本年3月2日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をめぐって開かれた国連総会の緊急特別会合で、ロシアを非難し、軍の即時撤退を求める決議案に141カ国が賛成し、圧倒的多数で採択された。採択にあたっては中国など35カ国が棄権し、ロシアをはじめとする5カ国が反対した。
反対票を投じたロシアの友好国4カ国のうち、日本でもっとも知られているのは、金正恩朝鮮労働党総書記が支配する北朝鮮だと思われるが、他の3カ国も絵に描いたような独裁国家だ。したがってそれらの国の人権状況は世界でも最悪で、人々は著しく抑圧されている。
ロシアによるウクライナ侵攻の片棒を担いでいるウクライナの隣国ベラルーシは、1994年に大統領に就任したアレクサンドル・ルカシェンコによる独裁が続いており、「欧州最後の独裁国家」と揶揄され、共産主義の名残が最も強く見受けられる国である。
エリトリアは、アフリカ大陸北東部にある「アフリカの角」と呼ばれる半島にあるエチオピアからの独立戦争を経て、エリトリア人民解放戦線(現・民主正義人民戦線)を率いたイサイアス・アフェウェルキ大統領による一党独裁国家だ。共産主義的政策に基づき国民は18歳になると政府支配下の農民か、兵士を含む低賃金または無賃労働の奴隷的公務員となることが義務付けられている。憲法規定によれば、大統領は5年の任期を持ち、国民議会により選出されることとなっているが、憲法が未施行のため、選挙は無期延期となっており、野党や独立した報道機関は存在していない。
中東のシリアは、バッシャール・アサド大統領による独裁国家で、アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、欧米から「テロ支援国家」と名指しされている。シリア内戦ではロシアが軍事介入してアサド大統領を支援した。
上記、プーチンのお友達4人は、類は友を呼ぶというが、そろいもそろって残虐な独裁者ばかりで、プーチンの悪趣味ぶりがよくわかる。(福山博)
全日本視力障害者協議会(全視協)会長、ロゴス点字図書館館長等を歴任し、長年にわたり多方面で視覚障害者の権利回復と社会参加運動をリードしてきた全盲の鍼灸マッサージ師・橋本宗明氏が、2月18日(金)東京都中野区の自宅で心不全により90歳で急逝した。5日前のミサに元気な姿をみせていたので、教会関係者は一様に驚いていた。葬儀(ミサ)は、2月20日(日)、長年熱心に通っていた東京都練馬区のカトリック徳田<トクデン>教会で、コロナ禍であるため家族とごく一部の関係者20名ほどで執り行われた。以下、敬称略。
橋本宗明は、昭和6(1931)年7月30日に現在の新宿区で生まれた。昭和20(1945)年の終戦時は旧制中学2年の14歳で、すでに強度の弱視でしかも眼疾を患っていた。それから2年後に完全失明したので、官立東京盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に編入学し、中学3年生の秋に結核に侵され、8 年間の療養生活を余儀なくされた。
「正しい戦争なのだから、今は一見負けそうに見えていても最後は必ず勝つ」と教え込まれていた戦争に負けて、大人はすぐに手のひらを返した。それを見た橋本は、以来「大人と肩書きを信用せず、徹底的に自分で考える」ことを信条にした。
結核療養中の失明者にとって唯一の娯楽と教養がラジオであった終戦直後、考える時間は唸るほどあった。橋本はラジオからの知識で、当時のトレンドであった弁証法的唯物論にかぶれ、「社会を変える力は社会の中の矛盾だ。矛盾の要は、生産力と生産関係の間に生まれる」という明快な論理に強く共鳴した。
自宅での療養が5年を過ぎ、結核予防法に基づき国費により入所した施設は「ベタニヤの家」というカトリック系の療養所だった。
そこで「神様のお話を聞きませんか?」との看護師を務めるシスターの誘いに、時間を持て余していた議論好きの虫が騒いだ。手強いと思ったシスターは、物静かな神学生を連れてきて、以後2週間に1度その神学生は橋本のベッド横に立った。こうしてキリスト教と出会い「祈り」の生活が始まった。
この 8年間をのちに橋本は「私の原点。思想的な基本の枠組みが構築され、精神生活の基となった人生の一つの転機でした」と振り返っている。
結核の治療に用いられた最初の抗生物質であるストレプトマイシンを打つことにより橋本は結核を完治させたが、同時に副作用で以後終生難聴に悩まされることになる。
晴れてベタニヤの家を退所した橋本は、東京盲学校から国立東京教育大学附属盲学校へと改称していた母校に復学するつもりでいた。しかし、すでに齢23となっていた橋本は年齢制限の厚い壁により附属盲学校への復学を国に拒否された。敗戦・失明・結核に続く、4度目の挫折であった。
やむなく都立文京盲学校の高等部1年に入学した橋本であったが、そこで11歳下の同級生たちに囲まれる。旧制中学2年まで娑婆の空気を充分に吸ってきたこと、その後8年間の結核療養中に考え続け、理論武装していたことにより、彼は年下の同級生たちに圧倒的な影響力を及ぼすようになる。その中の一人が、その後無二の親友であり盟友となった橋秀治<ヒデハル>であった。彼は弱視とはいえ新聞も読める視力があったので、生徒会活動をはじめ橋本宗明と格好のコンビを組んで八面六臂の活躍をする。当時は高3であマ指師の資格を取り、文京盲学校の専攻科理療科に進み針・灸の資格を取得した橋本は、1年間の修行ののち、自宅を増築して、あんま針灸治療院を開業した。
仕事が順調になり、結婚し、二人の子宝にも恵まれると、障害者を取り巻く切実な諸問題の改善に向けた運動に、橋本は先頭に立って取り組むようになる。
昭和 48(1973)年2月1日、東京・高田馬場駅で起きた視覚障害男性・上野孝司の転落死亡事故では、駅ホームが視覚障害者にいかに危険であるかを「欄干のない橋」に例えて訴え、旧国鉄を相手にした損害賠償訴訟の支援に奔走。昭和60(1985)年12月に和解が成立し、その後不完全だとはいえ駅ホームの安全対策は格段に進み、全国に点字ブロックや可動式ホーム柵が普及する契機となった。
公共交通機関の施設改善のほか、橋本らを中心に公共図書館の門戸開放運動を行った学生・市民らが昭和45(1970)年6月に視覚障害者の情報は点字図書館などのボランティアに頼るのではなく、国費や自治体などによる公費による情報保障を求め視覚障害者読書権保障協議会(視読協)を結成し、視覚障害者に「与えられる読書」から「選ぶ読書」の存在を知らせるとともに公共図書館における対面朗読サービス等を実現させ、同協議会は平成10(1998)年に発展的に解散する。また、手間がかかるために単価が高くなる点字書籍の購入費の公費助成を提唱するなど、視覚障害者の社会参加に大きな成果を積み重ねてきた。
また、昭和54(1979)年には、視覚障害者の雇用拡大を目指して、日本盲人福祉研究会(文月会)の呼びかけに全視協が応じる形で連携して、全国視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)を結成した。そして公務員試験を点字で受験できるような運動やヘルスキーパーの職場開拓などを実現した。
雇用連結成を呼びかけた橋實(元・視覚障害者支援総合センター理事長)は、「文月会は、日本盲人会連合(日盲連)と全視協という2つの視覚障害当事者の全国組織に呼びかけました。日盲連からはつれない断りの返事が来る一方、全視協からは前向きな返事が来たので驚きました。というのは、手足のない文月会が、全視協を利用しようと企んでいるとの心ない陰口が蔓延していたのです。ところが橋本さんは文月会をシンクタンクと位置づけて、一緒に運動を行うメリットを全視協の会員に広く訴えてくれたのです。彼がいなかったら雇用連はできなかったので、彼には感謝しています。盲界は有為な人材をなくしました」と当時を振り返りながら冥福を祈った。
しかも橋本は、「人間の尊厳」を理念に掲げ、「家庭と職業と活動のバランス」を心がける庶民感覚を失わない姿勢で、俗に共産党系と呼ばれた全視協の枠を越えて、多くの共感と信頼を集めた。
平成4(1992)年、信仰の深さと幅広い経験を買われ、経営破綻寸前のカトリック点字図書館(カト点)の3代目館長に就任した。しかし、全盲一人でのカト点再建は至難の業と考え、盟友橋秀治に助力を要請した。当時、橋は東京ヘレン・ケラー協会点字出版所編集課長兼『点字ジャーナル』編集長として、仕事に最も油の乗っていた時期であった。
この転職に橋夫人は頑強に反対した。子供はまだ大学生で今後ますます支出が増えることが予想されたためだ。夫人も文京盲学校の同級生であるから橋本の窮地を支えたいのは山々であったが、収入が半減しては元も子もないという現実に直面していたのである。
橋本がどのように説得し、橋がどのように応じたのかは、二人をよく知る橋夫人であっても思いも寄らないが、いわば阿吽の呼吸で、橋はカト点へ無謀な転職を行う。このため、橋はその後カト点の終業後、桜雲会などで深夜まで点字製版のアルバイトを行い、慶應義塾大学に通う長男の学費を稼いだ。一方、橋本も終業後、自宅や深夜に及ぶ出張マッサージで家族の生活を支えた。
財政破綻寸前のカト点を再建するには、社会福祉法人化して措置施設として公的財政支援を受けることが最も確実であった。しかし、東京都内には当時すでに日本点字図書館、日本盲人会連合、東京ヘレン・ケラー協会の3カ所に身体障害者福祉法に基づく点字図書館があり、そこに割って入ることは不可能だと言われていた。
それまで不可能と思われた多くの視覚障害者の権利回復と社会参加運動の先頭に立ってきた橋本宗明は粘りに粘る。そして抜群の記憶力と豊富な知識、人を魅了する弁舌の巧みさと鋭さで、ついに「考える図書館」を掲げて、平成13(2001)年社会福祉法人の認可を勝ち取る。かくしてカト点を社会福祉法人ぶどうの木「ロゴス点字図書館」に改称し、継続して館長に就任した。まさに不可能を可能にしたのであった。
平成16(2004)年、4代目館長を盟友で、11歳年下の橋秀治に託して、橋本宗明はロゴス点字図書館館長を勇退し、以後は法人理事として終生関わり続けた。
同年橋本は以上に述べた貢献が高く評価されて第41回点字毎日文化賞を受賞する。
あとを託された橋秀治は、ロゴス点字図書館を運営しながら、全国組織である日本盲人社会福祉施設協議会の理事長を平成23(2011)年7月から平成31(2019)年 3 月までの4期8年間務めあげた。(福山博)
強盗とその被害者を前に、公正中立を叫んでもナンセンスである。「プーチンは侵略者だとしても、日本人はウクライナのプロパガンダを丸呑みにしてもいいのか? 健全な中間を大切にすべきである」ともっともらしい主張をして、結果的にプーチンの非道に寄り添っている評論家がいる。仮にウクライナが虚偽の事実を宣伝しているというのであれば、その事実を示すべきであって、一般論で中立の立場の正当性を主張するのは、プーチンの思う壺で、結果的に侵略を支援していることになる。
ウクライナ侵攻に合わせてロシアへの経済制裁に加わった国や地域は日本、米国、カナダ、台湾、EU全加盟国など48の国と地域で、これらをロシア政府は3月7日、非友好国に指定した。
松野博一<マツノ・ヒロカズ>官房長官は3月8日、「日本の国民や企業に不利益が及ぶ可能性のある措置を公表したことは遺憾である」とロシアに抗議した。
財務省の貿易統計によると、2021年のロシアからの輸入額は前年比34.8%増の1兆5431億円だった。だが、日本の輸入総額84兆5652億円に占める割合は1.82%に過ぎない。
主な輸入品目は液化天然ガス(LNG)や石炭、原油などのエネルギー資源と、産業用の非鉄金属、魚介類。もっとも輸入額の多いLNGにしてもロシア産は総輸入の7〜8%である。
一方、2021年のロシアへの輸出は前年比37.4%増の8624億円。主な品目は自動車や自動車関連部品、建設用機械など。ちなみに、経済制裁として輸出規制の対象となる半導体等電子部品の輸出額は5億8400万円で対ロシア輸出額全体に占める割合は0.1%である。ロシアからの輸入が途絶えて困るものは、カニ、たらこ、イクラ、ウニ、スケトウダラの卵巣(辛子明太子やたらこの原料)などの魚介類か? いずれにしても日本の経済や生活に大打撃になるとは考えられない。
巻頭コラムで紹介したロシアの友好国に肩を並べるより、非友好国に指定された方がどれだけ名誉なことか? (福山博)
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