阿佐先生と親しく言葉を交わすようになったのは、1978年から当協会が発行した『医道の日本』(点字版)の読み合わせ校正の手伝いをしたときだった。当時、先生は筑波大学附属盲学校の教諭だったが、『医道の日本』の校正をするときは、当協会に出張してこられた。当時の同誌(墨字版)は校正が甘かったので、時には意味が通じるように阿佐先生が文言の修正をされることもあった。
どこに行くためだったかは失念したが、1979年頃、附属盲に先生を迎えにうかがった。すると阿佐先生の部屋に通され、先生は「すぐに終わるからちょっと見学していなさい」と言われた。その部屋では中学生とおぼしき女子生徒が英文タイプライターを打っていた。それまで先生を理療科教員だと信じていた私は、英文タイプライターの指導をされている姿を見てとても驚いた。先生は1975年から養護・訓練の教諭をされていたのだった。
1994年1月にNAWB(ネパール盲人福祉協会)の当時教育課長であった、ホーム・ナット・アルヤール氏が3カ月研修のために来日した。プログラムのひとつに、当協会の英文概要を2級英語点字で点訳・校正・製版・印刷し、郵便局から70校ほどのネパールの統合教育校に送るというものがあった。
その英語点字の校正を阿佐先生が担当されたのだが、「ネパールで教えている2級点字には間違いがある」と指摘されたので、アルヤール氏との間で論争が起きた。
そこで2級英語点字の資料を探してヘレン・ケラー学院の英語教師や『初歩から学ぶ英語点訳』の著者である福井哲也さんに資料を提供していただいた。これを契機に、当協会の支援でネパール語による改訂2級英語点字ハンドブックがアルヤール氏の著作で作成・頒布された。
一昨年と昨年NAWBは、当協会の支援でUEB(統一英語点字)のナショナルセミナーを開催したが、これが開催できたのも正確な2級英語点字がネパールに定着したからであった。阿佐先生はネパールでも「点字の神様」だったのである。(福山)
日本で最初にできた盲唖院として知られる京都府立盲学校が所蔵する資料群2,633点が文化庁によって国の重要文化財に指定されました。決定は去る3月9日付けで行われ、同日夕方以降、テレビ、新聞各紙で一斉に報じられました。なお、今回、京都府立聾学校所蔵の367点も同時に指定されています。合計でちょうど3,000点です。
京都府立盲学校が所有する資料の主なものについては、『点字ジャーナル』誌上で3年間の連載としてご紹介したことがあります。2011年4月号から2014年3月号までの36回、タイトルは「48uの宝箱 ―― 京盲史料monoがたり」でした。ご記憶の方もいらっしゃるでしょうか。まだ日本に点字がなかった時期の教材・教具を中心に、点字導入後のエピソードにも触れました。バックナンバーの墨字版は、今も社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会のウェブサイトに掲出されています。
実は、これまで既に750点ほどが京都府の有形文化財に指定されていたのですが、今回、資料室内を徹底的に調べなおした上で詳しい目録を整え、文化庁文化審議会での審議を経て指定をみることができたのです。
この指定は、教育分野としては、東京大学、東京書籍に次ぐ快挙です。大学以外の公立学校としては、すべての校種を通じて初の指定にあたります。盲学校のみならず、近代の教育資料を巡る快挙とも評しうるでしょう。
指定の対象となった「京都盲唖院関係資料」2,633点(京都府立盲学校所蔵分)の分類と点数は次のとおりです。
文書・記録類1,077点、教材・教具類176点、典籍・教科書類1,026点、凸字・点字資料221点、生徒作品45点、書跡・器物類58点、写真・映画フィルム30点。
文化庁による調査を通じて解明されたことがらも沢山ありました。中には、「48uの宝箱 ―― 京盲史料monoがたり」の記述を補足したり、場合によっては訂正をしたりすべき知見もありました。拙稿で正確さを欠いたうち、ここでは3つの品物について補正の説明をさせていただきます。
旧稿では、板に凸字や凹字を刻んだ教具・木刻凸字について「ひらがな、カタカナ、数字、漢字などを1字ずつ彫り出したおよそ450個が残っている」とし、「木刻文字には、文字の上側に相当する辺の中央に小さな三角の刻みが施されている。これによって、盲児も自力ですみやかに文字の『上・下』を識別することができた」と評価しました。
この基本は変わらないのですが、今回の精査によって、「正方形の4つの角のどれかが斜めに削がれている」ことが明らかになりました。また、表(凸)と裏(凹)に同じ字が彫られているのですが、横回転用と縦回転用(これを達磨返しと呼ぶ)の2種類があると判明しました。このように設計された理由や目的はまだ定かになっていません。新たな研究課題が浮上してきたことになります。
鉄筆を用いて盲生が自分で墨字の形を紙に刻み付けるための練習器具として自書自感器がありました。それについて旧稿では「現存する『自書自感器』のマス目は2cm大である。このマス目に鉄筆で墨字を1字ずつ書いていくのである。
晴眼者が墨字を書くときのようにさらさらと運筆するのではない。相当大きな筆圧を加えねばならない。ぐいっと押し込むように鉄筆を動かしていけば、厚紙もろとも薄紙に凹んだ線が刻まれる。下敷きとなる厚紙の可塑性を利用して、書写を三次元化する。現代のレーズライターは描線が上向きに突出するが、逆だ。薄紙に描かれるのは凹んだ線である」としましたが、この時に用いる「鉄筆」の形状などには言及しませんでした。それが現存するかどうか確認できていなかったからです。ところが、今回の調査で文化庁の調査員が、別の資料を収納した箱の中から、当該鉄筆に相当する1点を発見してくださいました。鉄というより真鍮と思われる、両端の鈍く尖った筆記具でした。明治12年に自書自感器を使って書かれた凹字のへこみ具合とこの筆の尖端とがぴたりと符合すると確認できました。
旧稿では、立体地球儀には言及しましたが、「地球儀状器具」というラベルのついた真っ黒な球体が有ることには触れませんでした。その使い方がまったく不明、解けない謎だったから口をぬぐってしまったのです。資料室にお越しになるお客様にも「分からないのです。ごめんなさい」を繰り返してきた、いわばいわくつきの1点、それが「白墨地球儀(チョークボードグローブ)」と呼ばれる教具もしくは遊具であると鑑定されました。これは、真っ黒な球体にチョークで地形図や風の流れなどを描いて学習するために用いられるもので、欧米では現在も商品として販売されているものでした。盲唖院で、半盲の生徒に用いたのか、聾唖の生徒に用いたのかなどは今後の研究を待たねばなりません。
京都府立盲学校は、1878(明治11)年に創立され、今年140周年を迎えます。東京の楽善会訓盲唖院(後、官立東京盲学校)とともに東西の雄として全国を牽引した歴史には重みがあります。現存する資料の山は、「近代盲教育」の変遷の軸の部分を把捉するうえで不可欠ともいえる対象といえましょう。
全国から、多数の方々が「特別支援教育や合理的配慮の源」を尋ねてお越しになります。在籍する児童生徒も由緒ある教具などを通して、点字以前の苦労や点字導入以後の工夫を知ることができます。「特別支援教育」時代の支援のあり方、学び方に多大の示唆を与えてくれる品々でもあります。
近年、資料室の整備が進みつつあり、資料保存の手立ても改良できつつあります。修復、デジタル化、レプリカづくりなどにも着手しています。伝え継いでくれた先人に改めて感謝をささげ、その保護・管理・有効活用に努めていかねばなりません。
京都府立盲学校が所蔵する資料群2633点が、このたび国の重要文化財に指定されましたが、これはただ古い物を所蔵しているということだけではなく、それらを徹底的に調べて詳細な目録を整えたからの快挙でした。岸博実先生おめでとうございます。
1月12日(金)の夕刻、田中徹二日本点字図書館理事長、高橋秀治日盲社協理事長という両巨頭の露払い役として、都営地下鉄三田線高島平駅の近くにある板橋区医師会病院に入院されていた阿佐博先生を見舞いに行きました。
そのとき先生は、「少し歩いたり、体を使ったりすると息が上がり酸素吸入が必要だが、じっとしていたらなんともないんだよ!」と、すぐにでも退院して、在宅酸素療法をするようなことをおっしゃっていました。
私にはとてもお元気そうに見えたのですが、あるいは一回り以上も若い、木塚泰弘先生が2月9日に亡くなったのがこたえたのかも知れません。ご冥福をお祈りいたします。
小誌も2回続けての追悼特集で、そのたびに企画を差し替えなければならない煩雑さ以上に、よく知る方々の永眠にいささかこたえています。
「巻頭コラム」に書いたように現在、ネパール全国CBRネットワークの直前会長であるホーム・ナット・アルヤール氏(ネパール盲人福祉協会元事務局長)は、かつて2級英語点字の件で阿佐先生にとてもお世話になりました。そこで、先生が亡くなったことを米国滞在中の彼にメールで伝えると、ご家族へのお悔やみの手紙に添えて、次のような弔辞(原文は英語)が届きました。
「私たちは2018年4月1日に阿佐博先生が亡くなったことを深く悲しみます。ネパール盲人福祉協会、ネパール全国CBRネットワーク、ネパールのすべての盲人を代表して、遺族に心から哀悼の意を表明し、阿佐博先生の魂の永遠の平和のために神に祈りを捧げます」。(福山)
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