香港デモのスローガンは、「光復香港(香港を取り戻せ)、時代革命(革命のときだ)」である。これをウェブ上で検索したら、台湾のニュースサイトに「造反港府有理(香港政府への反乱には正当な理由がある)、改革香港無罪」と出ていた。
これは中国で1966年5月 〜1976年10月に行われた文化大革命(文革)のときの紅衛兵のスローガン「造反有理(反乱には正当な理由がある)、革命無罪」のパロディだ。
文革は、大躍進政策の失敗によって国家主席を追われた毛沢東が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生を扇動して政敵を攻撃させた中国共産党(中共)内部の権力闘争だった。
中共は、第11期3中全会において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計しているが、もちろんこれは少なく見積もった数で、彼の国ではいまだにタブーで、文革に関するシンポジウムや研究会さえ許されていない。
香港デモのニュースに接すると胸が締め付けられる。香港市民の怒りは、「一国二制度」への危機感であり、制度を骨抜きにし続けた中共への不信感がその原動力である。一部に空港占拠などの過激な行動もあり、平和ボケした人々は、これをも暴力だと一括りにして非難するが、デモ隊は殺人をも含む凶悪な暴力装置を相手にしているのである。
中共は軍隊をも持つ極めて危険な機関で、国際社会の目が届かないチベットやウイグルでは、今でもおそるべき人権侵害を起こしている。また、1989年北京の天安門広場に民主化を求めて集結していた学生に、軍隊が武力行使し多数の死傷者を出したが、中国ではなかったことにされ、ネットで検索できない。
2015年に中共に批判的な本を販売していた香港の銅鑼湾書店の店長など4名が、中国当局によって拘束された事件は記憶に新しい。
逃亡犯条例改正案は撤回されたが、世界でいま最も革命が必要なのは香港であることは論をまたない。これは草葉の陰の毛沢東にも異存はないはずである。(福山博)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」は、中途失明者が習得しやすい点字指導法を考案・確立した名古屋ライトハウス理事で、名古屋盲人情報文化センター顧問の原田良實さん(75歳)に決定した。
第27回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で外部からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害委員によって選考される。
贈賞式は10月1日(火)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
受賞者の生い立ちから、他のやり方では点字を習得できない中途失明者に対して、邪道といわれながら30年間も名古屋で孤塁を守るように指導を継続。そしてついにはその実績が広く認知され、独創的点字指導(名古屋方式)が全国的に広まるまでを、それまでの様々な活動とともに聞いた。以下、敬称略。(取材・構成は本誌編集長福山博)
昭和19年(1944)2月、原田良實は愛知県東部の新城市で生まれ、その地で高校までを過ごす。60年安保闘争の大波は、地方の高校にも大きな傷痕を残した。本が好きで図書委員をしていた高校2年生の原田は、安保闘争による東大生樺美智子の死にひどく動揺した。
そんな折、彼は車椅子のグループと接点ができ、その中の一人から豊橋市でともしび会という点訳サークルが発足総会を行うので、連れて行って欲しいと頼まれた。
国鉄(現JR)を使えば乗り換えなしとはいえ、当時はバリアだらけの道中だった。迷った末、彼は溲瓶を手に肢体不自由の男性を負ぶって電車に乗せ、会場の豊橋盲学校に向かった。
これが縁で、彼は点字をともしび会の通信指導で習得する。本が好きで、点字を習得した彼は「視覚障害者の読書をやる!」と胸に秘め、当時東京・上野にあった文部省図書館職員養成所(現・筑波大学図書館情報専門学群)の門を叩く。
ところが無事入学してみれば、期待していた点字や視覚障害に関係する授業は皆無だった。そこで日本点字図書館をはじめとする点字図書館詣でをはじめ、関係者の意気揚々とした姿に触発される。
2年生になり就職も気になっていた頃、ある文献を読んでいたら、名古屋市民の憩いの場鶴舞公園内にある市立名古屋図書館に昭和4年に点字文庫が開設されたという一文を読み心躍った。この図書館は戦災で焼失し、昭和27年(1952)10月に名称を名古屋市「鶴舞図書館」に改名して再開していた。
原田はこの図書館に点字文庫の仕事がしたいと求職し、その熱意が伝わったのか昭和39年(1964)4月に名古屋市職員として採用され、「鶴舞中央図書館」に配属された。この年、同図書館は現在名古屋市に21館ある市立図書館を束ねる中央図書館に格上げされ改名されたのだった。
それからの彼は、この図書館に司書として25年間勤務する。ただし、入職すると共に点字文庫の担当にはなったが、それは業務の半分で、カウンター業務など通常の図書館の仕事も行わなければならなかった。
一般利用者のカウンターや奉仕者による点字図書製作の調整など毎日多忙な生活を送りながら、原田は点字図書を利用する視覚障害者を通して視覚障害者の課題や福祉に対する自分の知識不足を感じた。そこで、働きながら昭和41年(1966)4月に日本福祉大学の2部に通い始め、昭和45年(1970)3月同大社会福祉学科を卒業した。
この間原田は、昭和40年(1965)から始まった晴盲合同キャンプに参加し、キャンプ参加の盲青年たちの「もっと山を歩きたい」の声に、昭和43年(1968)に「はくじょう会」という登山やハイキングなどを行う会を組織。このため休日ともなれば視覚障害者と共にトレッキングやレクレーションに忙しかった。晴盲合同キャンプは結局、41年間継続した。
中途視覚障害者への点字指導を昭和45年(1970)から始めるが、昭和47年(1972)にベーチェット病患者友の会と支援の会が結成されると点字指導の希望者が増えてきて問題が出て来た。
教わったとおりに点字指導をすると、必ず落ちこぼれが出てきたのだ。そこで、まずは自分で触読に挑戦してみると、これができない。自分ができないことを無理強いしてきたのかと、自己嫌悪に陥りながら本格的に触読の研究を始めた。
先人の文献を紐解き、試行錯誤の連続で研究を重ねた結果、それまでタブー視されてきた「縦読み」で、1と4の点、2と5の点、3と6の点を順に探るやり方をすれば、比較的簡単に誰もが「ア」「イ」「ニ」「ナ」と、「ウ」「レ」「メ」「フ」の8つの点字は認識できることに気付く。オーソドックスな点字指導では手も足も出なかった受講者が、手応えを感じてくれたのだ。
こうして、昭和52年(1977)頃から異端と後ろ指を指されながら「縦読み」による点字指導を開始した。
もちろん彼自身、後に「名古屋方式」と呼ばれるこの方法が万能だとは思っていなかった。ある程度読めるようになった人にはオーソドックスな横読み方式を薦めた。また、点字指導を始めるにあたって、この方式が邪道だと批判されていること、しかし、自分の体験を含めてこの方式以外では、中途失明者の触読は難しかった過去の実例も率直に語った。
こそこそと名古屋だけで行う地下生活者のような点字指導ではあったが、中途失明者が点字を読めるようになり、盲学校に入学すると、彼の活動は各方面から注目された。それにつれて鶴舞中央図書館に出入りする視覚障害者の数も増えていった。それには公共図書館という性格も幸いした。失明したばかりの人に「盲学校や点字図書館に行って相談したら?」というのと、「鶴舞中央図書館に行って相談したら?」というのでは、格段に後者の方が敷居が低かったのだ。
昭和52年(1977)、念願であった点字文庫の専任になる。昭和50年代に入るとベーチェット病による視覚障害に加え、糖尿病性網膜症による視覚障害者が増加して来る。そこで彼は館内に中途失明者委員会と図書館利用者を中心に受け皿としての中途失明者友の会を組織し、点字指導法の研究を表向きに、病院を回り、中途視覚障害者の相談や点字指導を行い、名古屋における視覚障害リハビリテーションの立ち上げを願った。国際障害者年(1981)には、眼科医の高柳泰世と協力して愛知視覚障害者援護促進協議会(会長名古屋大学眼科教授・市川宏を組織して、ボランティア活動による視覚障害リハビリテーションを開始した。また、昭和59年(1984)4月に名古屋市鶴舞中央図書館が改築されてオープンするのだが、新中央館には、対面朗読、録音図書制作はもちろん、視覚障害者の文字処理として、オプタコンによる英文読み指導、開発されたばかりの長谷川貞夫の点字ワープロを導入して新しい世界の幕開けを利用者に届けた。同年10月には点字受験による視覚障害者司書の入職に成功。国際障害者年を契機に障害者に対する一般の理解は大きく進み、彼が温めてきた企画は次々と実を結んだ。
鶴舞中央図書館には後継者もできたので、平成元年(1989)4月、社会福祉法人名古屋市福祉健康センター事業団に視覚指導課長として入職。建設検討委員会のときから関与し、視覚部門では中心的に発言していたので、定年前の45歳ではあったが市役所を退職しての転職だった。給料は目減りしたが、当初、原田を含めて3人の陣容に、別途コミュニケーション指導員(視覚障害者)を追加できて、中途失明者に対する更生相談・点字指導・歩行訓練等のリハビリテーションが完結できる体制が構築でき、やり甲斐はあった。オープニングイベントに東京から「ギャラリートム」の手で見る美術展を誘致し、名古屋市美術館と事業団の共催で開催した。その後美術館は視覚障害者向けの展示を開催していく。
原田は図書館の次は美術館・博物館という思いもあり、視覚障害を持つ人々のために、日本在住の英国人研究者ジュリア・カセムが立ち上げた美術工芸品を鑑賞する「アクセス・ヴィジョンの会」に協力して事務方を受け持ち、視覚障害者とともに美術館・博物館巡りを行った。
「名古屋方式」が日の目を見るようになったのは、この事業団時代の平成12年(2000)からである。この年、原田は日盲社協リハビリテーション部会(現・自立支援施設部会)の部会長だったのだが、「点字指導の研修」をやって欲しいという強い要望が出て、重い腰を上げざるを得なかった。
日盲社協での研修会の翌年から国立特別支援教育総合研究所の研究員澤田真弓と点字触読指導法の研修会を開催し、縦読み、L点字の触読指導が広く認められるようになった。
そして、平成16年(2004)に読書工房から『中途視覚障害者への点字触読指導マニュアル』が、澤田真弓との編著として上梓されてから「名古屋方式」が全国に広く普及するようになったのである。
先月の小誌(通巻592号)に掲載された「『大学門戸開放70周年』記念講演会」の記事中、藤野高明氏の肩書きが「前大阪府立盲学校教諭」となっておりましたが、正しくは「前大阪市立盲学校教諭」です。ここに訂正して、お詫び致します。
「巻頭コラム」に中国共産党の略称として「中共」を使いましたが、「蔑称ではないのか?」と誤解された方はいなかったでしょうか?
というのは、日本共産党の略称は「共産党」であり、「『日共』は日本共産党を貶めるための蔑称の類い」といわれているからです。このため同党中央委員会の機関誌『しんぶん赤旗』に「日共」という略称が掲載されることはまずありません。
しかし、「中共」は中国共産党の「正式な略称」なのです。このため、中国共産党中央委員会の機関紙である『人民日報』には、「中共代表団が訪日、中日関係など意見交換」(『人民網日本語版』2019年4月15日)等、「中共」が紙面に頻繁に出てきます。
『人民網』とは『人民日報』を発行する人民日報社が運営するニュースサイトで、日本語版と日本版の2つのサイトがあります。日本語版では中国の重大ニュースを日本語で提供しており、日本版は日中関係の報道を専門に中国の立場を中国語で主張します。
なお、『人民網』は、中国語や日本語の他に、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、ポルトガル語、アラビア語、朝鮮語版があります。もちろん『人民日報』も中共の思想や路線の宣伝、教育、啓蒙を担当するプロパガンダ機関である悪名高き中共中央宣伝部の管理下にあります。(福山博)
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