国土交通大臣や立憲民主党参議院幹事長などを歴任した羽田雄一郎参議院議員は、昨年12月24日の夜に38.6℃の発熱があった。しかし、国会議員であると言わなかったこともあり、すぐに新型コロナウイルス感染症のPCR検査を受けることはできなかった。謙虚な同議員は、12月25・26の両日は公務を欠席して自宅で待機し、12月27日午後4時過ぎに秘書の運転する車でPCR検査を受けるため医療機関に向かう途中で呼吸が荒くなり、「俺、肺炎かな」と言った後、会話が途切れ容体が急変。秘書がその場で救急車を手配し東大病院に搬送されたが死亡が確認された。享年53。同氏には糖尿病、高脂血症、高血圧の基礎疾患があった。
持病があり、38.6℃の発熱があったにも関わらず、すぐに適切な治療どころか、PCR検査を受けることさえできなかったのは異常事態ではないか? 同議員の場合は、高熱が出た時点で、すぐに救急車を呼ぶべきだったと愚考する。
最近、大都市の保健所は新型コロナ感染に忙殺されて、「マスクをしていたら濃厚接触ではありません」というように、その指摘がとても緩くなっている。いうがままになって羽田議員の二の舞になっては一大事だ。そこで不安を感じたら、自宅でPCR検査キットで新型コロナウイルスを検査するのも一案ではないだろうか。
私が試した検査キットは、職場のある高田馬場で32年間格安航空券を扱っている旅行代理店から税込み3,000円で買った。さっそく付属の道具で容器に唾液を1〜2ml採取しそれに保存液を入れて、返信用封筒に入れて送るだけで、2・3日後にメールで返事がくる仕組みだ。料金別納なので郵送料も込みである。保健所が相手にしてくれるような濃厚接触があるわけではなかったので、結果はもちろん「陰性」だった。
医師が介在しないので診断にはならないが、保健所に正式な検査を要求する根拠くらいにはなるだろう。(福山博)
【もはや26年前の話になりますが、国際視覚障害者援護協会の招待で、1994年4月に都立八王子盲学校(八盲)普通科3年に編入したネパールの女性ジャヌカ・プラサイさんを、憶えている読者の方もおられるかも知れません。小誌2013年4月号の「リレーエッセイ」では、八盲の小島(現・大森)純子先生に「ネパールとわたしとのつながり」と題して、彼女との交流の様子も紹介していただきました。そのジャヌカさんが今年の1月9日に亡くなりました。享年54でした。これから先は彼女を良く知るアルヤールさんによる追悼文です。】
ジャヌカさんは1995年4月、八盲専攻科理療科に進みましたが、理療科3年の夏休みにネパールに帰省して、家族の問題のために勉強を続けることができず、結局、八盲を中退しました。
彼女は鍼灸マッサージを学ぶために来日したのですが、3年間の日本滞在中に日本語をはじめとして多くのことを学び、知識や経験を積むことができ、その後のネパールでの生活に大いに活かすことができました。
ジャヌカ・プラサイさんは、1966年4月17日に、7人きょうだいの長女として、ネパール東部の丘陵地帯で生まれました。ネパール東部は、紅茶の産地として有名なインドのダージリンと隣接しており、ネパール側も紅茶の産地で、古くから開発の進んだ恵まれた地域です。ちなみにダージリンの原住民の多くはネパール語を話します。
ジャヌカさんは、生まれつき全盲でしたが教育を受ける環境には恵まれていました。彼女の郷里の中心都市である人口12万人のダーランにはネパール唯一の盲学校があったのです。彼女は1年生から7年生まで、プルバンチャル・ギャンチャクシュ盲学校で教育を受ける機会を得ました。
7年課程を修了後、彼女は首都カトマンズに隣接するキルティプルにあるラボラトリー高校に入学しました。同校はネパールで最高の教育環境が整った同国初の公立寄宿学校として、1956年に米国の支援を受けて国立トリブバン大学教育学部の実験校として設立されました。同校は現在も視覚障害者のための統合教育にも力を入れています。ジャヌカさんは同校で学校教育修了(SLC)試験に合格して、高校(10年課程)を卒業しました。
彼女はその後、カトマンズのトリブバン大学教育学部(マヘンドラ・ラトナ・キャンパス)に進学し、ネパール語を専攻して教育修士号を取得しました。
その後、1994年に来日し、八盲を中退して、彼女は1996年8月18日にトリブバン大学講師である全盲のクマール・タパさんと結婚し、ジャヌカ・プラサイ・タパとなりました。
ジャヌカさんとクマールさんの自宅は、カトマンズの東7kmに位置するラリトプル郡のマハ・ラクシュミにあります。自宅から徒歩5分ほどのルブ高校は、晴眼者が通う普通の10年課程の公立高校で、統合教育は実施されていませんので、視覚障害生徒はいません。彼女は2011年6月11日から同校でネパール語の非常勤講師をしています。そして2018年に教員職務試験に合格して、同校の正規のネパール語教師になりました。
タパ夫妻は一男一女に恵まれ、長女のクスンさんは22歳で大学を卒業して、ネパール結核予防会でプロジェクト・アシスタントとして働いています。そのかたわら彼女は大学の修士課程で社会学を専攻しています。長男のプラサン君は16歳で、その昔SLC試験といっていた10年課程の修了試験は現在、中等教育試験(SEE)というのですが、それに合格し、彼は自宅近くにある日本の高校2・3年に相当する「プラス2」課程のカレッジでITを学んでいます。
ジャヌカさんは、教師のかたわら4年間ネパール盲人福祉協会(NAWB)の理事を務めていました。彼女の趣味は音楽で、ギターを弾くのが好きでした。彼女は全盲の教師でしたが、優れた指導技術を持っていました。このため、教育省から「優秀教師賞」を贈られています。カトマンズにあるカスタマンダップ・ロータリー・クラブから、優秀な女性として表彰されたこともあります。
残念なことに15年前に彼女は糖尿病と高血圧と診断されました。そして薬を使って生活を維持し、食習慣を気にしていたにもかかわらず、2020年8月11日に学校で倒れました。新型コロナウイルスによるパンデミックの時期で、ネパールでも感染が拡大していました。すぐに、彼女は治療のためにラリトプル郡のパタン病院に運ばれ、そこで3週間治療を受けました。同病院で彼女はコロナ陰性と診断されました。ただ、同病院では彼女の病気が治ることはありませんでした。そこで、ネパールで最高の医療水準をほこるカトマンズにあるトリブバン大学ティーチング・ホスピタルに転院しました。この病院は日本のODAによって建設された近代的な病院です。その後、彼女は同じカトマンズにある神経疾患の専門病院にも入院しました。しかし、すべての努力は無駄でした。ついに偉大な女性は、2021年1月9日に亡くなりました。
安らかに眠れマダム・ジャヌカ・プラサイ・タパ、あなたの業績は長く私たちに記憶されます。
小誌前号(2021年2月号)「リレーエッセイ」に、茂木幹央先生が寄稿された「私の経営戦略 ―― 盲老人ホームひとみ園等の展開(1)」の中で「毎年100万枚の趣意書を作っている。毎年それを持って埼玉県内の全市町村を巡る寄付依頼の行脚をしている。だから私の寄付活動には何百万人という人が参加してくれているのである」とすべきところ、二桁少ない「毎年1万枚の趣意書を作っている……」と点訳してしまいました。ここに訂正して、お詫び申し上げます。(編集部)
今号で「盲教育140年」は完結し、次号から同じく久松先生による「西洋医学採用のあゆみ」(仮題)の連載を開始します。
加藤俊和さんの「東日本大震災から10年」を読んで、2011年3月11日の記憶がまざまざとよみがえりました。この日、私たちは日盲連で日盲委選挙プロジェクトの研修会を開催しており騒然となりました。参加者は遠く岡山、大阪、京都などからも来ていたのですが、日盲連事務局が素早くホテルを予約したため、少なくとも地方からの参加者は帰宅難民にはなりませんでした。
当協会では職員の帰宅難民が30名近く発生すると予想し、地下倉庫に備蓄していた毛布に臨床用を加えて50枚以上用意して、ヘレン・ケラー学院の治療室や和室の実技室、出版所の絨毯敷きのスタジオや会議室を仮眠室に仕立てました。しかし、西武線が午後10時頃復旧したことや友人宅に泊めて貰った人も多く、結局、14人(内、視覚障害者3人)だけが協会で夜を明かしました。
加藤さんは「コロナ禍での視覚障害者の災害対応」では、支援者を受け入れるために「PCR検査を2回行えば9割の精度になる」と、PCR検査を複数回行う重要性を提唱されています。その際、公的PCR検査ができなかったら、自費による検査は3万円ほどと高額になります。そこで、次善の策として安価な「PCR検査キット」の活用も有効ではないでしょうか。(福山博)
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