6月6日と6月14日に東京で、6月7日に大阪で、米国で広がる人種差別に抗議する活動に連帯するデモが行われた。これを報じる『共同通信ニュース』は「『黒人の命守れ』大阪でデモ行進 ―― 千人結集、『日本にも人種差別』」と報じたが、どういうつもりなのかといぶかしんだ。
「日本の警察は白人にはめったに職務質問しないが、パキスタンから帰化した日本人はたびたび職務質問される」という事実があるので、日本にも人種差別はある。しかし、「アメリカのように殺人を伴う人種差別はない」とはいえるのではないか。それなのに、「日本にも人種差別」はあると一括りにすると、米国で警官の膝で首を押さえつけられて死んだフロイド氏が浮かばれないし、米国の事件をひどく矮小化することにならないだろうか。
米国における黒人差別の解消を求めるスローガンは、「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter:BLM)である。これを読売、産経、日経、ロイターは「黒人の命は大切だ」と訳し、「大切だ」というところを毎日は「大事だ」と書いた。朝日は「黒人の命も大切だ」と訳し、「大切だ」というところを、時事通信は「大切」、共同通信は「大事だ」、東京は「重要だ」と書いた。しつこく新聞と通信社を調べたのは、どれも日本語として不完全な直訳で、もっとましな日本語を使う報道機関はないものかと探したからだ。
そんなことをネイティヴなみに英語を使う友人に話したら、「あなたならなんて訳すのよ」と問われた。そこで「黒人の命を軽んずるな!」と言ったら、「ちょっと意訳すぎるが意味はそのとおり」と言われた。
BLMは、「黒人の命も大切だ」というわかりきった一般的なことを言っているわけではない。黒人であったばかりにジョギング中に「怪しい」と射殺されたり、コンビニにジュースを買いに行き、帰りに「怪しい」と射殺されたり、公園でオモチャの銃を持っていたために、問答無用で射殺されたなど、一説には5年間に1,200人もの犠牲者がおり、あまりに軽く扱われている黒人の命を問題にしているのである。(福山博)
「あなたは熱があるので、いま病院でコロナ対策をしています。このまましばらくお待ちください」と救急隊員は言った。
今まで経験したことがない激痛のあまり119番のお世話になったので、否が応でもない。都内の私が住む区の中核病院敷地内で、私は心電図と血圧計を付けたまま救急車のストレッチャー上にベルトで固定された。激痛で寝返りは打てず、ひたすら我慢して待つしかない。まさにミゼラブル(悲惨で惨めな状態)だった。姿勢を変えないでじっとしている分にはなんともないが、ベッドから起き上がるとか、体をそらしたり、肩を動かしたり、咳をするとか、くしゃみをすると、死ぬのではないかと思うほどの激痛に襲われた。
救急車で病院に入るとき、敷地内にカマボコ型の白い大型テントが2棟見えた。これは新型コロナウイルス対策のために発熱患者の対応にあたる陰圧テントである。
3月末に同病院の研修医が新型コロナウイルスに感染したので、地元では驚きとともにこのニュースは広く拡散した。ただ、患者との濃厚接触はなく、濃厚接触した職員もPCR検査で全員陰性となり、病院内は完全に消毒されたので今は安全だとも報じられた。
その後、同病院の新型コロナウイルス感染者は4月中旬には25人に達したが、5月に入ると減り続け、6月には入院患者はゼロになった。
不注意による肋骨骨折で私が担ぎ込まれたのは5月下旬で、同病院に新型コロナウイルスによる入院患者はほとんどおらず、カマボコ型の白いテントもその数日後に撤去されるタイミングだったのは、不幸中の幸いであった。
ただ、報道によれば新型コロナウイルス感染者のために病棟2棟を専用にした結果、通常の手術などは後回しになり、同病院の4月の収入は前年同月より2割も減ったという。院内感染防止に人手もかかり、神経も使う、新型コロナウイルス患者を受け入れれば受け入れるほど赤字になる病院経営はミゼラブルである。
この状態を区役所も放置できず、結局、過去の平均収入との差額を補填すると報道された。新型コロナウイルスの第2波の兆候も見られる現状を鑑みれば、しごく当然な措置であろう。
私が緊急搬送されるまでに、同じ救急隊員でも先発隊と救急車の乗組員がおり、入れ替わり立ち替わり、判で押したように姓名、生年月日、ケガした状況などを聞かれた。そのうち「年齢が違うぞ!」という声があがった。この時点で、生年月日を少なくとも3回は答えていたのだが、なぜか5歳も若く記載されていた。
事故が起きたのは5月下旬の金曜日の夜、私は酔っ払ったあげく自宅の玄関で躓いてうつ伏せに倒れ、そのまましばらく気を失ったようであった。正気に返ると、着替えてすぐにベッドに潜り込んだので、その夜はほとんど身体の異常を感じなかった。
翌朝は土曜日ということもあり寝坊を決め込んでいたが、尿意には勝てず起き上がろうとすると右側の胸部にズキンと鋭い痛みが走り、足が飛び上がって膝が折れ、寝た状態のままうずくまる姿勢になった。
這うようにしてトイレに行き用を足して、鏡の前に立つと額に黒いかさぶたができていた。それはちょうどヒンドゥー教徒の祝福の「ティカ」を思わせた。ネパールでティカと呼ぶのは、米とヨーグルトを混ぜ食紅で色をつけたもので、これを年長者や僧侶が善男善女の額にくっつける。昨夜の失神の原因は、このケガが原因のようであった。しかし、詳しく調べたが自分が着ていたシャツとズボン以外、玄関周辺にはどこにも血痕は見つからなかった。
そんなことをストレッチャー上で反芻しているうちに、スマートフォンの電池残量が気になった。こうしている間にも確実に減っていくが、身動きできなければ唯一の外部との連絡手段であり命綱だ。そこで、救急隊員に「ケータイ使っていいですか」と許しを請うと、以外にもあっさりと「どうぞ! どうぞ!」と快諾を得た。
職場に電話をすると、この日は土曜日だったが、点字教科書の点訳に出勤している職員がいた。そして職場に置きっ放しになっていた健康保険証を、職場から徒歩と電車でちょうど30分のJR東日本中央本線のとある駅近くの総合病院に届けてくれるように頼んだ。
その電話のときはまだ肋骨骨折の診断前だったので、そのことは話さず37.6℃の熱があるので今病院の敷地内で待機していること、準備が整い次第陰圧室でのCTスキャン(コンピュータ断層撮影)を行うということを述べた。この時点でPCR検査の対象者は激減していたため陰圧テントは使われていなかった。
準備ができたというので、ストレッチャーごと総合病院の救急医療センターに入り、看護師に促されて診察台に移ることになった。救急隊員や病院の医療スタッフ6、7人に囲まれて、あまりの激痛にうずくまり呻吟しながら、手助けも借りてなんとか移った。マスクをしていたので定かではないが、担当医はとても若いイケメンの青年で、研修医だと思われた。
これを節目に救急隊の関係者は蜘蛛の子を散らすように消えてしまい、またもや待機であった。マスクをしているので定かではないが、美人とおぼしき若い看護師に再度体温を測ってもらうと37.8℃と少し上昇していた。そこから約30分待たされた後、陰圧室でのCTスキャンが行われ、まず頭部を撮影し、次いで胸部が撮影された。医師によると肺に影はなく、問診の結果を総合的に考察すると新型コロナウイルスに罹患しているとは考えられず、PCR検査も必要ないとのことだった。
職場では新型コロナウイルス感染症対策の一環として、37.5℃以上の発熱等の風邪症状があった場合は、熱が37℃未満に下がったことを確認し、それが48時間継続した後に出勤するルールになっていた。そこで、「新型コロナに罹患しているとは考えられない」という言質を取るために私は食い下がった。
CTスキャンの後、イケメン先生は「あなたは右側胸部が痛いとおっしゃっていましたが、4番と5番にヒビが入っているので、ここですよ」といって肋骨の一部を軽く押した。そして私が「痛い!」と叫ぶと、「そうでしょう」とうなずいた。
酔っ払った末に骨折したのだから自業自得とばかり、情けはかけられないという態度がはっきり見えた。しかも、彼は私が骨折していない肋骨周辺をなで回して痛がっていると不思議がった。
10分程たってイケメン先生は、「CTの専門医によれば、あなたの肋骨は4番から12番までの9本にヒビが入っているとのことです」と、ばつが悪そうに先の説明を訂正した。頭部もCTスキャンしたはずだが、イケメン先生はまったく話題にしなかった。私も9本もヒビが入っていると聞いて少し動転して、ついさっきまで気にしていた頭のケガのことはすっかり失念していた。
結局、病院では額の「ティカ」には一切触らず、異常なしということなのだろうと勝手に判断した。それより肋骨が心配だ。1時間ちょっと点滴を受けて、くだんの医師が、「痛み止めを処方したので、今日はもうお帰りください」と言った。私は「激痛が走るのですが、入院しなくていいのですか」と聞いた。すると「どのような角度からみても、入院には値しません」とあきれたように言い放った。すると美人看護師が、「今すぐ痛み止めを飲んでみませんか、それが利いたところで帰ったらどうですか」と言った。そこにベテラン看護師が現れて、バストベルト(肋骨サポーター)を持ち出してきた。それを研修医が私の胸に巻こうとしたが、まだ点滴中であったため、「あっ! 点滴」と言ってあわてた。その動転ぶりをみてベテラン看護師が、「もう外していいでしょう」と言った。こうして点滴の針がずれたため、私の腕にはこの後、青いアザが2週間ほど残った。
痛み止めの飲み薬と、バストベルトの効果はすぐに現れた。ちょっとした身のこなしで激痛は起きたが、うずくまるほどの発作はほとんどなくなったのだ。
晴れて病院を後にし、薬局に行って処方箋どおり痛み止めの内服薬ロキソニン錠と胃薬、それに湿布薬のような痛み止めのロキソニン貼り薬を貰った。そして薬局で呼んでもらったタクシーに、時間をかけて乗り込んだ。「どうしたのですか?」とドライバーが聞くので、「肋骨を骨折したのです」と答えると、「痛いらしいですから、どうぞごゆっくり」と言った。10分ほどで帰宅すると、すぐに体温を測ったら平熱にもどっていた。
診断から2日後にX線撮影が必要だというので、再びくだんの病院に向かった。玄関ホールでは4人の看護師が非接触式体温計と手指消毒液を手に、来院者に問診を繰り返して、新型コロナウイルス感染の疑いがないか監視していた。そして大丈夫そうだとなったら体温を測り、それをパスしたら手のひらに消毒液を拭きかけて来院が許された。
この日レントゲン写真を撮るというので疑問があった。というのは、レントゲンとCTは、どちらも放射線を利用した画像検査法だが、得られる画像の性質がまったく違う。レントゲンは放射線を一方向から照射し、フィルムに画像を焼き付ける検査なので一般的なカメラと原理が同じで得られる画像は2次元だ。一方、CTは撮影部位に対して多角的に放射線を照射し、得られたデータをコンピュータで解析するので3次元的な画像が撮れるので、CTの方が精密な診断が可能だ。そのため私の理解によると、まずレントゲン写真を撮影し、さらに詳しく調べたいときにCT検査を行うはずだ。だが私の場合はCTが先で、その2日後にレントゲン撮影で順番が逆であった。
そんな疑問が顔に出たのか、働き盛りの医師は開口一番「前に聞いていると思いますが、今日は肺に血が溜まっていないかどうか調べるためにレントゲン写真を撮りました。肋骨を骨折すると、まれに肺に血が溜まって重篤化するのです」と言った。どうやら研修医のフォローをしているようだった。研修医からはそのような説明は一切なかった。
私は「肋骨にちょっとヒビが入っているだけだと聞いたのですが、骨折ですか」と聞き返した。すると医師は、「ヒビも医学的には骨折というんですよ」と答えた。そして、「たぶんこれで問題ないと思いますので、10日間の薬を本日処方しますが、明らかに異常が感じられたら、すぐに来院してください」と話を次いだ。
どれくらいで完治するのかという質問には、「1ヶ月から一月半」と答え、その先生は最後に「お大事に!」と言ったのでなにやら嬉しくなった。イケメン先生に欠けていたのはこの「お大事に!」という一言だった。
医師ももちろん人であり、佐藤とか鈴木という名を持つ個人である。しかし、佐藤先生も鈴木先生も白衣を着て患者に接するときは、個人としてのキャラクターは白衣に仕舞って医師という職業人として対応する。そして医師に共通の落ち着いた理性的な診断ができ、最後は決まって「お大事に!」と言うのである。
もっとも病院によっては、「お大事に!」は敬語ではないので、「お大事になさってください」と几帳面に統一している病院もあると聞く。だが、私は「お大事に!」で十分だと思う。それは佐藤さんや鈴木さんという個人の言葉ではなく、医療人としての声かけだからだ。
「肋骨骨折 激痛」で、ネットを検索したら「4日目は3日目と変わらず。ここが痛みのピーク」というブログに出会っていたので、私もそう覚悟していた。しかし、私の場合は日を追う毎に確実に激痛が寛解していった。ブログの主は完全に肋骨が折れていたようだが、私の場合はヒビが入っただけなので、その差かも知れない。そこで極私的に激痛がどのように寛解していったかを次に述べる。
事故2日目の治療前(激痛100%):ベッドから起き上がるだけで10分もかかり、靴下をはくのはあきらめた。しゃがみ込むとベッドや椅子につかまって、激痛に耐えなければ起き上がれなかったので、床に落ちた物は拾わなかった。歩くと発作的な激痛が頻発し脂汗が出た。電車とタクシーで職場に行き、健康保険証と病院の診察券を持って、職場近くの総合病院に行くつもりだったが、徒歩3分の最寄り駅まで歩くのが限界だった。かくして恥ずかしながら駅員に救急車を呼んでもらったのであった。
2日目の治療後(80%):痛み止めのおかげで靴下がはけたし、床の物もとれた。ただし、身をよじるほどの激痛がこの日も起きた。しかし、その頻度が格段に少なくなった。しかもゆっくり歩く分には激痛は起きなかった。
3日目(70%):激痛に耐える回数がさらに半減した。ベッドから起き上がる時間が5分ほどに短縮された。タクシーから降りる時間も短くなった。この日は日曜日だが、出勤して自分の身に起きたことをレポートに書いて、月曜日の午前中に病院に行くことを関係者に連絡した。職場で椅子から立ち上がるときは、まだ、机に手をついて起き上がるようにする必要があった。守衛さんに「どこか具合が悪いのではないですか」と声をかけられたので正直に答えたら、「死ぬほど痛いそうですからね」と同情された。電車に乗ったら、席がすいていても座ることはできなかった。うまく立ち上がれそうになかったからだ。
4日目(60%):ベッドから起き上がる時間が3分ほどになり、さらにはっきりと激痛の回数が減った。根性を出さなくても日常生活が営めるようになった。この日まで出勤にタクシーを使っていたが、乗り降りが格段に楽になり、ドライバーに気を遣わなくてもすむようになった。電車も隅の席であれば、立ち上がる手がかりがあるので座ることができた。前日まではシャワーのみだったが、この日は湯船に浸かることができた。寝返りが打てず身体が痛くなると、一端起きてソファーに深く座り背もたれにもたれかかると楽だった。そうして、30分前後身体をほぐしてからまた寝た。
1週間目(30%):起き上がる動作が格段に楽になり、全快という希望が見えてきた。寝るとき以外にそれほど痛痒を感じなくなった。
2週間目(20%):バストベルトを外してみた。咳がでて痛みが走ったので、あわてて胸を強く押さえた。その後も炎天下を歩く際は、バストベルトを外した。この日まで禁酒していたが、寝る前に缶ビールを飲んだ。だが、期待したほどうまくはなかった。
17日目(15%):薬が無くなったが、病院に行く必要はないと自主判断した。実際に痛み止めを飲まなくともほぼ困らなくなっていた。油断をして食事中にむせるが、覚悟したほどの激痛ではなかった。
3週間目(10 %):寝返りが少し打てるようになった。
4週間目(2%):右側胸部を下にしなければ、寝る姿勢にも問題はなくなった。
6週間目(0%):ほぼ全快したといっていい状態になった。
訃報にあるように、笹田三郎さんはインドでは「ササジー」と呼ばれていたが、日本では「サブチャン」と呼ばれ、愛されていた。
サブチャンに私が初めて会ったのは、1987年11月に香港で第1回WBU東アジア太平洋ブロック(現・WBUAP)の大会が行われたときだった。晴眼者は私1人で、視覚障害者は田中徹二氏(現・日本点字図書館理事長)を先頭に5人(弱視2人)が連なって香港に向かった。別途、日盲連は43人の代表団を送った。
我々の宿は、地下鉄油麻地(ヤウマティ)駅近くのYMCAインターナショナルハウス(現:ザ・シティビュー)という安宿だった。ここに5泊し、私は笹田さんと同室だったが、彼が実際に泊まったのは、初日と最終日だけだった。
2泊目の夜、心配した田中さんから「笹田はどこに行ったんだ」と追及された。私は「ホテルには一緒に帰ってきたのですが、その後、笹田さんは一人で外出されました。英国にも一人で行く人なんでしょう。大丈夫ですよ」と、言い逃れることに汲々とした。
翌日の大会で笹田さんを探し出し、夕べどこに泊まったのか問いただすと、彼は韓国代表団が宿泊する高級ホテルに泊まったと言った。
32年前の韓国の企業や団体のトップや幹部は、まだ日本語教育を受けた人々ばかりで、流ちょうな日本語をしゃべった。その反面、英語はからっきしだめという人も多かった。大会は英語で進められたため、韓国代表団は会議の内容がわからなくて困っていた。そこで、笹田さんがボランティアで韓国代表団の通訳を買って出ていたのだ。そして夜になれば毎日歓待を受けていたということだった。
何か気になると精力的に本領を発揮し、まわりが心配することを気にかけないのが笹田さんであった。そして、そのたびに私は心配する田中さんへの釈明に追われたのだった。(福山博)