役員報酬を有価証券報告書に過少記載した金融商品取引法違反と、私的な損失を日産に付け替えるなどしたとする特別背任罪で起訴された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(64歳)が、3月6日に東京拘置所を出る際、作業員に変装して多数の刑務官を引き連れて現れたのには驚くとともに、彼のトリックスター的キャラクターが良く表れていて苦笑した。
裁判の行方はともかくとしてゴーン氏の道義的責任は逃れられず、「ルノー・日産・三菱アライアンス」の社長兼CEO解任は当然のことである。しかし、フランスのメディアは彼を「日本司法の人質」として報じた。その背景には「平等」を国是とするフランスだが、司法も重要人物を特別扱いする慣習があるからだという。
昨年の11月17日(土)から毎週土曜日にフランス各地で道路封鎖を含む激しいデモを展開しているイエロー・ベスト運動は、「金持ちへの増税」、「最低賃金の引き上げ」、「マクロン大統領の辞任」等を要求している。この運動の根底に、特権階級たるエスタブリッシュメントに対する根強い不満と批判があり、彼らはゴーン被告にも厳しい視線を向けている。
ところで、日産は約2兆円(200億ドル)の有利子負債を抱え経営危機に陥ったとき、その処方箋は、工場を統廃合し、人員を整理して余剰資産を売却することであるとはっきりしていた。だが、当時の経営陣はそれを知りながら実行できなかった。
われわれ日本人は、右肩上がりの時は勢いづくが、撤退の判断を求められるとき、何を成すべきか明確であるにも関わらず責任ある人々がグズグズ先延ばしをしてなかなか決められず実行しない。
先の大戦がそうであるし、盲学校の統廃合も30年前からいわれていたがほとんど動いていない。これはフラットに多様な意見を聞いて、そのどれがいいのかではなく、力関係で決まってしまう悪癖がわれわれにあるからだ。日本人の弱点・旧弊といわれても仕方がない困った性癖である。(福山博)
「ヘレンケラー・サリバン賞」は、視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツなど各分野において、視覚障害者を支援している「晴眼者」にお贈りする賞です。これは、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者のサポートを受けて生活している。その支援に視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が1993年に創設、今年で27回目となります。なお、同賞の名称は、ヘレン・ケラー女史と同女史を生涯支え続けたアン・サリバン女史の名に由来します。選考は、視覚障害者によって推薦された候補者の中から、当協会が委嘱する視覚障害者の選考委員によって行われます。受付は6月末日(必着)まで。発表は本誌10月号で行い、受賞者には本賞(賞状)と副賞(ヘレン・ケラー女史のサインを刻印したクリスタルトロフィー)をお贈りします。推薦書をご希望の方は、当協会(03-3200-1310)までご請求ください。多くの方からのご推薦をお待ちしております。
一昨年、仕事の関係で国立オリンピック記念青少年総合センターのシングルルームに泊まった。1泊5,500円の安宿だが、当然のようにユニットバスがついており、もちろん熱いお湯がたっぷり出た。
私がはじめてシャワーのみのホテルに泊まったのは1987年に香港・油麻地(ヤウマティ)のYMCAインターナショナルハウスだった。三ツ星ホテルで他は立派なのにと強い不満を持ったことを今も覚えている。
戦前の中国の農村を描いたパール・バック著『大地』は、主人公である中国安徽省にすむ貧農の王龍(ワンルン)が、妻として地主の奴隷を娶るシーンから始まる。彼は結婚するので、お湯を沸かしタライで沐浴するのだが、それを父親に「もったいない」と咎められる。つまりお湯は貴重品で、湯水のように使うわけにはいかなかったのだ。中国の農村部では1980年頃までシャワーさえ無いのが一般的だった。
シンガポールのYMCAもシャワーのみだったが、ソウルYMCAはなぜか日本式のユニットバスだった。
日本人は一般に温厚で大人しいと諸外国から見られているが、こと風呂になると、目の色が変わり穏やかな紳士淑女が豹変する。例えば、どこの国であっても五ツ星ホテルで40℃以上のお湯がたっぷり出ないと、多くの日本人は激怒する。仮に40℃ちょうどのお湯が出てもバスタブに貯めるとそれよりも温度が下がるから、不機嫌になる人が多いはずだ。そしてそんな「火傷しそうなお湯」がなぜ必要なのか、現地スタッフは当惑する。
昨年(2018)8月〜9月にかけてインドネシアの首都・ジャカルタで、アジア競技大会が開催された。選手村にはシャワーのお湯が出ない部屋もあり日本選手は困惑し、同大会でMVPに選ばれた競泳女子の池江璃花子は「(水シャワーだったので)寒い。上がったら鳥肌が立った。環境面で不自由な部分があった」とコメントしていた。
ジャカルタは南緯6度12分なのでほぼ赤道直下、平均最低気温は23℃で、同最高気温は31℃と年中真夏の国なので、そもそもホットシャワーは一般に普及していない。したがって日本人が「寒い」と騒いでいる真意がわからず、現地スタッフは当惑したに違いない。
日本では真夏でも市民プールのシャワーからはお湯が出るが、他国の人々にとってそれは信じられないくらい資源の無駄であり、贅沢なことなのである。
私は直近では2015年12月にネパールのインド国境に近いシムラという町で水シャワーのホテルに泊まるはめになった。標高100mくらいの亜熱帯地域だが、それでも最低気温15℃で、私は水を浴びることはできなかった。カトマンズは標高1,300mなので、1年で最も寒い朝は3℃、日中は18℃くらいだ。しかし、ネパールでは金持ちでも水シャワーが常識というお国柄である。
日本でも真冬の滝行とか寒中水泳を行う人がいるので、生まれてからずっと水シャワーできた人たちは問題ないのだろう。
ただ、ネパール人であっても日本や欧米で数年間暮らしていた人は、さすがに水シャワーは堪えるようで、ホットシャワーを使っている。(福山博)
「コカコーラでいいんだよ。脱水症状を起こしたら、コカコーラを2、3本ごくごく飲んだら治る」と言ったのは、ニューヨークに30年以上住む全盲の音楽家加納洋氏だった。なにやら米国では常識でもあるかのような口ぶりだった。
居酒屋でこんな話になったのは、「ネパールのミネラルウォーターは1L 30円くらいだが、エビアンは1L 500円近くする。それでも念のために外国人相手のスーパーマーケットでいつも2本は買う」と私が言ったからだ。そして地方では買えないので、その2kg分の水を私はいつも持ち歩いている。
でもいい話を聞いた。たしかにコカコーラだったら水質検査も厳重に行っているだろうから安心だ。そういえば、初めて訪れるネパールの田舎では、どんな辺鄙なところでも判で押したようにコカコーラやファンタが出される。私もエビアンにこだわることなく、代用できる場合はコカコーラにしようかなと考えた。
コカコーラならどこででも買えるし、その方がはるかに経済的だからだ。ただし、コーラにはカフェインが入っているので、胃腸薬(H2ブロッカー)、精神安定剤、喘息薬(テオドール)、抗精神薬(クロルプロマジン)といった薬と一緒に飲んでいけない。もっともコカコーラのカフェインはコーヒーの約6分の1、紅茶の3分の1、煎茶の約半分なので、お茶よりもましだとはいえる。なお、ファンタにはカフェインはまったく入っていないので、究極の選択でいえばこちらを選ぶべきだろう。
とは言っても、これからもやはり海外に行って私が真っ先に買うのは、ミネラルウォーターだろう。それもエビアンとかボルヴィックとか、ヴィッテルと言った日本でもお馴染みの飲み慣れたナチュラルミネラルウォーターである。コーラでは経口補水液は作れないし、コーヒーやお茶をいれることもできないからだ。
体調が悪くなったときは水に注意したい。不調の原因が水である場合も多いからだ。特に下痢を伴う疾患の場合は注意するに越したことはないのである。
ただしエビアン、ボルヴィック、ヴィッテルと同じフランスのミネラルウォーターでもコントレックスはカルシウムやマグネシウムなどの含有量が多く、硬度が1,468と極めて高いので私などは腹を下す。マグネシウム塩は便秘薬などにも用いられる下剤だからだ。日本で便秘ぎみの人が海外、たとえばハワイなどに行くとお通じが良くなるのも、同様の理由からだ。
ちなみに一般に男性は下痢症が多く、女性は便秘がちだと言われる。実際に男性の約3割は下痢に悩まされており、その理由はアルコールや冷たい飲み物、脂っこい食べ物を多く食べて消化不良を起こしやすいからだ。また、男性が便秘になりにくいのは女性よりも筋力が強いので、腹筋が弱いことで起こる排便困難を起こしにくいからだ。
一方、女性が便秘で悩むのは、腸を動かすための腹筋不足がまず理由として挙げられる。次いで、子宮があるため腸が圧迫され、生理周期によるホルモンバランスの変化の影響でも便秘が生じやすい。さらに、女性は骨盤が広く、腸が下がってしまうことがあり、腸の形が不安定になって蠕動運動を起こしにくくなることも便秘の原因だ。(福山博)
『点訳のてびき』 ―― 日盲社協点字図書館部会(全視情協の前身)が点字指導員の資格認定をはじめるに当たり、点字表記と指導法の標準化および点訳技術の向上に資する目的で、1981年に「入門編」と「解説編」を上梓。以後『日本点字表記法』(日本点字委員会発行)の改訂に合わせる形で版を改め、このほど第4版が公表された。
「点訳広場」に始まるオンライン図書館が充実していく中、点訳のテキストが『てびき』にほぼ一本化された事で、表記の統一という当初の目的はひとまず達成されたとも言えるが、『てびき』の改訂に心血を注いだ人たちの情熱はなおさめやらず、さらなるゴールを求めて「統一」の意味合いが変質する。思えば、『てびき』の一人歩きの兆しは第3版に現れ、4版で『表記法』との距離が決定的となるのである。
『てびき』の編集方針として3版では辛うじて『表記法』準拠を謳っていたが、4版では「『日本点字表記法2018年版』を元に、点訳の立場で規則を再構築し・・・」と宣言している。『表記法』で複数の書き方を認めているところを点訳の都合で選択するだけなら「準拠」でいいはずだ。「点訳の立場云々」は『表記法』に拘束されないフリーの立場というようにも取れる。だとしたら、今後『てびき』が依って立つところの規範はなにになるのだろう。『表記法』に準拠する事で『てびき』への信頼が担保されている事を忘れたわけではないだろうが・・・。
ところで、今回の『てびき』の見直しは『表記法』の改訂を受けてというのが主要な動機なのだが、『てびき』4版の頒布が開始された1月末現在、肝心の『表記法』はまだ世に出ていない。
ケース1 ―― 『てびき』では「オダマリ□ナサイ」「オマチ□ナサイ」と「ナサイ」の前を区切る書き方を推奨している。「<お>が付いて名詞化した語に<なさる・なさい>が続く場合は区切って書く」というのだが、そもそも「‘ダンマリ’を決め込む」「‘マチ’の体制」と言うように動詞の連用形は「お」がなくても名詞の働きをするから、前提がこじつけっぽい。むしろ、「黙りなさい」「待ちなさい」に「お」が付いた「優しい命令形」とでも言うべき形と解する方が自然に思えるのだが・・・。
ケース2 ―― 同じパンでも、菓子パンは<漢語と外来語からなる複合語は語種の境目で区切る>という事で「カシ□パン」、メロンパンは<5拍以下の外来語は一続きに書く>と言う事で「メロンパン」と書く事になる。(メロンパンの方が言葉としては1拍長いですよね)
複合語を続けて書くかどこかで区切るかを語種を手掛かりに決めるという考え方自体は間違っていない。しかし、その線引きを機械的に行った結果が「カシ□パン」「ユセイ□ペン」「ゴマ□ヨゴシ」「テマエ□ミソ」etc.。(不自然に思わない人もいるかも知れないが、「点字ネイティブ」の私にとっては違和感がこの上ない)
ケース3 ―― 「統一」の傾向は点字表記の範囲に留まらない。ルールの解説を補うために4版から設けられた「参考」のコーナーに「『ヒト、□フタ』と数え初めても途中から『5、□6』と漢字音になる場合は、目安として3から数字で書くと良いでしょう」という記述とともに「ヒトケタ□フタケタ□3ケタ」「ヒトツブ□フタツブ□3ツブ」の例が示されている。私もひとりの点字指導員として、迷っている点訳者に代わって書き方を<決めてあげる>ことは珍しくないが、たとえ親切のつもりでもこんなことを活字で発信してしまうなんて、恐ろしくてとてもできない。できないと言うより、「決めつけない」ことが、点字を通して大勢の利用者や言葉と向き合っている者がわきまえるべき節度であると思うのだ。
「シュウニュウガ□ミケタヲ□キッタ」と訴えたい人もいるだろうし、『オヨゲ!□タイヤキクン』のB面で、なぎら健壱は「ヨツブデモ□ゴマシオ」と歌ってるじゃないか。せっかく多様な解釈があるのに「てびき流」を押しつけようというのは、表記の統一に名を借りた「表現の画一化」に他ならない。
では、点字を良くしようという人々の思いにも関わらず「画一化」に歯止めがかからないのはどうしてだろう。
点訳委員会には日本中から様々な質問が寄せられる。委員によるそれへの回答が行き届いている事は『てびき』の記述からもわかる。しかし、常に明快な答えを求められる事が、曖昧さを許さない圧力となって彼らの使命感を誤った方向に駆り立て、一種全能感に似た錯覚を起こさせたとしたら皮肉な話だ。
権威に頼るのはたやすいが、点訳に関わる一人ひとりが、言葉に対する自分の感覚をもっと信頼してもいいのではないか。点訳の研修会などでは、質問への回答も含めて委員会の説明を参加者が一方的に聞くスタイルが長く続いているけれど、本当に必要なのはディスカッションと情報交換に基づく現場の判断を大切にする事だと思う。「表記がバラバラになる」という声も聞こえそうだが、表記統一の必要性が広く認識される今日、点訳を学んだ人たちが知恵を出し合った結果がそうばらつくとは思えない。まとまらないところは「表現の豊かさ」として尊重したい。大阪で点訳した本に「イマニ□‘ミテミ’」と書いてあったら(ただしい表記は「ミテ□ミ」)、それは地域ならではのリアリティとして受け入れられるかも知れない。私はそんな本にも会いたいと思う。
『てびき』の影響力はすさまじい。安易な統一の裏に多くの排除がある事を、編集者は肝に銘じるべきだ。
フランスの国是である「自由、平等、博愛(友愛)」が、今に残る最古の使用例は、政敵を粛正し、最後は自らも断頭台の露と消えたマクシミリアン・ロベスピエールが書き、1790年12月に印刷された「国民軍の設立に関する演説」です。彼のいう博愛が、恐怖政治による粛正を伴うものであるなら、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長や中国の習近平国家主席も立派な博愛主義者であると言えます。
「巻頭コラム」に書いたように、200年以上たってもフランスでは司法も重要人物を特別扱いする慣習があり、その不平等や格差に抗議するイエローベスト(フランス語で「ジレ・ジョーヌ」)は、さしずめフランス革命を主導したサン・キュロット(無産階級)の現代版です。少なくとも、作業服を着せて見せたとはいえ、ベルサイユ宮殿で結婚式をおこなうカルロス・ゴーンのような有産階級でないことはたしかです。
毎週土曜日に荒れ狂う彼らのベストの胸には「革命」と印刷したシールが貼られており、10人以上の死者を含む暴力事件の発生にもかかわらず、同運動に対する国民の支持は高いそうです。ルノーの工場従業員によるゴーン被告に対する怨嗟の声「逮捕されて当然だ。ずっと刑務所に入っていてほしい」に象徴されるように、エスタブリッシュメントの強欲で割を食っている庶民の堪忍袋の緒が切れたのです。
「(歴史は繰り返す)一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな喜劇として」とカール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』に書いたのは、1848年の二月革命に始まるフランス第二共和政における政治闘争で、ルイ・ナポレオンが大統領に当選し、クーデターを起こして皇帝に即位し「ナポレオン3世」を名乗る経緯を分析して、喜劇であると喝破したものでした。
はたして彼の国のジレ・ジョーヌ革命は、悲劇か、喜劇か、はたまた不条理劇で終わるのか?(福山博)
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