私の住む東京都杉並区から新型コロナワクチン接種クーポン券が届いたのは、5月7日(金)だった。仕事から帰ってくると届いていたが、コールセンターの受付は午前9時〜午後5時であり、その日はすでに終わっていた。
翌日の土曜日、午前9時と同時に電話をかけた。すると「お電話ありがとうございます……この電話は応対品質向上のために内容を録音させていただいております」と言うので、電話が繋がるのではないかと大いに期待した。ところが、そのあと案内されたプッシュボタン「1」を押すと、「大変申し訳ありませんが、ただいま回線が混み合っております。恐れ入りますがしばらくたってからお掛け直しください」というアナウンスで、しかもこの間約50秒もかかったのである。
何度も掛け直すと、いきなり話し中のツーツー音がしたときもあれば、先述した慇懃無礼なアナウンスの後に「お掛け直しください」と言われる場合もあった。話し中のツーツー音であれば諦めもつくが、50秒のアナウンスを聞いた後の「お掛け直しください」には腹が立った。この電話システムを設計したとき、このような状態になることを想定していなかったのだろうか。これでは行政によるたちの悪い住民いじめである。
しゃくに障ったが、それでも30回くらいは我慢して電話したが、それが限界だった。後で電話が繋がったという知人に聞くと、家族総出で1人当たり何と260数回電話したというから恐れ入る。そして、自宅の固定電話がヒットしたと言っていた。
インターネットによる予約に切り替えると、第1回目の最短の接種日はなんと54日後の6月30日だった。随分先だとは思ったが、取りあえず予約するしかなかった。
その後、防衛省が5月17日から東京都に設ける大規模会場での新型コロナウイルスワクチンの接種予約を開始した。そこで、さっそくネットで予約すると5月28日に予約でき、そしてとてもスムーズに接種できた。しかも接種会場で、2回目の予約が7月2日に決まった。自宅に帰るとすぐに鬱陶しい区の予約をキャンセルして清々とした。(福山博)
「戦前・戦中は一般に暗黒時代といわれていますよね?」と、何の話のついでだか、仕事の合間に、僕は当時『点字ジャーナル』の編集長であった阿佐博先生に同意を求めた。
すると間髪を入れず、「バカ言っちゃいけない。少なくとも東盲(東京盲学校)は、今の盲学校の10倍も自由でしたよ」と怒られた。四半世紀ほども前の話である。
桜雲会編・刊『阿佐先生人生を語る ―― 心の光を求めて』点字版(全2巻)1万2,000円(点字図書給付利用で2,400円)、墨字版2,000円(税別)を読んだ。長尾榮一先生がインタビュアーになって、それに阿佐先生が答えるという体裁の単行本である。
「あのころは(東盲の寮では)自由に出前が取れたんですよ。夜の7時から8時半までが自習時間でね。それが終わったら自由に出前を取ってよかったの。みんな電話で蕎麦とってねえ、食べたわねえ」ということで、今ではちょっと考えられないくらい自由だったと阿佐先生は当時を懐かしんでいる。
そのほかに東盲に絡んで驚いたことは、阿佐先生は昭和12(1937)年4月に東盲の中等部に入学するが、そのときの君が代は全校生徒による四部合唱だった。また、先生はブラスバンド部でクラリネットを吹いており、東盲から靖国神社まで演奏しながら1時間かけて行進した。東盲の校章はTとMを重ねたものだった。また、東盲師範部1年生は月額12円(昭和16〔1941〕年)、2年生が14円、3年生が16円の給費が貰えた。そして、それに加えて点字印刷技術練習生は1年生が4円、2年生が5円、3年生が6円貰えた。
一方、寄宿舎の寮費は12円(食費が10円50銭、寮費が1円50銭)だった。師範部3年生の時、阿佐青年は合計22円もらっていたので、実家からの仕送りなしで生活できた。なお、当時の小学校教員の初任給は50円である。
太平洋戦争開戦前は寮でカレーライスを5杯もおかわりする猛者もいたが、戦況が悪化するとともに食糧事情も悪化し、いつもひもじい思いをしていたので、残金は買い食いに使ってしまった。しかし、管理教育の現在とは比較にならない自由が、少なくとも戦後しばらくまでの東盲にはあったようだ。
同書の前書きで、木村愛子先生(附属盲元教諭・桜雲会理事)が、「阿佐先生は本当のクリスチャンと感じております」と書いておられるので、それに触発されて思い出したことがあった。
編集室で仕事の合間に阿佐先生と世間話をしていて「ナチスはユダヤ人を殺しましたが、イエス・キリストが殺されたのはユダヤ人のせいなのですからこれは当然の報いなのです」と阿佐先生は言った。
驚いた僕は、「イエスだってユダヤ人じゃないですか」と反論した。すると「イエスは神なので、断じてユダヤ人ではありません」と先生は言われたので、僕は二の句が継げなかった。
高校で「神とイエスと精霊は実体としては一体であるという三位一体説」を世界史の授業で習ったが、それを真理だとばかりに強く主張する人にはじめて出会い、無宗教的で無神論的な葬式仏教徒である僕は絶句したのである。
ただ阿佐先生の話を聞いて合点がいった点もあった。反ユダヤ主義を標榜するナチスが、なぜ当時最も民主的なワイマール憲法下で合法的に政権を握ったのか。「ユダヤ人は殺されて当然」という考え方は、日本では一般にまったく受け入れられない。しかし「当時のドイツにおいても、そして現在の欧米においても、実はそれほど突飛な考え方ではないということ」をあるいは阿佐先生は言いたかったのかも知れない。僕らが「欧米のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)という建前を、ナイーブに信じてしまわないように」との警鐘だったのではないかと今は思っている。
というのは、阿佐先生から衝撃の主張を聞いた15年後、「イエス・キリストを十字架にかけて殺した責任はユダヤ人にはない」とのローマ教皇ベネディクト16世の見解が、2011年3月3日付のローマ教皇庁発行の日刊紙『オッセルバトーレ・ロマーノ』に掲載され、AFPで世界に報じられたからである。
ローマ教皇はキリストの生涯を描いた新著の中で、イエスを非難していたのは「(エルサレムのユダヤ教)寺院の上層部」とイエスよりもバラバの恩赦を求めた「大衆」であって、「ユダヤ人全体」ではなかったと書いている。
バラバとはユダヤ人盗賊の親玉である。年に一度の過越の祭には罪人を1人裁く代わりに別の1人の罪人を釈放するという慣例があり、総督ピラトはイエスの放免を期待して、バラバかイエスかの選択を民衆に迫った。だが祭司長や長老たちにそそのかされた群集はバラバの赦免とイエスの処刑を要求した。ピラトは不本意ながらこれに従ったため、バラバは釈放され、イエスは磔にされたのだ。
世界ユダヤ人会議は、「これはキリスト教会内の反ユダヤ主義に対抗する重要なしるしだ。イエス・キリストはユダヤ人で、ローマの為政者に殺害されたのに、これまでキリスト教徒はユダヤ人すべてにキリスト殺害の連帯責任があるとみなしてきた。そのため、ユダヤ人は残忍な迫害と反ユダヤ主義の標的となってきたのだ」とローマ教皇のその見解を歓迎する声明を発表した。(福山博)
「鶏は三歩歩くと忘れる」というが、老生、最近鶏に近づきつつあるようで、編集部の若手に迷惑をかけることが多い。その反面、昔の記憶はちょっとした拍子に鮮やかによみがえるので不思議である。
先日も1971年4月の日曜日午後9時からテレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」で見た、ニコラス・レイ監督、チャールトン・ヘストン主演の米国映画「北京の55日」の一場面を鮮明に思い出した。
この映画は清朝の首都・北京に義和団が押し寄せて、外国人居留区が包囲されて11か国の居留民が籠城して55日間戦った実話を元にしている。だが、時代考証がとてもいい加減であることを映画評論家の淀川長治氏が指摘していた。その最たるものが義和団の旗で、清朝を助けて西洋を滅ぼすという意味の「扶清滅洋」<フシンメツヨウ>でなければならないのに、何と「京都」と書かれていた。
当時、田舎の高校2年生であった僕は、浅はかにも「日本の地名じゃないか。めちゃくちゃだなあ」と笑った。だが、この誤解が改まるのはそれから30数年後にインターネットで改めて「北京の55日」を見て、ここでいう京都が「ミヤコ」という意味で、北京のことだとやっと気がついた。
そんな赤っ恥を思い出したのは、3月21日付『日本経済新聞』の1面に、アラスカ州アンカレッジで米国のブリンケン国務長官と中国外交のトップであるヨウ・ケツチ中国共産党政治局員が会談を行った写真とともに、1901年9月7日の北京議定書調印時の写真が掲載されたからだ。
これは、中国共産党の機関紙『人民日報』傘下のタブロイド紙で、海外のニュースを中心に掲載する『環球時報』に掲載されたものを『日本経済新聞』が解説をつけて転載したものだった。
義和団はキリスト教を標的にして教会を破壊し、多数の外国人宣教師や中国人キリスト教徒を惨殺したばかりか、外交特権のあるドイツ公使や日本公使館の書記官をも殺戮した。
そして1900年に入ると、各地の外国人を襲い、北京の外国人居留区を包囲した。世にいう義和団事件である。これに清国政府も同調して、列国に対して宣戦布告をしたため北清事変とも呼ばれた。
これに対して英国、米国、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア・ハンガリー、イタリア、日本の8ヶ国連合軍は外国人居留区を解放するために日本とロシアを中心とした軍隊を派遣し勝利した。かくして北京議定書によって、北京や天津に外国の駐兵権を認め、また巨額の賠償金によって外国による財政支配を受容せざるを得なくなった清朝、そして中華民国は、もはや独立国としての体裁をなさず、「半植民地」ともいうべき状態に陥ったが、これを中国では国恥として教えている。
中国共産党の見解は、義和団運動は、帝国主義の侵略に対する中国人民の粘り強い抵抗の表れであり、彼らの英雄的な闘争は、50年後の中国人民の偉大な勝利の礎石の1つであるというもので批判の色は微塵もない。(福山博)
藤原章生さんが、抗ウイルス薬とステロイドによる点滴治療で、発症から3週間、入院から17日目の5月17日に退院されたとのこと本当に何よりでした。
先月の「巻頭コラム」で述べたようにネパールでもちょうどその頃、今号に掲載した「ネパールの盲教育と私の半生」の第1回目の原稿をもらった直後に、執筆者夫妻がCOVID-19陽性と判定されました。
ネパールの感染者が爆発的に増えた昨秋、同夫妻にはもう若くないのだからくれぐれも注意して外出を控え、もし罹患したら当方にすぐに連絡するように頼みました。
それにしても連載を開始しようという矢先になんていうことでしょう。実はアルヤール氏には不測の事態に用立てるため10万円を預けてあったので、それを使って欲しいとすぐメールしました。ちなみにカトマンズでの高卒初任給(経理)は1万2000ルピー(邦貨にして1万1270円)なので、一般のネパール人にとって10万円は大金です。
同氏からは「自分は大丈夫だが、妻が今より悪くなったら高価な薬を投与したいので、使わせてください」との返事がありました。
しかし、夫妻はアストラゼネカ製ワクチンを接種していたためか、自宅で静養するだけでその後悪化せず、3週間ほど背中が痛かったそうだが、その後、劇的に快癒しました。
そして「妻は感染して寝付いたため、家事はすべて私が行っていました。しかし症状が劇的に改善したため今日から妻が料理を作っています」とアルヤール氏から5月14日にメールがきて、翌日のPCR検査でも陰性とのことでした。
ネパールにおいてアルヤール夫妻は間違いなく高齢者の範疇です。彼らのCOVID-19罹患と回復は、ワクチンを1回接種しただけでも入院リスクの低減にかなり期待できることをはっきり裏付けたと思います。医療崩壊しているネパールで、友人夫妻がワクチンをまったく接種していなかったらと思うと背筋が寒くなります。ワクチンの副作用に過度に神経質になることなく、日本でも接種が飛躍的に進むことを願うばかりです。(福山博)
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