最大瞬間風速70mとも、80mとも予想される台風10号が9月6日(日)午後に九州に接近するとの報道に、熊本県人吉市に住む友人Aは頭を抱えた。
この日は83歳の叔母が、大腿骨骨折のリハビリテーションを終え退院する予定だった。夫に先立たれて一人暮らしの叔母は高台の木造住宅に住んでおり、7月豪雨による球磨川氾濫の際は無傷だったが、スーパー台風には脆弱だと思われた。
そこで退院を1日延ばして欲しいと病院側と交渉したが、次に入院する人が決まっているのでそれはできないとのことだった。かといって、コロナ禍を気にする叔母を病院から避難所へ直行させるわけにも行かなかった。
そこで9月4日夕刻からネットでホテル探しを始めると、なんと9月6日は九州中のホテルが予約で満室だった。そこで、福岡市内で所帯を持つ長男に手伝ってもらい、自宅から車で片道1時間半以内のホテルに片っ端から電話予約する作戦を敢行した。すると車で1時間の距離にある宮崎県小林市のビジネスホテルにシングルルーム4室を予約できた。ついでに高齢の両親も避難させた方が安心だと思ったのだ。
九州中のホテルが満室というのは、木造の旅館は臨時休業するし、停電になれば水道も使えなくなるホテルは予約受け付けを控えただろう。しかし、それよりも避難を考えた人が多数に上ったためだ。後知恵だが、9月6日午前10時現在で台風10号による避難指示・勧告は859万人となり、実際に避難所に身を寄せた人は17万8千人にも上った。
叔母は病院の許可を得て1日早く、9月5日に退院して避難準備を行い一晩は自宅で休んだ。そして、翌日の午後3時チェックイン。ただ朝食は付いていたが、夕食は出ないので、近くのスーパーマーケットで4人分の弁当を購入し持ち込んだ。
Aによると考えることは皆同じなので、年寄りを抱えていたら、甚大な被害が予想される報道に接したら、間髪を入れずホテルを予約するべきだったと言っていた。(福山博)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」は、関西盲人ホーム理事・施設長で日盲社協評議員、そのかたわら歩行訓練士として日本歩行訓練士会、視覚障害リハビリテーション協会等でも活躍する山口規子<ノリコ>さん(57歳)に決定した。
第28回を迎えた本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で外部からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害委員によって選考される。
贈賞式は10月7日(水)当協会で予定しており、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
以下、敬称略。取材と構成は本誌編集長福山博。
山口規子は1963(昭和38)年3月8日京都府舞鶴市で生まれたが、里帰り出産だったので事実上の故郷は大阪府高槻市だ。
高校卒業後、兵庫県西宮市にあった聖和大学キリスト教教育学科に進学した。同大は、2009(平成21)年に関西学院と法人合併され、関西学院大学西宮聖和キャンパスにその名を残す。
山口は母方の祖父母がクリスチャンだった影響で、1975(昭和50)年、中学1年生のときにメソジスト派の教会で洗礼を受ける。
大学を卒業すると2年契約で、日本基督教団京都御幸町<ゴコウマチ>教会で、大学で得た教育主事という資格で事務方の仕事をした。この間に日本キリスト教盲人伝道協議会(盲伝)が、毎年春に2泊3日で実施する近畿圏の教会学校の生徒と盲学校生徒との交流キャンプ「盲晴高校生キャンプ」に、スタッフとして参加した。そして、ちょうど2年目の春、「この3月で今の仕事終わりなんです」と山口は、全盲の牧師玉田敬次<タマダ・ケイジ>(1931〜2000)に打ち明けた。すると、「じゃあうちにおいでよ」と玉田夫妻に誘われた。玉田牧師にはいつも夫人の恵美子が付き添っていたが、彼女も聖和の同窓で、大先輩であり気心が知れた。こうして1987(昭和62)年に関西盲人ホームに事務員兼指導員として入職した。当時、玉田牧師は同ホームの理事長だった。こうして盲晴高校生キャンプにはその後もスタッフとして参加した。
関西盲人ホームに大きな支援を惜しまなかった人物に好本督<ヨシモト・タダス>(1878〜1973)がいる。好本はロービジョンで、英オックスフォード大学を卒業し、英国で貿易業を営み、利益の大半を日本の盲人支援に捧げた方で、日本初の全盲牧師である熊谷鉄太郎<クマガイ・テツタロウ>(1883〜1979)が関西学院神学部に学ぶことができたのも、中村京太郎(1880〜1964)が全盲で初めて英国に留学できたのも好本の世話によるものだ。
さらに好本は戦前に秋元梅吉(1892〜1975)に托して盲人基督信仰会を作り、戦後それを基に盲伝を組織し初代議長に就任する。そのときの全国委員には、熊谷鉄太郎をはじめとする5人の盲人牧師と、初代と二代目の『点字毎日』編集長である中村京太郎と大野加久二<オオノ・カクジ>(1897〜1983)、それに日本ライトハウス創立者の岩橋武夫(1898〜1954)、東京光の家創立者の秋元梅吉、日本点字図書館創立者の本間一夫(1915〜2003)、東京点字出版所創立者の肥後基一<ヒゴ・キイチ>(1904〜1978)などそうそうたる顔ぶれで、終戦直後までの我が国盲界は、クリスチャンにより支えられていたことがよくわかる。
草創期の当協会(東京ヘレン・ケラー協会)理事であった関係で、『中村京太郎伝』が当協会から1969(昭和44)年に発行された。その「序文」で好本はこう述べている。
「中村先生が『点字毎日』以外に持たれた大きな関心と事業は、盲婦人の福祉に関することでした。先生の援助によって始められた西宮盲婦人ホームは、貴殿(著者・鈴木力二<スズキ・リキジ>)もご存じのように現在日本におけるこの種のものとしては最大のホームであります」。
この「西宮盲婦人ホーム」とは、兵庫県西宮市にある「関西盲人ホーム」のことである。同ホームは、1930(昭和5)年に盲婦人の越岡<コシオカ>ふみ(1899〜1967)が、『点字毎日』編集長であった中村京太郎のバックアップを得て、盲婦人がキリスト教信仰による相互扶助の生活を行い、外来者に対する鍼 ・あん摩 ・マッサージを施術して、自立への研鑚をはかる施設として設立した。
前述した玉田牧師の夫人恵美子は、熊谷鉄太郎の次女である。ここに関西盲人ホームをめぐる好本督、中村京太郎、大野加久二、熊谷鉄太郎、玉田敬次・恵美子、山口規子という綿々たるクリスチャンの系譜ができる。山口はそれを評して「凄いところに繋がってしまうので、私は怖いんです」と怯え、レジェンド(伝説的人物)たちが手塩にかけた施設を継続させる重圧に耐えている。
兵庫県芦屋市在住の玉田恵美子(87歳)は、「山口さんとは盲晴高校生キャンプで出会って、夫婦で引っ張り込んだんです。盲人ホームは斜陽で実際にはお給料も払えなくなったし、こんなこと言っちゃ悪いんだけど、彼女はとにかく便利なんです。本来やらなくていいことでも、なんでもやってくれたんです」と証言する。
実際に山口に、事務員兼指導員の仕事内容を聞くと、「オールマイティで全部やらなければいけないんです」と述べ苦笑した。
だが、玉田夫妻が関係していたとき以上に、現在の関西盲人ホームの経営状態は逼迫している。戦中・戦後の一時期に中断したとはいえ、創設から90年がたち、関西盲人ホームは完全に冬の時代を迎えている。
山口が入職した当時、昭和寮には13、4人、甲東寮には6、7人の計19〜21人の利用者がおり、それを施設長1人と寮母2人、事務員(山口)の計4人で世話していた。
ところが、現在の利用者は3人の寮生と通いの2人の計5人で、スタッフは施設長の山口と、週に2・3度調理を頼んでいるパートタイマー3人だけである。
昨年調理スタッフが定年退職するまではいたので、日盲社協の「全国盲人福祉施設大会」が北海道帯広市であったときも山口は出かけて「受賞者懇談会」の司会等に汗を流した。しかし、今年は「日盲社協の評議員なのにどうしようと心配していた矢先に、コロナ禍で大会が中止され拍子抜けした」と笑う。
山口は関西盲人ホームに入職早々、歩行訓練士になりたいと玉田理事長に掛け合ったが、返事は「その必要はない」の一点張りだった。いつも妻が付き添う牧師に歩行訓練は必要なかったし、盲人ホームの業務にもその必要はまったくなかった。しかし、交渉をはじめて5年かかったが、許可を得て、自宅のある高槻市から日本ライトハウスの訓練に半年間通った。その代わり土曜日と日曜日は、ホームで仕事をすることが条件であった。こうして1992(平成4)年11月、山口は歩行訓練士の資格を得る。
彼女が歩行訓練士になるのを、西宮市視覚障害者福祉協会は首を長くして待っていた。かくして「講師派遣の依頼が来ました」と言って、山口は理事長の了解を貰っては同協会が依頼する歩行訓練を行った。九州や大阪から来た寮生が、休みの日に外出しないことを不思議に思って資格を取ったのだが、それが糊口をしのぐ術になったのだ。また、1998(平成10)年10月からは歩行訓練士として、ガイドヘルパー(同行援護従業者)養成研修の講師に引っ張り出されることも多くなった。
本業の盲人ホームでは、33年間で約90人の視覚障害者女性の自立を支援してきたが、それに勝るとも劣らぬほど中途失明で途方に暮れている人との出会いは多かった。活動拠点の兵庫県西宮市のみならず、歩行訓練士がいない兵庫県の郡部、淡路島や日本海側の各地に及ぶまで、困っている視覚障害者に歩行訓練を実施し、単独歩行が可能となり、自立したり、職場復帰できるようになった数は西宮市で138人、兵庫県全域で約200人におよぶ。
講師としては、2,000名を超えるガイドヘルパーの養成にも携わってきた。さらに2003(平成15)年には盲ろう者向け通訳・介助員養成講座を修了し、耳も悪い重複障害利用者の対応に生かしている。
以前から山口規子が、八面六臂の活躍をしている姿を見かけて私は首を傾げてきた。関西盲人ホーム施設長だというが、あはき師には見えなかったし、実際にそうではなく、歩行訓練士であると聞いてさらに疑問が膨らんだ。はたして歩行訓練士が関西盲人ホームで何をやっているのか、とこれまた不思議だったのだ。もちろん関西盲人ホームが業務として、歩行訓練や講師派遣を行っているわけではない。
歴史と伝統のある盲人ホームを守るため何でもできることはやるという決意の延長線上で、日盲社協や日本歩行訓練士会、視覚障害リハビリテーション協会、あるいは盲伝や所属する教会でもできることは何でも引き受けてきたのだ。
彼女は関西盲人ホームの業務を一筋に、給与生活者として、忠実に行ってきたわけではない。28年ぐらい前には、兵庫県北部の神鍋<カンナベ>高原で、視覚障害者10人と誘導者10人でパラグライダー体験を申し込み、それがテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で全国放映された。それを観た関係者が、当時の理事長に「視覚障害者を殺す気か!」と怒鳴り込んで、その1回限りで施設行事としてはできなくなった。また、阪神大震災で半壊した甲東寮に住んでいた福岡と長崎出身の寮生を、本人たちの希望を聞いて、飛行機で帰省させた。すると「障害者を邪魔者扱いして、片付けをするとは何事か」というクレームが来た。またその後、甲東寮の片付けも不十分なまま、視覚障害被災者の調査を行うと、「今頃何しに来たんだ」とか、「どうしてここに障害者がいることがわかったんだ」と怒られた。
山口はいつも忙しい。自分ができることなら嫌とは言わないので、休み無くエネルギッシュな行動力で、ときとしてボランティアを組織して働く。その代わり、石橋を叩いて渡るような慎重さや、おっとりとした振る舞いとは縁遠いのでそのための誤解も受ける。
このため、巻き添えで心ないクレームに傷つき帰ってくるボランティアの学生たちを慰めるのも、自称「普通のおばちゃん」である山口の役割である。
小誌前号(2020年9月号)15ページの下から3行目は、「たゆまず自活を求めて生きてきたからこそ」とするべきところを、「ゆるまず自活を求めて生きてきたからこそ」と誤って点訳しておりました。ここに訂正して、著者である本間律子様と読者の皆様にお詫び申し上げます。(編集部)
日本盲人社会福祉施設協議会(舛尾政美理事長)は、日本盲人福祉委員会(竹下義樹理事長)大災害被災視覚障害者支援対策本部からの協力要請を受け、同委員会の構成団体として、令和2年7月豪雨等による被災視覚障害者支援のため義援金を10月31日まで下記のように受け付けることになりました。
郵便振替口座 00110-9-13663
加入者名 社会福祉法人日本盲人社会福祉施設協議会
※通信欄に「義援金として」とご記入ください。
※払込手数料もご負担ください。
以上、ご協力のほどよろしくお願い致します。
これまでは、台風が接近するとマスコミが報じれば、観光客は当然のことながらホテルをキャンセルすることが多かったので、九州のホテルはその間閑古鳥が鳴いていました。ところが、今年の台風10号はあまりに巨大で、九州全域が暴風域となり、屋根を吹き飛ばし、電柱や街灯をなぎ倒して北上することが報じられました。すると木造家屋は心配なので頑丈なホテルの方が安心できるとか、新型コロナウイルスの感染予防で避難所には行きたくないという人々が九州各地のホテルに殺到しました。
「巻頭コラム」では高齢者を例に挙げましたが、視覚障害者も災害弱者です。危険だという情報を入手したら間髪を入れずホテルを予約することをお薦めします。予約は早ければ早いほど希望の宿が取れます。そして一歩出遅れると、たった1泊なのに金に糸目をつけなくても予約までたどりつけない非情さなのです。(福山博)
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