「今年中にまたぞろ総選挙があるらしい」という噂が、右からも左からも聞こえてくる。「どう思います」と聞かれたので、「あるわけないでしょう。去年の10月にやったばかりじゃないですか」と返したが、心穏やかではなかった。
火の出所は小泉政権で内閣総理大臣秘書官を務めた飯島勲特命担当内閣参与で、彼は『週刊文春』3月29日春の特大号で、「安倍首相は解散に打って出よ!」と扇動して、「黒い霧解散」を引き合いに出して、「自民党が大負けするかと思いきや、微減に留まった。これで求心力を取り戻し、戦後最長政権への道を歩んだわけさ」と述べ、今回も同様だと豪語している。
戦後、前回の選挙から1年未満で行われた総選挙は2回ある。古くは吉田茂首相が国会でバカヤローとつぶやいたことを契機に、内閣不信任決議案が可決されたため同首相が衆議院を解散した1953年の「バカヤロー解散」である。だが、この選挙で吉田の率いる自由党は大敗し、少数与党に転落して、結局彼は退陣することになった。
次は、1980年の「ハプニング解散」だが、これは否決されると思い込んだ日本社会党と公明党が組んで大平内閣不信任決議案を提出、自民党内の反主流派は右往左往して、結局本会議を欠席したため僅差で可決。そこで大平正芳首相は解散に打って出、史上初の衆参同日選挙となったのである。そしてなんと選挙中に首相が急死して、自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結、弔い選挙となって衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党は大敗を喫したのだった。
行政府の長は大義名分があったとしても前の選挙から1年半を越えなければ、自ら解散とは言えない。言うとしたら内閣不信任案が可決されたときだけで、そのときは必ず解散に打って出るはずである。与野党とも歴史から学び、いたずらに政局を弄ばないようにお願いしたいものだ。(福山)
聖明福祉協会(本間昭雄理事長、89歳)と朝日新聞厚生文化事業団は5月19日、東京・ホテルグランドヒル市ヶ谷において「盲大学生奨学金制度発足50周年記念式典」を開催した。
歴史を紐解けば、東京ヘレン・ケラー協会も昭和26年(1951)〜昭和31年(1956)頃に「身体障害者大学生奨学金」を毎年20人に交付してきた。しかし、給付型であったことから深刻な財源不足に陥り、鉄道弘済会による類似の奨学金ができたことを契機に終了した。当時を知る高橋實氏(視覚障害者支援総合センター前理事長、86歳)に、現在ではうかがい知れない当時の盲大学生の困難な状況や盲大学生奨学金の意義を語っていただいた(以下、敬称略)。インタビューと構成は本誌編集長福山博。
昨年まで高橋は、盲大学生奨学金の公募と推薦を行う側として参加してきたが、今回は半世紀もの長い間、延べ210人の盲学生に奨学金を貸与して、学生の「夢」、「意欲」、「気力」を支えてくださったことに対する感謝の思いで50周年記念式典に臨んだ。
彼が日本大学文学部に入学したのは昭和29年(1954)だが、その前に「進学の心構え」を知りたいと先輩を訪ねた。すると全盲の理療科教師は「首都圏の生活は金がかかり盲学生には厳しい。門戸は開放されたが名ばかりで、僕たちはおじゃま虫扱いだ。大学は講義にさえ出ておれば卒業できるが、アルバイトにも限界があり、経済的な事情で中退する人も少なくない。君は三療の資格を持たないのだからアルバイトもままならないだろう。生活設計をきちっと立てなければ困窮することになるので注意したまえ」と警告された。
実際に進学してみると周りの盲大学生は講義、対面朗読、アルバイトに大忙しで、確かに学業半ばで断念する人もいた。幸いだったのは、入学した年と翌年の2回、東京ヘレン・ケラー協会から封筒に入れた金1万円也の奨学金をもらったことだ。銀行員の大卒初任給が5,600円の頃だったので、それは大金であり大変ありがたかったが、それっきりになったのは残念だった。
ヘレン・ケラー女史が3回目の来日をされた昭和30年(1955)当時、わが国には盲大学生が42人おり、その数の多さに「どの国もかなわない」と女史を驚かせた。この頃は、またわが国の盲学校の生徒数が最も多かった頃で、高度経済成長期以前では盲大学生数もピークを迎えていた。
高橋は昭和31年(1956)7月〜昭和32年6月まで日本盲大学生会の会長を務めたが、その頃から盲大学生は氷河期に入りつつあった。大学を卒業しても就職できないとの風評で、新入盲大学生は激減して、彼が大学を卒業したその夏に日本盲大学生会は消滅した。これに軌を一にするように鉄道弘済会の新しい奨学金もまた消えてしまった。
就職浪人の苦労の末、昭和35年(1960)に毎日新聞社に入社した高橋は、大阪本社の『点字毎日』に配属された。生活の基盤ができた彼は、このままでは盲人の未来はないと考え盲大学生OBらに働きかけて、翌昭和36年(1961)7月に結成したのが文月会(日本盲人福祉研究会)であった。
同会は職域の開拓こそが盲人の大学進学を促進することだとして、全日本視力障害者協議会と協力して国に対する陳情や、国会に対して請願署名を繰り返し提出。世論を喚起して大学の門戸開放と共に点字による教員採用、司法試験、地方公務員、国家公務員試験の実施等の要求を次々に実現した。また、経済的支援でも日本育英会(現・日本学生支援機構)に対して、「盲大学生の優先貸与」を要望して認められた。
当時の日本盲人会連合の会長は、大学進学に好意的だった鳥居篤治郎先生であった。そして同氏が、日本盲人福祉委員会の理事長に就任されたのを好機に文月会は盲大学生奨学金制度を設けるよう同委員会に要望書を提出した。
すると鳥居理事長は、懇意にしていた高橋に「説明不足もあってか、エリート集団のような文月会に力を貸せないという声が大きくて理事会で否決されてしまった」と声を震わせられた。先生も情けなかっただろうが、高橋たちは腹立たしく無念だった。
大ショックのただ中で、昭和44年(1969)当時文月会のお目付役的な立場で監事だった本間昭雄先生から、「聖明福祉協会創立15周年を記念して奨学生制度を創設したいので、毎年若干名を公募・推薦して欲しい」といわれたときは一瞬耳を疑った。盲人施設はどこも経営難だと思い込んでいたので驚いたのだが、喜び勇んで「聖明・朝日盲大学生奨学金」の選考委員会を設けて、以来、毎年4、5人に絞り込み、応募した学生の希望などを聞きながら、大半の学生の推薦文を書いてきた。
改めて奨学生の名簿を見て彼は驚いた。石川准、指田忠司、竹下義樹、生井良一、福島智ら大学教授、研究者、弁護士など数え上げればキリがないほどの錚々たる人々が、連なっているのだ。正直、推薦文を書いている当時、高橋はその対象者がこのような多士済々の面々であるとは思いもよらなかった。奨学金をバネに、努力された結果であることは、間違いないだろう。しかし、「このような制度を発想して50年間続けてこられたのは本間理事長である。また、事務方として面倒をみていただいた関係者に幾重にも御礼を申し上げたい。そして、奨学金制度もさることながら、素晴らしい仕事に長い間携わらせていただいたことに感謝したい。そして事情はともあれ、これまで盲学生を対象にした全国規模の制度は、給付にしろ貸与にしろ5団体あったが、今はこの盲大学生奨学金制度のみである。手軽なアルバイトもままならない視覚障害学生にとって、最後の頼みの綱である本奨学金が、末永く継続することを切望してやまない」と語った。
四分の一世紀以上も前の話だが、FAXで何度催促しても無視され、英文による報告書が届かないので、しびれを切らしてカトマンズのネパール盲人福祉協会(NAWB)に出向いたことがあった。
そして「ネパール語でいいから、早く報告書を書いてくれ」と懇願した。
すると「ネパール語で書けるのなら、英語でも書ける。問題は何を書いたらいいのかわからないことだ」と開き直られ、唖然としたことがあった。
そこで急遽英文の質問用紙をワープロで作って、NAWBのスタッフと共に農村部に出かけて視覚障害者が住む家を個別訪問し、質問用紙に記入した。そしてそれらを基に報告書を書き、英文に翻訳して、こんな具合に書くんだとNAWBの現地スタッフに示したことがあった。
すると次回からは場所、人名、日付、用途、数字などを書き替えて順調に報告書を送ってくるようになった。もっとも推敲と校正が不十分であるため、集計数やスペルが間違っているようなことはよくあったが、それもこれも届いたから言えることであった。
こんなことを思い出したのは、4月16日(月)の全盲老連の創立50周年記念式典で、藤原正彦お茶の水女子大学名誉教授の記念講演を聞いて、「小学生に英語を教える必要などない。もっと徹底的に国語を教えるべきである。手段よりも内容を整えることが大事」という先生のご高説を聞き、我が意を得たりと膝を打ったからである。
そんなことを私がいくら力説しても英会話が苦手な初老のおっさんの繰り言くらいにしか思われないので、遠慮がちに小さな声でしか言えない。しかし、藤原先生はミシガン大学研究員、コロラド大学助教授、ケンブリッジ大学客員教授を歴任されており、しかも数学の権威である。そういう方の「初等教育では国語が大事」には説得力がある。
ネパール人は日本人と違って外国語の才に恵まれた人々が数多いる。何しろ、国語であるネパール語を母語とする人々は人口の半分しかいないのだから、少なくとも国民の半数は小学校に入ったら、母語ではないネパール語をどうしても覚えなければならないのだ。
その点、日本は全国どこに行っても日本語だけで通用するので、国内に住む日本人が外国語を苦手とするのはいわば当たり前なのである。
ネパールのインド国境沿いに住むネパール人が、「ネパール語とヒンディー語、それに英語をしゃべることができるが、どれも中途半端だ」と嘆いていたことがあったが、小学校で英語を教えると日本も同様の問題に陥りかねない。
優れた内容の論文なり、手紙なりが書けたなら、それを例えば英語なり、ドイツ語なり、フランス語に翻訳することは、多少の費用を覚悟すれば難しいことではない。しかし、その逆は大金をはたいても難しいはずだ。日本語で意味のある文章が書けない人が、いくら英語が流暢だからといって、英語で意味のある文章を書けるわけがない。私たちは日常的に日本語を使っているが、だからといって充分な日本語力が自然に身につくわけではない。学校教育でみっちり教えられてはじめて身につくのである。
カトマンズのあるホテルで英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語を流暢にしゃべるポーターと仲良くなったことがあった。ある日、午前10時に迎えに来るはずの車が、10時半になっても来ないので「30分待ったが君は来なかったので、僕はタクシーでNAWBに行く」旨のメモを英文で書いてポーターに渡して「NAWBの運転手は英語ができないので、この内容をネパール語で通訳してね」といって、チップを渡そうとすると彼は受け取らないばかりか、メモも返して「そういう要件はレセプションに言ってくれ」と言った。
親しくなっているつもりだったのでなおも食い下がると、彼は困った顔をして「読めないんだよ」と言った。彼は言語の天才だが学校教育を受けたことがないので、英語ばかりかネパール語でさえ読めなかったのである。
内容空疎な話を流暢にしゃべられた場合と、内容の充実した話を訥々と、あるいは通訳を通じて聞いた場合とどちらが意味あるかは論をまたない。だが、安倍首相はそれがお分かりにならないようなのである。(福山)
今号の「盲教育140年」に「太政官<ダジョウカン>」が出てきますが、これを自動点訳ソフト「エキストラ」は「ダイジョウカン」と点訳します。「学校ではダジョウカンと習ったけどなあ」と思いながら、『広辞苑』(第5版)を引くと。なんと「ダイジョウカン」を「正」、「ダジョウカン」を「副」としており、さらに「律令制のそれをダイジョウカン、明治初年のそれをダジョウカンと慣習的に読み分けるが、特に根拠はない」と書かれていました。とすると辞書的にはエキストラが正しいことになりますね。しかし、教育現場ではどう教えているかが気になりました。というのは、私たちは辞書を引いて覚えたわけではないからです。
高校『日本史用語集』(山川出版社、2017年10月発行)を見ると、「律令制のそれをダイジョウカン、明治初年のそれをダジョウカン」と読み分けていました。そこで教育者である久松寅幸先生に敬意を表して、小誌では山尾庸三が英国留学の体験に基づいて、建白書を提出した先は太政官<ダジョウカン>とさせてもらいました。
ところで「世界史」もそうですが、「日本史」も半世紀前とは用語が随分変わっているようです。新しい史料が発見されることによって定説が覆るためです。たとえば、大阪府堺市にある巨大な前方後円墳は「仁徳天皇陵」だと我々の世代は教科書で習ったのですが、現在ではこの古墳は「大仙陵古墳」と教えられています。なお、宮内庁は今でも仁徳天皇陵説を崩していません。
また、「1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが実証的研究から明らかとなり、平成17(2005)年度からは『士農工商』の記述は中学校教科書から外されるようになった」そうです。歴史は政治の道具にされやすいのですが、「江戸時代の身分制度が改められ,すべての国民は平等である」を強調するために、どうも明治政府がでっち上げたようですね。(福山)
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