THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2021年8月号

第52巻8号(通巻第615号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:奥村博史
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:器の大小と選挙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
3
サポートの心と大切さを肝に銘じて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
(インタビュー)田畑美智子さんお疲れさま!
  ― WBUAP会長9年間を振り返って
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7
スモールトーク 英首相命の恩人の失望 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
ネパールの盲教育と私の半生(2)課外活動の展開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
鳥の目、虫の目 親の死に目に会えない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
西洋医学採用のあゆみ(5)西洋医学の採用その2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
自分が変わること(145)青空のように空っぽに  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
43
リレーエッセイ:75歳でタンデムを楽しむ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
アフターセブン(77)ナスで財を成す ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
  (228)行司が土俵の“主役”になった場所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
時代の風:チャレンジ賞・サフラン賞受賞者決定、特定健診では異常なしとされる
  フレイルの進行を下腿周囲径や握力で診断、毛の細胞が水ぶくれを
  治すことを発見、人工知能は精神科医よりも高精度でメンタルヘルスの
  状態を判定できる、ほか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
伝言板:第8回企画展「タッチ The スポーツ!」、塙保己一賞候補者募集、
  視覚障害者ガイドヘルパー養成研修(同行援護 一般課程 通学)、
  視覚障害者教養講座 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
器の大小と選挙

 東京都議選は、50議席以上の大勝と予測されていた自民党は最終日に失速し、辛うじて第一党となったものの33議席に留まった。公明党は前回と同じく23議席を獲得したが、自公であわせても最低ラインとした過半数(64議席)に遠く及ばなかった。
 衆議院の任期は今年10月までで解散総選挙は目前である。国政選挙で6戦6勝した安倍前首相と違って、菅義偉<スガ・ヨシヒデ>首相は4月の衆参補選・再選挙で3連敗、千葉県知事選挙、静岡県知事選挙でも敗北しており選挙に弱い。そこで菅首相では解散総選挙は戦えないとなれば、これからは政局になるとさえ言われている。
 菅氏は安倍政権を官房長官として支え続けてきたので、首相になるとすぐに安倍政権の継承を強く打ち出したが、この二人の違いはなんなのだろうか。
 西村泰彦<ニシムラ・ヤスヒコ>宮内庁長官が6月24日の会見で、東京五輪・パラリンピックについて「開催が感染拡大につながらないか、(天皇陛下は)ご懸念されていると拝察している」と発言した。同長官は会見の前に杉田和博<スギタ・カズヒロ>内閣官房副長官を通じて官邸にその旨発言すると伝えており、菅首相以下、陛下のご懸念に言及することはすでに耳に入っていた。
 そこで菅首相、加藤勝信<カトウ・カツノブ>内閣官房長官、丸川珠代<マルカワ・タマヨ>五輪担当大臣らは、翌25日に異口同音に、「長官ご自身の考えを述べられたと承知している」などと語り、「火消し」に走った。しかし、西村長官自身は「陛下はそうお考えではないかと、私は思っています」と言い切っているので、否定するのには少しムリがある。
 一方、安倍晋三前首相は6月25日、訪問先の前橋市で「コロナの状況があるから、様々なご心配があるだろうなと思う。だからこそ安心で安全な大会にしていくという大きな責任を私たちは負っていると思う」と語った。菅首相らの官僚的答弁と比べると器がだいぶ違うようである。(福山博)

サポートの心と大切さを肝に銘じて

東京ヘレン・ケラー協会点字出版所長/塚本泉

 7月1日付で東京ヘレン・ケラー協会の業務執行理事および点字出版所長に就任しました。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、埼玉県出身の64歳。1982年、早稲田大政治経済学部を卒業し、毎日新聞社入社。中部本社報道部・東京本社社会部の記者、川崎・水戸支局長、内部監査室委員などを経験しました。
 以前、盲学校の元美術教諭が1枚の木の板から人形などを切り抜く「組み木」作りに定年退職後も取り組んで開いた作品展を取材したことがあります。「視覚障害児が木のぬくもりを知り、遊び、おもちゃを作る楽しさも知ってほしい」との願いを込めていました。見えなくても手で触れ、耳で聞き、楽しみ、学ぶことができる、そのためにできるお手伝いをずっと続ける。その心意気に触れ、支援の大切さを痛感しました。
駅や街で白杖を手に困った様子の方を見て、声掛けをすることがあります。スムーズに誘導できた時もある一方、意思疎通がうまくいかず十数分で行ける所に小1時間もかかってしまう失態を演じたこともあります。今回、協会主催の「同行援護従業者養成研修」を受講し、視覚障害者の外出支援の知識や技術を基本から学び、今後の日常のサポートや業務に役立てていく所存です。
ヘレン・ケラー女史は「盲目であることは悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです」と言われたそうです。高田馬場駅周辺には当協会はじめ視覚障害者の支援施設が多くあり、日本で最初に点字ブロックが大規模に敷設されたとも聞きます。その地で、設立71年を迎えた当協会で、福祉業務に携われることは名誉なことです。社会福祉や協会を取り巻く環境は厳しくなり、「コロナ禍」の社会不安もまだ続きそうですが、しっかりと目を見開き、サポートの心と大切さを忘れないよう肝に銘じて業務に取り組み、皆さんのお役に立てればとの思いを強くしています。

(インタビュー)
田畑美智子さんお疲れさま!
――WBUAP会長9年間を振り返って――

 【2012年11月、タイ王国のバンコクでWBU(世界盲人連合)の総会が行われ13日にはWBUAP総会で役員選挙が行われ、田畑美智子さんが現職会長を52対17の票差で破り会長に選出されました。そして彼女は2016年に再選され、今年の6月30日に惜しまれながら退任しました。
 よく知られているように米国大統領は、4年に1度国民の投票によって選ばれ、任期は1期につき4年で、2度を超えて選出されることはありません(3選禁止)。同様にWBUAPの会長も3選禁止なので、通常は最長の任期は8年ですが、昨年はコロナ禍によりWBUもWBUAPも総会が開催できず、任期が1年延びました。このため田畑美智子さんは例外的に9年間WBUAP会長を務めました。
 そこで田畑さんにWBUAP会長としてのこの9年間を振り返ってもらうためにインタビューをお願いしましたが、そこに至るまでの経緯と彼女の人となりもあわせて紹介します。インタビュアーは本誌編集長福山博、記録と構成は戸塚辰永】

得意教科は英語

 田畑美智子さんは1963年12月に東京都目黒区で生まれた。生まれつき強度の弱視だったため幼稚部から高等部3年まで筑波大学附属盲学校で学び、得意科目は英語だったことから高校2年生の時テキサス州立盲学校に留学した。
 英語に触れるきっかけは、小学部の頃カーペンターズが大好きで、その歌を丸暗記して歌っていた。そして中学部で英語を習い始めた時には、当時若い女性に人気があった英国のベイシティ・ローラーズのポップ・ロックにはまりこれが英語を勉強する上でのモチベーションになり、英語漬けの毎日だった。
 外の世界とくに外国語へのあこがれは、毎日自宅と学校との往復、あとはせいぜい夏休みなどに祖母の家があった神奈川県の湘南へ行くのが精一杯という狭い社会から、もっと広い世界に羽ばたきたいといつも思っていたからだった。
 高等部に進むと附属盲では英語ネイティブと話す授業があり火に油が注がれた。そして英語教師が留学支援団体の申請要綱を見つけてきた。かくして高校2年の8月サンフランシスコ経由の日本航空便で、テキサス州の州都オースティンにあるテキサス州立盲学校に着いた。
 寮で暮らし始め、授業は9月から始まったが、彼女は米国南部の強いなまりが聞き取れず呆然とした。また、それまで社交的な機会がなく育ってきたので、新しい環境にどのように適合するのかで大いに悩んだ。ただ、米国のラジオは24時間同じジャンルの曲ばかりをかけるので、好きなポップ・ミュージックのお陰でホームシックにはならなかった。
 こうして米国での生活には2か月ほどで慣れ、10月末に行われるハロウィンで学校中が大騒ぎではしゃいで、それ以来緊張しないで暮らしていけた。困ったのは食事で、大量の肉が口に合いすぎて4か月で10kgも太ってしまった。
 南部なまりの英語に慣れたといっても授業についていくのは大変だった。特に米国史は9年生と11年生で学ぶことになっており、11年生に編入したのでリンカーン大統領が暗殺された後から学び始めた。このため、歴史上の知識が50年分くらい全く出て来なかったのにはまいった。英語の授業は、初めは文法理解について学んだのでこれは辞書を引けば調べられたので助かった。だが、後半になると現代文になり、毎日短編を読み、後ろに学習のページがあったが全く歯が立たなかった。マーク・トウェインの文章は分かりやすかったが、中には1ページにピリオドが1個しかないような難解な小説を読まされ、文章理解にとても苦労した。そんな中、とくに印象に残っているのは、あのリンカーンの有名なゲティスバーグ演説で、とても分かりやすく心に響いた。
 テキサスでも当時から一般校で学ぶ視覚障害児童・生徒も少しずつおり、盲学校に午前中に来て、午後から一般校に行く生徒も多かったので、盲学校には結構多くの生徒が出入りしていた。
 翌年の6月に帰国したが、1年休学していたので、1学年下の高等部2年のクラスに入ったため馴染むまでに時間がかかった。この年はちょうど英検1級の試験が初めて点字や拡大文字での受験が認められた年だった。そこで腕試しにその冬に挑戦。彼女は高等部2年で、見事、視覚障害者で初めて英検1級に合格した3人のうちの一人となった。
 「高校生の女子だったので、メディアに大きく取り上げられ、大学に入ったらそれを見ていた同級生が声をかけてきたこともありました」と田畑さんは楽しそうに話した。
 英語通訳を目指し、明治学院大学文学部英文学科に進んだ彼女は、英語会というサークルに入り、英語でのディベートに励んだ。後に、オウム真理教のスポークスマンを務めた「ああいえば、上祐」と揶揄された上祐史浩<ジョウユウ・フミヒロ>さんが、当時一歳上の早稲田大学の学生で、英語ディベートの名人として一目置かれていた。このためオウム真理教が問題になった時も批判的な文脈でしゃべっているのについ呼び捨てにできず「上祐さん」と言ってしまい、周囲から怪訝な顔をされた。
 大学を卒業すると、他の企業より英語を使うチャンスが多く、女性の勤続年数も長く、女性の管理職も在職している金融機関に就職。
 日本盲人会連合(日盲連)との関りは、田畑さんがWBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会、以下AP)に関わることに決まった後からだった。しかし、実は英検1級に合格した高校生がいると知った盲界関係者から、大学生の頃に来日した人の通訳を頼まれたことが契機となり彼女は文月会(日本盲人福祉研究会)には大学卒業直後に入会していた。

英語通訳を引き受けて

 就職して10年ほどたった1996年1月、東京・四谷のカトリック女子修道会で、北米点字委員会E.フォーク博士による「統一英語点字記号に関する東京国際セミナー」が開催され、田畑さんは通訳として盲界に本格デビューした。そして、当時日本点字委員会(日点委)副会長で同セミナーの責任者であった木塚泰弘先生(後に日点委会長)が、「『レ下がり』なんて通訳するんだよ。恐れ入ったね。あれ以上の通訳は誰にもできやしない」と分かりやすい日本語通訳を激賞した。
 このような背景があり、2002年に開催されたアジア太平洋ブラインド・サミットでも通訳を引き受けた。翌2003年の年明けに日盲連の指田忠司さんらとオリンピック記念青少年総合センターで行われた内閣府のセミナーに参加した。その時に、「国際活動を手伝って欲しい」と指田さんから打診された。
 ちょうどブラインド・サミットの際に、スウェーデンから来日したキキ・ノードストロムWBU会長が来賓として参加しており、当時の日盲連笹川吉彦会長に「日本はジェンダーバランスを考えて女性役員を出して、国際委員会でしっかり取り組んでください」と発破をかけていた。そこで田畑さんは、すぐに日盲連の会員として東京都武蔵野市の盲協に登録した。
 日盲連での国際活動の第1歩は、2003年にAP中期総会がシンガポールで開催された際、名取陸子<ナトリ・ムツコ>女性協議会会長の通訳をしたことだった。
 通訳を終えた後、ホテルに帰ると、名取さんから「疲れたでしょう。私がマッサージをしましょうか」と言われびっくりした。恐縮したが2時間ぐらい全身マッサージをしてもらいながら、「若い人たちは、あはきだけではだめだもんねえ……」といろいろ話をする中で名取会長とすっかり打ち解け、やる気も俄然アップした。
 中期総会に通訳として東アジアから参加した女性は、中国のCDPF(中国障害者連合会)の健常者と田畑さんの2人だったので、東アジアで女性ネット・ワークを作ろうという話になると、あれよあれよという間に彼女が東アジアの代表に推挙された。
 次は、2004年12月に南アフリカのケープタウンで行われたWBU総会に初参加した際、同時に開かれたAP総会での選挙で指田忠司さんがAP代表兼WBU執行委員に選出され、田畑さんがAPの会計に選ばれた。
 2008年8月にスイスのジュネーブで開催されたWBU総会でも、指田さんがAP会長に再選され、田畑さんはAP代表としてWBU本部の執行委員になった。しかし指田会長は2011年6月体調不良のため退任したので、副会長をしていたマレーシアの健常者が繰り上がり1年間ほど会長を勤めた。

APの当事者との交流

 2012年のAPバンコク総会では、くだんの健常者が会長を続投したくてAP会員に金をばらまいた。その対抗馬として「APの会長は視覚障害者がやるべき」との声に押されて田畑さんが立候補することになり、冒頭でのべたように圧勝した。
 会長になったもののAPとしての財源はほとんどないので、2014年11月に香港で開かれた中期総会では、香港側がスポンサーを探して費用を調達して開催した。また、APのリーダー研修は、デンマーク政府国際開発局ダニーダ(DANIDA)の資金を基にした能力開発プロジェクトの援助を受けて行った。
 「私がやったことは三つくらいしかない」と謙遜するが、先に述べたデンマークのプロジェクトの協力をへてAP地域内のコミュニケーションを活発化するためにウェブサイトを立ち上げ、東京で行われたCBR(地域に根ざしたリハビリテーション)会議に集結したこと。また、デンマークのプロジェクト・チームから反対されながらも、粘り腰で2017年に東南アジア、モンゴル、中国を対象にしたリーダーシップ研修を行ったこと。さらに、ミャンマーを新たにプロジェクトに参加させたことなども彼女の功績といえるだろう。
 さらに2013年頃からAPは、UNDP(国連開発計画)のアジア太平洋事務所と連絡をとりあい、UNDPの資金で米国の弁護士に依頼し、ネパールとAP域内の幾つかの国の法律を検証し、マラケシュ条約の理念に合わせるには何をどう変更すべきかというレポートを作成してもらった。それを基にして国ごとにアドバイスを行い、その内容を現地語に訳した。そしてインドネシアやベトナムでは、行政担当者や著作権保有者に参加を呼びかけ、セミナーを開き、マラケシュ条約についての啓発活動を行った。
 APの悲願は、域内で唯一加盟していない北朝鮮の加盟であった。そのためには、まず北朝鮮の当事者をAPの総会に招待することだが、それには同国と国交のある国や地域で総会が開かれることが条件だった。ちょうどタイミングよく2014年は香港でAP中期総会が予定されていた。そこで田畑さんは知り合いにカンパを求め、身銭を切って同国代表を呼ぶために航空券やピザ等を用意した。しかし、折からエボラ出血熱の感染リスクがあるとの理由で、北朝鮮の通訳兼介助者が出国できなくなり、土壇場でキャンセルされた。
 国際的な交渉は一筋縄では行かず、北朝鮮のドタキャンのように苦い思いもしたはずだが、「私のやってきたことは、それくらいです」と淡々と述べ、苦労話はほとんど語らなかった。
 AP会長として域内の国や地域を訪問し、当事者の立場から助言をする。デンマークのプロジェクトチームと共に、モンゴルやラオスの農村部にも行った。モンゴルでは、トヨタランドクルーザーに乗って、村を6か所強行軍で回って視覚障害当事者等にインタビューした。また、ラオスでは、農村部で孤立した生活をしている手榴弾で失明した視覚障害者を訪ね、「この人のために何をしたらいいのか」と現地スタッフに詰め寄られたこともあった。すぐに成果に直結したらそれに越したことはないが、たとえ成果が上がらなくとも、白杖を手にした当事者が現地に行くこと自体が、現地で孤立する視覚障害当事者を勇気づけるきっかけとなる点でとても重要であると考え、あえて僻地をも訪問した。
 WBU理事会で中米グアテマラ共和国を訪問した際には、盲学校の職業訓練で料理を作っておりそれをみんなで食べながら、「子供たちが来月米国の首都ワシントンD.C.に呼ばれているの」との楽しい話を教師から聞いた。
 「私はWBUの会議室にいて、いつも同じメンツと顔を突き合わせているのは、あまり好きじゃないんです」。それよりも、「現地の視覚障害者と交流することに価値がある」との信念からの行動である。

トラブルと国際組織の運営冥利

 発展途上国で最初に訪れた国は、バングラデシュだった。APの会計をしていた頃、アジア太平洋障害フォーラムを日本障害者リハビリテーション協会が事務局を担当しており、APも同フォーラムに加入した。バングラデシュの首都ダッカなら派遣できるとのことで現地に向かった。どう考えても会議でなければ行けない所で、不安もあったが、未知の世界を知りたいという気持ちが上回った。
 会議の会場へ行くバスのフロントガラスは傷だらけで、路はデコボコで、信号で停止すると、ポップコーン売りがどっと群がってくる。発展途上国ではだいたい何処に行っても初日は暗い気分になるが、だんだん慣れてきて、帰国する頃には名残惜しくなるのが常だ。
 ダッカで宿泊したホテルは、1泊2,000円くらいの「安宿」だったが、幸いバスタブにはお湯が出たし、水道の水で歯磨きしても大丈夫だった。バングラデシュも、インド同様英国の植民地だったから紅茶しか出てこないと思い、インスタント・コーヒーを持参したら、ちゃんと朝食にコーヒーが出た。また、ダッカ近郊の都市ガジプールに元『点字ジャーナル』編集長で、日点委会長でもあった阿佐博先生らの支援で作られた女子学生用ホステルがあるというので無理をしてそこも訪れた。その際、ココナツ・ジュースが出されたが、「これは全部飲めないなあ」と思って一口だけ飲んで止めたが、そうした体験も楽しみだ。
 開発途上国でも大都市はホテル等は整備されているが、地方に行ったら食事、トイレ、シャワーなど生活様式が違って大変である。しかし田畑さんは「だって、皆さんそこで暮らしているんですよ!」と動じない。だが海外を旅行していて病気になったことが2回ある。
 フィリピンの首都マニラとグアテマラ共和国の首都グアテマラシティで微熱が出たのだ。マニラは空調が悪かったようで喉をやられて、トローチを買ったがそれが強すぎてすごく喉が荒れた。2016年のAPマッサージ・セミナーだったが、その時だけは会場の医務室で休んだ。2018年にWBU理事会で訪れたグアテマラシティでは、緊張していたせいか、ストレスが溜まり、喉を痛め熱が出た。「医療保険に入っているから、絶対医者に診てもらったほうがいい」と会議参加者から言われ忠告に従うと、ホテルの部屋にびしっとスーツできめた英語ができるグアテマラ人医師が往診にやってきた。「大丈夫です」と医師から告げられたが、今晩メキシコ経由で帰る旨を伝えると、薬をくれたが、結局1錠飲んで合わなかったので止めた。
 インドの首都ニューデリーでは、ものすごい車酔いも経験した。熱気と後部座席に3人ぎゅうぎゅう詰めで、しかも道がたわんでいたので車酔いになり、夕食を食べることができず30分くらいソファで横になった。
 2013年からデンマークのプロジェクトにミャンマーが加わり、日本での研修経験もあるアウンコーさんがミャンマー盲人協会の会長になった。2016年8月に米国フロリダでWBU総会が開催されたが、同氏は現れず、代わりにミャンマーからはデンマークのプロジェクトの関係者2人が参加した。
 その背景には、ミャンマー側とデンマーク側の根深い対立があった。アウンコーさんは、WBUに旅費と宿泊費の支援を求めたが、デンマーク側はすでに払ったと言って結局、同氏は総会に参加できなかった。そうこうしている内に、アウンコーさんとプロジェクトメンバーとの間に溝ができ、両者から「何とかしてくれ」と田畑さんに相談があった。
 確かに、アウンコーさん側のメンバーには報告の直前に休暇を取ったりするといったルーズな面もあった。しかし、WBU総会へはどの国でも会長が出席するのが当たり前。したがってアウンコー会長の代わりにデンマークのプロジェクト関係者が行くのは筋違いである。このため、各国代表が世界中から集まって世界の会長を選ぶ場にミャンマーの当事者団体の代表は参加できなかった。そこで田畑さんはミャンマーの肩をもち、あえてデンマーク側と口論した。これはデンマーク側と彼女との間にある程度信頼関係があったからこそできたことでもある。AP会長からすると、特段悪いことをしていない限り、ミャンマーを支持するのは当然の成り行きである。結局、田畑会長が譲らず、2か月ほどしてデンマークチームがミャンマーに入って、アウンコーさんと3日間膝を突き合わせて話し合い、わだかまりが溶けたそうだ。
 今はクーデターでミャンマーの様子が分からないが、デンマークのプロジェクトは継続しており、2018年にモンゴルで行われたAP中期総会にアウンコー会長がデンマークのメンバーと共に来ていた。田畑さんは明らかにアウンコーさんをバックアップしたので、あえてデンマークチームに「アウンコーを甘やかしちゃだめだよ」とバランスをとるために茶々を入れた。時には口喧嘩も必要だが、特に日本人は欧米人とことを構えたがらないと彼女は嘆く。
 「言ったって分からないのに、言わなければもっと分からない。ミャンマーの肩をもって云々と言うことは、私以外ほかの人にはできないことで、それは私のキャラクターかな」と笑う。
 そうした議論の仕方の素地として、学生時代にディベートをした経験が影響しているのだろう。ディベートのいい所は、理論と人間関係を切り分ける所にある。いくら試合で火花が散っても、それはそれ、ラグビー同様試合が終われば、ノーサイドで仲良くなる。それがディベートの魅力でもある。
 最後に、AP会長をして、最も思い出深い出来事について尋ねると、開口一番、私とドイツ人聴覚障害者でドイツのNGO「トゥギャザー・ハムフン」のロバート会長が中心となって北朝鮮の参加を仕掛けて、2018年のAPモンゴル中期総会に北朝鮮の当事者がオブザーバー参加したことだと嬉しそうに話した。
 「私は現場で立ち会っていないのですが、歓迎レセプションで北朝鮮チームと韓国チームが同じテーブルを囲んで夜遅くまでハングルの歌を歌っていたそうです。それは国際組織運営冥利に尽きると思いましたね」としんみりとした口調で語った。
 2000年頃まで北朝鮮は「わが国には視覚障害者は存在しない」と赤十字に強弁していたが、その北朝鮮の朝鮮盲人協会(BAK)が、2020年にWBUに加盟したことはまったく隔世の感がある。
 これには、同国の聴覚障害者と視覚障害者を支援し続けているロバート・R・グルンドさんと田畑さんがコンタクトを取り続け、ドタキャンされても腐らず粘り強く尽力したからだ。ロバートさんは日本の聴覚障害者団体と強い絆があり、田畑さんが日本人のAP会長だからこそ北朝鮮を招聘することができたが、ほかの国の人だったらそううまくはいかなかっただろう。今度は、北朝鮮と国交があるAPの成長株モンゴルの当事者が北朝鮮に行ってほしいと彼女は期待している。

編集ログ

 7月1日付朝刊各紙を読んでわが目を疑いました。2020年度の国の一般会計の税が、前年度より2兆3801億円多い60兆8216億円で過去最高だったのです。
 観光業や飲食業を代表にコロナ不況だとばかり思っていたのですが、そのような業界は元々税収にはあまり貢献していなかったといいます。
 一方、景気回復が進む外需の取り込みや、通信機器関連など巣ごもり需要が税収増をけん引したというのです。それもこれもロックダウン(都市封鎖)をしないで、国民が自粛に全面協力したお陰でしょう。
 3度もロックダウンした英国は極めて深刻な状況で、「スモールトーク」で紹介しましたように、英首相命の恩人が激怒するような緊縮財政となりました。
 ちなみに7月7日のジョンズ・ホプキンズ大学のホームページによると、日本(人口1億2570万人)のコロナによる感染者は80万9,878人で、死者は1万4,834人、英国(人口6643万人)の感染者は497万5,620人で死者は12万8,532人です。
 高齢者の私は、7月2日(金)に2回目のCOVID-19ワクチンを打ちました。すると5月28日(金)に打った1回目のときはなんともなかったのに、注射跡が少し痛くなり、翌日の午後には、38.3℃もの発熱がありました。あわてて薬局に行き「アセトアミノフェンの解熱剤をください」と言ったら、売り切れており、「厚労省の通達ではイブプロフェンでもOKですよ」ということで、それを買い求めました。そして夕食後に服用して寝ると、深夜目が覚め、びっしょり汗をかいておりました。シャワーを浴びて着替えて体温を測ると平熱になっており、翌日が日曜日ということもあり、余りに気分がよかったので、「カンレモンサワー」を2本も飲んでしまいました。しかも熟睡できたせいか、翌朝は爽やかな目覚めでした。
 6月末で業務執行理事と点字出版所長は退任しましたが、小誌編集長は少なくともあと1年間は務めますので、今しばらくお付き合いください。(福山博)

投稿をお待ちしています

 日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。

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