秋篠宮家の長女・眞子さん(30歳)が10月26日、国際基督教大学(ICU)在学時の同級生だった小室圭さん(30歳)と結婚された。おめでたいことだが、小誌はお二人に特に関心はなく、そっとしておいてあげればいいのにと思うだけである。
皇室を離れ、民間人となった眞子さんが同日午後、圭さんとともに東京都内のホテルで記者会見に臨まれた。そのときの発言全文が、10月27日付『毎日新聞』(朝刊)に掲載されたので興味深く読み、2017年7月8日に婚約内定してから4年余の迷走の一端を垣間見たような気がした。お二方は日本語で会見されたわけだが、その内容は英文を直訳したようなもので、日本人の琴線には届きにくいものだった。
小学生にまで英語を学ばせて、日本人の「英語信仰」は度し難いように思う。今後もこの手の誤解や混乱が頻発するのではないかと心配する老婆心からここに記す。
例えば、眞子さんは「私に温かい気持ちを向けてくださった全ての方々に心から感謝申し上げます」とか、「私のことを思い、静かに心配してくださった方々や、事実に基づかない情報に惑わされず、私と圭さんを変わらずに応援してくださった方々に感謝しております」とか、「厳しい状況の中でも、圭さんを信じ続けてくださった方々に感謝しております」と謝辞を繰り返された。
英語の専門家によれば、これらを英語に直訳するとなんら問題なく、一般的によく使われる自然な英語になるということだった。さすが英日バイリンガル教育を行うICUの卒業生だけのことはある。しかし、日本語としてはいかがだろうか。日本語では感謝する対象を絞らないで、「皆様のおかげです」という風に対象を広くとるのが普通だ。このため眞子さんの発言は、英語とは違い日本語では、とてもトゲのある文脈となる。
「事実に基づかない情報」に惑わされたり、圭さんを信じず、眞子さんと圭さんを変わらずに応援しなかった人々に対してケンカを売っているようにも聞こえるのである。(福山博)
【9月23日、東京2020パラリンピックS11水泳100mバタフライで金メダルと100m平泳ぎで銀メダルを獲得した木村敬一選手(31歳、東京ガス)に電話取材し、リオデジャネイロ大会から東京大会までの5年間を振り返るとともに、今後パラリンピックを一過性のものに終わらせないための方策等を聞いた。以下、敬称略。取材・構成は本誌戸塚辰永】
「金メダルを獲った瞬間、心の中にあったいろんな想いが全部抜け落ちたなと思いました。喜びも、今まで頑張ってきたもの、支えてくれてきた人への思いが全部あふれ出して、いったん空っぽになっちゃった感じでした」と、9月3日に行われた100mバタフライ決勝を振り返る。それほど、木村にとってパラリンピックで金メダルを獲ることは、人生唯一最大の悲願であった。
2015年IPC世界水泳選手権大会で100mバタフライ S11で金メダルを獲った彼は、一躍2016年リオデジャネイロパラリンピック同競技の大本命となった。ところが結果は100mバタフライで木村は1分2秒43。ライバルのスペイン代表イスラエル・オリバーに0.19秒というタッチの差で惜しくも金メダルを逃した。
リオに向けて過酷な練習を積んできた木村は、金メダルに届かなかった事態に、これ以上どうしたらいいのか分からず絶望感を抱いた。
だが、26歳と若く、しかも金メダルという目標はまだ高く聳えており、しかも次回は自国開催でもあり、東京大会を辞退する理由などなかった。
しかしこれ以上自分を追い込むような環境で努力し続けるのは無理だと思った木村は、逃げ出す思いで練習拠点を米国メリーランド州ボルチモアに移すことに決めた。そして所属する東京ガスは、彼が英語を話せるようになり、人間的にも成長するのであれば良いことだと快諾し、米国滞在中の経費も保証して彼の背中を押してくれた。
渡米のきっかけは、ライバルであったパラリンピック水泳米国代表のブラッド・スナイダー選手へのメールであり、それに対するスナイダーの親切なアドバイスだった。
彼は米国海軍爆発物処理将校(中尉)だった2011年9月、アフガン駐留中に簡易爆発装置を踏み全盲となった。
そこから彼は不屈の精神で、翌2012年ロンドンパラリンピック大会水泳で金2個、リオで金3個を獲った。
彼は米国海軍兵学校があるメリーランド州アナポリスに住んでおり、隣町のボルチモアにあって、自らも師事していたロヨラ大学メリーランド(LUM)の水泳とダイビングチームのヘッドコーチ・ブライアン・レフラーを木村に紹介した。同ヘッドコーチは、何人ものパラリンピック金メダリストを育てた伝説のコーチである。
ブラッド・スナイダー(37歳)は東京2020パラリンピックからはトライアスロン男子 PTVIに転向し、見事金メダルを獲得した。現在、彼は母校でもある海軍兵学校で教鞭をとっている。
木村は2018年6月から学生寮で生活を始め、当初は英語で苦労したが、ちょっとした買い物ができたりすることにも喜びを感じた。また、木村の人柄もあって現地に住む日本人も助けてくれた。その中の1人は元メジャーリーガーの上原浩治で、学生寮に入る前の5日間自宅に泊めてくれた。そして彼の妻は愛車のポルシェでプールとの送り迎えをしてくれた。すぐに学生寮の仲間や水泳部員、他のパラリンピアンとも打ち解け、水泳の練習、ジムでのトレーニング、語学学校の勉強に積極的に取り組み、米国での生活をエンジョイした。
LUMの朝練は6時から始まるが、水泳部員は6時ちょうどに集合し、準備運動もせずいきなり泳ぎだした。とても驚いたが、郷に入れば郷に従えというので木村もとりあえず真似した。しかし、すぐにエンジンがかからないどころか、白人とはそもそも体のつくりが違うので、これではケガをすると思ってやめた。それから木村は朝4時半に起床し、朝食を済ませた後、丹念な準備運動をした。そして仲間の運転する車でプールへと向かう日々を過ごした。
大学の夏休みは、6月から8月いっぱいの3ヶ月と長く学生は実家に帰る。その間、木村ら社会人パラアスリートは、同大のプールでヘッドコーチの指導を集中的に受けた。
充実した生活を送っていた木村だったが、2020年3月に入ると米国でも新型コロナウイルス感染症が流行りだしてロックダウンが始まり、通っていたスポーツジムや大学も閉鎖された。これでは米国で生活する意味がないと思った木村は、荷物をまとめ3月中旬に帰国した。すると帰国1週間後、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決まった。
パラアスリートの中には第1次緊急事態宣言下でも、様々な工夫をして練習に取り組む人々もいたが、パラリンピックが1年延期され、大きな大会はないと思った木村は、第1次緊急事態宣言中は滋賀県の実家であえてトレーニングをせず、甥っ子と遊んだり、米国での経験を記し、ネット上の配信サイト「note」に米国での思い出をあげたりした。
緊急事態宣言が明けしばらくたつと感染症予防対策を十分とって、日本代表選手は、東京板橋区にあるナショナルトレーニングセンター(NTC)の施設や長野県東御市<トウミシ>にあるGMOアスリーツパーク湯の丸<ユノマル>プール(標高1735m)でトレーニングを徐々に再開し、木村もそれに加わった。
パラリンピックがだんだん近づいてきた2021年4月ごろから、木村はプレッシャーから睡眠障害に悩まされるようになった。周囲からの金メダルへの期待というプレッシャーはむしろ小さく、金メダルを獲らなければならないという自分自身にかけたプレッシャーが重くのし掛かりそれと戦った。それに打ち勝つことができたのは米国での経験があったからで、精神的にはかなりタフになったと思う。
パラリンピックが始まると、試合直前という緊張感も当然あったが、木村はむしろ選手村での生活を楽しむことにした。選手村では、気心の知れた選手4人で和気あいあい生活し、部屋も快適だった。数々の世界大会を経験してきたが、中には水道水を口に含むことができなかったり、シャワーの水圧が弱いところもあった。海外遠征先では、日本人の口に合わない奇妙奇天烈な食べ物も少なくなく、口に合う食事を見つけるまでに数日かかることもあった。だが、自国開催で餃子やトリの唐揚げといった食べ慣れた食事が摂れて安心できた。
大会終了後、日本パラリンピック委員会はメダル一つにつき、金300万円、銀200万円、銅100万円をメダリストに贈った。木村は金と銀を一つずつ獲得したので、500万円を受け取った。使い道は新たな目的が決まったらそれに使うという。
アスリートの社会貢献活動として、障害者へのスポーツ普及についてたずねると、「スポーツは障害者が社会とつながっていくためのとてもいいツールだと思います。僕は泳げたから大学で水泳サークルに入れてもらえて、盲学校育ちですけど、健常の友達もできました。障害者は同じコミュニティの中で完結しがちですが、それを超えていけるきっかけづくりにスポーツはなると思うので、障害者がスポーツができ、社会とつながっていけるきっかけを作る役割をしていきたいと思います」。そして次回の2024年のパリ大会出場については、「金メダルという人生最大の目標を達成できたので、それ以上のモチベーションにつながる目標を立てなければなりません」と今の思いを述べた。
トップ・アスリートの強化練習を行うための施設としてNTCがあるが、2019年にバリアフリー対応棟の「イースト」ができ、パラアスリートがとても練習しやすい環境が整った。それまで水泳選手は、練習会場となるプールを捜し、練習の時間もプールの開館時間と自分のスケジュールをすり合わせることに苦労していたが、イーストができたことにより、そうした煩わしさから開放され、常に最新の設備の下、十分にトレーニングできる環境が整備された。もちろん、イーストは食堂や宿泊施設も充実しており、快適に過ごすことができる。
イーストは2019年にオープンしたので、もしパラリンピックが延期されていなかったら、1年しか使用することができなかった。2年使用できたことは、日本選手のパラリンピックでの活躍の原動力となったことに間違いない。
東京2020パラリンピックに向けて、政府も各企業も資金面で支援し、パラアスリートの練習環境が整った。それにより合宿が組めるようになったり、トレーニング機器が購入できるようになった。それとは別に、特に視覚障害者の場合トレーニングの際にもサポートが必要である。それには、当然人件費がかかるが、それを払えるようになったのはここ5、6年前からであり、それまではまったくボランティアで、トレーニングや試合のサポートをしてもらっていた。
木村は、試合の際に全力で泳ぐためにタッピングをしてもらい壁に激突しないように「タッパー」のサポートを受ける。トップスイマーの練習は月から土曜の週6日、1日午前2時間午後2時間計4時間。タッパーの都合がつかないときには、腕を何回かいたか数えることにより、安全に留意しながら練習した。しかし、近年急速に国際レベルが上がってきており、練習にもタッパーやトレーナー等のサポーターが欠かせなくなり、応分の人件費がかかるようになった。
それ以外にも会場費、コーチング料、トレーニングジム使用料、栄養指導等にも費用がかかる。東京パラリンピックに向けて、それらの資金が潤沢に確保できるようになったことを、木村は一種の「バブル」ととらえている。一方、パラリンピックの1年延期を受けて、選手への資金援助を打ち切った企業も少なくないという。選手によっては雇用契約を解消されたケースもあったそうである。
パラリンピックが終わり、今後企業からの経済的な支援は確実に減っていくと思われる。木村は、東京パラリンピックをやり切ったことに大きな意味があると感じている。それは、未だかつてないほどテレビで放送されたり、たくさんの人に応援してもらったり、インターネットの普及によって人々の眼に触れる機会が増え、選手自身もSNSで発信するチャンスをもらえるようになったからだ。
「これから経済的な支援は減っていくかもしれませんが、盛り上がり自体を継続させることは、我々選手の努力次第で可能だと思います。その盛り上がりがあれば、応援する企業が続いていくと思っているので、このパラリンピックのピークに達した熱を冷めさせないように我々は努力せねばなりません」と述べた。
そして「もちろんスポーツなので、1回は競技会に足を運んでもらって試合を観てもらうというのが一番です。しかし、それだけではパラスポーツはオリンピックにはかないません。しかし、パラスポーツには障害のある人間が様々なバックボーンを持って競い合っているという強みがあります。パラアスリートは、話をしたり、物を書いたりするスキルを磨いて情報を発信することにより、スポーツだけでなく選手自身を応援してもらえるような存在になっていく必要があるのです」と力を込めた。
木村は、情報発信の一つとして自身の半生を綴った著書『闇を泳ぐ 全盲スイマー、自分を超えて世界に挑む』(ミライカナイ刊、1,650円)を2020年8月20日に上梓し、すでに重版が決まるなど反響も大きい。なお、同書は点訳・音訳されており、サピエ図書館からダウンロードして読むことができる。また、プロの声優が朗読した同書も発売されており、スマートフォンにダウンロードして楽しむことができる。
「田舎のハロウィン」で、保育園児に「グッドモーニング」、「トリック・オア・トリート」、「サンキュー」と英語で言わせることを肯定したので、私が「幼児向け英会話を肯定している」ように思われたとしたら心外です。
それはまったくの逆で、「お菓子をくれないと、いたずらするぞ」というような、ヤクザな日本語をいたいけな子供にしゃべらせるくらいなら、「おごるか、イタズラか」と短縮されたハロウィンのときしか使わない呪文のような英語をしゃべらせた方が、よほどましだというだけの話です。
「グッドモーニング」も「サンキュー」も半ば日本語化しているのですから、それに一つ付け加える程度の考えです。転んだ子供に母親が、「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでけ!」というのと同じで、「トリック・オア・トリート」も、ハロウィン限定のお菓子をもらう呪文として教えた方がいいに決まっています。
小学校で英語を教えることに私は断固反対しており、その時間を国語の時間にすべきだと考えています。それは、日本に居住する人々は国籍に関わらず、四六時中奥が深い日本語と付き合わざるを得ないからです。
もちろん将来海外に移住する計画があるなら別途、その国の言葉を学ぶべきことは同様に当然のことです。1954年11月に長崎市でうまれた石黒一雄氏が、6歳のときに家族とともに英国に移住し、長じて英語で小説を書き、2017年度ノーベル文学賞を受賞されたわけですから、彼が学んだであろう幼児向け英会話はもちろん肯定されてしかるべきです。
それでも「サー・カズオ・イシグロ」は、英語が母語の質問者に対しては「言語学的には同じくらいの堅固な(英語の)基盤を持っていません」と返答しています。そして、ノーベル賞を受賞したときには、日本語は話せないとも述べています。しかし、彼は今でも母親とは日本語で会話しているそうです。彼は日本語でインタビューされたら語彙不足で、十分中身のある受け答えができそうになくてそう話したのではないでしょうか?
このエピソードは、日本で暮らすのならまず堅固な日本語の基盤を持つことが必要と教えていないでしょうか。(福山博)
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