THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2022年8月号

第53巻8号(通巻第627号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:奥村博史
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:理念なき宰相の厚顔無恥 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
3
(インタビュー)この世界をアウェイからホームに変える
  ― ガチガチの世界をいかにゆるめるか
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5
(寄稿)ひたすら待った日本での研修と救急車体験
  ― リハ協で障害者リーダー育成事業始まる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
ネパールの盲教育と私の半生(14)世界障害者年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31
鳥の目、虫の目 オレナ夫人と全盲の心学者 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
36
西洋医学採用のあゆみ(17)漢洋脚気相撲その5 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
自分が変わること(157)人間はもともとみないい人なんだ  ・・・・・・・・・・・・・
46
リレーエッセイ:人間関係は永遠のテーマ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
アフターセブン(89)草むら菜園 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
  (240)不振が続く大関陣は一層の奮起を ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
60
時代の風:第20回チャレンジ賞・サフラン賞受賞者決定、i
  PS細胞からの目の細胞、呼気センシングによる個人認証 ・・・・・・・・・
64
伝言板:ウクライナ支援チャリティアルバム、第27回「NHKハート展」詩の募集、
  第16回塙保己一賞候補者募集、川島昭恵語りライブ ・・・・・・・・・・・・・ 
68
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
理念無き宰相の厚顔無恥

 6月26〜28日ドイツ南部エルマウで開催されたG7サミットで「キッシー」こと岸田文雄首相は、またもや「新しい資本主義」を持ち出したが、中身が無いのは各国首脳すでにお見通しなので恥の上塗りになりはしなかったか心配された。
 というのはキッシーは、5月5日にロンドンの金融街・シティーで「新しい資本主義」について講演し、資産所得倍増プランを始めると表明し、「安心して日本に投資して欲しい。インベスト・イン・キシダ(岸田に投資を)です」と呼びかけて失笑を買った。日本語のスピーチに中途半端な英語を挟み込み語尾に「です」と言ったので、聴衆の英国人には「インベスト・イン・キシダ・デス(Death)」(岸田の死に投資を)と聞こえたのである。キッシーは新内閣発足時に金融所得課税の増税を掲げて猛反発を受けてすぐに見送ったが、その記憶がさらに「ブラックジョーク」に彩りを与えた。金融所得課税の増税は、大金持ちから大金をせしめ、それをわれわれ庶民のために使うという話だったが、「資産所得倍増プラン」は資産家を優遇するということか。さらに岸田氏の自民党総裁時の公約である「令和版所得倍増計画」はどうなったのか。それと資産所得倍増プランはどう関係するのか。もしかして大金持ちの所得を倍増することに計画変更したのか。
 キッシーはイケメンで、温厚な人柄で聞き上手な上に、自分の理念をはっきり主張しないので敵を作らない。このような順応型は、聞きかじりや思いつきのスローガンを述べて、風向きが変われば素早く取り下げるタイプだ。主張すべき理念や哲学がないのだから風向き次第では、10万円給付のときのように財源も顧みないで防衛費の倍増に突き進むのではないかと心配される。
 菅義偉総裁が誕生した2020年の自民党総裁選から「キッシー」の愛称を公認し、ツイッターで使っているが、このようなポピュリズムの手法は政治家としていかがなものだろうか。ソフトな語り口で国民に愛されるのが目的では、政治家というより芸能人ではないのか。(福山博)

(インタビュー)
この社会をアウェイからホームに変える
― ガチガチの世界をいかにゆるめるか ―

 【インタビューは当点字出版所会議室で行われたが、当日Tシャツというラフな姿で澤田智洋(さわだ ともひろ)氏(41歳)は現れた。同氏は大手広告会社でコピーライターとして勤務しながら、2016年から一般社団法人世界ゆるスポーツ協会代表理事としてゆるスポーツの普及、その後一般社団法人障害攻略課理事として、福祉分野での活動に精力的に取り組んでいる。ゆるスポーツとは何か、福祉への思い、そもそも彼を突き動かすエネルギーの原泉は何か等々語っていただいた。取材・構成は本誌戸塚辰永】

孤独な日々

 父は銀行員で海外赴任が多く、彼は生後3か月でフランスへ、1歳から7歳まで英国、小学1年生から4年生まで日本、5年生から中学2年生までフランス、それから高校3年生の夏まで米国で過ごした。
 海外では日本人、日本ではたどたどしい日本語をしゃべっていたこともあって「外人」と言われいじめにもあったので、彼の少年時代の大半はマイノリティそのものであった。
 パリでは日本人学校に通っていたが、日本の学校と教え方も雰囲気も変わらないので、フランス語よりも汎用性のある英語で学ぶことができる英国人学校に通うのがかっこいいと思い中学から進学した。最初の2日くらいまでは日本人が珍しく、英和辞典や和英辞典を引きながら話す澤田少年にクラスメイトは興味津々で話しかけてきたが、英語が話せないこと、どのように日本人と接したらよいのか分からないこともあって、距離を縮めることができず、ハローとサンキューの二言くらいしかクラスメイトと言葉を交わさないという地獄の日々が続いた。
 転機は、米国・シカゴの現地校に転校したことだった。そこでは、アジア人、メキシコ人、ヨーロッパ人もいるので、マイノリティであってもマイノリティではない環境に衝撃を受けた。
 「パリの英国人学校では真っ白いワイシャツに僕という黒い一点の染みだったのが、米国ではいろいろな柄のシャツに僕という黒い染みがあっても目立たないのです」と澤田氏は当時を語る。
 高校3年生の夏、「海外で得た知見を日本で生かしたい」と親を説得。実は、彼は無類のあんこ好きで、米国では手に入らないおはぎを日本で腹いっぱい食べたいという野望があった。晴れて単身帰国して、大学受験し、慶應義塾大学経済学部に入学した。帰国子女ということで周囲から浮かないように、できるだけ周りに合わせながら学生生活をおくった。
 就職活動を行う中、広告業界を選んだ理由は、大の読書好きで言葉が好きだったからだ。言葉は思考をつかさどるもので、言葉自体をデザインし、言葉によって社会を良い方向に導けるのではないかと思って広告会社に入社した。1年目は営業の仕事をし、それはそれで楽しい経験もしたが、2年目から念願のクリエイティブ局に配属され、コピーライターとしてあわただしい日々を過ごした。自分が作ったCMがテレビで流れ8000万人にリーチしたことに喜びを感じた。
 コピーライターの同僚は、数百人おり、競争は苛烈だ。海外生活が長い澤田氏は、日本語の経験値や語彙力では日本で育った人よりも劣っていると感じた。人と同じことをしていても芽が出ないと思い、激しい競争を避けて人と争わない道に活路を見出し、CM製作で得た手法を生かしながら超人気フリーペーパー『R25』へのマンガ連載や天丼チェーン店「天丼てんや」から相談されて企画した新製品の発売に合わせた曲をリリースし、それらがヒットした。自身の得意なマンガや音楽を持ち込むことで仕事の幅を広げつつ方向転換をはかって行ったのだ。

予期せぬ転機と新たな出会い

 32歳で息子が生まれた。よくミルクを飲み、健やかに育ち1カ月検診でも何の異常もなかった。ところが、3カ月ごろになると、視線が合わない、眼が充血し、吐き気があるといった症状が出た。
 近所にある眼科に行くと、「うちでは、手に負えないから、大きな病院を紹介します」と言われ、受診すると、網膜異形成、網膜ひだ、緑内障、白内障を発症しており、全盲だと診断され、即刻息子は緑内障の手術を受けた。健常児だと思って子どもを育ててきた夫妻は、突然の宣告に衝撃を受けた。
 それまで視覚障害者と接したことがなかった澤田氏は、眼が見えない子供をどう育てたらよいのだろうか、色の概念をどのように教えたらいいのか、図形はどんなふうに習うのか、将来どのような職業に就くのだろうかといった不安や疑問に駆られ、インターネットで検索してもこれといった結果は出てこなかった。それならばと片っ端から本を読んだ。乙武洋匡氏や福島智氏といった著名な障害者の著作も読んだが、スーパーマンのように感じた。参考になる書籍もあったが、多くは昭和に書かれたものばかりで情報が古すぎてピンとくるものはほとんどなかった。
 それならば、一人の人にはたくさんの情報が蓄積されている。文化人類学では、例えばタイのアカ族について知りたいのであれば、現地に入ってフィールドワークをする。障害のある人に会って「先生教えてください」と質問を投げかけることで情報を引き出そうと思い、行動に移した。障害当事者、関係者、障害者スポーツ団体など200人以上にインタビューし、見えない子の子育てマニュアルができてきた。人と会って話をする中で、米国では、広大な州に1校だけしか盲学校がないが、日本では盲学校の数が多く充実していること、福祉機器やタブレット端末も使えることが分かり学びへの道筋もたってきた。
 障害者と会う中で澤田氏は、福祉の世界にビビっと吸い寄せられた。それは、障害者が経験してきた孤独は、彼が中学生のころ英国人学校で経験した孤独ととても似ていると感じたからだ。障害者は先生であり、仲間であると感じ、一緒に仕事をしたいという気持ちが湧き上がった。
 その時の感情を澤田氏は、「生まれながらにして輪廻転生しました。生まれながらに生まれ変わったのです」と振り返る。

ゆるスポーツは社会モデル

 2015年に世界ゆるスポーツ協会を発足したきっかけは、障害者から教えを乞う中で、障害の医学モデルと社会モデルという発想に出あったことだった。澤田氏は、これらのモデルを魚と水の関係に例えて説明する。障害者が川に生息する淡水魚であるにもかかわらず、この社会は海水だから、息ができない。魚を海水に合わせるのが医学モデル。社会モデルは、魚を順応させるのではなく、海を川に変える。すなわち環境を変える。適切な水が魚とマッチングされると全ての魚は水を得た魚<ウオ>になると社会モデルを解釈する。この発想は福祉の世界にだけで展開されるのはもったいない。ほかでも応用できるはずだと考えた。
 スポーツが苦手で自身をスポーツ弱者という澤田氏は、「社会モデルから見れば、足が遅い僕が悪いんじゃなかったんだ。スポーツが悪かったんだ。だったら社会モデルのスポーツを作ってやろう」と思った。これがゆるスポーツの原点となった。
 ゆるスポーツは障害体験ができると言うが、それはその通りだが、それだけではない奥行きを持っている。スポーツでは、ホームとアウェイという概念があるが、社会が自分に合わない場合は、社会がアウェイとなる。
 日本であれば、健常者で日本国籍を有して、異性愛者の男性を中心にした社会がホーム。他方、女性、性的マイノリティ、障害者にとってはこの社会はアウェイ。澤田氏は、全ての人にとって社会をホームにしたい。だが、これには時間がかかる。そこで手始めに、自分が苦手としているスポーツから着手した。スポーツにはルールがあり、そこは小さな社会であるという理念でこれまでに澤田氏らは110余りのゆるスポーツをリリースした。
 例えば、「500歩サッカー」。ルールは、1人500歩しか歩けない。スマホを腰に着け、歩けば歩数が減っていくという万歩計とは逆のアプリを着けて行う競技だ。サッカーの得意な人がたくさん走れば一気に歩数は減る。すぐにゼロになるので退場。それではみんな退場になってしまう。そこで、その場で休憩を4秒取ると1歩回復するというルールを採用している。そうすれば、おのずとフィールド上で休む人が増える。
 なぜこのスポーツを作ったかというと、心疾患のある15歳の友人がおり、彼は1、2分走ることができるが、心拍を整えるためにこまめに休憩を取らなければならない。そのため、彼は9年間体育を見学してきた。体育には、休むことを是とする慣習がないからだ。
 しかし、社会モデルの考え方では、こまめに休憩を取らせてくれないスポーツに責任がある。だから、参加者全員が休憩をこまめに取るようにすれば、彼もスポーツを楽しめ、実際シュートを決めることもできた。500歩サッカーは彼の日常そのもので、つまりホームとアウェイで考えれば彼のホームに引き込むことになる。ゆるスポーツは、勝っても嬉しいし、負けても楽しい。誰もが居心地の良いホームを体験できるのだ。
 ゆるスポーツの考案に携わった人は2000人余りいて、実際ゆるスポーツを作ってみると社会モデルの考え方が自然と体得できるという。個人を変えるのではなく、環境を変えれば良いという体験を味わうと、そのほかの局面においても社会モデル癖<グセ>が着く。
 この社会が生きづらそうだという人に遭遇したら、「社会を変えようよ」と言って仲間を増やす。仲間が増えることによって最終的にはこの社会全体を全ての人たちにとって居心地の良いホームにしたいと澤田氏は考えている。
 視覚障害に関係するゆるスポーツでは、「点字ブロックリレー」がある。これはAチームとBチーム5人ずつに分かれ、バトンの代わりに白杖を受け渡すリレー競技だ。ただし、トラックではなく、点字ブロック上を走る。
 ルールは、Aチームが走る点字ブロックを並べたコースを相手側のBチームが作る。逆に、Bチームが走る時には、Aチームがコースを作る。コースはうねうねとした道となり、走者は点字ブロックに両足を載せて走ることがルール。片足が点字ブロックの外に出たらプラス1秒、両足が出てしまったらプラス3秒加算される。急がなくてはならないが、正確に点字ブロックの上を進まなければいけない。
 日常生活で点字ブロックにふれる機会がない人、福祉に興味がない人が遊び感覚で体験すると、点字ブロックの大事さを知るきっかけとなる。「この間点字ブロックの上に自転車があったので、どけておきました」と言う体験者も現れた。「福祉のことを知ってください。視覚障害者のことを知ってください」と言うと身構えてしまうが、「遊びましょう!」と、遊んでいたら、結果的に学んでいたと、そこにゆるスポーツの仕掛けが潜んでいる。
 ゆるスポーツの体験者は約20万人に及ぶ。ヨーロッパと東南アジアに輸出しているが、コロナ禍があけたら加速するつもりだ。日本ではスポーツ=体育という風潮があるが、海外ではスポーツは遊びと紐づいている。むしろ、ゆるスポーツはヨーロッパや東南アジアの受けが良いようだ。

福祉にのめりこむ

 澤田氏が200人余りにインタビューした中に、日本ブラインドサッカー協会の松崎英吾(まつざき えいご)事務局長がいる。「眼が見えない息子がいます」と言うと一瞬身構える人もいたが、松崎氏はにやっとした。その時、「将来のブラインドサッカー選手候補が現れた」と彼は思った。にやっとされたことに好感を抱いた澤田氏は、同協会のゆるオフィサーとなり、アイデアを求められる立場として無償で関わるようになった。
 2014年にブラインドサッカー世界選手権大会が日本で開催される運びとなり、障害者スポーツとしては画期的といえる有料での開催を松崎氏が熱く語り、そのためのコピーを考えて欲しいと相談された。澤田氏は、「見えない。そんだけ。」というコピーを考え出した。このコピーがツイッター上で拡散されたこともあって、大会は満席となった。
 ゆるスポーツは仕事とは関係ないが、自治体や企業から組織をゆるめるためのアイデアを考えて欲しいとの要望も仕事として舞い込んでくる。また、大手広告会社に所属している利点として、東京2020パラリンピックの閉会式の全体の企画やコンセプトを立案する重要な役目も担った。これも福祉の仕事の一つとして受託した。このほかにも、東京都の依頼で「東京をインクルーシブな街にするにはどのようにしたらよいか」とたずねられた澤田氏は、東京都人権プラザと連携して、例えば誰もが行きたくなるようなトイレを考えようとか、新しい仕事を考えようといった企画も受託している。
 「福祉の仕事は基本的に断りません。200人に会って救われたので、福祉に恩返しではありませんができることはしたいという意識があります」。どんなに小さな団体からの依頼も断らないようにしている。具体的には、視覚障害児の親からゆるスポーツの体験会を頼まれたり、公演をしたり、発達障害児の親向けのフリーペーパーの取材も受けたりしている。

盲学校は宝の山

 息子は東京都立の盲学校に通っているが、そこにはアイデアのタネがいっぱい転がっている。
 「息子を含めて見えない子たちの書道が飾ってあって、文字じゃなくて幾何学的な何かが書いてあって、めちゃくちゃかっこ良かったんですよ。晴眼者の普通校に行くと『初日の出』とか40人分並んでいて、画一的で嫌だなと感じるんです」。医学モデルで考えると、晴眼者のように文字が書けないから価値がないとされるが、社会モデルの目で捉えると、「これ素晴らしいな」という価値をおびてくる。こうした体験からブラインド書道というプロジェクトも立ち上げようとしており、ブラインドサッカー選手が書いた書をネクタイにして将来販売することも考えている。
 澤田氏は、特別支援学校が大好きだ。特別支援学校と社会を結び付けたいと思っている。特別支援学校は江戸時代の寺子屋に似ていて、様々な年齢の人が同じ屋根の下でそれぞれのペースで学んでいる。一方、早く学びたい子もいればゆっくり学びたい子もいるのに、画一的に教科書を消化するだけという普通校での教育は澤田氏には不自然に見える。その点、特別支援学校は、最先端の教育現場だと捉えている。文部科学省の役人に「普通校は特別支援学校からもっと学ぶべきですよ」とアドバイスしたこともあり、特別支援学校から社会をホームに変えようという大きな構想を抱いている。実際、児童・生徒が書いた書といったゆるアートなど多岐にわたる分野でプロジェクトが同時進行しているそうだ。

特業のススメ

 特に、江戸末期の仕事スタイルに澤田氏は関心を持っている。当時日本橋は今でいう原宿のようににぎわっており、障子貼り、氷屋、魚屋といったごく一般的な商売もあったが、想像もつかない生業<ナリワイ>を持つ者もいた。江戸時代には、今でいう経理、人事、総務、営業といった判で押したような効率にのっとった資本主義に基づく働き方ではなく、自分らしさを発揮するつまり競争しないで稼ぐというユニークな働き方があった。
 現在働き方改革が求められており、本業のほかに副業や兼業が推奨されている。それに加えて「特業」というジャンルを加えて、「その人にあった特技や特徴、特性を色濃く反映した仕事」を澤田氏は推奨している。それは、障害者と話をする中で、一般企業に就職活動をして100社落ちた人が何人もいて、自分で起業している人もいて、江戸時代の働き方に近いと感じたからだ。
 「障害者に特業を」ということで、いろいろな職業を模索している。例えば、車いすで発語が困難な少年は、野球が好きで、特に審判の行動を観察することが大好きだ。「アウト! セーフ!」というジャッジの声だけ滑らかにしかもはっきりと発語できるので「ジャッジマン」という特業を彼に依頼し、名刺も作った。イベントなどで「ジャッジマンがいますよ」と言うと悩みを抱えた人がやって来て、彼が「アウト! セーフ!」とはっきりとジャッジしてくれるので、相談者はすっきりする。これが毎回大賑わいになる。そこでは特業を持っていることで、車いすに乗っているという先入観がなくなり、ジャッジマンという彼の一番得意なホームに人を引き込むことができる。
 特業の視覚障害者バージョンも模索している。近代以前には、琵琶法師や音曲家、いたこなどが多く活躍していたが、そういった仕事も特業としてあっても良いと考えている。具体的な仕事はまだ思い当っていないが、ビジネスでは写真や映像を駆使して視覚に訴える形で資料を作り、プレゼンテーションするのを良しとされる風潮があるが、それは視覚的にごまかせるものでもある。逆に、最近、アマゾンなどの大手企業では視覚によって訴えるプレゼンを禁止しており、「企画会議では口頭で説明せよ」と、口頭だけで伝わる企画は良い企画であるという動きが広がっている。それならば、視覚障害者が企画を査定する仕事ができないかと考える。澤田氏も視覚障害者の友人に電話をかけ、企画案を手短に話して「それいいじゃん」と言われたものは必ず良いという感触を持っているからだ。
 ゆるスポーツにせよ特業にせよ遊びが大事だ。例えば、関節は遊びであって、骨と骨の間にあって、潤滑油の働きをしている。福祉×遊び心は、ふざけるという意味ではなくて社会の潤滑油としての役割であると澤田氏は力説する。

インクルーシブ教育へのスタンス

 現在、インクルーシブ教育が主流だが、彼は息子を盲学校で学ばせることを選んだ。その理由を聞いた。
 「全盲って特殊なので、普通校で受け入れるのは極めて難しいと思います。特に先生方も、図形とかグラフとかどう教えればいいのか、点字を教えられなかったり、パーキンスを使えないとか、点字が読めないとか、だからインクルーシブ教育と言いながらも視覚障害者、特に全盲の子にはそうは言っても受け入れ態勢が整っていないのです。例外はありますけど、『もともと盲学校にいた教員があそこにはおりますけど』と言われますが、その学校の先生につけるか分かりませんし、その先生もどこに行っちゃうか分かりませんし……。息子にとって、すごく重要なのは心理的安全性の確保です。彼にとって家ではない学校という場所、コミュニティーが基本的には安全・安心で、仲間たちと先生と一緒にチャレンジできる場所という所が僕の中で大事だったんですね。
 インクルーシブな場は学校の外に作る。僕の仕事の現場はインクルーシブで当たり前のように普段いろんな人がいるんですけど、そういう所に息子を連れていくと、彼にとってその場がインクルーシブ教育になって、健常者、晴眼者との接点づくりになったりしているので、そこには学校と家とそれ以外の役割があります。
 特に、健常者の大人の観点から『インクルーシブ教育が大事だよ』と語られることが多いんですけど、僕はそれが全てではないと思っていて、ケースバイケースで、インクルーシブ教育1択にならない、そういう道もあったうえで、でもうちは盲学校を選びますというのが健全だという風に思います。
 会社でも障害者雇用率が達成されているけれども、障害者と健常者が全く交わっていない。仕事がなくてとりあえず来て、夕方に帰るということをよく聞くじゃないですか。大人ですらインクルーシブな環境が作られていないから、もうちょっとインクルーシブ教育には時間がかかりそうだと思います。だけど、インクルーシブな場はあればあった方がいいのではと思っています。
 地方の盲学校だと全盲のみの子の優先度が下がっていて、重複の子の介助の仕事が多いと聞いています。地域によるんですね。大阪だとインクルーシブ教育が進んでいて、理解のある校長先生が何人かいるので、そういう地域だったら通わせてもいいかもしれませんが、東京だとそうはいってもまだ盲学校のレベルが高いし、先生方も相当優秀だと僕は思っているので、東京に住んでいる身としては盲学校がいいと思っています。
 筑波大附属盲に入れなかったのは、うちの子は重複なんです。知的と自閉症で、筑波大附属盲ってけっこうレベルが高いから難しいなと……。先生たちと話していても、普通校に感覚が近いんです。頑張っていい大学に入れて、いい就職先をと、それが重複がある子にはしんどいのです。いろいろ見たうえで都立が息子にとって合っているなと思いました。
 視覚障害者の職業開拓は、大問題で、特業みたいなきっかけでもない限り本当に発掘されません。機会が少ないので、そういう機会を増やしたいものです。でも、僕は希望をもって活動しています。健常者の世界も行き詰っていて、例えば社内失業者という言葉があるんです。企業に勤めていても仕事がない健常者が日本には、かつて窓際族と言われていましたが、そういった会社員が400万人もいるんです。だから、障害者視点で特業みたいなものを作って、それを健常者世界に疑似的に応用していく。障害のある方をきっかけにやった方がブレイクスルーするというのか、発明が生まれやすいと、これまで活動してきて、障害のある方をきっかけにいろんなことを発明して、それを健常者に応用する。それがゆるスポーツとか、なんでもそうなんですけど、そういうやり方で社会を変えていきたいと考えています」。
 最後に澤田智洋氏についてもっと知りたい方のために、同氏の著書2冊を紹介する。『ガチガチの世界をゆるめる』(百万年書房、2020年、1,700円税別)。『マイノリティデザイン〜弱さを生かせる社会をつくろう』(ライツ社、2021年、1700円税別)。両書とも、サピエ図書館からダウンロードできる。

編集ログ

 ロシアのウクライナ侵略を契機に日本国民の国防意識が高まってきたのをいいことに、自民党は防衛費を倍増しようとしていますが、適切な防衛費は装備など必要な経費を積み上げて検討すべきでGDP(国内総生産)「2%」のような総額ありきでの議論は筋違いです。また、国防力は純粋な軍事力だけでははかれません。2022年版世界の軍事費ランキングでわが国は世界9位ですが、世界軍事力ランキングでは世界5位です。これは現代戦は総力戦であるため、動員可能な人口、経済力、技術力、外交力等の総合的な国力も軍事力の重要な要素となるからです。
 防衛費倍増ありきであれば、その中にNATO基準の退役自衛官の年金、海上保安庁の経費、国連平和維持活動(PKO)拠出金を加え、さらにウクライナへの財政支援やウクライナ難民への支援金、それに移民政策の費用も加えるべきです。
 移民政策がないわが国ですが、コンビニ、居酒屋、工場、農村などで多くの外国人が働いており、実は世界で4番目に外国人を受け入れています。しかし、場当たり的な受け入れ政策が、偽装難民や不法就労を助長しており、そのような人々はもちろん健康保険料や年金保険料を払ってくれないし、犯罪や人権侵害を含む様々な問題の温床になっています。
 日本の労働人口は2040年には現在より20%も減少すると推計されており、このまま放置すると、潜在的な軍事力も激減します。少子高齢化で労働人口が減り続けている日本で経済を活性化させるカギは労働人口を増やすことであり、労働人口が多いほどGDPも高くなります。そのためには移民政策が必須で、外国から労働力を受け入れる場合は、日常会話に困らない日本語能力のある若者を入れる必要があります。
 安心して働ける環境を用意し、労働者として健康保険料や年金保険料、それに所得税を払ってもらうことによって初めて移民も日本社会に定着し貢献できるのです。(福山博)

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