点訳指導者を名乗る74歳の女性から、ある地方自治体が発行する点字冊子について、かなり高飛車な手紙を3月にもらった。その内容は、
(1) 原本ページは必ずいれるべき。
(2) 製本はバインダーにするべき。
(3) 点字用紙は110kgを使用するべき。
というものだった。たしかにのり付けの簡易製本で、点字用紙は90kgを使っていたが、だからといってこれまでに読者から苦情がきたためしはない。また、これらは注文主が決めることであり、当方ではいかんともし難い。しかも、知り合いの視覚障害者に相談したら、言下に「原本ページなんていらない」「製本はバインダーよりものり付けの方がいい」と断言された。
もちろん視覚障害者からの手紙なら「読者からの要望」として、該当する自治体の担当部署に知らせる必要があるだろう。しかし、視覚障害当事者でない者が、点字印刷物に注文をつけるというのはどういう神経なのだろうか。
手紙には住所と共に電話番号も書いてあったので、返事を期待しているようであったが、当方は無視を決め込むことにした。晴眼者が点字印刷物に注文をつけるということ自体が筋違いだと考えたからだ。
ただ、この「点訳指導者」を名乗る人物から電話がかかってきたら、視覚障害当事者である編集課長が、視覚障害当事者の立場から説明することにした。だが、まだ、当方に電話はかかってこない。
全盲の友人の中には、「そういう御仁にはこちらから電話して、ガツンと言ってやった方がいい」とアドバイスをもらった。しかし、長年、点訳をされてきた高齢女性に、あまりショックを与えてもいけないと慮ったりして、こちらからは行動を取れないでいる。
小誌は以前、「点字は誰のものか?」という座談会を開いて問題提起(2017年11月号)したことがあるが、もしかしたら「点訳指導者のもの」などと考えている人が現実にいるのかも知れない。(福山)
日時:11月10日(土)10時から
会場:トッパンホール(東京・飯田橋)
参加資格:視覚に障害がある児童・生徒・学生
参加料:無料。伴奏者は参加者が委嘱。旅費は参加者負担
部門:器楽部門はピアノ1部(小学3年生以下)、ピアノ2部(小学4年生以上)、ピアノ3部(中学生)、ピアノ4部(高校生以上)、弦楽器の部(西洋楽器限定)、その他の楽器の部、創作・編曲の部。声楽部門は独唱1部(小学生・中学生)、独唱2部(高校生以上)、重唱・合唱の部
申し込み:所定の参加申し込み用紙に必要事項を記入し郵送、9月7日(金)必着。審査員からのコメントを希望する場合は、返信先を明記した封筒と92円切手を同封
問い合わせ:東京ヘレン・ケラー協会(03-3200-0525)へ
6月2・3の両日、日本点字委員会(日点委)は、神奈川県横浜市の横浜あゆみ荘において2018年度研究協議会と第54回総会を開催し、2017年度事業報告と決算、2018年度事業計画と予算を原案通り承認すると共に、日本点字表記法の改定案を承認した。そして2018(平成30)年度中に『日本点字表記法2018年版』を発行することと、2019(平成31)年度中に『点字数学・情報処理記号2019年版』(仮称)と『点字理科記号2019年版』(仮称)を発行することなどを決めた。
人事では、木塚泰弘先生の逝去により空席になっていた会長に、盲人社会福祉会代表委員の渡辺昭一氏(65歳、京都ライトハウス、全盲)が、副会長に共に学識経験委員の金子昭氏(78歳、元神奈川県立平塚盲学校教諭、弱視)と藤野克己氏(74歳、全国視覚障害者情報提供施設協会事務局長)が、事務局長に学識経験委員の和田勉氏(53歳、日本点字図書館図書製作部長)が選出された。
筆者は『点字ジャーナル』編集長のかたわら点字出版所長として、京都ライトハウス情報製作センター所長であった渡辺氏とは同業者としてのつきあいがある。また、日本盲人福祉委員会選挙プロジェクトにおいては、選挙公報点字表記委員会の委員長である同氏を担ぐ立場で、日本ライトハウス点字情報技術センター所長の福井哲也氏等とともに親交を深めてきた。
そのため、渡辺氏の誠実な人となりを承知しているので、経歴もそれなりに知っているつもりだった。が、このたび「大阪出身ではない」ことを驚きとともに知り、まったく不案内であることがわかった。
『点字ジャーナル』としても点字表記に無関心であることはできず、それを決める日点委を統括する立場の来歴ぐらいは知りたいところである。そこで、これを機会に日点委新会長の横顔を詳らかにご紹介しようと思う。(取材・構成は、福山博)
埼玉県に居住し東京都区部に通勤する者を、意識は都民なので「埼玉都民」と称することがある。
その伝でいえば、兵庫県尼崎市出身者を「兵庫大阪府民」と称することはできないだろうか? というのは、尼崎市の市域は大阪平野に含まれるので、兵庫県にあっても神戸文化圏というより、大阪文化圏に近いように思うのだが?
1952(昭和27)年12月1日、尼崎市に弱視児として生まれた渡辺昭一氏は、実際に大阪市立盲学校(大阪市盲、現・大阪府立大阪北視覚支援学校)出身者である。兵庫県立盲学校に通うとなれば、大阪市盲への通学時間の倍もかかってしまうので越境入学に踏み切ったわけだが、現在と違って半世紀前はそれほど問題になることもなく、大らかに認める空気があったという。
もっとも彼は小学校3年生までは地元の普通校に通っていた。しかし、体育は見学ばかりで、教科書も小学校2年生のものに比べると活字がかなり小さくなって見えにくくなった。そこで弱視訓練のために大阪府高槻市にある大阪医科大学附属病院の眼科に入院することになり、ここには院内学級があったので、4年生の1年間はそこで勉強した。
1963(昭和38)年4月、小学校5年生から大阪市盲に転校するのだが、翌1964(昭和39)年1月に、母親と一緒にいたところをバックしてきた軽三輪トラックにはねられ大腿骨頚部骨折となり、地元の病院に担ぎ込まれた。すぐに手術となり金属製のピンによる固定が行われた。このピンを半年後の小学校6年生の夏休み前に抜いたら骨がぐにゃっと曲がった。そこでまた、地元の病院で手術を受けピンによる固定を行った。
このようなことで、東京オリンピックに日本中が沸いた頃は闘病生活を送り、このため6年生の1年間は、休みがちでろくろく学校には行っていないが、お情けで卒業させてもらい中学部へ進学した。
1966(昭和41)年3月、中学1年が終わって再度ピンを抜いたら、2年生に進級した途端に骨が折れた。そこでこれは尋常ではないと両親が判断し、大阪市内の専門病院に入院すると骨の病気であることがわかって8か月間入院した。なにやら気の毒な入院生活のように思うが、ご本人の感じ方はかなり違っていた。
渡辺少年は学齢期に何回も入退院を繰り返したが、出席日数が不足して原級留置になることは結局なかった。多感な思春期に入院した厚生年金病院にも院内学級があり、ここには拡大教科書もあったので意外にも充実した学生生活を送ったようなのだ。もっとも病弱で過保護に育ったためか内気で、最初は晴眼の生徒と口を利くこともできなかった。しかし、そのうちに次第に打ち解けてきて、一緒に学び、語り合うことによって様々な刺激を受けた。そのころの盲学校では将来の目標として大学進学について聞くことはなかったが、院内学級では真剣に考えている同級生がいることに驚いた。また、大阪市盲の数学と英語の教師が、ともに全盲であったことも彼が大学進学を深く考える契機になった。
1967(昭和42)年1月、中学2年の3学期からまた大阪市盲に通い始めたが、視力がさらに悪くなったので、中学3年から点字に切り替えることになった。
もちろん読む速度はたどたどしいので、高等部の受験をひかえて授業についていくのが精一杯であったが、なんとか入学試験に合格することができた。
1968(昭和43)年4月、晴れて高等部普通科に進学すると大学受験が身近に感じられた。大学進学を希望する同級生が他に2人おり、点字を読む速度ではとてもかなわないと思ったが、情報交換をしながら切磋琢磨した。そして高等部2年のときに、大学進学のための受験参考書を点訳奉仕者にお願いした。パソコン点訳以前は、点字板で1部ずつ点訳していたので、驚くほど時間がかかったのだ。
中学校まで入退院を繰り返していたこともあって、早朝、彼は大阪市内に出勤する父親の手引きでスクールバスの乗り場まで連れて行かれた。また、帰りは母親がスクールバスまで迎えに来たので、今では想像がつかないが、彼はちょっと過保護な環境で育った内気な少年だったのだ。
それが高等部時代にがらっと変わった。軽音楽部と盲人卓球部を掛け持ちして部活に励んだのがその契機となった。このため帰りはスクールバスに乗れなくなったので、大阪の繁華な「梅田地下街」を仲間と連れ立って歩いたり、見様見真似でひとり歩きをするようになった。こうして彼は、内気な自分に別れを告げた。
受験参考書が3年越しに完成したのは、普通科を卒業して理療科に進んだ2年生のときだった。そこで、点訳奉仕者への礼儀と、いわば運試しに1970(昭和45)年の2月初旬に大学受験に挑戦したのだが不合格だった。そして、翌年の3年生のときも捲土重来を期したが、またしても不発に終わった。
というのは、大学受験とともに絶対失敗が許されないあマ指の試験が2年生の2月下旬にあり、ハリ・キュウの試験が3年生の2月下旬にあって、実際にはその直前に行われる大学受験どころではなかったのだ。幸いなことにあはきの三つの試験には合格したので、とりあえず食いっぱぐれはないと思ったが、大学進学の夢は潰えなかった。ただライバルの2人は、結局、筑波大学理療科教員養成施設に進む道を選んだ。
当時はまだ点字受験を認めている大学は限られており、渡辺氏の志望校は京都に集中していた。そこで理療科卒業後、1974(昭和49)年5月に彼は京都市内の病院に就職した。大学進学の夢は捨てていなかったので、昼間働いて、夜、受験勉強に励むことにしたのだ。
翌1975(昭和50)年4月、念願の立命館大学二部経済学部経済学科に入学した。当時は広小路キャンパスに病院から通学したのだが、先輩に誘われて3回生のとき老人病院に転職してひどい目に遭う。ひとに誘われたら嫌といえない性分が裏目に出たのだ。
以前の病院は、いわゆるリハビリの一貫として彼らは病院マッセルの業務を行っており、仕事も比較的余裕があった。ところが老人病院は、毎日病室を巡回しての立ち仕事で、馬車馬のように働かされて、足がパンパンにむくみ、大学では授業そっちのけで居眠りする始末であった。こうして、大学3回生の1977(昭和52)年12月2日にあわや死にかけた。誕生日が12月1日なので、25歳になったばかりであった。
老人病院に退職願いを出した翌日のこと、朝職場に向かう途中でバスを乗り越したのだ。それに気付き、徒歩で引き返す途中、彼は琵琶湖疏水に誤って転落した。
同疏水は、琵琶湖の水を京都市へ流すため明治時代に作られた水路であり、幅は場所により6〜18m、深さは1.5〜5.5mあるので、通常であれば背が立たなかった公算が大きい。着ぶくれして真冬の疏水を流れたらと思うと未だにぞっとする。
ところが、強運の持ち主というべきか、彼が落ちた時、上流で工事が行われており、水が腰までの深さしかなかったのだ。そこで、助けを求めると失業対策事業で働く労働者に救助されたのだが、足の踵を骨折しており歩けないので、即、入院となった。
1978(昭和53)年には、広小路キャンパスの4.5倍の広さがある衣笠キャンパスに二部も移転したので4回生のときは下宿も変わった。だが、幸い職場が通勤労災を認めてくれたことと、京都市が疏水の柵に不備があったことを認めて見舞金を出してくれたので、最終学年は仕事をせずに、就職活動と卒論作成に専念できた。
就職活動では、教員採用試験にチャレンジし、1次試験には合格したものの2次試験で不合格となり、そこで、経済学部を卒業すると共に、立命館大学二部文学部に学士入学することにした。3回生に編入された渡辺氏の学生生活は、さらに多様な背景を持つ社会人との血の通う交流の場と化し、学業以上に学ぶことが多く充実したものになった。
1981(昭和56)年4月、就職の当てのないまま文学部を卒業してしばらくすると、京都ライトハウス点字出版部(現・情報製作センター)で点字製版のアルバイトをしないかという声がかかった。当初はボランティアというような曖昧な話であったが、応募して働きはじめると非常勤職員として給与も支給された。そして幸運にも翌1982(昭和57)年2月には正職員に採用された。誘われたら嫌と言えない性格が、良い方に転がった典型例であった。
その後、1988年頃に点字製版は、足踏・電動製版機による手入力から全面的にパソコン入力に代わったので触読校正に異動した。2006(平成18)年4月に情報製作センター主任となり、2011(平成23)年4月からは所長に就任し、2018(平成30)年3月に退任した。ただし、現在も嘱託職員として同センターに勤務している。
一方、大学卒業と同時に京都府盲人協会(現・京都府視覚障害者協会)に入会すると、すぐに京都府盲人協会理事・青年部副部長に就任した。これも頼まれたのでつい二つ返事で引き受けたのだった。その後も二つ返事は続き、1983(昭和58)年4月には同青年部長となり、日盲連青年協議会中央常任委員、1985(昭和60)年4月京都府盲人協会総務部長に32歳で就任した。このときの会長は35歳の谷口幾夫氏で、役員は他に田尻彰氏(37歳)と竹下義樹氏(34歳)で、渡辺氏を含めて4人全員が30代という若さであった。現在の京都府視覚障害者協会の会長は田尻氏で、監査を行う監事には竹下氏と共に渡辺氏も名を連ねている。
京都ライトハウス就職と同時に近畿点字研究会(近点研)へも顔を出すようになり、1987(昭和62)年5月から幹事、2012(平成24)年3月から事実上の会長である代表幹事を務めている。1990(平成2)年5月から日本点字委員会の事務局員を務め、1998(平成10)年4月から委員となり、2014(平成26)年6月から副会長に就任し、この2018(平成30)年6月に晴れて第6代会長に就任した。
日点委初代会長の鳥居篤治郎先生(1894〜1970年)は、京都府立盲学校教諭(後に副校長)のかたわら、京都府盲人協会を組織し初代会長、日盲連会長、日本盲人福祉委員会理事長を歴任し、京都ライトハウスを創設した地元の偉人であり、大先輩である。
その後の日点委会長は、肥後基一・本間一夫・阿佐博・木塚泰弘先生と4代にわたり東京とその周辺から選ばれ、このたび50年ぶりに京都から選出された。
これに対して渡辺氏は、「とても名誉なことです。偉大な先輩から50年ぶりに京都に回ってきたので、その責任は重大です。当面は日本点字表記法の改定が大仕事になりますが、道筋はついていますので、調整役に徹して粛々と実施するばかりです。ただ、気になっているのは、専門家と称する人々でさえ『点字無用論』をいう人々がいるということです。そして、その声は年を追うごとに強くなっている気がします。いざという時に点字を武器にできるのと、できないのでは雲泥の差がでます。わたしはそれを実感しているので、機会があるたびに声を上げたいと思っております」。
筆者が知る渡辺氏のイメージは、『点字版選挙公報製作必携』のページをめくっていたり、パソコンに繋いだ点字ディスプレーで何かを探している、いわば点字を天職と心得て忙しそうに働いている姿である。
先天盲や幼児失明と比べると触読速度が遅いので、その克服に苦労し、なんとかコンプレックスを抱かないで済むようになったのは京都ライトハウスに就職してからだというのも意外であった。
任期はこれから4年ある。日点委を統括するとともにより良い調整役として、病気やけがでの入院さえも前向きに考えてきた渡辺昭一氏ならではの明るく、粘り強いしたたかさで活躍を期待したいものである。
ダスキンのアジア・太平洋地域からの研修生には、毎年多士済々の障害者が集います。今号の「リレーエッセイ」の著者ラクシミ・ネパールさんもそのお一人です。
「私の夢の変遷」は、英文で書かれたものを本誌編集部が翻訳し、今月と来月の2回に分けて掲載するものです。タイトルを直訳したら「私の夢の変遷と共に」になったのですが、それでは意味が取りにくいので「共に」を削除しました。もっと大胆に意訳した方が読みやすかったのかも知れませんが、そうすると、原文の意味とずれるのではないかと恐れこのようになりましたが、拙訳では彼女のすぐれた才能を読者は十分理解できないかも知れません。なにとぞ熟読をお願い致します。
彼女に会って話をして、またこの翻訳を通じて、私たちはラクシミさんが極めて優秀な人材であることに気づきましたので、そのことだけはここに請け合いたいと思います。
本誌先月号(通巻577号)のインタビュー記事で「多士済々<セイセイ>の210人を支えて」とあったが、なぜ、「タシサイサイ」としなかったのか? たしかに辞書を引くと「タシセイセイ」も載っているが、「タシサイサイ」の方が一般的ではないか? 「タシセイセイ」なんて聞いたことないぞ! との複数の読者からのお問い合わせがありました。そこで、以下にお答え致します。
多士とは「多くのすぐれた人材」という意味で、済済<セイセイ>とは「数が多くて盛んな様子」なので、多士済々とは『詩経』にある「済済たる多士」という意味であり、この場合の「セイセイ」を「サイサイ」と読むことはありません。ですから、伝統的な本来の読み方は「タシセイセイ」なので、国語辞典の見出し語もそうなっています。しかし、「タシサイサイ」という誤読が人口に膾炙するようになり、国語辞典でも無視できなくなり、意味を書いた後に、「タシサイサイ」と付け加えるようになったのです。
「タシサイサイ」は本来誤読で、違和感・抵抗感も強いのでNHKなどでも、放送では本来の読みである「タシセイセイ」を使っているのです。(福山)
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