中央省庁が雇用する障害者を水増ししていた問題で、正直でまじめな官庁も、確信犯的悪質官庁も十把一絡げにして批判されているような気がする。
そこで、まず「正直まじめ官庁」は、厚生労働省、内閣法制局、警察庁、金融庁、原子力規制委員会、海上保安庁であると断定しよう。みるからに曲がったことが嫌いな正義漢ばかりが勤務しているような官庁ばかりである。
その中にあって厚生労働省はちょっと異質で、「正直まじめ官庁」には異議がある方があるかも知れない。というのは3人とパートタイマー1人の3.5人の水増しがあったからだ。だが、調査結果後も法定雇用率を超過達成しているので、これはケアレスミス、あるいは誤差の範囲でいいと私は思う。というのは逆のミスを海上保安庁がしているからだ。こちらは調査結果後に障害者が1人増えたのである。なお、他の「正直まじめ官庁」は、水増し雇用0人である。
不正をめぐっていろいろ弁明している省庁があるが、「正直まじめ官庁」の存在が、それらの言い訳を嘘くさいものにしている。
「確信犯的悪質官庁」のトップは国税庁の1,022.5人で、それに続いて国土交通省の603.5人、法務省の539.5人、防衛省の315人、財務省の170人、農林水産省の168.5人、外務省の125人、経済産業省の101.5人である。いかにも清濁併せのむ厚顔無恥な役人ばかりが務めていそうな官庁のなかに、澄まして法務省がいるのはどうしたわけだろうか。「法秩序の維持、国民の権利擁護」はどうしたのだ。恥ずかしくはないのかと聞いてみたいがこちらが本当の顔だったようだ。
日本盲人会連合会長の竹下義樹弁護士は、「病人まで障害者としている。悪意を持った数字合わせであり、雇用率をごまかす意図があったとしか思えない」と、水増しの故意性を強烈に批判しているが同感である。
少なくとも100人以上もごまかすには、明確な意図をもって組織的にやらなければできるものではない。(福山博)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」は、向学心に燃える盲大学生の勉学の一助となるように、半世紀にわたって奨学金を貸与し、学習環境を改善するとともに、社会の各方面に有為の人材を輩出してきた「盲大学生奨学金事業」に決定した。
第26回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で外部からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害の委員によって選考される。
贈賞式は10月4日(木)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
盲大学生奨学金事業は、東京都青梅市で盲老人福祉施設を経営する聖明福祉協会が創設した日本で唯一の盲大学生のための育英資金制度である。同協会理事長である本間昭雄先生に、ご自身の生い立ちから聖明福祉協会の創設と奨学金事業立ち上げなどについて話を聞いた。(取材・構成は本誌編集部菊池惟菜)
本間先生は東京出身だが、真珠湾攻撃が起きた昭和16年(1941)に水戸市へ疎開。茨城県立水戸中学校(現・水戸第一高校)を卒業した。
本間家は代々医者の家系であり、江戸時代には水戸藩の藩医を務め、「紀州の華岡、水戸の本間」と称された家柄である。本間先生も医師になるべく、浪人して医学部受験に備え、勉学に励んでいた。
失明したのは、そんな折、1本の注射が人生を変えたのだった。右手橈骨神経麻痺の治療のため、国立第一病院(現・国立国際医療センター)に入院したのだが、その3回目の手術直後、両目の眼底から出血し、失明した。当時20歳で医師になる夢を絶たれ、もんもんとした病床生活を送った。
けれども前述したように、本間家は医者の家系だ。代々医師として他人のために生き、多くの業績を残してきた。そこで本間青年は、「目が見えなくなっても、なにかできることはある」と考えた。同じ失明という体験を持つ人に、少しでも寄り添えるのではないかと辿り着いたのが、社会福祉の道だった。
昭和27年(1952)、日本社会事業学校(現・日本社会事業大学)に同校初の盲学生として入学した。入学までに独学で点字の勉強したのだが、そのときに、ヘレン・ケラー学院で教鞭をとっていた永井実太郎氏に出会い、強い影響を受けた。
永井氏は昭和26年(1951)に聖ルカ失明者更生協会を創設。本間先生はその手伝いをすることになった。残念ながら、資金繰りが困難となり協会は解散してしまったが、その経験があったからこそ、本間先生は自ら福祉協会を立ち上げることを決意する。
昭和30年(1955)に創設された聖明福祉協会は、東京都世田谷区から始まった。目の不自由な人の家庭を訪問し、点字を教えたり、身の上相談に応じたり、約10年近く活動を続けた。だが、いわゆるハコモノがない事業だったため、国からの補助金を受けられなかった。これでは事業を続けられないと考え、ちょうど老人問題が大きな社会問題となっていたこともあり、盲老人のための福祉施設を作ろうと決心する。
偶然にも、東京・青梅に適当な土地が見つかった。それを買収した。道路に出るために通らなければならない民有地を求め、山を整地していった。
そして昭和39年(1964)、最初の軽費盲老人ホームが完成。翌年には盲養護老人ホームを設置し、今日に至るまで老人福祉に取り組んできた。定員50人から始まった聖明園は、現在、曙荘・寿荘・富士見荘で計280人が利用している。
昭和44年(1969)、聖明福祉協会は創立15周年を迎えた。そこで記念事業を考えたとき、『点字毎日』初代編集長の中村京太郎氏が大正12年(1923)に書かれれた社説が思い浮かんだ。
「盲教育が始まって、まもなく50周年を迎える。盲学校の校長が1人や2人出てきてもいいはずなのに、50年経っても人材がいない。やはり、英才教育をしなくてはいけない。そのためには奨学金制度を作るべきだ。そうして多くの人材を世に送り出し、盲人に対する社会の認識を改めさせなければならない」。
この「奨学金制度」という言葉に、自身も中途で失明し、十分に勉強ができなかったことを重ね、盲大学生に対する奨学金事業制度の創設を決めた。昭和44年に第1期生を募集して以降、これまで212人に奨学金を貸与している。
開始当初は朝日新聞厚生文化事業団から、現在は篤志家や一般社団法人昭和会館などの団体から寄付金をいただき、継続している。制度も拡大し、2、3年前から、国内の4年制大学だけでなく海外の大学院へ進学する学生への援助も開始した。「今日まで、多くの方々からの助成金、寄付金などがあって続けてこられた。ここまで充実させることができて、本当にありがたい」と本間先生は語る。
事業開始当初、ラジオ第1で放送されている「ラジオ深夜便」に出演し、事業説明をしたことがあるという。それを聞いた方が、小切手を切ってもってきてくれたり、親からもらった遺産の一部を「事業に使っていただくことが、一番いいことだと思った」と言ってくれた。また、80歳過ぎまで聖明園に入居していた方が、「大学へ行って勉強したかったけれど、それでは生活できないと言われてあん摩鍼灸の道に進んだ。自分が行けなかったから、行ける方のために使ってほしい」と、何百万という大金を寄付してくれたこともあった。そういう方々のおかげで、当初月額5,000円だった貸付金額は、いまや月額4万円にもなっている。
卒業生のなかには、大学教授や准教授、弁護士、公務員など、幅広い分野で活躍している人がたくさんいる。日本盲人会連合会長の竹下義樹氏も、東京大学で教授を務める福島智氏も、内閣府障害者政策委員会委員長を務める石川准氏も、本事業を利用した人たちだ。
こういう人たちが出てきたことで、視覚障害者に対する社会の目はずいぶんと変わったが、それを知らない人がまだまだたくさんいるのも事実だ。本間先生は、「そんな社会のなか、中村京太郎氏の提案した奨学金制度を創設したことで、人材作りを実現することができて本当に良かったと思っている」と、力を込めて語った。
「奨学金の創設から一番苦労したことはなにか」との質問には、「やっぱり資金づくりですね」とすぐに答えられた。
朝日新聞厚生文化事業団の歴代の事務局長が理解のある方だったため、ずっと応援してくれていた。そのほかにもたくさんの事業団体が助成してくれている。支援者の方々のおかげで資金の見通しをつけて、なんとか途切れることなく続けてこられた。
しかし、残念なこともあるという。奨学金の返済ができない人が何人もいることだ。亡くなってしまったり留学先で病気になってしまったりといろいろな事情もあるが、「みんなが返済できる職業に就いてくれるのが一番良い」と本間先生は語る。「社会人になって、返済ができるような地位や職業を作っていってほしいという願いがあった。だから、お金をあげるのではなく、返済の義務を設けた。この事業を長く続けていきたいけれども、返済義務をきちんと残すことは大事だ」。
では、視覚障害者が大学に入学したり学問を究めたりすることについて、金銭的な支援以外に、社会はどうしていくべきなのだろうか。その問いには「就職、職業問題だ」ときっぱり答えられた。
奨学金制度は、今後も続けていく見通しができた。あとはその人たちが、夢を叶えられるような、職業の選択が自由にできる時代にしなければならない。ちょっとしたアドバイスやボランティアの協力があれば、ほとんどのことはやろうと思えばできないことはない。大事なのは、実力ある人たちが、一般企業でもっと活躍できるようにすることである。
「この事業が長く続いていけばいいし、間違いなくずっと続けていけると思いますよ」と、先生は、優しくも、強い確信を持った声で語った。志を持つ盲大学生を支えるこの制度が、末永く継続されていくことを願わずにはいられない。
「今年、シスター・ステートの兵庫県が県政150周年を迎えるので、メモリアルイベントに参加するために来日しました」と、米国ワシントン州サイラス・ハビブ副知事(37歳)は、よく通る、わかりやすい英語で答えた。
兵庫県は9月6日(木)から7日(金)、県政150 周年を記念して神戸ポートピアホテルにおいて10カ国の姉妹・友好州省等の代表者を招いて「姉妹・友好州省サミット」を開催したが、ハビブ氏は参加者を代表して挨拶する重責を担っての来日だった。随行者は、若い女性秘書と中年の国際局長だけだった。
9月3日夕刻、日本盲人福祉委員会指田忠司常務理事のアレンジと通訳で、第1ホテル東京でインタビューすることができたので、若くてイケメンであるハビブ氏をそのバックボーンと共に以下に紹介したい。
サイラス・ハビブ氏は、1981年8月に東海岸の港湾都市であるメリーランド州ボルチモアで生まれた。8歳のときに失明し、家族で西海岸のワシントン州シアトルに移り住み、高校までその地で育った。
大学はニューヨークの名門コロンビア大学に進み中東文学を専攻した。その後、英国オックスフォード大学で英米文学を学び、ムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』で、1988年のウィットブレッド賞を受賞したイギリスの作家サルマン・ラシュディを研究した。なお、同書は内容がムスリムへの冒涜であるとして、インド出身で元ムスリムの著者は、イランの最高指導者ホメイニによる死刑宣告を受けた。翻訳者も各国で標的にされ、筑波大学五十嵐一助教授は、1991年7月11日、同大筑波キャンパスで何者かにより刺殺されたことはいまだに記憶に新しい。
ハビブ氏はイラン系アメリカ人で、両親は1979年のイラン・イスラム革命直後に米国に移住している。飛行機整備技師の父親はリベラルなムスリムであったが、法律家であった母親はカトリック教徒だったので実態は亡命に近いものだった。イスラム法は、基本的にムスリムはムスリムとしか結婚できないとしているからだ。
ハビブ氏がトルーマン奨学生としてコネチカット州ニューヘイブンにあるイェール大学のロースクールで法律を学んだのは母親の影響によるところが大きい。彼がカトリック教徒であることも、また、敬愛する母親の影響である。
弁護士資格を取ると彼はワシントン州に戻って、弁護士が1,000人以上も働く、シアトルに本社のある法律事務所「パーキンス・コーエー」に入職し、ITベンチャー企業の資金調達やソフトウェアのライセンス供与業務等を行った。
日本の大企業の本社は、そのほとんどは東京に集中しているが、米国の企業は各地に分散している。なかでもシアトルは米国の北西の隅にあるにも関わらず、マイクロソフト、アマゾン、スターバックス、タリーズコーヒー、任天堂アメリカ等の優良企業が目白押しである。成績が不振なのは、大リーグのシアトル・マリナーズくらいかも知れない。
弁護士として4年間働いた後、彼はワシントン州議会下院議員に選出され、民主党の院内幹事と民主党の指導者チームのメンバーを務めた。そして2016年にワシントン州の第16代副知事に選出され、米国で最年少の首長となった。
副知事としてハビブ氏は、州議会の上院議長も兼務しており、州知事が州外にいるときにはその代理を務め、経済開発、貿易、高等教育などを含む職務を担当する。
ハビブ副知事は、外交評議会のメンバーも務めると共に、1925年に建設された豪華絢爛な劇場「フィフス・アベニュー・シアター」をはじめとする数多くの市民団体や非営利団体の役員を務めると共に、シアトル大学ロースクールの教授として立法手続と知的財産に関するコースを教えている。
米政府と敵対するイラン出身で、全盲で、才気煥発な35歳の若者を州副知事に選出するところに、「チャンスを与えてやろう、駄目だったら、その時変えればいいじゃないか」という、少々乱暴だが日本にはない米国の健全なリベラル民主主義がある。その裏返しとして、トランプ大統領の例もあるが、それはまた別の話である。(福山博)
9月6日の北海道地震では震度1の地域も停電になったが、東日本大震災のとき東京都心は震度5強だったが停電は免れた。福島第一原発などが停止した際、東京電力は一部地域を停電にし、域内全部の発電所が停止する「ブラックアウト」を防いだのだ。だが、今回北海道電力はこの作業を怠った。
地震当日、当点字出版所の女性職員は夏期休暇を取り両親と共に網走のホテルに滞在していた。午前3時8分頃目が覚め、「地震だ!」と思ったが、たいした揺れではなかったのでそのまま寝た。朝起きたら停電だったが、スマートフォンでこの日の羽田空港行き午後の便が3席予約できたので、この後の大騒動の予感はなかった。レンタカーでのんびり最後の観光を楽しみながら女満別空港に行くと、全便欠航を知らされた。
ことの重大さに気付きまずレンタカーの契約を延長して、ガソリンを満タンにした。そして、スマートフォンから楽天トラベル経由で近くの温泉ホテルを予約した。そして、車で駆けつけると「宿泊はお断りしています」とのつれない返事。楽天とのオンライン予約は成立したが、停電のため楽天と当該ホテルとの間は断絶していたのだ。それから温泉旅館に片っ端から電話して、「温泉が出ない、電気がつかない」という条件をのんで小さな旅館に泊まり、その間に電気はついたが、だからといってすぐに温泉のポンプは稼働できないといわれた。
そこで旭川市に移動したら何の不自由もないホテルに宿泊できた。それから外国人客に混じって羽田行航空券の奪い合いに参加。そして取りあえず9月12日発の便を確保。それから抽選に当たって9月9日の日曜日に東京に帰り着いた。
一時は車中泊も覚悟したが、停電の中でも道の駅は開いており、食事に困らなかったので、結果的に3泊の冒険旅行と割り切って案外楽しめたようである。(福山博)
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