THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2021年10月号

第52巻10号(通巻第617号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:奥村博史
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:政権に近い新聞のアドバイス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
3
瞽女を顕彰し、琵琶盲僧を記録した川野楠己氏にサリバン賞 ・・・・・・・・・・・・
5
読書人のおしゃべり 『あまねく届け!光』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
16
(寄稿)伴走ボランティアが金メダル! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19
涙の大願成就 ― パラ水泳木村敬一4大会目で悲願の金! ・・・・・・・・・・・・・
25
(寄稿)虐げられてきた者たちへの深い愛情を感じて
  ― 大木トオル・セラピードッグ講演会&チャリティライブより ・・・・・・・・・・
29
ネパールの盲教育と私の半生(4)ビレンドラ・シールド(優勝楯)競技大会 ・・
34
西洋医学採用のあゆみ(7)医制の発布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
39
自分が変わること(147)酔いどれクライマー、永田東一郎の生きた時代  ・・・
44
リレーエッセイ:囲碁との出会いと明日への一手(下)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
49
アフターセブン(79)お金について学ぶ場をつくろう ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
  (230)丈夫で長持ちのモンゴル出身の“鉄人” ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
時代の風:心不全患者一人一人に適切な運動量、ほか ・・・・・・・・・・・・・・・
62
伝言板:京都視障センター「体験見学会2021」、Tokyo Eye Festival、
  久我山青光学園学校見学、ほか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
政権に近い新聞のアドバイス

 『毎日』の最新の世論調査で内閣支持率が26%まで落ち込んだ。このまま衆院選をおこなえば自民党は惨敗するので、「菅降ろし」が始まり、菅義偉首相は9月3日、自民党総裁選に出馬しない旨表明。昨年9月16日に発足した菅内閣は1年余りで幕を閉じることになった。
 いうまでもなく、政権基盤は国政選挙に勝てるかどうかに大きく左右される。安倍晋三内閣が歴代最長記録を打ち立てたのも、政権復帰前の衆院選を含め、国政選挙で6連勝したためである。昨年9月30日付『日経』のインタビュー記事を読むと、在任中、安倍首相はどのタイミングで解散すれば自民党の代議士を最大化できるかについて腐心していたことがわかる。
 点字選挙公報製作の都合上、私は解散総選挙をいつも気にしている。このため政局が少しでも動くと、政権に近い『産経』を熟読する。これは小選挙区比例代表並立制が導入される1994年以前からなので30年来の習慣だ。
 昨年9月菅政権が誕生すると内閣支持率は、複数の世論調査で74%を記録し、同9月17日付『産経』はこう書いた。
 「菅首相は、衆院解散・総選挙慎重な構えを崩していないが、急がば回れ。コロナ禍が小康状態にある今こそ国民に信を問うべきであろう。来年までの短期政権でいい、というのであればお勧めはしないが」と。
 同9月21日のBSフジの番組で、自民党の前選対委員長・下村博文<シモムラ・ハクブン>政調会長は、「(自分が)選対委員長だったら、自民党の国会議員のほぼ総意、即解散」「自民党の支持率も上がっている。党の若手は、ほぼ全員が早く選挙をやってもらいたいと思っている」と述べ、すぐにも衆院を解散するべきだと述べた。
 しかし菅首相は、結果的に『産経』ではなく、早期解散に反対する政権に厳しい『朝日』や『毎日』の見解に従って墓穴を掘ったようである。(福山博)

瞽女を顕彰し、琵琶盲僧を記録した川野楠己氏にサリバン賞

 本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」は、元NHKチーフディレクターで、瞽女文化を顕彰する会発起人と、琵琶盲僧永田法順<ナガタ・ホウジュン>を記録する会元代表の川野楠己氏(91歳)に決定した。
 第29回を迎えた本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で外部からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害委員によって選考される。
 贈賞式は10月1日オンラインでの開催を予定し、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
 以下、敬称略。取材と構成は本誌編集長福山博。

文化財の価値を知るには

 1980(昭和55)年頃から川野楠己は宮崎県延岡市の盲(もう)僧寺(そうでら)、長久山(ちょうきゅうざん)浄(じょう)満寺(まんじ)の15代住職永田法順のもとに度々通っている。最初のころ、「何か歴史資料や記録が残されているのに違いない」と、延岡市教育委員会をたずねた。応対した若い文化財担当は、「単なる民間の一宗教ですから、特に何の記録もありません」とにべもなかった。
 驚いた川野は「何をいうんだ。こんな素晴らしい伝統文化が地元に残っているのに気づかないなんて。これは本当に貴重な日本の文化財だからすぐ調べ直しなさい」と言って、何のために東京のNHKから何度も足を運んでいるのかを縷々説明した。
 するとその担当者は、奮起して調べ、全国の民俗学者、音楽関係者が研究対象にする貴重な文化財であるとの認識を持った。その結果、「日向盲僧琵琶」は2001年に同市の無形文化財第1号となり、2002年には宮崎県の無形文化財の指定を受け永田法順がその保持者として認められた。だが、2010(平成22)年1月24日に74歳で急逝。いましばらく長生きしたら人間国宝に指定されたのにと延岡市教委関係者は悔しがった。
 川野がなぜ延岡まで足を運ぶことになったのか、それには彼の半生の仕事ぶりが深く関係した。

終戦と占領からの解放

 1930(昭和5)年8月、東京生まれの川野楠己は、戦争の激化とともに旧制中学を休学して1944(昭和19)年8月、父親の郷里・鹿児島県に疎開した。隣町には知覧飛行場があり、川野は掩体壕や誘導路建設の勤労奉仕にかり出された。
 1945(昭和20)年4月、沖縄本島へ米軍が上陸すると、次は九州だと言われた。実際、それから連日B29米軍爆撃機が空を覆うような大編隊で九州各地を爆撃するようになった。
 東京よりよほど危険と感じた父親は、同年5月川野を連れ戻す。だが空襲のたびに逃げ惑った。焔は大田区大森の自宅付近にまで迫ったが幸い、路地の入口にあった銀杏の樹が類焼から護ってくれた。
 終戦を迎えた8月15日の玉音放送を聞いた日、川野は自宅の路地に聳えていた銀杏の樹の黒焦げになったその根元から小さな緑の若葉が芽吹ているのをみつけ、平和を実感した。大きな感動だった。15歳の誕生日を迎える8日前のことだった。
 専門学校を卒業した21歳の川野は、狭き門をくぐり1952(昭和27)年4月にNHKに入局し制作スタッフの一人となった。その直後、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本はGHQによる占領を解除され主権を回復したが、社会は戦争の重い傷をまだ引きずっていた。テレビは実験放送の段階で、ラジオドラマが花形番組だった。
 当時は、すべて生放送。先輩に教えられながらスタジオワークを磨いた。1960年代から6ミリテープが登場し録音、編集が容易になり、番組制作は様変わりした。川野もテープレコーダーを肩に取材して歩き、録音構成の手法を生かしたラジオドキュメンタリー番組の制作にのめり込んだ。
 1965(昭和40)年春、東京・雑司が谷の東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の校舎屋上で、狭い教室から解放された視覚障害児が叫んだ。
 「わぁ、風がきれいだぁ」、ほかの子供達も「きれいだねー」と相槌を打つ。
 録音されたテープを手に、「僕たちの声がはいっちゃった! ぼくたちの声がぺちゃんこになっちゃった!」と驚きの声を上げた。
 その前年から川野は視覚障害児が、見たことのないものをいかに把握し、理解していくのか、その過程を追ってマイクを向けていた。
 番組は11月3日文化の日に30分の録音構成「目から手が出る」と題しラジオ第一で放送された。視覚障害児の世界を探るドキュメンタリーで文化庁芸術祭ラジオ部門に参加して、NHK初の奨励賞を受賞した。

「盲人の時間」とともに

 同番組を契機に翌1966(昭和41)年4月から川野は、NHKラジオ第二放送で毎週1回30分番組の「盲人の時間」(現・視覚障害ナビラジオ)を担当するようになった。同番組は、東京オリンピック直前の1964(昭和39)年4月に開始された。ディレクターは川野で3人目。それまでは1年で交代していたが、川野はなんと定年まで25年間も担当した。
 ラジオは、言葉を中心に音楽と音をバランスよく組み合わせることによって、リスナーの脳裏にイメージを浮かび上がらせることが自由にできる。瞬時にして現代、過去、未来を往復し宇宙でも海中でも表現できる。その魅力に浸りながら、テレビに変わりつつある中で、映像のない自由な空間。映像よりもリアルでより深いイメージをラジオで表現できると信じて挑戦した。
 川野と「盲人の時間」は相性がよかった。その根底にあったものは視覚障害者に、いかに鮮明なイメージを正確に伝えることが出来るかと考え続けたことで、それが制作上の大きなモチベーションになった。
 当然の成り行きで川野もテレビ番組を制作した。その数はせいぜい30本ぐらいである。一方、ラジオ番組はゆうに1000本を超えた。
 川野は「盲人の時間」を担当しながらもラジオドキュメンタリー制作にも打ち込んだ。芸術祭文部大臣賞を受賞した「窓の中の風景」など重厚な作品とともに「竹の音」「絹の音」「晴れ着」などラジオでもより映像的な情景を表現できることを実証し続けた。川野は「楽しかった。ラジオの向こう側で大勢のリスナーが聞いているとおもうと夢中になった」と40年前を振り返る。
 1973(昭和48)年10月7日の「盲人の時間」で、働く盲人たちのシリーズとして琵琶を奏でて仏教説話を語り家内安全を祈願して歩く大分県の琵琶盲僧・木清玄<タカギ・セイゲン>を放送した。平曲以来の視覚障害者による琵琶の伝承に興味を持った。調べると九州各地に琵琶の流れがあった。早速肥後の琵琶法師を探して第一放送で紹介したがすでに肥後琵琶は途絶える寸前だった。
 一方で明治維新まで島津藩の保護を受けていた鹿児島県の常楽院法流<ジョウラクインホウリュウ>は県の無形文化財「妙音十二楽<ミョウオンジュウニガク>」を継承していた。その一人に宮崎県延岡市の浄満寺の盲僧永田法順住職がいた。日向の風土に鍛えられた太く美しい声と正確な音程でリズミカルに演じる琵琶の音に現世を超越した異次元に導かれるやすらぎがあった。法順はこの声と琵琶で家内安全五穀豊穣を祈願し家屋敷の不浄を払って延岡市とその近隣1000軒の檀家を回っていた。
 川野が瞽女と関わるのも「盲人の時間」が縁だった。先覚者・斎藤百合の関係者として、新潟県立高田盲学校教諭・粟津キヨを取材したとき、「この地には瞽女の杉本さん一家がおられます」との話を聞いた。
 杉本キクイは、1970(昭和45)年瞽女唄が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定され、1973(昭和48)年には、黄綬褒章が授与された。
 引退していた小林ハルもNHK FMで紹介されるとにわかに注目され、国立劇場で公演するまでになった。そして1978(昭和53)年瞽女唄の伝承者に認定され、1979(昭和54)年には、黄綬褒章が授与された。
 同年、川野は新潟県胎内市にある養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に住む小林ハルを取材し、苦難の人生を聞いた。視覚障害者が担ってきた琵琶、箏曲、三味線といった日本の伝統文化の伝承は瞽女にもつながっていた。
 取材を続けた川野は、「盲人の時間」などで瞽女の番組を度々放送した。1986(昭和61)年には一般向けの第一放送でラジオドキュメンタリー「私とハルばあさん」を制作し、同年度の文化庁芸術祭で芸術作品賞文部大臣大賞を受けた。そして放送文化基金賞も受賞した。

定年後のライフワーク

 1990(平成2)年、川野は全国の視覚障害者から惜しまれながらNHKを定年退職したが、その後も毎年春と秋に必ず小林ハルの元を訪ね続けた。
 小林ハルの声と瞽女唄を何としても後世に伝えたいと、1996(平成8)年にCD『最後の瞽女小林ハル ― 96歳の絶唱』を自費で制作し、レコード業界からも注目された。
 そして小林ハルの苦難の歩みに応えるために顕彰する会の設立を思い立った。新潟県内の文化人、福祉関係者を説いて回り1999(平成11)年5月、盲老人ホームやすらぎの家の運営母体である社会福祉法人愛光会を軸に300人の会員を集めて『瞽女文化を顕彰する会』を結成した。翌年秋には、全国から浄財を募り「瞽女顕彰碑」を、やすらぎの家の前庭に建立しハルの百寿<ヒャクジュ>を祝った。
 川野はさらに2005(平成17)年にはNHK出版から『最後の瞽女小林ハル ― 光を求めた105歳』を刊行し、2014(平成26)年には、鉱脈社から『瞽女キクイとハル ― 強く生きた盲女性たち』を出版した。
 これらの著作を読んで小林ハルの存在を知った映画監督の瀧澤正治<タキザワ・マサハル>は、瞽女を主人公とした劇場映画製作を企画し、製作費1億円の資金調達に苦闘しながら2020(令和2)年に完成させた。全国100余ヵ所で公開上映が続けられている。作品はベルリン国際映画祭にも出品され好評を得た。
 一方で、定年後の川野は、宮崎県延岡市にも通い続けた。2001(平成13)年NHK出版から『琵琶盲僧永田法順 ― 現代に響く四絃の譜』を、2005(平成17)年にはアド・ポポロから、CD、DVD、写真による『琵琶盲僧・永田法順全集』(同年度文化庁芸術祭レコード部門大賞受賞)を、2012(平成24)年には鉱脈社から『最後の琵琶盲僧 永田法順 ― その祈りの世界と生涯』を上梓している。
 1878(明治11)年本山の比叡山に届けた名簿には214人の名があった琵琶盲僧は、昭和末期には檀家を回るのは法順唯一人になっていた。伝承された文化財の終焉を見届けた川野は、記録を残すことの必要性に駆られた。取材した録音と写真を地元教育委員会でデジタル化して保存するためにすべてを寄託した。最後の瞽女も最後の琵琶法師も消えてしまったが、その生涯と業績は顕彰され、両者の深みのある歌声は、川野の尽力があって、蝋燭が最後にまばゆい光を放つように見事に記録され、今に残されている。

編集ログ

 東京パラ最終日の9月5日、女子マラソン(視覚障害)で道下美里(44歳)が金を、同男子で堀越信司<ホリコシ・タダシ>(33歳)が銅メダルを手にしました。政府・東京都が一喜一憂し、結果的に感染症対策が後手に回ったため、開催に対して賛否両論が聞かれましたが、終わりよければすべてよしとしたいものです。
 「伴走ボランティアが金メダル!」の記事中「須ア優衣<スサキ・ユイ>(22歳)のオリンピック代表の可能性は99.9%なくなった」というのは、女子レスリング50kg級には登坂絵莉<トウサカ・エリ>(28歳)、入江<イリエ>ゆき(29歳)のライバルがおり、まず、実績のある登坂は2018年12月の全日本選抜で入江に、2019年6月の全日本選抜で須アに敗れ、五輪代表の芽が摘まれました。そして同年7月のプレーオフで入江が須崎を降ろし、世界選手権初出場を決めました。そこで入江がメダルを獲れば東京五輪代表が決まるのですが、彼女が3位までに入ることは99.9%確実だと思われていました。
 ところが9月の世界選手権に出場した入江はまさかの3回戦敗退で、自身の五輪への出場切符をもぎ取るどころか、日本の出場枠すら勝ち取ることができなかったのです。
 こうして振り出しに戻り、奇跡的に須崎にもチャンスが回ってきました。そして12月の全日本選手権の決勝で須崎は入江に勝ち、今年の4月に行われた東京五輪アジア予選でも1位となって、五輪出場枠を獲得したのでした。
 東京五輪で須アは予選から決勝まで相手に1点も取られずに勝ち進んだので、結果から見れば須アにとっては金メダルを獲ることより、日本代表になることの方がはるかに難しかったようです。以上、敬称は略しました。(福山博)

訂正

 本誌2021年9月号掲載の「新聞リーディングサービス 37年の歴史に幕 ―― NTTゆいの会 ――」の記事で、会が活動するNTT品川ツインズビルの住所が東京都品川区とあるのは東京都港区の誤りでした。訂正します。

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