6月23日に、タイ北部チェンライ郊外のタムルアン洞窟に閉じ込められたタイのサッカー少年12人とコーチ1人の全員が、7月10日に無事救出された。泳げなくともスキューバダイビングはできるが、適切な訓練と全員金づちだったとはいえ少年達の運動能力が高かったことが幸いしたのだと思われる。
救出された少年達はいずれも低体温症だったというが、その理由を7月11日付『讀賣新聞』と『東京新聞』は、「洞窟内の低気温や長時間の潜水が原因」と報じたが、同日付『毎日新聞』は、現地保健当局者の話として「長時間プールに入っていた状態」と報じた。
筆者は「洞窟内が低気温」というのがにわかに信じられず、ネットでタムルアン洞窟内の気温を調べたが結局わからなかった。
日本人の一般的な感覚としては洞窟内は年中涼しいというのがある意味常識だろう。実際に山口県の秋芳洞は年間を通じて約16℃で、岩手県の龍泉洞は10℃なので、これなら「洞窟内は低気温」といえる。しかし、沖縄県の玉泉洞は年間を通じて21℃前後なので低気温とまではいえないだろう。洞窟内の温度はその土地の年間平均気温と同じなので地域差が大きいのだ。タイの首都・バンコクの年間平均気温は28.1 ℃なので、バンコクの近くにある洞窟は年中蒸し暑いはずである。
今回救出劇が行われたのはタイ北方の山岳部に位置するチェンライで、この地の年間平均気温は25.2℃である。洞窟は郊外の山の中にあるので、その内部の気温を筆者は25℃弱と推測したが、いったい低気温とは何度だったのだろうか。
一方、少年達の脱出には9〜11時間かかっている。推定気温25℃、水温28℃で少なくとも数時間水に浸かっていたら低体温症になること請け合いだ。低体温症の理由を、「長時間プールに入っていた状態」とか「長時間の潜水」との説明は適切だ。しかし、「洞窟内が低気温」といのは、実際は何度だったのだろうか?(福山)
6月11日〜13日の3日間、東京都台東区において日本盲人会連合(日盲連)結成70周年記念第71回全国盲人福祉大会が開催された。
大会初日は、評議員会や三療協議会代議員会、スポーツ協議会代表者会議、ブロック長会議等が浅草ビューホテルで行われた。
大会2日目は、第55回を数える日盲連の事実上の最高意思決定機関である代表者会議がやはり浅草ビューホテルにおいて、ボランティアや介助者などを含めた関係者300余名で行われた。午前中は橋井正喜常務理事を司会に、伊藤丈人青年協議会会長と江見英一関東ブロック協議会青年部会長をコーディネーターに「70年の歴史と先人の思いを語る」をテーマに研修会が行われ、長老の板垣成行相談役(91歳)、笹川吉彦日盲連名誉会長(84歳)、新城育子女性協議会相談役(77歳)をパネリストに、来し方の日盲連とその人間模様が語られた。
印象深かったのは、板垣氏の昔は会員同士が会うとがっちり握手を交わして大いに語り合ったものだが、最近はみんなスマートになって、その分、疎遠な感じがする。日盲連活動でもっとも力を入れたのは、昭和52年(1977)に鳥取県盲人福祉協会会長となり、昭和56年(1981)5月、米子市で第34回全国盲人福祉大会を開催したこと。会長になって日が浅いので危惧されたが、この年が国際障害者年(IYDP)にあたるので何としても誘致したいと、昭和54年(1979)富山市で開催された第32回全国大会に乗り込み相談とお願いを繰り返しついに実現。次いで昭和63年(1988)8月、米子市で第34回全国盲婦人研修大会並びに第7回編み物・生け花競技会を実施。県知事や米子市長が絶賛し感動された。平成23年(2011)には全国盲青年研修大会を開催したが、このような全国大会は、行政や市民に障害者を理解させるとてもよい好機になると強調した。
筆者も上記第32〜34回大会を取材しており、障害者運動のターニングポイントとなったIYDPに向けていけいけどんどんの時代で、盲界もまだ健康的な若さを保っており障害者への理解が深く国民に浸透する時期であったことを今さらながら思い出した。
新城氏が日盲連運動に足を踏み入れた契機は、その昔、熊本県盲人福祉協会は総会を盲学校で行っており、彼女も在校生としてそれを手伝ったことだった。当初は女性部に偏見を持っていたが、実際に参加してみると女性ならではの悩みが見えてきた。ホームヘルパーやガイドヘルパーにしても長い年月言い続けてきたことによって実現した。今すぐ実現しなくても、後輩のために息の長い活動を行うことが重要であると述べた。
笹川氏は歴代の会長の中で、良くも悪しくも最も迫力があったのは村谷昌弘会長(1921〜2001)だと述べ、当時目撃した武勇伝を披露したが、これについては「笹川吉彦名誉会長インタビュー」で後述する。
代表者会議の参加者は197人で、まず全体会を開催した後、(1)生活、(2)バリアフリー、(3)職業に別れて分科会を開催。再び全体会を行い、それぞれの分科会の座長がそれぞれの分科会を総括して報告した。
最終日の大会3日目には、全国から会員と関係者約2,000人が東京・上野の東京文化会館大ホールに結集し、大会式典と大会議事を行った。
秋篠宮・妃殿下ご臨席の下での第1部の大会式典は、まず大会実行委員長の都盲協笹川吉彦会長と、日盲連竹下義樹会長による主催者挨拶があった。続いて、秋篠宮殿下よりお祝いのお言葉があり、その後、日盲連顕彰等受賞者に表彰状、感謝状の贈呈、小池百合子東京都知事らからの祝辞などが行われた。
第2部の大会議事では、平成29年度決議処理報告、平成30年度運動方針を執行部の原案通り全会一致で可決。さらに宣言・決議も採択した。
最後に、次年度の大会開催地団体を代表して、札幌市視覚障害者福祉協会近藤久江会長より挨拶があり、新たな元号による5月26日(日)から3日間、ホテルニューオータニイン札幌と札幌市民交流プラザを会場に開催する旨が報告され、幕を閉じた。(福山)
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日盲連は、昭和23年(1948)8月、日本ライトハウスの創設者である岩橋武夫先生(1898〜1954)のイニシャティブで、大阪府貝塚市にある大阪府海洋道場で結成大会を開催した。それから70年、このたびの第71回全国盲人福祉大会は、その記念大会であった。
竹下義樹日盲連会長は、大会二日目に「温故知新といいますか、70年の歴史の中で日盲連はどういうものを勝ち取ってきたのか、先人の取り組みによって今の日本の視覚障害者福祉がどう発展してきたのかということを改めて確かめると共に、今ある流れを次の10年後にどう導いて行くのかを見つける場としたいと思います」と挨拶した。
笹川吉彦名誉会長は、黎明期の10年間は不案内だが、その後の60年間はよく知っていると「70年の歴史と先人の思いを語る」をテーマにした研修会で述べていた。
日盲連を組織したのはご存じのように岩橋武夫先生で、実際に日盲連は昭和23年(1948)の結成から昭和38年(1963)12月19日まで日本ライトハウスの中に事務所があった。しかしその後2年ちょっとだけは、東京ヘレン・ケラー協会(当協会)にあった。このため日盲連の機関紙『愛盲時報』第44〜52号の発行所は、当協会内になっている。
当時、日盲連の事務局長は結成当時からの理事で、その後、中興の祖となる村谷昌弘氏で、筆者が当協会に入職した当時、日盲連では「局長」と呼ばれていた。当時、全盲の上司(井口淳)は、村谷氏と仲がよかったので、よく連れだって高田馬場駅周辺で飲んでいた。その際筆者は村谷氏の手引きをすることもあり、そのときの感触は今も忘れられない。旧日本盲人福祉センター(旧センター)の前は細い路地で、なおかつ急坂である。筆者は身長172cmだが、村谷氏は大男で肩を押さえ付けぐいぐい押すので、転ばないようにするのに難儀した。
そのような記憶と共に、時代が生んだ傑物の思い出を中心に笹川氏にインタビューをお願いした。取材と構成は本誌編集長福山博。
笹川吉彦氏は、昭和8年(1933)12月2日、日本統治時代の朝鮮・元山<ゲンサン=ウォンサン>に生まれた。海に面するために海洋性気候で冬が厳しい朝鮮北部にあって比較的温暖で、現在は国際観光都市として開放されており、中国人の観光客が多いという。元山はかつて新潟港に入港していた貨客船万景峰号の母港としても名高い。笹川少年は風光明媚なこの地で、祖父は裁判所書記、父は銀行員という典型的な中産階級の子弟として終戦まで何不自由なく育つ。
しかし終戦になって暗転し、一家は本籍のある東京へ帰ることを模索したが、焼け跡ばかりの東京では住宅保証がないと入ることができず、親戚がいた佐賀県に、父母と7人兄弟の9人家族で向かった。その後、家族は福岡に出て、笹川少年は高校1年で失明する。
中途失明者の例に漏れず、何とか治療できないかと医者巡りをして2年間を無為に過ごしたある日、NHKラジオから盲学校で柔道を行っているという番組が聞こえてきて、目から鱗が落ちた。
実際に盲学校に入学すると、弱視の同級生は親切で、それまでの暗く鬱屈したイメージとは対照的に朗らかで明るかった。ただ、ある日同級生が自習時間に室長から「もっと勉強しろ」という叱責を受け、「どうせ按摩にしかなれんとに、馬鹿らしか」と口答えしたことにショックをうけた。また、担任に大学進学を相談すると、卒業しても生活できないぞと脅されて却下された。もっとも、当時九州で盲人に門戸開放していたのは西南学院大学の神学部だけであった。先輩で全盲ながら牧師になった人もいたが、笹川少年にはどこか遠い世界の話に思えた。
福岡県立盲学校専攻科理療科を卒業して1年が過ぎた頃、先発隊で上京していた兄を頼って、家族7人は昭和33年(1958)に東京都世田谷区を目指した。父はすでに盲学校に入学した年に亡くなっていた。
上京したら、腕を磨くためにマッサージ施術所に就職するつもりでいたが、全盲だとわかると冷たくあしらわれ断念するしかなかった。そこで、四畳半のアパートを拠点に出張専門で開業した。するとほどなくして全盲の同業者が「誰の許しを得て開業したのか?」と言ってきた。開業するにあたって何の挨拶もなかったのはどういうことか?という意味だとはわかったが、素知らぬふりで「もちろん保健所の許しを得て開業した」と言ったら、相手は黙り込んだ。しかし、同業者と角突き合わせても仕方が無いので、彼が勧めるままに世田谷区鍼灸マッサージ師会に入会した。すると同会には「盲人部」なるものがあって仰天した。
当時、すでに東京都盲人福祉協会(都盲協)はあったが、戦災の影響が色濃くその組織率は低く、世田谷区には下部組織はなかった。そこで昭和35年(1960)、くだんの盲人部を母体に現在の世田谷区視力障害者福祉協会を組織し、26歳の笹川氏は同協会の副会長に就任した。
あはきを開業しながら、盲人会の役員をやるのは骨が折れた。笹川氏は母親の協力を得て、開業早々健保取り扱いをはじめたことで経済的な安定を得る。そこで、午前中は健保の患者を施術し、午後は盲人会の活動を行い、夕方から一般の患者対象に往療を行うというあわただしい日々を過ごした。患者に言われるまま、仕事が午後11時を回ることも珍しくはなかった。
日盲連の村谷昌弘事務局長が、昭和37年(1962)6月実施の参議院議員選挙において、公職選挙法違反容疑に問われ、いわゆる豚箱に入るという事件が起こった。当時の日盲連会長は、清廉潔白を旨とする鳥居篤治郎先生(1894〜1970)である。昭和29年(1954)に日盲連会長の岩橋武夫先生が逝去されたのでその後任に座り、世界盲人福祉協議会の理事にも選ばれた。昭和31年(1956)京都府立盲学校副校長を退職し、昭和34年(1959)に日本盲人福祉委員会の理事長に就く。昭和36年(1961)には京都ライトハウスを創設し、常務理事・館長に就くという八面六臂の働きをされていた頃の話である。
鳥居先生は、起訴猶予になったとはいえ、逮捕され警察署の留置場に入れられたことを問題にし、道義的責任を取って事務局長を辞任するよう村谷氏に迫った。ところが、日盲連のために泥を被ったという意識の村谷氏は、「何も悪いことややましいことはしていない」と強弁した。そこで、「それなら私が責任を取る」と述べて鳥居先生が辞職されたのであった。後任の会長には金成甚五郎氏(1899〜1974)が選出された。すると日本ライトハウスから「日盲連の事務所設置を辞退する」という申し出が出た。
この背景を笹川氏は「岩橋武夫会長は日盲連の事務局長を、子息の岩橋英行氏にさせたかったが、村谷さんが禅譲を拒んだのでギクシャクしていたんですよ」と述べた。
『愛盲時報』活字版の創刊号(昭和35年7月25日)には、「理事・事務局長村谷昌弘」の名前と共に、「理事・総務部長兼経理部長岩橋英行」の名前も出てくる。どのような任務分担があったのか知るよしもないが、このように類似した管理職位者が対立しないわけはない。
筆者が当協会に入職した昭和52年(1977)、『点字毎日』を退職した後、単身赴任していた触読校正者の石森優氏が在籍していた。自宅の最寄り駅が同じであったことからよく一緒に帰り、土曜日には競馬新聞を読まされるのが常であった。
同氏は村谷氏と戦中・戦後の一時期、日本ライトハウスで共に働いたことから「ムーさん」「イシやん」と呼び合う仲であった。
筆者はおそらく日盲連の事務所が大阪にある間は、村谷氏は日本ライトハウスの職員であったのではないかと推測して、それを笹川氏に確かめたが、「それはわからない」という答えであった。ただ、『日本盲人会連合五十年史』227ページには「昭和33年10月村谷氏、日本ライトハウス援護部長に就任、日盲連事務局を支える」と記載されているので、この頃までは確実に職員であったものと思われる。
昭和38年(1963)12月20日、大阪を石もて追われた村谷氏は、当時、都盲協が入居していた当協会に向かう。しかし、当協会の玄関口で一色直文常務理事兼ヘレン・ケラー学院長に「そんなことは聞いていない」と立ちふさがれ、すったもんだしたという。
一色先生は毎日新聞社北海道総局長、サン写真新聞社長、東京都身体障害者団体連合会理事長等を歴任された方であった。村谷氏も大男だったが、一色先生も大男で共に声が大きく大騒ぎだった。
当協会の古い建物は木造で、改段下の小部屋が都盲協の事務所で、そこにロッカー1つ、机1つ、椅子2脚、書類の入った段ボール1個を運び込んでの引っ越しだった。笹川氏によると都盲協の事務所と言っても専従職員はおらず、役員が交代で詰めていた。電話もなくて、ヘレン・ケラー学院の職員が、「電話ですよ」と呼びにくるしまつだった。
結果的には、日盲連は日本ライトハウスから追い出されたような形だが、選挙違反事件の前から事務所を東京にという声はくすぶっていた。
笹川氏は、「なんと言っても政治の中心は東京ですから、国会陳情にしても、厚生省に相談するにしてもその都度大阪から上京というのは大変だったのです。村谷事務局長は両手に障害がある方の肩につかまり、当時の議員会館の床は板張りであったため、大勢で歩くとものすごい音がしました。陳情での各団体の発言は5分に制限されていたが、村谷さんは10分も15分も大きな声で発言し、たまりかねた司会の代議士が止めさせようとしても、それを無視して発言を続けた」と当時を振り返る。何やら陳情なのか恫喝なのかわからないような局面もあったようだが、それは、お国のために戦って失明したという強い矜持があったためだろう。筆者も厚生省で、村谷氏の大きな声が聞こえると雲隠れする課長や課長補佐を目撃している。
無理を承知で日盲連の事務所は大阪から東京に移ったが、結果的にそれは良かったようで、「実際に事務所を東京に移してから日盲連は大きく発展したのです」と笹川氏はいう。あのまま日本ライトハウスに世話になり続けていたら、日盲連の自立自体おぼつかなく、様々な視覚障害者のための福祉施策も立ち後れたことであろう。
ところで、当協会から高田馬場駅に向かう途上に、朽ち果てた建物があった。ある日、看板を確かめてもらうと、国鉄東京鉄道管理局職員宿舎「銀嶺荘」とあったが、使われている気配はまったくなかった。
村谷氏は閃くものがあって、旧知の江藤智参議院議員にすぐに相談した。江藤議員は京都帝国大学卒業後鉄道省に入省した鉄道官僚で、昭和31年(1956)に第4回参議院議員通常選挙全国区に出馬し初当選以来、5期26年務め、運輸大臣も務めた。日盲連は昭和41年(1966)6月に社会福祉法人の認可を得て、改めて役員改選を行うが、このときから江藤議員は日盲連の顧問となり、昭和47年(1972)から昭和57年(1982)に亡くなるまで名誉会長を引き受けられている。
江藤議員の尽力で、買収を前提に銀嶺荘を借り受けると、大々的な建設募金運動を展開する。古い建物なのでいずれ取り壊して新築するつもりだったが、当面の用に供するため、改造工事を1カ月ほどおこない昭和41年(1966)3月15日に竣工した。それまでの都盲協の事務所が、せいぜい8畳くらいしかなかったが、仮開設したセンターは、木造2階建てで、延べ床面積は477平米、1階に事務所、厚生相談所、点字出版所、購買所、集会室、食堂・調理場、浴室等を備え、2階は四畳半11室と六畳4室の宿泊室があった。
このセンターの土地を国鉄から払い下げられたのは昭和44年(1969)の1月で、2期工事の青写真が現実味を帯びてきた。
旧センターの2期工事の延べ床面積は926.7平米、鉄筋地下1階、地上4階建てで、新たに点字図書館が新設され、昭和46年(1971)5月17日に落成した。とはいえ落成時の職員は村谷事務局長を含めて8人だったので、その後の発展を考慮して、広々としたセンターのそれぞれの部署に職員が散らばると、人がいるのがわからないほど静まりかえった。
ところでこの2期工事を行うためには、仮設のセンターを取り壊して新築するため約1年間、仮住まいする場所の確保が必要だった。笹川氏は「村谷さんのすごいところは、すぐに東京都に相談に行き、結局、新宿区所有の戸建て住宅を借りてきたが、それは鮮やかなものだった」と絶賛した。
昭和47年(1972)日盲連の会長選で、村谷氏が推していた大野加久二氏が次点に敗れ、高尾正徳会長(1915〜1990)が誕生した。高尾氏は大阪府立盲学校から関西学院大学に進み、昭和17年(1942)の卒業と共に当協会の前身のひとつである東京盲人会館に就職。友人であった日本点字図書館本間一夫館長の紹介であった。しかし、戦争が激しくなり島根県に帰郷。戦後は持ち前の雄弁で青年団運動をリードし、昭和22年(1947)の第1回地方選で県会議員に当選。しかし、同氏は島根ライトハウス設立に奔走しなければならなかったので1期で降りて、青年団の副団長であった竹下登氏(後に首相)に禅譲する。
大野先生は『点字毎日』2代目編集長であったことから、当協会とも縁の深い方だったが、県会議員も務めた高尾氏の玄人筋の選挙に敗れたのであった。
すると、村谷氏は「高尾の下では働けない」と公言して仕事を休んだ。
前年に旧センターが新築落成し点字図書館もできて職員が倍増して、業務が急拡大したところであったので、高尾会長もこれには困り、都盲協の事務局長に代わりを打診するが、固辞されて万事休す。
結局、日盲連の業務が混乱したところで、高尾会長が村谷氏に懇願する形で幕引きが行われて村谷副会長兼常務理事は事務局長も引き受けることになった。
笹川氏が改めて強調したのは、「日盲連の運動はエリートによるそれではなく、大衆運動である。科学技術が発展してやれIT社会だと言われるが、例えばパソコンを使えない視覚障害者が置いてきぼりになるようなことはないだろうか。口では共生社会などというが、高齢化が進むと科学技術の恩恵に浴さない人々は置き去りにされかねない」と警鐘をならした。
村谷氏没後17年となり、同氏の謦咳に接したことのない視覚障害者も増えた。少なくとも40年前から、村谷氏は英雄であり、我らがリーダーであると崇拝する人と、下品極まりないと蛇蝎の如く嫌う人という風に毀誉褒貶相半ばしていた。
笹川氏も「実際に敵対する人達には容赦無かった反面、頼ってくる人々へは親身になって優しく対応していた」と証言する。
重機関銃兵であった村谷伍長は、インパール作戦で英軍が投じた手榴弾で失明する。それから自力歩行ができない戦友に肩を貸し、あるいは負ぶって白骨街道を撤退する。九死に一生を得て、タイのバンコクまで後送されたときはガリガリに痩せていた。その地の陸軍病院で、「もうすぐ死ぬだろうと思われたようで、看護婦さんが自分用のココアを1杯飲ませてくれた。うまかったなー。それで生き返った」と筆者は村谷氏から直接聞いた。
芳しくない噂もよく聞いたが、個人的には威張られることも、辛く当たられることもなかったので、筆者も村谷氏に毀誉褒貶相半ばする印象を持っている。
「都盲協青年部は、最近とても元気で様々なイベントを企画して会員以外の参加者もどんどん動員しています。火付け役は関東ブロックの江見青年部会長で、細かい規約などにはこだわらず、仲間を連れてきて独創的な行事を開催しています。内容に魅力があるから『40代・50代の若い人(?)』が集まるんですね。他の団体も参考にされたらいいと思います。ただ、そうは言っても20代・30代の視覚障害者の絶対数は少なくなっているので、手放しで喜んでばかりもいられません」と危惧も口にした。
笹川氏としても妙案があるわけではないが、盲学校卒業生だけを対象にしていたのではじり貧になるばかりなので、一般校で学ぶ弱視者とか、中途視覚障害者をいかに組織するかが課題だろう。
たとえば網膜色素変性症患者の課題対応とか?そこに大衆運動を行う日盲連の存在意義があるのかも知れないが、いずれにしても言うは易く具体的方策は困難であろう。
最後に、現在の日本盲人福祉センター建設にはご苦労はなかったのか聞くと。「そりゃ大変でしたよ。でも、村谷さんのときから計画していたことなので、私ひとりの功績ということではありません」と、いかにも笹川名誉会長らしい返事でインタビューは終わった。
前月号(通巻578号)「日点委第6代会長に選出された渡辺昭一さんに聞く」で、「点訳奉仕者への礼儀と、いわば運試しに1970(昭和45)年の2月初旬に大学受験に挑戦した」とあるのは、「1973(昭和48)年」の間違いでした。
「しげじい、チョーさんの台湾旅行」で、「能登半島の七尾温泉」とあるのは「和倉温泉」の間違いでした。
以上、お詫びして訂正致します。ご指摘ありがとうございました。(編集部)
今号の「巻頭コラム」の「洞窟内は低気温か?」で、私は洞窟内の気温を25℃弱と推定して、「低気温であった」とする『讀賣新聞』と『東京新聞』の記事に異議を唱えました。ところで低気温とは何度以下でしょうか? 誰もが肌寒さを感じるという16℃以下といいたいところですが、19℃以下でも低気温と呼べるかも知れませんね。
ところで少年達は6月23日にタムルアン洞窟に閉じ込められ、英国人ダイバーにより7月2日に発見されました。そのときの少年達の服装は短パンにTシャツというサッカーのユニフォーム姿でした。この格好で9日間も、風邪を引くこともなく元気だったのは洞窟内が快適な温度だったからではないでしょうか。逆にいうと快適な気温だったから、彼らは好んで洞窟内でパーティを開いたのでしょう。
ところでこの記事を書くにあたり調べてみると、日本最大のカルスト台地である秋吉台にある東洋一の鍾乳洞の名は、「アキヨシドウ(秋芳洞)」であることを知り驚きました。中学校の修学旅行で、「台地はアキヨシダイだが、洞窟はシュウホウドウだ」と半世紀前にたしかに教わったのです。ところが、地元ではいまでも多くの人が「シュウホウドウ」と呼んでいるらしいので、それだけが慰めです。(福山)
日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。