状態が悪かったときはあえて山越えを選んだ。そこは、一車線で片側は崖が切り立ち、もう一方は数百メートルも一気に渓谷に向かってなぎ落ちていた。山の天気は変わりやすく、車ごと崖からの鉄砲水で流されそうになったこともある。それ以降は、もっぱらプレーンロードと呼ぶ、川沿いの道を選んでいる。しかも走行時間は、いまやほとんど変わらないのである。     ■ネパールの中のインド  移動は、できるだけ朝早くが原則である。途中なにが待ち受けているかわからず、ガードレールもセンターラインもないハイウェイの夜間走行は危険すぎるのだ。また、バラ郡のジャングルを横断する国道は、別名「盗賊道路」と呼ばれている。それを教えてくれたドライバーは、でも昼間は心配ないと往路は笑った。しかし、ぬかるみからの脱出に手間取り日が暮れて通った復路は、無言でかっ飛ばしたのであった。ライフルで武装した盗賊は、目の前に丸太を倒し、道路を封鎖したうえで襲うと後に聞いた。  盗賊道路を走るのは、ゴール町にあるジュダ高校に行くときである。ネパールの田舎町の足は、もっぱらサイクル・リキシャと相場が決まっている。しかし、この町は、圧倒的にターンガーと呼ぶ一頭立ての二輪馬車が活躍する。1924年にE・M・フォースターが小説『インドへの道』に描いた世界である。タクシー代わりに使うのだが、構造は小さな荷馬車であるから乗り心地は最悪で、同じ乗るのならリキシャの方が数段快適である。  この地は、ネパールの他都市より、インドとのアクセスが良いためまるでインドで、ネパール語よりはるかにヒンズー語が通じる。昨年夏、同校の寮母が替わったが、前任者はあの有名なインドの聖地ベナレスに帰ったという。とてつもない距離に思えるが、鉄道を使えば山越えより安全なのはたしかである。  さらに驚くべきは、同校の教員である。校長以外は全員インドで、つまりヒンズー語で教育を受けているのだ。その教員がネパール語で授業を行う。したがって同校の教師は、最低ネパール語、ヒンズー語、そして現地で最もポピュラーなブシュプリ語を流暢にしゃべる。しかし、この多言語構造は、様々なジレンマを内包しているのはいうまでもない。     ■不条理には理由(わけ)がある  ネパールの国語はネパール語である。したがって、公立校の授業はネパール語で行われる。しかし、国民のうちネパール語を母語とするものは、約半数に過ぎない。われわれが支援する統合教育校でも事情は同じで、小学校に入学すると点字と共にネパール語の勉強をはじめなければならない児童が半数はいる。そして、いわゆる丸暗記方式で、教えられるのだ。  ネパールでは10年課程の終了時に、SLC(中等教育課程修了試験)という国家試験がある。これに合格して晴れてカレッジに進学できるのであるが、この試験にはもう一つ重要な恩典がある。SLCに合格したら、正規の小学校教員になれるのだ。しかし、地方にある公立校の教員でこの資格を持っているのは約半数だ。そこで、資格を持たないベテラン教師が小学生を教え、それ以上を若い教師が教えるという図式になる。最近はさすがに資格を持たない教員の採用は控えており、徐々に改善されてはいるというのだが?  言語とはつまるところ文化で、その背景を理解しないと習得はおぼつかない。ネパール語というのは、実は僧侶階級と王侯・士族階級の言葉である。したがって、両上位カーストにとっては、その分優位である。一方、生まれてこのかた耳にしたことのない子供にとっては、明らかなハンディとなる。特にネパールの農村部では、カーストごとにあるいは民族ごとに村々が形成される。たとえば、あるヤダブの村には学校はなかった。 「なぜ子供達を学校に行かせないのだ」と僕は聞いた。すると村人は口々に、 「子供達が学校に行くと、誰が水牛の世話をするのだ」と激怒した。  ヤダブは農民カーストの下位に位置し、俗に「ミルクマン」と説明される。このようにネパールの農村部には、昔ながらの生活を頑なに守っている人々が多い。これは最高位カースト「ブラーフマン」の村でも同様で、大人も子供も男であれば全員剃髪しており異邦人を驚かす。わが国では、カーストをかつて歴史的事実として存在した士農工商になぞらえることが多い。しかし、それはあくまで断片的な説明に過ぎない。ブラーフマンでも農民は実に多く、また、われわれが支援する学校にはヤダブという名の校長も現実にいるのである。  文化は尊重されなければならない。しかし、“それにしてもあんまりだろう”ということも、たびたび出くわす。だが、よくよく調査してみると、そのほとんどは渋々でも認めなければならない現実なのである。  ただ、われわれの事業は、視覚障害者を対象にしているため、ある意味では理解されやすかった面もなくはない。たとえば、ヤダブの子供でも全盲であるから、教育を受け他の道へ進むことも許されたのであり、家の仕事にこき使われることもなかったのである。すべてのものには裏表があり、常にポジティブに考えること。これはネパールの支援事業ではとても重要なことのように思われる。 (写真:ターンガー)       第4便 カーストとCBR  シャッターボタンを押し続ける。「ジー」と音がしてフラッシュが小さく光り、カメラが距離を測る。フラッシュは都合3回小さく光り、その後ひときわ大きな閃光と共にシャッターが切れた。  バラCBRセンターのマダブ・ゴータム所長が、「もう一軒回るか?」と皮肉をいう。 「いや、もう写真が撮れない。フィニッシュ」というと、彼はほがらかに笑った。  月明かりで顔の表情はわかるのだが、足下は漆黒の闇である。しかし、彼らは夜目が利くようで、牛糞やぬかるみのありかを教えてくれた。  フィールドワークは、日没までに切り上げて帰るのが原則である。「もう一軒」といったときは、まだ十分日暮れまでには時間があると思ったのだが、これは僕の完全な読み違いであった。しびれを切らしていたドライバーは、いつにも増してアクセルを強く踏み、車は幾度も激しくジャンプしながら走った。     ■カミの村にて  翌朝は、これまでとは明らかに違う村へ出かけることになった。それまでは、視覚障害者の自宅を訪問する場合は、車で少なくとも10分。通常は 30分〜1時間走らないとたどり着けなかった。しかし、この日訪れた村では、歩いて次の視覚障害者の家へ行けたのだ。おかげで面接調査ははかどったが、他の村と比べても、明らかに衛生状態は悪かった。 「この村はとても貧しく見える」というと、 「なぜわかった」とゴータム所長が聞く。 「電線がないし、泥の家ばかりで、住民の顔色が悪い」というと、彼は深くうなずく。  そこはあのマハトマ・ガンジーがハリジャン(神の子)と呼んだ、アウトカーストの村であった。数年前までは、わがCBRセンターのナンバー・ツーも神の子であった。彼の名はJ・B・カミといった。ネパール人は普通、ファーストネームで呼び合う。しかし、長くて覚えにくいので、僕は彼を「ミスター・カミ」と呼んだ。するとたまりかねた彼が、懇願してきた。フィールドで「カミ」と呼ばれたら、村人にハリジャンであることがばれる。すると、次からその村に行っても誰も彼のいうことを聞かない。そればかりか、二度とその村には入れないのだという。事業を縮小する過程で彼はバラCBRを辞め、NAWBの世話で、今は他のCBRに勤務している。     ■恵まれた子供達  先進国のリハビリテーションは、施設中心に行うが、開発途上国では地域を基盤としたリハビリテーション(CBR)方式で行う。CBRとは視覚障害者の自宅を訪問し、歩行訓練とADL(日常生活活動)、それに家畜飼育等の訓練を行うリハビリテーションである。なぜなら施設での生活ははるかに農村より快適で、実家への帰還が困難になるばかりだからである。施設では食うに困らず、ベッドもトイレも、そしてシャワー室もあり、蛇口をひねれば水が出る。そして塀で囲まれた整地された道で歩行訓練は行われる。  このように恵まれた環境にいるネパール国民は、おそらく3割に満たないはずである。そして、われわれが支援する視覚障害児も、その少数派に属する。といっても、彼らが贅沢をしているわけではない。  食堂とはいってもなにもない土間に直接座り、ダル・バート・タルカリを毎食たべる。ダルというのは豆の塩味スープ、バートというのは白飯、タルカリというのは野菜のカレー煮である。われわれには、これに山羊肉のカレー炒めの小鉢が特別につく。これを一緒にかき混ぜて、右手で口に運ぶのである。これに、サラダと称して、岩塩をふった大根とタマネギのスライスがつく。子供達の食事に肉がつくのは、一ヶ月に1、2度である。 “それでは栄養が偏るだろう”という考え方は、ここにはない。腹一杯食べられれば幸せなのである。しかも視覚障害児たちは、進級試験に2、3回失敗し、学業についていけないと判断されたらすぐに実家に帰される。教育を求める視覚障害児は多く、後がつかえているのだ。     ■旅の終わりに  ネパールを旅すると、誰もがフレンドリーになる。ネパール人は付き合ってみればひとなつこく、ある種の安らぎを旅人に与えてくれる。帰国便で隣に座った30代の日本人女性は、ひとしきりヒマラヤの美しさや、トレッキングの愉快な想い出を語った。そして、 「本当に貧しい国ですね」としみじみいう。 「世界でも最貧国の一つですからね」と相づちをうつと、 「そんなに!」と彼女は飛び上がった。  観光客が足を踏み入れるような場所は、ネパールでは特別に開発された地域である。それでも豊かな国のツーリストは、貧しさに心を打ちのめされる。というより、そこには理解しやすい貧しさだけがあるのだ。しかし統計や各種調査は、この国の経済状態がわれわれの想像を超える絶望的な状態であることを示している。  ここに掲載した小文は、ネパールで僕がNAWBのスタッフに庇護されながら遭遇したエピソードを綴ったものである。印象に強かったものだけを取り上げたので、とても偏った、奇妙なイメージを描かれたのではないかと思う。  NAWBは外観こそ昔のヒンズー寺院そのままだが、内部は現代的に改築され、いまや数台のパソコンで事業管理を行っている。また、弱視教育にも意欲をみせ、つい先頃まではJICAのシニアボランティアも駐在していた。ネパール屈指のNGOに成長した彼らの多彩な活動や心温まるエピソードなども紹介したかったが、ここで紙幅がつきた。このように僕の旅の終わりは、いつも心を残したまま終わるのである。 ※ 本稿は、全国社会福祉協議会発行の『月刊福祉』2002年1月号〜4月号に連載した「ネパールへの道」を一部書き直したものです。 ---------------------------------------------------------------------------------------- p8 LIGHT OF LOVE (写真:設立総会《田無郵便局にて》)       田無郵便局で活動報告  2001(平成13)年10月10日、東京都田無郵便局にて「西東京市国際ボランティア貯金推進協力会」の設立総会が開かれました。これは、同年1月21日、田無市と保谷市が合併して西東京市が誕生したことにより、それまで両市に組織されていた推進協力会を一本化するための総会です。  当事務局は、この記念すべき総会に招待され、ネパールにおける当協会のこれまでの支援事業を、ビデオなどを交えて紹介しました。 ----------------------------------------------------------------------------------------       電報とEメール  今から思えば、まったく隔世の感があります。なにしろ平成の御代になっても、大まじめでネパール宛に電報を打っていたのですから。もちろんこれは冠婚葬祭などの儀礼用ではなく、実用通信としての電報です。その後、現地の盲人福祉協会にも電話が引かれ、ファクシミリを日本から持ち込みました。ただ、通話状態が悪く、しかも停電が頻発するため、それでも問題は残りました。それを劇的に解決したのは、インターネットであり、eメールでした。数年前まで、その日の現地の新聞を東京で居ながらに読めるなんて、想像だにできなかったことです。 ----------------------------------------------------------------------------------------       募金のお願い  ネパールにおける失明防止と視覚障害者援護の充実をはかるために、募金をお願い致します。     寄付金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 銀行口座:三井住友銀行新宿支店(普)5101190     寄付金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号にかかげる社会福祉法人でありますので、当協会に対するご寄付は、所得税法第78条第2項第3号、法人税法第37条第3項第3号の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ----------------------------------------------------------------------------------------       編集後記  本年3月7日、アジア眼科医療協力会の黒住格理事長が逝去されました。当協会のバラ眼科診療所開設にあたっては、先生から絶大なご支援をいただいたことが、いまさらのように想い出されます。ご冥福をお祈りいたします。▼最近のネパールからのニュースは、マオイストと国軍との武力衝突で何人死んだという気が滅入るようなものばかりで、この春の登山隊も半減すると報道されています。紛争により真っ先に被害を受けるのは、子供であり障害者です。ネパールに一刻も早く平和が訪れることを祈らずにはおれません。▼収支報告等は、9〜10月発行の次号に掲載します。(H.F.) ---------------------------------------------------------------------------------------- 発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL : 03-3200-1310  FAX : 03-3200-2582 E-mail : XLY06755@nifty.ne.jp TOKYO HELEN KELLER ASSOCIATION (Established in 1950) 14-4, Ohkubo 3 chome, Shinjuku-ku, Tokyo 169-0072, Japan